【第三幕】実に、若々しい
※前話——追放されたアイラは、実家の蒸溜所で麦を踏む日々に戻りました。エリンの豪商オブライエンが、南の港に流れる「名無しの古酒」の噂を置いていきます。やがて、王都から手紙が届きます。
谷の暮らしが再び身体に馴染みはじめた頃、約束の手紙が届いた。
封蝋も便箋も、呆れるほど上等だった。
『約束どおり、上等な便箋にて失礼する。まずは王都の顛末から』
コナー・オブライエンの文によれば、エリンの使節団は無事に王都入りし、式典の支度が始まったという。
そして支度の一環――使節団への御披露の席で、王立はあの「四十年」を出したのだそうだ。
……出したのか。あれを。本当に。
席には、大使閣下――コナーの従兄にあたる御仁だそうだ――も着いていた。閣下は杯をひと口ふくみ、静かに卓へ戻して、にこやかにこう仰ったという。
『実に、若々しい酒ですな』
四十年物として出された酒を、「若い」と褒める。
それは社交の笑顔に包んだ、「これは偽物ですね」という宣告だ。
しかも大使は、その場で騒ぎ立てなかった。声を上げて糾弾すれば、めでたい式典の支度を壊した無作法者はエリンの側になってしまう。だから微笑んで、杯を置くだけに留めた。置かれた恥は、アルビオンの側で膨らみ続ける。
実際、エリンの使節団はその席から、王立の酒に口をつけず、水ばかり所望しているという。国賓に水しか飲んでもらえない宮廷――主催者への抗議として、これほど雄弁なものもない。
『いま我が国の宮廷では良くない噂がありましてな。――王家の熟成庫は、空ではないか、とな』
春が終わる頃には、手紙を待つまでもなくなった。
王立蒸溜所を辞めた職人たちが、ひとり、またひとりと谷に流れてくるようになったからだ。
彼らの話をつなぎ合わせると、王立の「改革」の中身はこうだ。
曰く――新樽を使えば、熟成は三年で足りる。
フェアウェザー所長の大発見、だそうである。内側を焦がした真新しい樫の樽に原酒を納めれば、三年で色も香りも乗って、立派な売り物になる。一方で、荷馬車の出入りが増えた。所長が連れてきた御用商・ボウランド商会のものだったという。行き先は、王に献上する資金を得るため、若くて美味しい王室御用達の酒を海外に売りに出すそうだ。
だが、残った職人たちも日々、刺々しい香りが増す熟成庫で何かがおかしいと不信感を募らせていく。
私は、いえ、王立に勤めるほどの一流の職人たちは何が起きているのか、もう見当がついている。
南の自由港――どの国の法も届かない、中立の商いの都。その競売を賑わせている「蒸溜所非公開の四十年物」だ。王立から持ち出された古樽は名前を剥がされ、誰の仕業とも知れない形で金貨に換えられている。
同盟国エリンの市場で堂々と売るような、足のつく間抜けな真似はしていない。だからこそ、性質が悪い。
逃げてきた古参の職人が、置き土産のように一本の瓶を差し出した。新方式の「三年物」だという。
「味を、見てやってください。……酒に、罪はありませんので」
一口ふくんで、私は少し黙った。
「――美味しい、ですわね」
悔しいけれど、本当のことだ。焦がした新樽は、若い原酒の荒々しい棘を、甘い腕でくるんと包んでしまう。バニラと蜂蜜の、太陽みたいに分かりやすい甘さ。難しいことを考えずに楽しめる、陽気で親切な酒。西の海の向こうの若い国々では、こういう造りが主流だと聞く。市場に出せば、きっと民衆に愛されるだろう。
新樽の酒が、悪いのではない。あれはあれで、立派な酒の道だ。
けれど――新樽は、声が大きい。三年で酒を美味しくしてくれる代わりに、四十年も抱かせれば、木の声しか聞こえなくなる。
白檀は、そちらの道には咲かないのだ。
何度も使いこんで角の取れた古樽の中で、静かに、長く、天使に分け前を払い続けた原酒だけが、あの香りに辿り着く。
