いっすいのゆめ。 -05- // 2127年1月15日(水) PM1:30
〜あるいはしゅくやむび。
朝間ナヲミと森 葉子が、久しぶりに小山の頂から麓の街へと降りて来た。
通算で、三週間以上も小山の頂きにある終の棲家へ籠もっていた。
それは、観点を変えれば、彼女たちが三週間以上も麓の街から遠ざかっていたことになる。
小山の麓に住む人々は、文学的表現で語れば、"閉じられた天岩戸"のその内側で、どの様な不都合が展開されているのかを、ヒソヒソ話で、各々が発生させた、それぞれの想像を交換し合うことで気を紛らわす日々を過ごすことを強いられた。
彼等にとっての最大の興味の対象が、ある意味生き甲斐が、三週間以上も彼等の前に姿を現さなかったのだ。だから、彼等が追い詰められて、人としてどうかと思う、人としての品位を問いたくなる様な、下種の心境に陥ることは、至極当然。まったく仕方のないことだ。
いけないと分かっていてもやってしまう。集団心理がそれを後押しする。しかし、しばらく経ってから、正気に戻って激しく後悔する。
時代、地域、文化、人種、年齢。すべてを全て、人間と言う生き物はその種の後悔から決して逃げられない。絶対に無縁ではいられない。困ったことに、人類史がそれを証明して来たし、しているし、今後もし続けるだろう。
何故か。生き物は知能が上がれば上がるほどにその傾向が強くなる。人類の中でもひときわ、ホモ・サピエンスにとって、最後のダメ押しとなったのは、「If構文」を取り扱える能力を獲得した、地球で初めて、そして唯一の種族であるからだろう。
「If構文」。
「もし」。
仮定の概念を使いこなす精神こそが、すべてのホモ・サピエンスの人生を酷いものにしたり、素晴らしいものにしたりする。つまり、多様で多用で他養な物語を連鎖的に発生させ、無限に発生させ続けるエンジンである。
興味。好奇心。関心事。特にそれらと「関わりたい」と思う人々にとって、その種の自制心の発揮は、人の口の戸を立てるほどに難しい。
興味、好奇心、関心事が、私事であれば、誰の不都合であっても、在り来たりのない日常と言う忙しさにかまけている間に、意外にも考えるのを後回しにしてしまえるかも知れない。
しかし、それが神事であれば、そうであると信仰しているのならば、在り来たりのない日常と言う忙しさの中でも、一瞬たりとも頭の片隅に居座って離れてはくれないのだ。
共感出来ない? ならば。
第二次性徴が始まったばかりの頃に、意中の異性(あるいは意中の他人、マイノリティーへの配慮として)の存在を意識し始めた頃を思い出してみれば、的確に想いを共感する手助けとなるかも知れない。
天が晴れれば意中の相手(異性、他人。以下略)を思い出し、ため息。雨が降れば意中の相手を思い出し、ため息。気温が上がれば「大丈夫だろうか?」と意中の相手を思い出し、ため息。気温が下がれば「大丈夫だろうか?」と意中の相手を思い出し、ため息。冬の入りで初雪が降れば、路面が凍結して翌朝の登校時に足を滑らせていないかとと意中の相手を思い出し、ため息。
「意中の相手」の文言を幼い息子や幼い娘と入れ替えても良い。
どうだ。関わりたいだろう。出来れば、関わり合いたいだろう。筆者だって、侯爵家三女のルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールと関わり合いたい。トリステイン魔法学院の住所さえ分かれば、直ちに入学願書を送りつけたいくらいに高いモチベーションで。
だから、会えない日が長ければ長いほど辛くなる。私が貴方と一年会えなかったとしても決してため息は付かないだろう。しかし、私や貴方が意中の相手と一日会えなければそれは大事件となる筈だ。いや。実際には、ため息を付いている余裕なんかない筈だ。辛さに耐えられなくなって、盲信で妄走を始めそうなものである。
興味=好奇心=関心事が、「もし」と言う危険な触媒出会うとはこう言うことである。
日本語には、そんな欲にまみれ、心の澱で汚れたドラマを、オブラートに包んで、美句でまとめられ、ロマンスへと昇華させることを可能とする素晴らしい感良くがある。
「一日千秋」
実に秀逸な字面である。誰もを騙すことができる。それはきっと、誰もが騙されることを望んでいるからだ。この一事においてのみ、人類社会における需要と供給のマッチングは完璧である。
