【第二幕】売らない樽は、家の背骨
※前話王家の秘蔵樽が偽物とすり替わっていることを見抜いたアイラは、信じてもらえず追放され、北の谷の実家へ帰ることになりました。そして、アイラのもとへ珍客が訪れます。
渓谷に入ると、風の匂いが変わった。
ヒースの花と、湿った土と、その土を焚いた煙。ヘザーミュア湿原の泥炭が燃える、あの懐かしい匂いだ。
王都を発って七日。石畳より谷の泥道の方がよほど歩きやすいのだから、我ながら現金なものである。
谷底の小さな蒸溜所。石壁に蔦、門の脇には樹齢だけは立派なナナカマドの古木。
魔除けの木だ。この地方では、家を守るというナナカマドを戸口に植える。曾祖父はそれを蒸溜所の看板に据え、谷の名ごと屋号にした。
――ローワンデン。ナナカマドの谷。
王家の御用達でも、二百年の格式でもない。けれど、私の舌が生まれた場所だ。
「戻ったか」
蒸溜棟の入り口で、老職人のハミッシュが言った。八年ぶりの再会の言葉が、それだけだった。
「ただいま、ハミッシュ。……あら、床の麦が呼吸を欲しがっていましてよ」
「分かっとる。――なら、返せ」
木のシャベルを渡された。八年ぶりの再会の采配が、それだった。
結構。望むところですわ。
父は、夕餉の席でようやく口を開いた。
「王都の水は、不味かったろう」
「ええ、とても」
「そうか」
それきり黙って、杯を干した。
「あそこの水で仕込むのには技が要る。良い経験になっただろう」
アンガス・グラント男爵。娘の追放を聞いても、王家への恨み言をひとつも言わない人だ。ただその晩の父の杯は、いつもよりずいぶん進んでいた。
翌朝から、私は王の熟成庫番ではなく、谷の造り手に戻った。
実家で切り盛りする小さな蒸溜所はすべてが手作業ですべてが力仕事だ。
みな、私には優しかったが、私に仕事は無理だと思っていたのはわかっていた。
だから私は最先端の設備と最新の技術と知恵、最高の樽の眠る王の蒸溜所へ進む道を選んだ。
たしかに男のような力仕事はできなかったが、できる限りの仕事と、祖父譲りの繊細な舌先で職人たちの支持を獲得し、最高峰の樽の管理を任される熟成庫番になった。
だが、幼い頃から政争とは無縁で樽と会話ばかりしていた少女は人間の悪意には疎かった。
数年前から熟成庫内に広がっていく言葉にできない違和感を感じつつも、自分のできる仕事をしていくことしかできなかった。
その結果、追放になってしまったのは私の失態でもあったのかもしれない。
年嵩の職人仲間たちや、監査騎士のアリステア様は、努力と実力を示していけば女として軽んじられることもなく、うまくやっていたと思う。たぶん。
それが数年前から何かが。言葉にできない何かが進んでいたのではないかと思う。
少しずつ私の管理下から外れていく子供たち。
突然の命令により、久しぶりに嗅いだその子からは、以前とは違う香りをまとわせた他人のような香りがした。
私がもっと貴族らしい勉強もしていたら、と、手を動かしながらも、ふとそんなことを考えてしまうこともある。
私は政争に負けたのだ。
床いっぱいに広げた大麦を、シャベルで天地返しする。芽吹きはじめた麦は仄かに甘い草の匂いがして、放っておくと自分の熱で蒸れてしまう。頃合いで窯に移し、ヘザーミュアの泥炭で燻す。何百年ぶんのヒースと苔が眠った土だ。火を入れると、湿原の記憶が煙になって麦に移る。
仕込んで、発酵させて、それから蒸溜。
銅の単式蒸溜器は、白鳥の首の形をしている。二度目の蒸溜で流れ出る酒は、はじめは荒く、終わりは鈍い。使うのは真ん中だけ。
「……今、ですわ」
流れを見つめて私が合図し、ハミッシュが無言で弁を切り替える。
最初と最後を切り捨てて、心臓だけを樽に納める。それがこの家の流儀で、私の鑑定眼の原点だ。王立の三千の樽より先に、私はこの谷で、酒の産声を聞いて育った。
