みつせがわのだくりゅう。 -16- // 2126年11月4日(水) PM3:55
森 葉子が、文字通りの"両腕に花"の状態で朝間ナヲミが運び込まれた個室病棟へ現れたのは、Hongちゃんが予告した到着時間から20分程遅れていた。
それは私立松島大学の医学部付属病院の購買部へ達寄ったからだった。
"両腕に花"とは、二人以上の美女に囲まれている状態を指す文学的表現ではなかった。「文字通り」と書いた通り、両腕に花束を抱えている状態を示す、ある種の写実主義的な表現の一端であった。
花束の内容は、3割は赤い薔薇。2割がベージュの薔薇。残りが白百合だった。本当は両腕いっぱいの薔薇を用意したかった。だが、予約も無しにふらっと現れた消費者が、例え購買部が属している大学病院の教授だったとしても、午後の遅い時間ではそれほどに大量の薔薇の在庫は冷蔵倉庫にも残されてはいなかった(今ある薔薇はどちらかと言うと売れ残り、と言う意味)。
ーーー無い袖は振れない。
精神論では1000年掛けても物理法則をねじ曲げられない。絶対にだ。
購買部の花屋も頑張った。敷地外の資本が同系列の花屋から赤系の薔薇を調達してみせた。それでもまだ森 葉子が考える両腕いっぱいには届かない。そこで、森 葉子は、残りを白百合で満たすと言う妥協を決断した。
そんな何だかんだで、森 葉子はHongちゃんの予告時間に遅刻して、眠り姫状態のパートナーが寝かされているだろうベッドのある個室病棟へと辿り着いた。
3つのにまとめてもらった花束が想定以上に大きくて、両腕に抱えると前がよく見えない。それでも階段の踊り場を二階回って目的地へとやって来られたのだ。
視界があやふやでありながら敢えて自分の足で三階まで登った。それは、サイズが巨大になってしまった花束(群)が邪魔になって、複数人が乗り込むエレベーターの隙間へ潜り込むのが難しいと判断したからだった。
個室病棟のドアをノックしようとすると、スライド式のドアが自分から開いた。赤い薔薇と白百合と隙間から前方をのぞき込むと、個室病棟から看護婦と、介護用人型ロボット(※1)が病棟から出て来た。
朝間ナヲミをクリーンルームから受け取り、無接触検診を行い、病棟まで運び、病棟の機材と擬体を無線と有線での接続作業を行ってくれたスタッフ・チームに違いない。
これが20分遅れで終了したと言うことは、クリーンルームから病棟まで移動する間の作業で、Hongちゃんが想定した筋書きから外れる何かが起こったのだろう。
ーーー花屋で20分近く時間を費やして、それでちょうど良いタイミングとなった。幸運にも。
森 葉子は、チーム・リーダーの看護婦へすれ違うタイミングで感謝を伝えた。看護婦の方は、森 葉子の顔を見て驚く。自分が担当した患者が、大学病院内ではかなり有名な教授の縁者であるとの留意事項までは伝達されていなかった様だ。
まず、最初は花束で森 葉子の顔を認識できなかったので、通常の患者の家族とのコミュニケーションのマニュアルに沿った対応に徹していた。事態が変わったのは、介護用人型ロボットのセンサーが、森 葉子のIDを非接触通信で読み取った後だった。
看護婦は、森 葉子が病院関係者=身内であると認識して、その後に看護婦から見れば雲の上の存在である、病院内の有力教授であると認知し直して大変に恐縮した。病院内政治に疎い森 葉子は、看護婦に対して恐縮させてしまったことを逆に恐縮してしまった。
こんな看護婦の側には決して笑えない、森 葉子の側からすれば無邪気に笑えるやりとりが行われた。
そのせいで、森 葉子は、病棟のドア前に到着してから3分後になって、やっと愛する人が横たわるベッドの横への移動を達成した。だが、巨大な花束が邪魔をして、朝間ナヲミの擬体を十分に視界へ捉えられない。
