第一話 剣聖、処刑される
断頭台に立たされて、俺はようやく理解した。忠誠という言葉ほど、この国では安く扱われるものはないのだと。
石造りの処刑台を取り囲むのは、かつて俺が命を賭して守った民草だ。彼らの多くは俺を見上げ、戸惑いと恐怖の入り混じった目をしている。中には涙を流している者もいた。だが誰一人として、この理不尽を止めようとする者はいない。当然だ。国王の名で下された処刑を、一介の民が止められるはずもない。
俺の名はユリウス・ヴァルクート。かつて、魔王軍によって滅びかけていたエルデシア王国を、たった一人でとは言わないまでも、その中心となって救った男だ。剣聖の称号を賜り、国民からは英雄と讃えられ、王家からは王国の守護者とまで呼ばれた。だが、その全てはもう過去の話になろうとしている。
後ろ手に繋がれた枷が、手首へ食い込んでいた。捕縛された日に嵌められた封魔の枷だ。幾度試しても魔力は指先へ届かず、冷えた金属の感触だけが残った。首を晒し台へ押し付けられる前に、俺は空を見上げた。魔王軍の瘴気で灰色に染まっていた空が、今は腹立たしいほど青い。あの空を取り戻すために、俺たちは魔王城の最奥まで辿り着いたのだった。
魔王を討った後も、国境の砦を守り、盗賊団を討ち、疫病の村では倒れるまで魔力を使った。頼まれれば断れなかったし、俺が行けば助かる者がいるのなら、それで十分だと思っていた。その末に与えられたのが、膝をつく場所さえ選べないこの処刑台だった。
「ユリウス・ヴァルクート。汝を国家転覆の首謀者と認め、これより処刑を執行する」
処刑執行人の声が、静まり返った広場に響いた。その隣には、国王グレイフォード三世が玉座に似せた仮設の椅子に腰掛け、こちらを見下ろしている。かつて俺の手を握り、「そなたこそ我が国の宝だ」と涙ながらに感謝を口にした男が、今は氷のように冷たい目で俺を見ていた。
国家転覆。笑わせる。俺がいつ、そんな大それたことを企んだというのか。
俺を排除する動きが露わになったのは、半年前のことだ。魔王軍との戦いが終結し、エルデシア王国に真の平和が訪れてから三年が経った頃のことだった。宮廷では、俺の存在を疎ましく思う声が日増しに大きくなっていった。理由は単純だ。戦時中、兵士や民衆が俺に寄せる信頼は、国王へのそれを脅かすほどになっていた。民衆は俺を英雄と呼び、兵士たちは俺の号令一つで動いた。戦が終わり、平和な世になった途端、その力は王家にとって脅威以外の何物でもなくなったのだ。
宰相バルドー・エッシェンハイムは、その筆頭だった。あの男は俺が魔王討伐から帰還した日から、ずっと俺を敵視していた。表向きは「英雄殿の凱旋を寿ぐ」と満面の笑みで迎えながら、裏では俺の武勲を少しずつ他の貴族へと付け替える工作を続けていたことを、俺は後になって知った。魔王討伐の功績の大半が、実際には戦場に出たことすらない貴族たちの手柄として記録され、王国の年代記に刻まれていったのだ。
俺はそれでも構わなかった。名誉などどうでもよかった。俺が剣を振るった理由は、ただ一つ。故郷の村が魔物に焼かれ、家族を全て失ったあの日から、二度とあんな光景を誰にも見せたくない、それだけだったからだ。称号や記録に自分の名が刻まれるかどうかなど、些末なことに過ぎなかった。
思い出すのは、魔王討伐へと向かう道中で立ち寄った、とある辺境の村のことだ。疫病が蔓延し、次々と人が倒れていくその村で、俺は自らの魔力を惜しみなく分け与えた。剣聖の力とは本来、対魔物戦闘のために磨かれたものであって、治癒とは畑違いの技術だ。それでも俺は、我流で編み出した浄化の術式を用いて、何十人もの村人を死の淵から引き戻した。あの時、涙を流しながら手を握ってきた老婆の顔を、俺は今でも鮮明に覚えている。「あんたは神様だ」と、皺だらけの手で俺の頬を撫でながら、彼女はそう言った。
あるいは、魔王城を目前にした最終決戦の前夜。共に戦ってきた戦友たちと囲んだ、あの小さな焚火のことも忘れられない。誰もが明日には死ぬかもしれないという恐怖を抱えながら、それでも笑い合い、故郷に帰ったら何をしたいかを語り合った。あの夜の空気は、俺がこの十年間で最も大切にしてきた記憶の一つだったはずだ。
その戦友たちの姿は、処刑台の傍らにはなかった。俺を庇った者が罰せられたと聞いてから、誰の便りも届かなくなった。家族を守るために黙った者もいただろう。そう考えることはできても、あの焚火を囲んだ夜まで遠ざかってしまったようで、胸に空いた穴は埋まらなかった。