そして。もう一つ。玄人向けの字面も用意されている。
「一刻千金」
これは主観性だけでなく、客観性までをも束ねた、実に実に深い言葉である。余りに深過ぎて、純粋無垢な若者には文字間から「不純」の臭いを誤認知せずにはいられないかも知れない。
無垢なる者よ。千金の価値を低く見積もってはいけない。フィレンツェ共和国の第二書記官長を名乗ったマキャベリさんも言っている。何かを成し遂げたい者は集金行為を疎んではいけない、と。
そして、もし、千金を高く見積もれるのならば、きっと貴方は幸運にも無垢期の通過に成功した、成熟した人間、つまり大人である。
小山の麓に住む人々は、母国を離れて異国で商売を続ける経験を重ねている以上、千金に限らず、あらゆる「金」を高く見積もる大人ばかりであった。
小山の麓に住む人々は、朝間ナヲミと森 葉子の降臨を認め、帰天を預言された者達である。広大な地域から集まりながらも、意外にその価値観を共有する者達である。
そんな彼等は、何時もの様に、特別な一つの対を、出来るだけそっと見守り続けた。
ーーー神話の目撃者として。目撃者の一人一人として。
だから彼等は、すぐに、朝間ナヲミと森 葉子と言う、極めて成熟したユニットが今までとは違う、新たな異変を抱えていることに気付いた。
朝間ナヲミと森 葉子は、何時もの駐車場に何時もの軽自動車を駐車して、何時もの様に繁華街を通過して、チョーラスター広場に面したオープン・テラスが併設された何時もの喫茶店を目指して徒歩で移動していた。
だが、腕を組んで歩くユニットの移動速度は何時もと違ってとても遅い。そして、片方の足取りがとても危なげだ。
朝間ナヲミと森 葉子は、今はほとんど同じ容姿の「器」に宿っている。
具体的には、朝間ナヲミは、朝間ナヲミの生身を模した全身擬体に宿っている。森 葉子は、瀕死の損傷を負って朝間ナヲミが一度は離脱しなければならなかったボロボロの生身を、故人である宇留島博士が直々に修復した、朝間ナヲミの生身を譲り受けて、もうすぐ一世紀に届くほどの長きに渡って宿り続けている。
だから、全身擬体も生身も、身長は言うに及ばず、手足や20本の指先の長さに至るまでほぼ同じだ。だが、生き写しとはまでは言いがたい。それは、朝間ナヲミの全身擬体は金髪と碧眼が特徴であり、森 葉子の生身は亜麻色の髪と黒い瞳が特徴であるからだ。
森 葉子の生身も、宿ったばかりの頃は金髪と碧眼を有していた。しかし、徐々に変化し、最後にオリジナルの朝間ナヲミの特徴とは異なる、新たな個性を獲得し終えた。
腕を組んで歩く朝間ナヲミと森 葉子、身長のバランスが取れているから、左右に並び立つ二人の動きのぎごちなさが容易に見て取れる。
朝間ナヲミの全身義体に、森 葉子の生身がかなりの割合で体重を預けていた。二人のぞれぞれの重心は本当に二つあるのかが怪しいと疑いたくなるほどに、朝間ナヲミが森 葉子を支えていた。
森 葉子は、その上で一歩一歩を繰り出すペースがとても遅い。朝間ナヲミは、森 葉子のペースに上手に合わせて、組んだ腕を三次元運動させて、的確に「支点」の操作を行う。
ーーー森 葉子が、少しでも、少ない努力で前進出来る様にと慮りながら。
普段なら30分で歩き終える道のりを、ユニットは4倍の時間を掛けた。
何時もの喫茶店の、冬期のお気に入りの窓際の席の方へ森 葉子が腰を下ろした時、太陽は沈みかけ、西の空が赤く染まり、広場を歩く人の足下から長い長い影が伸びていた。
息を乱す森 葉子。薄く汗をにじませる額周りを、朝間ナヲミがハンカチで軽く叩く。
そんな朝間ナヲミの気配りを、森 葉子は為すがままにさせている。嫁が、自分を、甲斐甲斐しくお世話しているらしいことにはある程度は気付いていた。だが。それに謝意を示せる、余裕は皆無だった。
ーーー何故。どうして私が?
森 葉子としては、自分がたった今も体験している極めて不愉快な現実に当惑し、また、直視することを避け続けるのに精一杯だった。
そんなユニットの苦悩を横目で見ながら、街の人々は、助けを求められるのを待ち続けていた。
だが、ユニットはそうしなかった。ただ、不自由に耐え、一杯の紅茶を飲み干した後、来たのと同じ時間を掛けて、来た時と同じ様に助け合って、必死に来た道を引き返し、何とか軽自動車に乗車して、静かに小山へと帰って行った。