こういうのは、何時もは朝間ナヲミの役目。森 葉子はやってもらう方で、やってあげる方では絶対的になかった。だから、頭でっかちで何をどうしたら上手く回るのかを理解していない。
大き過ぎるサイズの花束など、よく考えれば邪魔になることは分かる筈だ。しかし、こんなことしてあげたら、喜んでくれるかな? と言う思いが強過ぎて、客観的に自分の行動を評価出来なかった。
森 葉子としては、花まみれの状態で目を覚ませば朝間ナヲミもきっと喜んでくれるだろうと思い付き、それの効果をもくろんで、わざわざ寄り道までして調達した献上品のつもりだった。だが、この思い付きは実際に実行してみると、想定外の不都合が次から次へと発生する。少し挫けそうになる。少し恥ずかしくもなる。
しかし。と森 葉子はこうも思う。そう言う拙さ。大き過ぎる思いが空回りして、ちょっとピンチになっている好きな人の背中を眺めるのもちょっと嬉しい。普段は賢い人が馬鹿になるほどに自分へのい思いを募らせてくれている。そう言うのが分かった瞬間にこそ、「ああ、この人を残りの一生を共に生きたい」なんて言うものすごい決意が出来たりもする。
つまり、愛を得たり、強めるための説得の手段にもなりえるのだ。それは間違いない。自分がやってもらったのだから、自分がそうやって朝間ナヲミを愛したのだから間違いない。
そう。自分は経験からそれが正しいことを知っている。だったら、やってもらったことをやり返してあげるのが正しい。礼儀でさえある。馬鹿になる勇気を持つことこそ、今はもっとも私たちに必要な何かなのだ。
その何がが一体何であるのかは言語化できない。ずいぶん長く生きた森 葉子であっても、まだ言語化できる域へは到達出来ていない。しかし、その何がは人の営みの中に間違いなく存在しているという確信だけは持っている。
森 葉子は、朝間ナヲミの擬体が置かれているベッドの上に、正確には朝間ナヲミの擬体の首から下を覆ってる白いシーツの上に、巨大な花束を一つ一つ置いていく。とりあえず、両腕をフリーにすることにした。
そうして、やっと朝間ナヲミをじっくりと見下ろすことができる様になった。
ーーーまだ、ナヲちゃんはここにはいない。
森 葉子は思う。ここにあるのは朝間ナヲミが使用する予定の擬体。そこに安置されている生体脳はまだ朝間ナヲミの意識を発生していない。だから、まだ。朝間ナヲミがここにある物には宿っていない。意識を発生する魂がまだ宿ってはいないのだ。
ベッドの上に寝かせられている朝間ナヲミの擬体が浮かべる表情は"菩薩半跏像"である程に穏やかで、誰であっても神秘的に微笑んでいるのではないかと誤解しそうだ。
しかし、森 葉子は騙されない。これは宿主の制御下になる擬体が出力する、所謂、デフォルトの表情なのだ。朝間ナヲミが最初に宿った擬体には、この様な、森 葉子が感じるところでは、宿り主の価値観を一律に無視する「非道徳」な機能は実装されていなかった。
だが、これは22世紀の擬体保持者や、その家族や、他人の群れには大変に好評な「機能」だった。
森 葉子は、朝間ナヲミのアルカイック・スマイルを見下ろすのを止めて、擬体の脚部付近に置いた花束を解き始めた。
まずは、真っ赤な薔薇を朝間ナヲミの顔の辺りに巻き始める。
主な花言葉は「あなたを愛しています」と言う情熱や愛情を込めたもの。
「本当は108本並べたかったんだけど。ごめんね」
真っ赤な薔薇とベージュの薔薇を並べ終える。花屋さんの話では併せて58本ある。
「50本は貸しておいて。あとで持ってくるから」
朝間ナヲミはまだ何も言ってくれない。ただ、デフォルトの機能で微笑み続けるだけだ。鼻腔の部妙な拡大縮小。胸部の微妙な細動。決して呼吸をしている訳ではない。これらもまた擬体が新たに獲得した擬態機能で、まるで生身の人間が穏やかに寝息を立てているかの様な印象を見ている者達へと誘導する。