半年前のある夜、王城で国王の執務室の前を通りかかった。閉じきっていない扉の向こうから聞こえたのは、バルドーの声だった。自分の名が出たところで足が止まり、続く言葉を、俺は息を殺して聞いた。
「――剣聖の力は、もはや王国にとって不要どころか、害悪でしかありません。民の人気を集めすぎている。あの男が本気でその気になれば、王家すら転覆させられる。今のうちに、芽を摘んでおくべきかと」
国王の返答までは聞き取れなかった。その後、俺が使っていた宿営地の物資庫から「国王暗殺計画」を記した密書が見つかったという。見覚えのない書面だった。筆跡を調べれば偽物だと分かるはずだ。そう主張した俺に、王城からの使者は、潔白を証明したいならおとなしく同行せよと告げた。俺は剣を置いた。あのときはまだ、自分が守ってきた国に、話を聞いてもらえると信じていたのだ。
だが、裁判らしい裁判はなかった。俺を庇った騎士たちは辺境へ飛ばされ、密書の出所を調べてほしいという願いも握り潰された。反逆者と口を利いたというだけで処分される。そんな噂が広まれば、残された者が沈黙するのも当然だったのだろう。牢の窓から差し込む光が幾度巡っても、俺の話を聞きに来る者は現れなかった。
「何か、言い残すことはあるか」
処刑執行人が、抑揚のない声で問うた。俺は少しの間だけ黙り込み、それから小さく笑った。乾いた、自分でも驚くほど空虚な笑いだった。
「特にはない。ただ一つだけ言わせてもらうなら――国というのは、人の心でできているわけではないんだな。それがよく分かった」
国王の頬が、わずかに引きつるのが見えた。それだけで十分だった。俺はもう、この国に何かを望むことをやめていた。
広場の隅で、一人の少女が声を上げて泣いていた。疫病の村で救った子だ。今は王都の孤児院にいると聞いていた。顔を覆う小さな手を見て、胸の奥が軋んだ。俺がしたことの全てが無駄だったとは、思いたくなかった。あの子が今も生きていることまで、国王や宰相への恨みで否定したくはなかった。だが、それでも、助けてほしいと呼びかけられる相手は、ここにはいない。
バルドーは玉座の傍らで、口元にわずかな笑みを浮かべていた。あの男にとって、これは長年の悲願の達成なのだろう。目障りな英雄を、合法的な手続きの体裁を保ったまま排除する。実に手際のいい仕事だ。皮肉を込めて褒めてやりたいくらいだった。
刃が振り上げられる音が聞こえた。陽光を反射して、白く輝く大剣。あれは元々、俺が魔王討伐の折に王家から下賜された聖剣の一振りだったはずだ。皮肉なものだと思った。国を救うために振るった剣が、その国の命令で俺の首を落とす。
群衆のどよめきが遠くなっていく。誰かが悲鳴を上げた。聞き覚えのある声だった気もするが、顔を向けることはできなかった。台へ押し付けられた頬に、古い木のささくれが刺さる。十年間の戦いを終わらせる場所がここなのだと、そんな小さな痛みで思い知らされた。
刃が振り下ろされる寸前、俺の脳裏に蘇ったのは、故郷の村が燃えていたあの夜の記憶だった。焼け落ちる家々、逃げ惑う人々の悲鳴、そして瓦礫の下敷きになった両親の亡骸。あの日、俺は誓ったはずだった。もう二度と、大切なものを守れずに終わらせはしないと。
その誓いのために生きた十年間の、これが結末か。唇から漏れかけた息を、俺は飲み込んだ。何を言っても、あの男たちにはもう届かない。白い光が視界を埋め、次いで、音も温度も遠ざかっていった。
※ ※ ※
目を覚ました瞬間、俺は自分がまだ生きていることに、まず戸惑った。
見慣れない――いや、見慣れた天井だった。木目の走った古い梁。隙間から差し込む、夜明けの薄い光。ここは、王都の外れにある傭兵ギルドの安宿の一室だ。何年も前に取り壊されて、今はもう存在しないはずの建物だった。
俺は跳ね起きた。全身から冷や汗が噴き出している。首筋に手をやると、そこには斬られた痕跡どころか、傷一つない。ただの夢だったのかと自分に言い聞かせようとして、しかし違和感がすぐにそれを否定した。
部屋の隅に置かれた粗末な鏡に映る自分の顔は、記憶にあるものより明らかに若かった。頬に刻まれたはずの、魔王軍の幹部との戦いで負った古傷がない。腕にも、足にも、十年間かけて積み重ねてきた無数の傷痕が、綺麗さっぱり消えていた。
窓の外に目をやると、王都の街並みが見えた。だが、それは俺の記憶にある王都とは違っていた。まだ戦火の爪痕が残る、荒廃した街並み。魔王軍との戦いが、まさに最も激しさを増していた時期の光景だ。
