いっすいのゆめ。 -02- // 2126年12月30日(水) PM2:30
〜あるいはしゅくやむび。
「痛ーーーいっ!! ナヲちゃーんっ!!」
山中の谷間を越えて尾根の向こうまで届くほどに大きな声で、その上、とてもとても印象的な少女の悲鳴が発せられた。
それを間近で耳にした朝間ナヲミは反射的に行動し始める。たった今まで窓ガラスをゴシゴシと磨いていた、ゾンカ語で印刷された濡れ新聞紙を放り投げて、すごい勢いで部屋の中へ飛び込む。
朝間ナヲミは、移動中に両腕に嵌めていたシリコン製手袋を外して、放り投げて、ハリウッド実写版の「クモ男」に様に、どう見ても制動し切れる筈のない、慣性の法則を徹底的に無視する様な勢いで、悲鳴の主である筈の森 葉子の元へと駆け付けた。
「ハコちゃん、大丈夫?」
悲鳴の震源地へ到着。
そこには、朝間ナヲミの視界には、足の先を抱えて蹲る森 葉子がいた。少し離れたところには、バケツが転がったままだ。まだ左右に揺れている事が、まだ事件が起きて間もない事を示している。
転倒中のバケツから少し離れたところには、そのバケツの中に入っていたに違いない濡れ雑巾が、まるで自動車に激しく追突された被害者の様にグッタリと放置されている。
朝間ナヲミは、森 葉子の動きの癖、部屋の家具の配置、推定される詳細な動線から、直ちに、自分が離れたところで窓を磨いている間にどんな悲劇が起こったのか把握した。
ーーー森 葉子が、バケツをぶら下げて部屋間を移動中に、不幸にも右足の小指をタンスの角にすごい勢いでぶつけてしまった。
これは致命的だ。一番痛いヤツだ。肉体だけにでなく、精神へも確実に強いダメージを与えて残すアレだ。
とても賢く育った朝間ナヲミは、まず最初に、救命員としての最も正しい行動の方ではなく、パートナーとして唯一の取るべき行動の方を選択した。
両膝を床について、森 葉子の上半身を起こして抱きしめた。
「痛かったね。もう大丈夫。大丈夫だからねー」
朝間ナヲミは、森 葉子が直面している「痛み」と「悔しさ」と「切なさ」への共感を全身で、強くあからさまに示したのだ。
まずは、要救助者の慰めなくてはならない。そうしなければ、決して救えない「心」というものがあるのだ。長い結婚生活を通じて、朝間ナヲミはそれを強く強くわからされたのだ。今では、この件に関して、もう大変なベテランとなっているのだ。
最も頼りになるパートナーが悲鳴を聞き付けて、最優先で自分を助けに来てくれた。パートナーにとっての自分の立ち位置を再確認出来たことに満足して、少しだけ心のバランスを取り戻し始める。
同時に、「助かった」と言う自覚が直ちに芽生える。悲劇のピークは既に越えたと言う確信とも言い換えられる。
実際には、今のところは、まだ何一つ助けられてはいない。だが、そう言うチェック項目は、この種のピンチの現場では気にする必要はない。実は、こういう印象(の確信や操作)こそが、本当に助けられるよりも、主観的にはとてもとても重要だったりする。
賢い人はこういう印象マターを軽んじがちである。それは良くない。要救助者を単純に助けるだけで救助を終えてしまうと、何故かそれを根に持たれてしまい、後日の忘れた頃に「あの時に助けてくれなかった!!」などと謂れもない文句で責められることになる。
後のトラブルに発展しかねないので、まずは共感を示そう。その後で、救助活動に入ろう。
例え、一秒を争う事態であったとしても、まずは共感を示そう。その上で、的確に救助活動に入ろう。
何故かと言えば、人と人の交流と言うものは、そういうものであるからだ。何故か。それは人類が長い歴史を通じて、その様に社会を築いてしまったからである。
森 葉子は、本気で泣きながら朝間ナヲミにしがみ付く。
「痛い。痛いよー!!」
「分かる。痛いよね。私も痛いよ」
朝間ナヲミは、自分の五感を森 葉子のそれらと同期する。直ちに右足の小指周辺の痛みが情報としてではなく、痛みとして朝間ナヲミの痛感へとアップロードされて来る。
そのまま、右足の踵から先へ向かって、微かに関節を動かしてみる。
「痛い!! ダメ!!」
もちろん、森 葉子が感じた痛みは、朝間ナヲミにも同時に感じられる。朝間ナヲミは「こりゃー痛いな」と納得し、実際に感じた寄りの3倍くらいの痛みを感じたかの様に顔を酷く歪めて見せながらも、触診ならぬ動診から最愛のパートナーが訴えている症状の詳細を推測する。