追放されて最初に取った心臓は、南方渡りの、甘い熟成葡萄酒の古樽に納めた。
樽の正面の板に、焼きごてでこう入れる。
『アイラの樽 開栓は十年後の同日』
「十年後?」と父が眉を上げた。
「ええ。私、これから十年物を育てますの」
王立の四十年には遠く及ばない、生まれたての一樽。けれど誰にも水増しさせない、混ぜ物なしの、私の十年だ。
その足で、熟成庫の最奥へ挨拶に行った。
ローワンデンには家訓がある。毎年、ひと樽だけは決して売らないこと。豊作の年も、飢饉の年も、ひと樽。
「売らない樽は、家の背骨だ」と、父は言う。
だから熟成庫の奥には、父の樽、祖父の樽、曾祖父の樽が、年の数だけ並んで眠っている。いちばん奥の埃をかぶった一群には、山向こうのエリンと和議を結んだ年の樽もあったはずだ。
「ただいま戻りました」
樽たちに頭を下げる。返事の代わりに、熟成庫いっぱいの甘い匂いがした。天使に分け前を払い続けた、長い歳月の匂いだ。
ひと月後、その熟成庫に珍客が来た。
「いやあ、噂どおりだ!」
山向こうのエリンから来た豪商、コナー・オブライエン。赤ら顔の大男は、試飲杯を干すなり膝を打った。
「御前の選定で王家の樽に『偽物だ』と言ってのけた剛毅な熟成庫番がいる、と山越えの隊商がこぞって笑っておりましてな。まさかこんなにも美しいお嬢さんだとは思わなんだ。本当に会いに来た甲斐があった。――うちの国は三度蒸溜の滑らかさが自慢だが、この煙の奥の甘みは、うちでは造れん」
「お褒めにあずかり」
「この熟成庫の樽、全部売っていただけまいか。言い値でよいぞ」
「全部は売りませんの。家訓ですから」
オブライエンは一瞬きょとんとして、それから梁が震えるほど笑った。
「ますます気に入った! では売っていただける分を毎年、正価に二割乗せで」
署名された契約書は、私の悪評もあって傾きかけた家業には十分すぎる薬だった。
帰り際、馬車に乗り込みかけたコナーが、ふと真顔になって振り返った。
「時に、グラント嬢。近ごろ南の自由港の競りに、妙な古酒が出ておるのだ」
「妙な古酒?」
「蒸溜所非公開の古酒だ。南回りの同業から聞いた話じゃ、近年出回った樽でも飛び抜けた一級品だそうだ。飲んだ目利き筋によれば、四十年以上は眠っていたはずだと、専らの噂よ」
名を伏せた古酒。それ自体は珍しい商いではない。訳あって出どころを明かせない樽など、市場にはいくらでも転がっている。
コナーは、私の顔を見たまま猛獣のような笑みを浮かべて、話を続けた。
「中でも、いちばんの高値がついた樽は――白檀の香りがするそうだぞ」
「…………」
「四十年を越えた白檀、と聞いて思い浮かぶものは、山向こうの商人でもひとつしかなくてな。……ま、名無しの樽は、素性を詮索せんのが、商人の流儀ではあるのだが」
この御仁、ただ買い付けと噂話をしに来たのではない。
私が御前で何を言って追われたか、そして、それがエリンとアルビオンにとってどれほど重要なのかを知っている。その上で、市場の「名無し」と繋いでみせたのだ。答え合わせは、しないままで。
「……エリンの目利きは、良い鼻をお持ちですのね」
「はっはっは、商人は鼻も舌も耳もすべてが命よ。――わかったことがあれば、文でも贈ろう」
「ぜひ。上等な便箋で」
「はっは! そなたほどの美女との文通にしては、色気のない話よな。では良き樽をよろしく頼む」
上機嫌の馬車が、谷の道を下っていく。
湿原を渡る風が、ひやりと首筋を撫でた。
同盟の棚から抜かれた中身は、消えたのではない。名前を消されて、遠い南の港で売られている。
そして――気づいているのは、私だけではない。
世界はもう、この隠し切れぬ芳醇な匂いを嗅ぎつけはじめている。
お読みいただき、ありがとう存じます。
続きは明日の21時に樽出し予定ですわ。




