【第七幕】天使は、そんなに飲みません
※前話——アイラは祖父が遺した四十年前の原酒で、二つの樽が本物であると証明しました。残る問いはただひとつ。誰が本物を抜き、偽物とすり替えたのか。王国中を旅した流浪の騎士は王宮に舞い戻ります。
「本物である」――その宣言は、広間に安堵と、それより深い沈黙を落とした。
安堵は、エリンの側に。誓いの樽は、生きて還ってきた。
沈黙は、王家の側に。
答えがひとつ決まれば、次の問いが立つからだ。
――では。本物を棚から抜き、名を剥いで売り払い、偽物を据えたのは、誰か。
ロナン閣下が、静かにその問いを口にした。
「アルビオンの、答えを聞こう」
フェアウェザー所長の額に、汗が浮いていた。
「い、いや……閣下、これは、その……そ、そもそも、ですぞ。この一年、あの棚の番をしていたのは、どこの誰でしたかな。――そこの、追放された娘では?」
まあ。
最後の最後で縋る藁が、わたくし。
言い返す言葉は、いくらでもあった。けれど、その必要はなかった。
広間の大扉が、重い音を立てて開いたからだ。
入ってきたのは、泥と埃にまみれた旅装の男だった。肩に古びた革の鞄。腰に、剣はない。
男は広間の中央まで進み、殿下とロナン閣下に深く一礼して、静かに名乗った。
「元・王立蒸溜所付き監査騎士、アリステア・ダグラス。――いえ。ただの、アリステア・ダグラスです。馬と騎士の身分は、国境にお返しして参りました。誰の命令でも止められない、一人の証人として参るために」
半年ぶりに見るその人は、少し痩せて、日に灼けて、それでも背筋だけは真っ直ぐだった。
私を見つけて、ほんの少し眉が下がる。遅くなりました、と。
いいえ。私は小さく首を振った。――ちょうど、ですわ。
「所長閣下の、その問いには」
彼は鞄から、分厚い帳面の束を取り出した。
「この帳簿が、答えます」
「監査騎士は、原料帳簿と樽の出納簿、そして空尺――樽の中身の減り具合を測った記録――の写しを、原本とは別に保管いたします。改竄を防ぐための、二重の帳簿です。左遷された折に荷物に、私はこれを詰めました。お叱りはご報告が終わりましたら如何様にでもお受けします」
彼は帳面を開き、淡々と数字を読み上げはじめた。寡黙で通ったこの人の、私の知る限り、いちばん長い台詞だった。
「まず、おかしなことに気づきました。この数年、買い入れた大麦の量に対して――新しく生まれた原酒の量が、少なすぎるのです」
広間が、ざわりと揺れた。
「麦から穀物、穀物から酒。その歩留まりは、昔から決まっております。これだけの麦を挽けば、これだけの酒が生まれる。ところが帳簿の上では、麦は消えているのに、酒が生まれていない。――生まれたはずの若い原酒が、記録の上から、毎年ごっそり消えているのです」
「な……」
「消えた若い原酒は、どこへ行ったか。古い樽の中です」
アリステア様は、頁をめくった。
「古い樽の中身を半分抜き取り、抜いた分だけ少しだけ若い原酒を半分、注ぎ足す。すると中身は元通りの重さになります。抜き取った古酒は、廃棄予定の空き樽に詰め直し、廃棄処理に見せかけて搬出し、外で売る。――抜いた穴は、若い酒で埋められているから、樽はいつも通り、なみなみと満ちて見える」
一息ついたアリステア様は一瞬だけ私を見た後、話を続ける。
この一年、私が見抜いた「若い棘」。やはり、本物の古酒に、若い酒を混ぜた味だったのだ。奥にかすかに残る、本物の骨格。それを、若さが薄く覆っていた。
「補充に使われて減った少しだけ若い樽は、売り飛ばされた古酒と同じように、自分よりも少しだけ若い酒を入れていく。これを繰り返していく手法です。南方の熟成葡萄酒を熟成させる時に使う製法を参考にしたのでしょう。味が急激に変化しないように、少しずつ若い原酒と混ぜ合わせるのです」