ーーー骨折はなし。関節の剥離骨折もなし。小指・・・末接骨から第五中接骨あたりの筋が伸びてる。中接骨の横アーチがややズレてる。
自然治癒が難しい内部構造への被害は軽微であると確信して、少しだけ安心する。
教会での蘇生が不可欠な「クリティカル・ヒット」だけは避けられたと幸運だった。朝間ナヲミは、きっと、今この瞬間も、どこかの雲の上から大笑いしながら下界での惨状を見下ろしているかも知れない神に感謝した。
「骨折とか完治に時間が掛かる怪我じゃない。大丈夫だからね」
「でも痛いの!!」
相づちを打ちながら、マルチタスクで頭の方も使う。
ーーーそうなると問題の本質は外傷の方だろう。
そう見込んで、朝間ナヲミは森 葉子の頬にキスをしてから伝える。
「痛い!! 痛い!!」
森 葉子は、朝間ナヲミに対して強く抗議を続ける。まるで、自分が小指をタンスの角にぶつけた責任の全てが朝間ナヲミにあるかの様に。
ーーー朝間ナヲミならば、たった今苦しみ悶えている苦しみを簡単に解決してくれるのではないかと期待して。
「痛い。本当に痛いね」
「そう。本当に痛いの!!」
あまりに強い信頼と依存。
普通の男達であれば、彼女にこんな風に激しく詰め寄られれば、精神的な重さに耐えられなくなって、びびって動悸が激しくなり、思い切り身を退きたくなって、SNS上でのつながりをブロックかミュートにして、逃げ出したくなるかも知れない。
しかし、超上級者である朝間ナヲミはその限りではない。むしろ御馳走である。そこに身に余る程に強い信頼と依存に悦びを見出し恍惚としてしまう。当然、自分へ向けられた強い信頼と依存の産物の全てに対して恙なく応えるべく全力を尽くさずにはいられない。
ーーー愛は偉大である。偉大過ぎる愛である。
朝間ナヲミは森 葉子のV字上に曲げている上半身と下半身の間に自分の上半身を入り込ませる。自分の上半身が壁となって、森 葉子が自分の下半身の端にある、怪我を負った右小指が絶対に見えないにする。続けて、小指の様子を観察する。
ーーー見た目はすごいけれど、本当はせいぜい滴る程度の出血。それでも炎症でプクリと腫れている。
そして、小指の夢が複雑にヒビ割れている事に気付く。
ーーー悪運強いな。なるほど。小指がほとんどのタンスにぶつけた時の衝撃を吸収して割れてくれたんだ。
朝間ナヲミは、森 葉子が負った傷は、不幸中の幸いにも「痛みがすごいだけ」の軽症であると判断した。
「今はすごく痛いけど・・・これなら2〜3日で普通に歩ける様になるよ」
「本当?」
「本当。嘘は言わないよ」
「でも痛い」
「痛いね」
朝間ナヲミは、森 葉子が少し落ち着いたのを確認して、お姫様抱っこで床から持ち上げた。
「よっこらしょ」
朝間ナヲミは、森 葉子の身体を食堂の大きなテーブルの上へと移動させた。
自分の左手を森 葉子の右手と結んだまま、右手を伸ばして救急箱をなんとか引き寄せる。
「消毒するよ。ちょっとしみるかも」
朝間ナヲミは義歯でボトルのプラスチック・キャップをこじ開けて、森 葉子の足の小指でアルコールをドボドボと流し掛ける。
「んーーー!!」
森 葉子は、さっきまでとは違う種類の、ジンジンと脈を打つことなく、突き刺さる連続的な痛みに歯を食いしばって耐える。
割れて、一部が砕けてぶら下がっている爪の全面が見える様になる。小指が普段の五割増しにサイズアップしているのが分かる。
ーーー割れた爪の除去は今は無理だな。腫れが退くまで放置しよう。
朝間ナヲミは、大型の懐中電灯に見えるラジオ・トーチの光を、森 葉子の右足の小指にだけ当たるように正確に当てる。そして、エヴェレスト街道トレッキングの友である「スニッカーズ」くらいのサイズの筒の片側のキャップを外す。そこからは"管針"、俗に言われる"ハンコ注射"の格子状に複数の針が現れる。
ーーー形状は昭和の時代には誰もが知っていた「BCGの予防接種」で使用されたものに近い。
朝間ナヲミは、そのハンコ注射を森 葉子の足首に静かに突き刺す。
「チクリとした?」
朝間ナヲミの方が、先回りをして森 葉子に「痛くなかった?」と尋ねた。
「大丈夫。管針の麻酔が直ぐに効いた」
「BCGの予防接種」と違うのは、そのハンコ注射はただ刺して終わりではない点にある。経皮接種法ではないので、すぐに針を抜くわけにはいかない。
