【第六幕】祖父の名に誓って
※前話——エリンが本物の「二人の王の樽」を保護し、鑑定人としてアイラを指名しました。追放した令嬢を伴い、エドマンドは王都へ戻ります。舞台はエリンの使節団と、二つの樽が待つ広間へと移ります。
その樽を前に、アイラはこの樽に隠された物語を語ります。
王都までの道を、私はエドマンド殿下の行列と共に下った。
会話は、ほとんどなかった。あの伝令の口上から、殿下はずっと何かを考え込んでいる。結構なことだ。考えることは、いつだって、遅すぎるより早い方がいい。
荷物は少ない。着替えと、利き酒の道具一式。それから――懐に、小さな硝子の瓶がひとつ。
王宮の大広間には、すでに役者が揃っていた。
エリンの使節団が、ずらりと居並ぶ。
その前に、二つの樽が鎮座していた。
ひとつは、遠い旅をしてきた樽。南の自由港でエリンが保護し、海と山を越えて運ばれてきた「疑惑の樽」。胴には、エリン王室の封印が巻かれている。
もうひとつは――ローワンデンの樽。うちの谷から出て、最大の敬意と最低の評とを同じ晩に貰った、祖父の遺した四十年。
同じ年に生まれた、別々の物語の二樽が、静かに並んでいた。
使節団の先頭に立つ、大柄な男が進み出た。使節団長――駐アルビオン大使、ロナン・オブライエン閣下。谷に来たあの豪商、コナー・オブライエンの従兄その人だ。
「アイラ・グラント女史とお見受けする」
「お初にお目にかかります、閣下」
「よくお出でくださった。……まず、詫びねばならぬことがある」
大使は、ローワンデンの樽に目をやった。
「あの晩、貴家の樽を『最低の酒』と評した。撤回はせぬ。あの場で、あの目的のために選ばれる酒としては、あれは最低であった。――だが、場が違えば」
一拍おいて、大使は深く頭を垂れた。
「間違いなく、最高の酒であった。ローワンデンの職人たちに、最大の敬意を。非礼を、詫びる」
「……お顔をお上げくださいませ、閣下」
私は、静かに応じた。
「評は、正しゅうございました。誓いの席に、誓いでない樽を出されれば――何であれ、それは侮辱にしかなりません。皆様のお怒りは、樽を愛する者として、痛いほど理解しております」
樽に代わって、謝罪は確かに頂戴いたしました。そう付け加えると、大使の目元が、わずかに緩んだ。
水を差したのは、王家の側だった。
「……納得がいかん」
殿下だった。隣には、蒼白の顔に愛想笑いを貼りつけた、フェアウェザー所長。
「王立には、腕利きの職人が幾らでもおる。よりにもよって、罷免された者を鑑定人に指名とは、どういう了見か」
「無論、女史が現役最高の鑑定人であることは、我らの調べでも疑いようがない。……だが殿下、指名の理由は、それだけではござらん」
大使は殿下をしばし眺め――それから、心底呆れたという顔をなさった。
「この国では、歴史というものは、あまり大切にされないようだ」
「……なに?」
「では伺うが。四十年前、二人の王が樽をお詰めになったあの場に、どの職人たちが立ち会ったか――貴国の宮廷で、覚えておいでの方は?」
誰も、答えなかった。
「我が国は、覚えている。両国から集った職人、その一人ひとりの名を。その中に――北の谷のグラント、の名があったことも」
殿下が、弾かれたように私を見た。
「祖父ですわ」
私は、まっすぐに申し上げた。
「四十年前、和議の樽詰めの場に、職人の一人として立ち会いました。……そして祖父は、後々の検めのために、あの日の原酒をひと掬い、抜き取って持ち帰りましたの」
私は懐から、小さな硝子瓶を取り出した。
封蝋の下で、ほとんど透明な液体が、ゆらりと揺れる。
「樽に入る前の、あの日の原酒――四十年間、硝子の中で眠っていた子です。硝子の中では、熟成は進みませんから」
ふ、と鼻で笑う音がした。フェアウェザー所長だった。
「……透明な水を振り回して、何の座興かね」
「そうだぞ」殿下も眉を寄せる。「熟成前の原酒があったとして――樽に入っておらぬのだろう。四十年眠った樽の酒と、比べようがあるまい」
「いいえ、殿下。比べられますの」
私は、瓶を光にかざした。
「ウイスキーの味わいは、二つでできております。――もとから在る味わいと、熟成で得る味わい。樽が与えてくれるのは、後の方。前の方は蒸溜された日に決まって、四十年経っても、酒の芯に残り続けますの」
「もとから在る、味わい……?」
「ええ。そしてそれは、同じ蒸溜所でも、日ごとに違います。蒸溜された日の気温。湿度。その年の麦の出来と、品種。仕込みに使った、その日の水の質――それらのすべてが、酒の顔立ちを決めますから」
ですが、と私は続けた。ここからは、蒸溜所に関わる職人たち以外は誰も知らない話だ。
「あの樽の原酒が生まれた四十年前――両国は、長く苦しい戦争の終わりにおりました。畑は荒れ、麦は痩せ、川は戦で汚れて。酒を仕込むには、最悪の条件しかございませんでした」
広間が、静まり返る。
「それでも。戦争の終わりを祝うに足る、今できる最高の一樽を造ろうと――両国の蒸溜所から、一流の職人たちが集まりましたの。痩せた麦の生かし方を出し合い、水を清める工夫を持ち寄り、知恵と技のすべてを注いで。……そうして生まれたのが、あの樽たちだったのですわ」
私は、王家の方々に向き直った。
「殿下。王立蒸溜所が今日誇っていらっしゃる味と技術は――あの日、両国の職人が悪条件の中から絞り出した工夫の、直系の子孫でございますのよ」
殿下が、愕然と樽を見た。
フェアウェザー所長の顔から、貼りつけた笑いが剥がれ落ちていた。
さて。
お喋りは、ここまで。ここからは、鑑定人の仕事である。
私は封蝋を割り、瓶の原酒をひと口、舌に乗せた。
――四十年を経ても荒い。若い。棘だらけ。
けれどその奥に、設計図がある。痩せた麦を煙で支えた、燻香の柱。清められた水の、硬く澄んだ背骨。二つの流派が組み合わさった、他のどこにもない骨格。
次に、疑惑の樽。封印の脇から汲み筒を差し入れ、赤味がかった深い琥珀をひと口。
四十年の衣を、そっとかき分ける。白檀。干し杏。古い書庫の翳り。その衣のすべての奥に――同じ、骨格。
同じ煙の柱。同じ水の背骨。同じ、あの日の設計図。
……ああ。
頬を、ひとすじ、涙が伝った。
悪条件しかない中で、これほどの酒を。神がかりとしか言いようのない、先人たちの手腕。脳裏に浮かぶ、その職人たちの中に、若き日の祖父がいた。厳しくて、優しかった、あの手が私の頭を撫でていった気がする。
――お祖父様。わたくしは、まだまだですわね。もっと修行いたしますわ。
私は涙を拭わぬまま顔を上げ、広間に向かって宣言した。
「――このふたつは、間違いなく同じ。本物であると。我が祖父の名に誓って、断言いたします」
お読みいただき、ありがとう存じます。
続きは明日の21時に樽出し予定ですわ。