擬体。それは確かに生身の身体を擬態して憚らない、究極の義肢として生み出され、発展し、ここまで辿り着いた。森 葉子は客観的にその歴史を体験して来た。朝間ナヲミは主観的にその歴史を体験して来た。
擬体開発やそれを用いた治療を行う、サービスを提供する側と言うポジションに収まっている森 葉子である。彼女は、最近の擬体の流行について、一つの、どうしようもない気持ち悪さを感じていた。
最近の擬体は、徐々にではあるが、人間の生身を擬態するのではなく、人間が妄想する理想の人間像、まるで古代ギリシア様式の神像を擬態する方向へと転んでしまっている点に微かな嫌悪感を抱いていた。
そのうちどこかの奇妙な妄想に取り憑かれた金持ちが、10等身の擬体をオーダーメイドで作り上げるかも知れない。そして、胸に「南葛」と刺繍を入れたシャツを着てサッカーでも始めるかも知れない。
そのうちどこかの不遜な妄想に取り憑かれた金持ちが、背中から羽根が生えた擬体をオーダーメイドで作り上げるかも知れない。そして、どこかの発展途上国で宗教団を立ち上げる始めるかも知れない。
そのうちどこかの滑稽な妄想に取り憑かれた金持ちが、哺乳類のイルカやジュゴンではなく、何故か魚類の下半身を実装する擬体をオーダーメイドで作り上げるかも知れない。そして、どこかのカステレット要塞の遊歩道脇へと毎日の様に海から這い上がって、「人魚姫」本人を名乗り始めるかも知れない。
これまでもそう言うトラブルはあった。だが、その度にその時の人類は、そのマジョリティーが支持する「常識」を以て、それらの浅はかな挑戦を厳格に撥ね除けてきた。
だが、これから先はその限りではなくなるのかも知れない。
新しいマジョリティーは、それらの行為をイカした活動と見なすかも知れない。イカれた活動と見なす人類はマイノリティーへと落ちてるのかも知れない。
人類は、擬体と言う置換身体を手に入れる事で、絶対に開けてはいけない箱の蓋に手を掛けてしまったのかも知れない。飛行までは無理だが、天使を模倣した擬体の製造はそう難しくない。歩行時のバランスや日常生活の不便さを無視して良いならば、フレームに手を加えて、既製品を組み合わせるだけで納品は可能だろう。
しかし。しかしだ。と森 葉子は思う。
ーーー人間は、絶対に、人間以外のものになれない。なれっこない。
にも関わらず、妄想をエンジンとする人間の欲望の暴走は、現実の人間の有り様を忘れて、機械の力を借りて、理想の人間であると誤解し始める様な気がしてならない。
市場原理と言う赤裸々な欲望圧力によって、擬体の発展の方向性は21世紀のコンセンサスから見れば、かなりねじ曲げられ、間違いなくそう遠くない未来には異質なものへと転じ、奇妙なことになるのではないかと・・・デストピアの入り口の到来を確信せずにはいられない。
「ま、いっか・・・」
森 葉子はそこで吹っ切れてしまった。
ーーーどうせ、その頃には、自分と朝間ナヲミは生きてはいない。
そう確信してしまったからだ。
彼女や伴侶にとってのデストピアが、必ずしも22世紀に生きる人々にとっての同様のデストピアである必要はない。社会の常識は常に変わる。昨日の道徳的正しさは明日の懐古主義へと変わりがちである。
人それぞれとは、本当に物は言いようである。
現在や将来の社会の常識に照らせば、それはデストピアどころかパラダイスなのかも知れない。世界の有り様が移ろうように、現在の常識、或いは未来の常識は、過去の常識には決して服わぬものであっても不思議はない。
「異族」や「朝敵」とされた、蝦夷、隼人、熊襲、土蜘蛛などの当時としては異質とされる民族群が、絶対に大和朝廷に対して順ろわなかったと言う世界線があっても良かったし、良いのだ。
つまり、老い先短い者は先の長い者達に干渉する義務はないし、しないと言う権利ならばある。将来の当事者である若い人達こそが、そのあたりの問題を解決すれば良いのだ。