この数年の熟成庫のざわめきは、そのせいだったのね。
「それだけではありません。このやり方はアイラ嬢のような卓越した鑑定能力がなければ隠蔽もしやすい手法だったのかもしれませんが、手間もかかるやり方です。」
そう。詰め替え作業というのは単純な作業ではありません。時間も人手もかかります。
「ですから、もっと大胆なやり方で売り捌くことにしたのです。それによって消えた名目は『天使の分け前による目減りのため、複数の樽をひとつに統合』。……ですが王立では代々、樽の空尺を定期的に測って参りました。天使が頂くのは、一年に樽の五十分の一ほど。四十年かけて、ようやく半分です。一年で樽がまるごと幾つも空になるような分け前を――天使は、そんなに飲みません」
ひやりとした笑いが、使節団の側から漏れた。
「これらの検算は、私一人の手に余りました。王国中の蒸溜所の、熟成庫を預かる職人がたに、ひと月かけて検算していただいた。……結果は、想像を上回る悲観的な数字となりました。」
「本来生産されているべき新酒の量と、過剰な天使の分け前――これが古樽で売られた量に等しいとすると、合わせて、六百樽を超えています。詳しい数字は後ほど献上いたします」
あまりの多さに誰かが、呻いた。
「それだけではありません。我が国の法に照らしますと、熟成年数の名乗りには、使われている中でもっとも若い熟成年数のもので上書きすることが定められております。この状態では、混ぜられた酒の熟成年数がわからないので年数の記載が出来ない状態です」
アリステア様は愕然とした表情の殿下の元へ歩み寄る。
「現在、我がアルビオン王立蒸溜所の熟成庫には歴史的価値のある古い原酒は残っていないに等しい状態となっております」
アルビオン側の人々は身分問わず大混乱に陥っている。呻くもの、叫ぶもの、泣き出すものもいる。
「検めに立ち会った職人がたは、皆、こう申し出ています。調査にも、証言にも、いくらでも協力する、と」
ざわめきの中、彼は鞄から、もうひとつの束を取り出した。蒸溜所ごとの印章がずらりと捺された、証言状の束。
その束を殿下に献上する。
「王国十七蒸溜所、熟成庫預かり一同の署名です。――彼らは、怒っています」
当然だ、と私は思う。
特に、当時、二人の王の樽に協力したのは、祖父だけではない。両国の、多くの蒸溜所の先達が、知恵と技を持ち寄って造り上げたのだ。
王国中の熟成庫を預かる職人がたにとって、あれは他人の樽ではない。自分たちの先代が手を貸した――自分たちの樽なのだ。
あの棚は、王家の宝である前に、この国のすべての造り手たちの誇りだった。同盟の棚だけではない。狩られた古い樽の、一つひとつがそうだった。
本当に――愚かで無知だとしか、言いようがありませんわ。
「……統合とやらを承認した印は、誰のものだ」
殿下が、低く問うた。
アリステア様が、帳面の一頁を開いて掲げる。
そこに捺された印章を、広間の全員が見た。
王立蒸溜所所長、ギルバート・フェアウェザー伯爵。
「ち、違……こ、これは、事務上の、その、わたくしはただ判を捺しただけで――」
「夜ごとの搬出については、王立を辞した職人たちが証言に立ちます。熟成庫に着けられていた廃棄樽の名目で大量の樽を引き取りに来た荷馬車は――ボウランド商会のものであった、と」
伯爵が、よろめくように後ずさる。その背の先には、いつの間にか、衛兵が立っていた。
殿下が、席から立ち上がった。
この方が今日はじめて出す正しい命令を、広間中が待っていた。
「――捕らえよ」
お読みいただき、ありがとう存じます。
続きは明日の21時に樽出し予定ですわ。




