007:本気で成るならば
吉丸が幸綱の屋敷で働き始めて1週間が経った。
ほんの少しは慣れて来たが、やはり修行と屋敷での仕事を両立するのは吉丸でも大変だった。
それでも弱音は吐かずに言われた仕事をこなす。
雄大は吉丸が、良く働く事を良い事に仕事を押し付け始めた。そうすれば雄大自身が、幸綱の側で働いて出世の可能性が高くなるからである。
それでも吉丸は弱音も愚痴も吐かない。
しかし言われてやっている事を、やっているだけではダメだと吉丸は考えていた。
そこで幸綱が剣術修行が終わったところで、水の入った桶を幸綱のところにスッと持っていく。この行為に幸綱はピタッと動きを止めて雄大に聞く。
「これはお前の指示か? それとも吉丸の独断か?」
「は はい! 吉丸の独断でございます! 私の方から厳しく言っておきますので、どうかお許しを!」
雄大は怒られると思って、幸綱に深々と頭を下げて謝罪をする。しかと自分がやらせたのではなく、吉丸が独断でやったのだと庇う事も無かったのである。
しかし幸綱は雄大の顔に、スッと自分の掌を向けた。
喋るなと言いたかったのだろう。
「いや、怒っているわけじゃ無いんだ。そうか、これは吉丸が独断でやった事か……気が効くじゃ無いか」
「し しかし! それは我々もやっている事で……吉丸が特段気が効くというわけじゃ」
幸綱は吉丸を気が効く奴だと褒めた。
いきなり吉丸を褒めたので雄大は、ムッとして桶に水を用意するのは普通の事であると進言する。いつも自分がやっていると吉丸に対抗し始めた。
しかし幸綱は「普通とは違うんだ」と言って雄大に、スッと桶を向ける。触れという事だと悟った雄大は、恐る恐る触ってみるが、普通の水だと思った。
何がどう違うのかと雄大は分からない。雄大に答えを出して欲しかった幸綱は「はぁ」と溜息を吐いて教える。
「冷たすぎず、ぬる過ぎない温度に調節されてる。普段ならキンキンに冷えた水を持って来られるだけだが、吉丸は体の事を考えて温度を調節したんだ」
「そ そういう事ですか……」
「これで私が、吉丸の事を気が効くと言った意味を分かったか? こういう気遣いが素晴らしいんだ」
吉丸の気遣いを理解した雄大は、ズボンをギュッと握り締めながら「分かりました」と幸綱に答える。
明らかに上をイカれて悔しがっていた。
その日から雄大を筆頭に先輩従者から吉丸が、嫌がらせを受けるようになった。差し詰め和風シンデレラのようなところである。
しかし吉丸は文句を言わず、ただひたすらに笑顔で屋敷内の仕事をこなしていた。
そして幸綱の屋敷にやって来てから1ヶ月が経った。
1ヶ月が経って体が慣れて来たところで、いつものように早朝の剣術修行をしている時に屋敷の方からガサガサッという音が聞こえて来る。神経が敏感になっているので、パッと音のした方を見るのである。
するとそこには幸綱が立っていたのだ。
暗くて姿こそ見えても顔までは見えていなかったが、目を凝らして顔を確認する。立っているのが幸綱と分かった瞬間、吉丸は直ぐに膝を地面に着けて頭を下げた。
「ま まさか幸綱さまとは思わず!? こ こんな時間に、どうなされたんですか?」
「たまたま目を覚ましてな。それで外を見てみたら、吉丸が素振りをしているのが見えたんだ。こんな時間に剣の修行をしているのか?」
「は はい! 昼間は屋敷仕事がありますので、こういう時間を活用しております」
「そうかそうか、立派な心掛けだな!」
吉丸が4時から剣の修行をしている事に、幸綱は大いに感心するのである。元々屋敷仕事で幸綱は吉丸を評価していたので、陰の努力もしている事に好印象を持つ。
「吉丸は農民の出だったな?」
「はい! 農民も農民、ド農民です!」