もしかしたら、将来の当事者である若い人達は、老いた者達の違和感に対して、それを、一切、解決すべき問題とは認識しないかも知れないし。
森 葉子は、薔薇の後は白百合を朝間ナヲミのベッドの上に丁寧に、一本一本置いて回る。品種改良が進んで、雄花の花粉がまったく落ちない。付いていない。だから、衣服やシーツを汚染する心配がない。にも関わらず、花を近付けると白百合らしい強い香りが鼻腔を突く。
今の朝間ナヲミ様子はまるで童話『白雪姫』のクライマックス・シーン。万国共通☆乙女の正しい夢である「王子様のキスで目覚めるシーン」の再現だ。
ひたすらに眠りこける白雪姫を取り囲む花は、一説に寄れば、小人達が手向けた白い花は、シャクヤク、クレマチス、ユーフォルビアと言う品種であるそうだ。
今、朝間ナヲミの個室病棟には、とてもよく似た北欧系の美女二人が存在している。まるで、双子。姉妹と言うにはあまりにも似ている。ただし、違うところもある。ベッドで寝ている美少女は金髪であるのに対し、それを達ながら眺めている美少女は金髪を少し薄めた、亜麻色の髪である。
そして、今は視覚的に比較出来ないが、ベッドで寝ている美少女の瞳の色が青色であるのに対し、もう一人の美少女の瞳の色がアジア的な黒色。
森 葉子も、朝間ナヲミの生身へ宿った頃は。金髪・碧眼であった。だが、時が経つうちに、少しづつ、金髪は亜麻色の髪へ、瞳の色は青色から黒色へと変化していった。
おそらく、そう言う形で、朝間ナヲミの生身が森 葉子の生体脳へ馴染んだのだろう。
森 葉子は、花にまみれた朝間ナヲミに顔を近付ける。視線を右から左へと動かしてゆっくりと愛でる。
ーーーやっぱり、こっちの方がナヲちゃんだなあ。
金髪の北欧系美少女。目を瞑っているから青い瞳は見えない。
ーーー久しぶりに会えたね。
森 葉子は、半世紀ぶりに、いやそれ以上ぶりに朝間ナヲミの外観を客観視した。朝間ナヲミは望んで、一方的にだが、森 葉子へ自らの容姿を与え、その代わりに自らが森 葉子の容姿を纏った。
森 葉子は、朝間ナヲミと出会った時、自分が朝間ナヲミになりたいと感じ、そう願ってしまった。何故か。それは目の前にいた朝間ナヲミが、あまりにも可憐で、美しく、乙女の夢見る「お姫様」の条件を完全に満たす美少女であったからだ。
日本人と比べれば高い身長だったが、それでも西欧の王子様がお姫様抱っこをするには適当なボディサイズ。美しい金髪と、青い瞳と言う、北欧系の、年頃の男の子だけでなく、女の子であっても完璧な容姿。
当時は、それが自分の容姿とはならない事を悔しく思いながらも納得した。そして、だったら、その理想を体現する人物を自分の伴侶とすれば良いと気付いた。
ーーー我に始点を与えよ。コペルニクス的転回を閃かせた後に。されば、金髪碧眼の美女の心を奪って見せよう。
それから、ずっと攻めて攻めて攻めて攻めて、攻め続けて、朝間ナヲミの心を自分の恋着とすることに成功した。互いに、「唯一無二」「代えがたい存在」「替えのきかないもの」と認識し、共依存関係へと移行した。
それでも、それは終わりではなかった。
朝間ナヲミは、森 葉子は信じていた以上に執着していた。本来は自分が宿り直すつもりで、生身時代の悦びを取り戻せる感覚を取り戻すために再生作業を終えていた自分の身体を、森 葉子へと与え、宿らせた。その一方で、自身は森 葉子の容姿を再現した擬体に宿り直した。
こんな極度のメンヘラでも絶対に思い付かない程に奇抜な妄想を連ね、「If」を想像し、心の闇の部分に身を任せて本当に実行してしまったのだ。
しかし、森 葉子としては、そんな奇天烈な思いが分からない事もない。共感出来ないこともない。何故なら、自身が朝間ナヲミの生身へ宿ると言うことは、森 葉子本人の尊厳からまるごとすべてが朝間ナヲミに包み込まれると言うことである。
ーーーこれをやってしまいたいと夢想するほどに強い愛欲があるだろうか?