俺は震える手で、部屋の壁に貼られていた依頼書の日付を確認した。そこに記されていた年号を見て、俺は思わず声を漏らした。
「……十年前、だと」
間違いない。ここは十年前の世界だ。俺がまだ、剣聖と呼ばれる前――ただの一介の傭兵として、日銭を稼ぐために魔物討伐の依頼をこなしていた頃の世界だった。
どういう原理でこんなことが起きたのか、俺には皆目見当もつかなかった。だが今はそれよりも、もっと重要なことがあった。俺は、あの処刑台の記憶を全て――バルドーの裏切りも、国王の冷淡な視線も、戦友たちの沈黙も、全て鮮明に覚えている。まるで昨日のことのように。
窓辺に立ったまま、俺は何度も首筋へ手をやった。生きている。頭では理解しても、背後で衣擦れがするだけで、刃が落ちてくるような気がした。喜びが湧くより先に、もう一度あの道を歩かされることへの嫌悪が、喉を塞いだ。
もう一度、あの十年を繰り返すつもりはない。命を懸けて魔王を討ち、血反吐を吐きながら国境を守り、寝る間も惜しんで民を救い続けた挙句、待っていたのは断頭台だ。あの国のために尽くす理由など、もはやどこにもない。
再び王家に仕え、忠誠を誓うつもりはなかった。あの王城で何を言われても、二度と自分の命を預けはしない。封魔の枷があったはずの手首を握り、そこに痕がないことを、俺はもう一度確かめた。
机の上には、討伐依頼の受領証と、僅かな銅貨が残されていた。かつての俺なら、この金で剣を直し、次の依頼へ出ただろう。報酬のいい危険な仕事を選び、その働きを誰かに見込まれ、やがて王国軍に呼ばれる。何でもない朝の支度から、断頭台への道は続いていたのだ。俺は受領証から手を離し、窓の外へ目を向けた。
この国を恨んでいるわけではない、と自分に言い聞かせようとして、それが嘘だとすぐに気づいた。恨んでいる。恨んでいないはずがない。だが、その恨みを晴らすために王国を滅ぼしてやろうとまでは思わない。復讐のために残りの人生まであの国へ費やせば、王城を出たところで、心はいつまでもそこに縛られたままだ。それだけは、二度と御免だった。
通りでは、朝早くから荷車が軋む音がしていた。魔王軍は健在で、エルデシア王国の戦いはまだ終わっていない。記憶どおりなら、二ヶ月もしないうちに南方への大規模な侵攻が始まる。穀倉地帯のヴェルダ平原が焼かれ、王国軍の救援が間に合わない中、俺は単身で敵将を討った。それをきっかけに名を知られ、幾つもの戦場へ送られるようになったのだ。数百の敵を食い止めたことも、伝説級と呼ばれる魔物と対峙したこともある。魔王を討ち、剣聖の称号を授けられたのは、それから更に数年が過ぎた後だった。
俺は誰も助けない。王国が滅びようが、貴族どもが右往左往しようが、知ったことではない。俺はただ、自分自身のために生きる。今度こそ、誰かに命を捧げるような真似はしない。
部屋の隅から使い古した剣を取り上げ、鞘から抜いた。刃こぼれのある安物だが、柄を握ると、指の収まりを確かめるより先に魔力が通った。剣身を覆う薄い膜を、刃の先まで均一に伸ばしてみる。十年かけて磨いた制御が、意識するまでもなくできた。若返った身体にも、魔力と技量は残っている。その事実に、ようやく息が深く入った。今の俺は、行き先を選べる。
窓の縁に、朝日が触れ始めていた。剣帯を腰へ巻き、残った銅貨と着替えを荷袋へ詰める。王家から賜った品は、何一つない。磨けば光る鎧も、肩を飾る徽章も、俺を呼び止める従者もいなかった。その身軽さに戸惑いながら、俺は荷袋を肩に掛けた。
俺が去った理由を、今の国王は知る由もないだろう。宰相も、剣聖になる前の傭兵一人になど興味はあるまい。それなら、そのままでいい。あの国が自分たちの兵と知恵だけで危機を越えられるのか、今度は遠くから見せてもらう。俺がいなくても構わないというなら、その言葉どおりに生きてやる。
いつか、自分の手で居場所を築きたい。誰かの機嫌一つで追われず、帰れば自分の寝台があり、翌朝どこへ行くかを自分で決められる。まずは、その程度でよかった。大きな約束を口にする前に、今ある剣と銅貨でどこまで行けるのか、試してみたかった。
俺はこの日、剣を鞘に納め、静かに部屋を後にした。向かう先は王都の外――誰も俺のことを知らない、遠い異国の地だ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