「吉丸は、どうしてそこまで侍になりたいんだ?」
ここまでやってどうして侍になりたいのかと、幸綱は吉丸に問うのである。
ただの質問では無いと吉丸は本能的に悟った。
「農民として生きて、農民として死んでいくなんて耐えられません! そんな退屈な人生に比べたら、これくらいは何ともありませんよ!」
「ほぉ…本気で侍になりたいなら、私について来なさい」
「は はい!」
吉丸の覚悟を聞いた幸綱は、自分について来るように促して屋敷の中に入る。どこに連れて行かれるのだろうかと吉丸はドキドキしながら着いて行く。
すると入ったのは幸綱の寝室だった。
まさか夜伽をするように言われるんじゃ無いかと、また別のドキドキを感じている。
しかし吉丸の予想は良い意味で裏切られた。
「本当に侍になりたいのならば、ただ剣技があれば良いというわけじゃ無いぞ。しっかりとした知識や教養が無ければ侍にはなれない」
「知識や教養ですか……」
「そうだ、教養だ! この書物を貸してやるから、しっかりと教養を身に付けよ」
本物の侍になる為には、ただ剣技が上手いだけではなれないものである。上に立つ者として数字や文字の読み書きに、兵法などを知る必要があった。
それを吉丸に学ばせる為、幸綱は自分が読んでいる日本時代の書物を貸し出したのである。
この行為に吉丸は感激して、何度も今度も頭を下げ「ありがとうございます!」と感謝を伝えた。吉丸の姿勢に、本気で応援したいと幸綱は感じる。
この日から吉丸にブースターが付いたかのように、屋敷仕事も剣術修行も勉学も励むようになる。
何より周りに気を使うスキルが、日に日に上がっているのが目に見えて分かるようになった。どんな事かといえば小さな日頃の気遣いが、他の誰よりもできるようになったというところである。
これには主君である幸綱も素晴らしい事だと、目を見張り大いに感心している。その努力に報いるように、幸綱は吉丸を仕えて4ヶ月という速度で、侍従副頭に就任した。
町田家が、まだまだ弱小だとは言えども4ヶ月で侍従副頭になるのは異例の事だ。しかも歳が15歳で。
しかしこれを良しとしない人間たちがいた。
それは……。
幸綱に古くから仕えている古参の侍従たちだ。自分たちは古くから仕えているのに、いきなりやって来たガキを良くするなんてあり得ないと思っていた。
思っているだけならば良いし、少し意地悪されるくらいならば吉丸も耐えられる。
だが現実は、そう甘く無かった。
寝込みを襲おうとする人間たちも現れ、吉丸は大事にしたく無いという事で隠してはいた。それでも幸綱の耳にも入るようになってしまったのである。
そんな時に吉丸は幸綱に呼ばれた。
「吉丸が寝込みを襲われた事は聞いている。怪我をしていないのが、何よりも嬉しく思う」
「幸綱さまに、そこまで言って貰えて感激です! 私の事でしたら、お気に病む事はございません!」
「お主なら、そう言うと思ったが……このままでは、いずれ命の危機すらあるだろう。お主を失うのは、この世の不利益だろう。ならば苦渋の判断だが………この金を持って故郷に帰りなさい。お主ならば、そこでも成り上がれると期待しているぞ」
幸綱は吉丸に多額の金を渡した。
これを持って故郷に帰るように促す。このまま殺されてしまっては、何とも悲しいからである。
吉丸の未来と、町田家の安寧の為に幸綱は決断した。
迷惑をかけているのは自分だと思っている吉丸は、その判断に「嫌だ!」とは言えず、深々と頭を床に着け「お世話になりました」と言う他なかった。
吉丸が町田家にいた期間は、わずか半年間である。
しかしその半年で吉丸は、侍になりたいという気持ちや侍になる為には。というほんの少しの知恵を得た。