そして、そんな強い愛欲を仕向けられた森 葉子は、それを知って、素直に嬉しかったのだ。何より、新しい肉体を与えられて、朝間ナヲミに完全に護られていると感じて、生まれて初めて強烈な安寧感を経験することが出来たのだ。
普通の人間であれば、朝間ナヲミほどに強い愛欲を仕向けられればビビる。単純に退く。逃げる。
だが、森 葉子は違った。嬉しかったし、単純に一歩進んで感謝すらしたし、逃げるどころか積極的にそう言う「If」の現実化を受け容れた。
これは、朝間ナヲミのとっても一世一代の賭けであったに違いない。これで嫌われてしまっては本末転倒となる。欲をかき過ぎたきらいはある。もちろん、無意識で実行したことは間違いない。だが未必の故意ではあった筈だ。
だが、森 葉子の側に完全に不満がなかった訳でもない。
それは、それまで毎日愛でていた朝間ナヲミの容姿が、そる日を境に目前では、自分の視界では捉えられなくなったこと。どれほどに探しても、朝間ナヲミの容姿は鏡の中にだけしか存在しないこと。
かつての自分の見た妄想が如何に浅はかであったかを思い知らされた。自分が理想の美少女になってしまうと、理想の美少女を無心で愛でることが出来なくなってしまうとは、その可能性にまったく気付いていなかった。
しかし、自分が理想としていた美少女が、久しぶりに帰って来た。考えようによってはこれはチャンスである。具体的には、パートナー以外には伝えられないが、何というか、主に法律・捜査の用語で言うところの劣情の一種のアレでコレだ。しかも、「久しぶり」と言う盛り上げる演出効果や、何やら悪いこと考えているかの様な耽美的な背徳感まである。
とは言え。こう言う催しは法律的に認められた家族ユニット「婦々」なのだから、ある程度は許して欲しいと森 葉子は思う。当然の権利だとも思う。子供だって産んであげたのだし。
ーーー自分は朝間ナヲミが最初の相手であり、唯一の相手であり、最後の相手となる筈である。
それに対して、仕方がなく避け様がなかったとは言え、朝間ナヲミには確かな前科があった。森 葉子は、無言でそれを許し、何年かの間それを見過ごしてあげたのだ。
ーーーだから、自分にはパートナーの同意が有ろうが無かろうが、イタズラをする権利がある!!
しかし、これは公式な言い訳としては線が弱い。そこで、だからこそ、森 葉子はグリム童話「白雪姫」の感動のシーンの再現と言う言い訳を成り立たせ、免罪符とすると決意した。
不手際は朝間ナヲミをガラスの棺の中へ入れられないこと。しかし、白雪姫と違って死んでいる設定ではないので、「棺」の中へ置くのはよろしくないし、縁起でもない。また、一説に寄れば、白雪姫が目覚めるのは王子のキスのお陰ではなく、父である王がお抱えの医師へ治療を命じたことであるらしい。
ーーーまあ、全ての悪事が明るみに出たとしても、まさか焼けたサンダルを履かされて死ぬまで踊らされることもあるまい。
犯罪はリターンがリスクに見合う場合にのみ挑戦するべきだ。冷静に考えると、99%は見合っていないのに、何故か、その時、その瞬間だけは実に見合っていると誤解しがちなんでけどね。
立派な犯罪者予備群の一角と成り上がった森 葉子は右左、前後を確認する。大丈夫、誰もいない。見てない。
そこではっと気付く。
下にはないけれど、上には保安用のカメラがぶら下げられている。
森 葉子は、久しぶりに第二章の経由で病院の管理ネットへと接続する。何の苦労もなく、保安用のカメラからサーバへアップロードされているデータをループさせるスクリプトを組んで、上書きした。
完全犯罪の準備が整った事をアナログとデジタルの両サイドから確認し、管理ネットとの接続を切る。
森 葉子は、そっと朝間ナヲミのアルカイック・スマイルを貼り付けてある表情へ顔を5cmの距離まで寄せて眺める。
ーーーやっぱりキレイだなあ。
同じ顔である筈の自分を鏡で見つめても、こんな感傷は感じない。
ーーーやっぱり、この顔はナヲちゃんにこし相応しい。