早くて美味しい酒と、遅くて深い酒。両方あっていい。ただ、王家の式典が求めるのは「長い歳月の証明」であって、王立蒸溜所は代々その道の番人だった。番人が道を捨てたら、誰が四十年を証明するのか。
そして何より――若さを甘く包む新樽の腕前を、所長は「同盟の棚」の厚化粧に流用した。あの偽装の手口は、この新方式の応用だったのだ。
新しい造りに罪はない。罪があるのは、それで嘘をついた人間の方である。
「あの熟成庫にはもう……若い樽しか、残っておりません」
職人は、そう言って唇を噛んだ。ハミッシュは何も言わず、顎で寝床を指した。翌朝から彼は、うちの床で麦を返している。
夏の盛り、三通目の手紙が来た。
『従兄から内々の報せだ。式典の日取りが、予定通りの日程に決まった。秋の、終戦を祝う和議の記念日その日。
……二人の王が向かい合う記念すべき場の乾杯に何が要るかは、あんたが一番よく知っているはずだ。
なおエリンの使節団は、40年の記念に相応しい酒を用意せよと既にアルビオンの王宮へ通告した。血の気の多いうちの者たちは、二度は舐められんつもりだ。独自に噂の調査も進めている』
手紙を置いて、私は指を折った。整理いたしましょう。
一つ。秋の記念日に、戦後四十周年の合同式典が開かれる。
二つ。式典の乾杯に必要なのは、「二人の王の樽」。四十年前のあの日、両国の王が自らお詰めになった、誓いの現物だ。
三つ。その樽と、同じ棚の兄弟たちがことごとく偽物にすり替わっていたことは――この舌が、確かめてしまっている。本物たちがいまどこで何と呼ばれているか。南の自由港の競売が、もう答えてしまっている。
四つ。式典には、事前にエリンの検分が入る。水増しも厚化粧も、二度目は通らない。
つまり――王家は、取り返しのつかないことを、してしまったのだ。
同盟の樽は、「四十年物」という規格品ではない。四十年前のあの日、両国の王が立ち会い、この樽に、と定めて仕込んだ、世界にひとつの誓いの現物だ。
婚礼の指輪を質に入れた者が、同じ重さの金の指輪を買い直して「これが誓いの指輪です」と差し出せないように――年数の合う樽をどこかから都合すれば済む話では、ないのである。
その晩、私は熟成庫の最奥に足を運んだ。
埃をかぶった、最古参の棚。曾祖父の生まれ年の樽だ。
栓をわずかに緩め、香りを利く。
……正直に言おう。飲み頃は、とうに過ぎている。
あまりに長い歳月は、酒から果実の張りを奪い、木と枯れ葉の声ばかりを残す。いま市場に出したところで、曾祖父の想い出を抱かぬ人々にとって、熟成年数の長さ以外に大した価値があるものではない。
けれど私たちにとって、これは年数ではない。――曾祖父、その人だ。
それでも、いや、だからこそ私は、この樽の前に立つと背筋が伸びる。
曾祖父が生まれた年の冬、どうやって麦を工面したのか。産声を祝って、誰がこれを仕込んだのか。どの棚で、幾度の夏を越させたのか――樽には、それがぜんぶ詰まっている。
美味しいかどうかは、樽の値打ちの入り口にすぎない。
生い立ちに、歴史に、重ねた年数そのものに頭を垂れること。それが造り手というものだと、この棚が私に教えてくれた。
偉大な曾祖父の後を継いだ祖父の仕込んできた樽の中には、エリンと和議を結んだ年の樽もある。
……けれど、祖父の物語があるように、王立蒸溜所の歴々の職人たちにも物語がある。
同じ年に生まれた樽であろうとも、お互いがお互いの代わりになることはできないのだ。
同盟の樽を金貨に換えた者たちは、酒を盗んだのではない。
四十年ぶんの敬意を、まるごと踏みにじったのだ。
初秋の朝。
谷の道を、見慣れない紋章の馬車が上ってくるのが見えた。
お読みいただき、ありがとう存じます。
続きは明日の21時に樽出し予定ですわ。