朝間ナヲミは管針を支える腕の力を緩めない。管針から、今、ミューサイズのナノマシンが森 葉子の体内へ送り込まれた。各種血管を通じて、ラジオ・トーチの光(正確には光と同軸に調整された電波、或いは磁気)が当たっている森 葉子の小指の患部へと移動する。場合によっては、移動する血流ルートを間違えて、少し遅れて=体内を何周かしてから患部へ到着するナノマシンもある。
患部へ到着したナノマシンは、まずは血小板を模倣した機能を発揮する。そうやって患部から黴菌などの驚異がこれ以上の侵入を防ぐ。やがて、出血も止まる。実は物質の流れを体内→体外へと限定させる為に、出血は一定時間が放置される。
次に、神経ブロック効果を発揮する。少なくとも激烈な痛みなどはかなり和らぐ。もちろん、怪我した事を意識に留めさせるために、我慢出来る程度の痛みは残す(ロキソプロフェンナトリウムやオプューム系構造物の様な鎮痛剤ではない。エトミデートとか興味半分で試しちゃダメだよ。絶対に)。
その後は抗炎症作用を、破壊された患部の再建の邪魔にならない程度に、ゆっくりと発揮する。
救急キットは、軍用品であれば、とにかく出来るだけ短期間で「再び戦場へ立てる様に」、または「戦地での行動の自由を再獲得出来る様に」と言う要求があるので、ここまで悠長な効果を発揮しない(効用の多少は直接的に生きるか死ぬかの問題となるので、それは仕方がない。とにかく、痛みを抑えて治療を受けられる後方まで自力で下がると言う需要が最大なのだ)。
22世紀には、乱用しない限りは安全が保証されている民需品であれば、普通の薬局でこの種の家庭用救急キットを常備薬として販売している。また、富山の薬売りも必ず取り扱っている人気商品だ。
ハンコ注射を押してから5分もすると、まずは出血が止まった。この時点で内側から外側と言う正しい順序(過程)を経過して、体内と体外が再び区切られた。続けて、患部の湿り気が失われ始め、薄皮が貼られ、腫れが少し退いて、赤みはほんの少しだけ薄まった。
今頃、体内ではドクサの紛れで侵入した黴菌やウイルスやらが免疫機能で片っ端から駆逐されている真っ最中だろう。
朝間ナヲミは患部に透明フィルムを貼って、スポンジ状の緩衝剤を施して、ラジオ・トーチのスイッチを切って、森 葉子の右足の踵から先に保冷剤で包んだ。
「足が冷えるまでちょっとの間だけ静かにしてて。出来る?」
「うん」
朝間ナヲミは、森 葉子の足の処置を終えて、履いたままだった屋外用シューズを今頃になって脱ぐ。
靴下を履いただけの足になってから、先ほどは何事にも優先した為にテーブルや床へ溢し散らした血液混じりのアルコール(の大分揮発した残りの液体)を雑巾で拭った。そして、足をぶつけたときに森 葉子がぶちまけたバケツとその中身を処理して、バケツ以外を洗濯機に投げ入れた。
その様子を何も言わずに眺めている森 葉子の視線を感じて、朝間ナヲミは少し安心する。
その後は、寝室までのルートの全ての扉を全開にして回って、テーブルの上で待つ森 葉子のところまで戻って来た。
「念のために明日の朝まで歩くのは控えよう」
「うん。わかった」
泣き止んで、安心して、救われたと実感して従順になった森 葉子の頭を幸せそうに、朝間ナヲミは撫でる。
「子供じゃないもん!!」
"満更でもない"と言う表情を出しながら、口先では子供扱いされたことを起こってみせる。
「でも貴女は私のお姫様でしょう?」
「うん。そうね」
まるで子供にしか出来ない様な、極めて透明度の高い笑顔を森 葉子は作って見せた。その様子を見て、朝間ナヲミは「本当に可愛いなあ」と心を打たれる。
「お姫様は、お姫様抱っこで寝室へ連れて行ってあげる。今日はベッドの上でテレビ見ながらゴロゴロして過ごそう」
そう言って、朝間ナヲミは森 葉子をテーブルの上から持ち上げる。そして、怪我をした右足を柱や壁や家具に絶対にぶつけないように気をつけながら、ゆっくりと寝室へ向かって移動を始める。
森 葉子は、さっきまで泣いていたのも忘れてしまったらしく、面倒な掃除もせずに済んだだけでなく、朝間ナヲミと一緒に残りの一日をゴロゴロとしながら過ごせることへに期待で満面の笑みを浮かべていた。
そして、朝間ナヲミの方も、「仕方ないなあ」と言う感じで、「嫁は正義」、或いは「カワイイは正義」と言うこの状況を心から楽しんでいた。
ーーーこの時間が永遠に続けば好いのに。
お姫様抱っこで屋内をゆっくりと移動する朝間ナヲミは、ほんの一瞬だけ、窓ガラスの向こうに見えた青空へ、自分の腕の上にいる姫から目を反らして、そう祈ってしまった。
本気で。