もちろん、その顔付きは擬体であるのだから人の生み出した技術で人工的に作り上げている。しかし、過去の動画や写真の記録、更に遺伝子情報、擬体へ宿る前の生身の骨格の三次元スキャンのデータなど、諸々を束ねて出力した顔である。
つまり、元が悪ければ、追加料金を払って造形家による改善オプションを利用しない限り、目を反らせない程の美しさを顔に帯びさせることは不可能だ。
森 葉子は、オーバーホール依頼時にそんなオプションは注文していない。だから、この美しい顔付きは、正真正銘の本物であり、自分の顔付き、そして長女の向日葵とほぼ同一な作りである筈なのだ。
ーーー理屈は良い。素っぴんなのに美しい。そして、この娘は私の嫁だ。
森 葉子は、歯は磨いて来たが、モンダミンまではして来なかったこと悔いた。しかし、その程度の後悔は、犯罪を決意した彼女を止めることは出来なかった。
「ナヲちゃん。愛してるから・・・」
許して。そこまでは言わなくても分かるに決まっている。
森 葉子は、自分と同じ顔をした。それでも目を閉じたままの朝間ナヲミの鼻先を自分の鼻で軽く押す。もし、目を開けて、義眼が開放されてたならば、撮像素子と一体化した液体レンズの最も外側に取り付けられている保護フィルターに、自分の顔が魚眼レンズ風にデフォルメされて写っていたのかな、など考える。
しかし、自分がこんなに思い詰めているのに、悩んでいるのに、思い余っているのに、当の朝間ナヲミはまだ目を開けてくれない。目を覚ましてくれない。覚醒してくれない。昏睡したままである。
ここから先は慣れている。千回、一万回と繰り返した来たことだ。
森 葉子は両目を閉じる。目を閉じたままでも支障はない。慣れている。熟練と誇っても良い。
ゆっくりと、まるで焦らすかのように、そのまま鼻先を少しずらして、顔を更に近付ける。
そして、終点へ行く突く。
森 葉子の唇が朝間ナヲミの唇へ重なって触れ合う。
森 葉子は更に3mmほど唇を進め、お互いに微かに圧が掛かる様に調整する。
慣れたものである。今まで、何十年、何回繰り返して来たのか。もう、数えることも出来ない。それを正確に知ることが出来るのは、この世界の全てのイベントを把握する神だけ。或いは、朝間ナヲミの擬体の作動ログを記録している統合マネージングシステム「YOMI」くらいだろう。
森 葉子は自分の唇を離し、朝間ナヲミの唇を放す。
「お願い。私の元に帰って来て」
二人の距離が10mmほど空いてしまった後、適切な離心率に従って、自分の唇をあるべき位置へと戻す。
戻す度に、みなしで決めた円軌道の中心、回転軸を右回転で、左回転で、3〜5度程ずらしてみる。
ーーーこれは朝間ナヲミが好んだ愛の確認手段だった。
普段であれば、これは森 葉子がされる方で、朝間ナヲミがする方。お互いに立場が逆になっている。この違和感が朝間ナヲミを昏睡から叩き起こしてくれるだろうことを祈って。
この、動作を数セットほど繰り返した。
だが目立った反応は観測出来ない。
擬体の鼻腔は動いている。それを自分の鼻の感触を確かめた。
鼻腔の動きは擬態の一環に過ぎない。鼻の穴から二酸化炭素を多く含んだ気体が放出されているわけではない。
もし、宿っている生体脳が擬体の制御権を掌握していれば、イミテイテッド・アクトではあるが、人間の息を模した空気のの排出が開始される。
森 葉子の触覚は、まだそれを知覚出来ていない。
ーーーこの寝坊助め。人の気も知らないで!!
なんか腹が立ってきた。
文句を一言二言連ねてやろうと、森 葉子が唇を離そうとするとどうにも離れない。首が動かない。
ーーーえ? 腰は少しだけ動かせる。身体は揺すれる。でも上半身を起こせない。首の先が何かに引っかかっている?
何か密かに悪いことをやっている最中に、足でも躓いて逃げられなくなってピンチ、みたいな状態に陥ってしまった様に焦る。
ーーーえっ? えっ? えっ? えっ?
想定外の事態に陥って、文句を言ってやるどころか、自分が何をやっているのか頭の中からすっぽりと抜け落ちてしまった。
ジタバタをもがいていると、頭の、生体脳の、意識野の奥の方で新しい情報が書き込まれている感覚があることに気付く。
ーーーえっ?
そんなことが出来るのは、世界に朝間ナヲミただ一人しか確認出来ていない。森 葉子と朝間ナヲミのそれぞれ脳は、量子縺れだか何かの原理で、情報の共有が可能となっている。
これは、朝間ナヲミが二度目の瀕死状態を抜け出した直後から生じているオカルト現象である。何かしらの科学的な現象であり、再現性もあるのかも知れない。しかし、現状では原理がまったく分かっていない。
まあ、ソ連が母ネズミと子ネズミを用意したテレパシー実験で、原子力潜水艦で深海うん百mで潜行させてから子ネズミを殺すと、遙か遠くのソ連本土の実験場にいる母ネズミが反応する・・・みたいな都市伝説みたいな話である(※2)。
実際、朝間ナヲミと森 葉子の間に起こった現象の解析を試みた津田沼博士は、「二人の間にある距離やその間にあるものにはまったく干渉されない」と言う可能性を示唆する報告書を残している。そして、その論文じみた報告書に目を通した宇留島博士は「愛の力に不可能はない」と言う感想を漏らしてさえいる。更に、当事者である二人は「便利」と言う極めて単純な評価を下している。
新たに書き込まれた情報の内容は、「もうちょっとだけ待って」だった。
その直後、自分の頬に、規則的に気流の流れに似たこそばゆい感覚を得た。平たく言うと、誰かの息を間近で感じる言う感覚である。
書き込まれる情報の速度は極めて遅い。実感としては5G通信時代にGPRSのデータ通信でSNSでレスバやっている方がマシな速度だった。しかし、書き込みが続いている様だ。
「擬体_操作系_掌握中____ 」
気が遠くなるほど待って、森 葉子は、以上の文章を自分で感じたのか、考えたのか、そのあたりが極めてあやふやな感覚で表層意識に浮かんでいるのを捉えた。
気が付くと、首から上を抑える抵抗力が弱まっている。森 葉子はゆっくりと上半身を起こす。
その途中で何が抵抗力の発生源であったのかが判明した。それは、朝間ナヲミの擬体の右腕だった。右腕だけが不自然にベッドのシーツの下からタケノコの様に生えていて、それがキス真っ最中だった森 葉子の頭を抑えていたのだ。
ーーーまるで、キスが終わるのを拒否するかの様に。名残惜しんでいるかの様に。
森 葉子の意識が、反射的に「嫁モード」から「医者モード」へと切り替わる。
ーーー表情が変わった。デフォルトのアルカイック・スマイルが消えた。
ーーー自発呼吸模倣中。鼻腔から低圧縮空気が送り出されている。
ーーー胸部の運動も正常値に復活。
自分を掴んでいる義肢を力任せに掴んで、手首の親指側にある動脈に三本の指を当てる。
ーーー脈拍模倣中。
ついでに自分の脈も取ってみる。
ーーーやべ。タキってる。
これはつまり。
森 葉子の表情が急に明るくなった。
「帰って来た!!」
擬体が組み立て後のスリープモードから、宿った生体脳と第二小脳の制御下にあるスタンド・アローン状態へと切り替わったのだ。
これは、朝間ナヲミの生体脳が、擬体の制御権の掌握中であると推測出来る。
通常であれば、生体脳と擬体の接続はほとんどが自動で行える。少なくとも、基本的な生活動作ならば、2030年代と違って22世紀では調整無しでも再現可能な仕様である。だが、どうやら、朝間ナヲミは擬体の制御権を自動でなく、一つ一つ手動で掌握しつつある様だ。
もしかしたら、再生された生体脳に対しては、22世紀の擬体であっても自動接続に対応出来ていないのかも知れない。或いは、接続デバイスの一部を構成するナノマシン(ピコマシン、ミューマシン含む)が不足しているのかも知れない。
まあ、そんなことは今はどうでも良い。後から調べれば良いだけの話だ。今、たった今の重要な事は、朝間ナヲミの生体脳が自分の働きかけに反応を示したと言うことである。つまり、昏睡期を脱した。確実に遷延性意識障害エンドを脱したのだ。
森 葉子が次にやったことは、病棟内の非常用備品である擬体通信用の物理ケーブルを毟りだして、首下にある朝間ナヲミの端子と自分のそれを直結するこだった。
半ダイブで仮想現実空間へと潜り、朝間ナヲミの擬体の状態を把握する。
ーーー正常作動中。
ーーー生体脳と擬体の間に低ビットレートだけれど激しい双方向通信が行われている。
ーーーあ、擬体機能をスレーブ状態扱うのにドライバー使ってない。
どうやら、朝間ナヲミは擬体を人間の感覚だけで操作しようとしている。原因は生体脳とドライバーを結ぶ統括制御OSの間で起こった不具合を解決しようと努力中であるらしい。
これは重度のギラン・バレー症候群で見られる、意識レベルが低くはないのに身体が動かせない症状を、昏睡状態、或いは意識を発生出来ないレベルの損傷を脳が負っていると誤判定する一例と言えるかも知れない。
とは言え、仕方がない。この手の誤解はなかなか避けられない。人の身では、観察という一方的なコミュニケーション手段だけで患者の状態の全てを察することは出来ない。出来る筈がない。
ーーー患者側に意思はあるのに、示せない。医療側に意識サインの読み取り能力が不足している。或いは、患者が判定者にとっての想定外の手段でサインを示している。
全身擬体保持者の場合、目の動きや、まばたきと言ったサインが送れない。意識状態を客観的に把握がアナログ的に困難である。
生身であれば、発熱、けいれん、息苦しさ、ろれつが回らないなどのせいで意識レベルが低いと誤診されるかも知れない。それでも、昏睡状態でないことは示せる。しかし、生体脳がアナログのサイン・インディケーションを持ち合わせない状態では意思の表明は、患者本人の努力だけでは行えない。
朝間ナヲミが今、力業で意思の表明を実行していた。おそらく、一般的な患者に同じ表現能力を期待することは出来ないだろう。そう意味で、この経験を通じて、森 葉子は全身擬体保持者の昏睡症状の取り扱いの難しさを学んだ。
まあ、そんなことは今はどうでも良い。後からまとめて発表すれば良いだけの話だ。今、たった今の重要な事は、朝間ナヲミの生体脳が数々の逆境を自力で超えてたと言うことである。つまり、これで二人は共に家へ帰れる。少なくとも、「さよなら」も言えずに永遠に別れなければいけないと言うバッデスト・エンドを脱したのだ。
森 葉子は、自分と朝間ナヲミを物理ケーブルでつないだまま、サンダルと靴下を脱いで、朝間ナヲミのベッドの上によじ登る。ゆっくりと、優しく、朝間ナヲミの頭を持ち上げて、今まで支えていた枕を床へを落とす。枕の代わりに自分の右腕を強引に空けた空間へとねじ込む。
森 葉子は、朝間ナヲミを腕枕する状態で添い寝を始める。完全に逆転している立場に少しだけ新鮮さを感じている。
「同期待機状態でウエイティングしてるから、何かあったら声かけて」
そう宣言して、朝間ナヲミの擬体に抱きついたまま目を閉じた。そして、たった5秒後には寝息を立て始めていた。
朝間ナヲミの擬体は、まだ完全に生体脳の制御下にはない。デフォルトのアルカイック・スマイルや、それに準じる四肢や表情の制御は失われている。だから、機能がスリープ状態にあった時の方な凜々しくく荘厳な印象はもうない。現状は、どちらかと言うと、しまりを失って、どちらかと言うと人形的な印象を醸し出している。
だが、森 葉子が真横で抱きつき爆睡を始めた直後から、擬体全身が示す雰囲気が変わった。
ーーーもう、仕方がないなあ。
そんな感じの、充実感とやるせなさという二律背反する表現を両立させるという曲芸の様な意思を示しながら。
気が付くと、病棟へ差し込む真っ赤な日差しが弱まりつつある。
西の空が茜色から深い青色へと移り変わりつつある。
「マジックアワー」と呼ばれる幻想的な風景の始まりだ。
しかし、その日一番のマジックはその幻想的な風景ではなく、一組のカップルが死別を乗り越えて再会出来たことである。
※1= 22世紀の日本国の富裕層は、介護用機械への完全自立判断機能の実装を好まない。その為に、飽くまでもロボット類であってドローン類ではないと区別されている。なお、ロボット類>ドローン類への類別変更は、ソフトウェアの更新だけで実行可能。
※2= もし、これが本当の話であれば、テレパシーで用いられる通信手段は、短波や超短波ですらないと言うことになる。根拠は、分厚い水の層でも情報が減衰しない・・・である。詳細は、自称識者であるリン・シュローダーやシーラ・オストランダーの辺りを国会召喚して、偽証罪を問える形で尋問しなければ分からない。




