みつせがわのだくりゅう。 -15- // 2126年11月4日(水) AM10:30
黄 紀子は、山脈を形成する無数の尾根の模様の様に、黄金律を描く無造作に積まれた書類の中から、慎重に選んで抜き出した束を手に取る。クリップが外れない様に気を遣いながら、束になってい紙の注文書を一枚一枚捲捲る。
敢えて、デジタルな注文書ではなく、アナログな情報蓄積メディアの方を優先して調査対象としたのだ。
どう考えても、自分で書き込んだサインがある書類で、記入ミス、或いは改ざんが行われている疑いがあると言う可能性は実に気持ちが悪い。
何が起こったのかをハッキリとさせたい。
黄 紀子は、外部からの意図的な干渉を疑っていた。もし、深刻な悪意が動機で改ざんが行われたのであれば大変に厄介な問題へと発展する。治療作業の肝心な部分へまでもテロ的な攻撃が及んでいるかも知れなくなるからだ。
ーーー日本国内には、22世紀になっても"偉大なる党"のシンパが多数ご存命なのだ。
だが、森 葉子は黄 紀子と違って、この出来事を深刻には捉えていなかった。
「擬体をメーカーへ送る時、私が仕様変更の必要性を認めていなかったことは確かだよ」
「ですよねえ」
目当ての書類がなかなか見つからず、黄 紀子が困り果てる。
「でもね。今は、仕様が変更されていて良かった。正直、助かったと感じている」
師匠は、そんな弟子の姿を穏やかにに眺める。
「そうなんですか?」
そろそろ頃合いであると判断して、自分の考えを伝える為に、師匠は背後からそっと書類チェックに集中している弟子に近付く。
「そうなんだよ」
森 葉子は、一瞬のうちに、手慣れた腕裁きで、黄 紀子から分厚い書類の束を奪い取って、そのままシュレッダー付きのゴミ箱へを投げ入れる。
「終わり良ければ全て良し。悪しき物からでも良き物が生じる余地が十分にある」
「"悪から生じた物は決して善にはならないものだ"じゃないんですか?」
「何。それ?」
「後の教祖リイクニ・ノンデライコが語っていた言葉です」
「あーーー。王立宇宙軍か。中学生だった頃の長女の向日葵がはまってた映画だね」
「最近、再々評価されてるって。私のゼミの子が言ってました」
「まあ、辻褄とか過程に拘りすぎると対局を見誤ったり、運を失うんだよ」
「そうなんですか?」
「これから、先人皆無な生体脳の再構成なんて言うこの「とんでも」なヤバイ分野で名を上げるだろう"黄 博士"は上手い流され方を学んでおいた方が良いよ」
「待ってくださいよ。全部先生の業績じゃないですか?」
「ううん。全部貴女の業績になる。黄 ちゃんが今回の顛末を全て自力でまとめて、一人で発表するんだから。他の子も連名で連ねておいてあげてね」
「えーーー。ムリムリ。ムリです」
「ムリじゃない」
「なんでです?」
「私はナヲちゃんが目覚めたら、学会から完全に引退するから。大学の名誉教授職も返上するよ」
黄 紀子が幽霊の大群にでも出くわしたような、形而上のピンチに出くわしたかのような、抽象的な表情で固まる。
「今回の一件でよく分かった。もう、私もナヲちゃんも人生のロスタイムへ突入しちゃった。だから、この先は二人で終活に努めることにするんだ」
「・・・」
「本当に最先端とか最末端な研究は、どうしても形而上学な側面から逃げられない。感覚で捉えられないとか、説明が付かないけれどそうなんだと分かるみたいな経験を避けられない。そう言うのは機が熟せばキチンと理解出来る様に、形而下学に納められるから、その場で真正面から戦いを挑まない方が良いと思うんだよ。個人的な経験によるとね」
「そんなもんですかねえ」
「そんなもんだよ」
結局、誰が、何が、何時、どんな手段で朝間ナヲミの擬体の仕上げ状態の注文を変えたのかは分からない。もし、全身全霊の全力で問題を追求したとしても判明する筋書きはないのだろう。
だが、森 葉子は、もしやと思う。思い当たりはあった。きっと、どうにも証明不能なほどに高度な偽装を何重にも施してあるんだろうけど。
それは。
朝間ナヲミの可能性から分岐したと言う殻を被った、ネットワーク宙へ無限に散らばった知性の一つか、二つか、全体の意思。
彼女等とも彼等とも言えない。人間の作り出した文明の片隅から自然発生した「隣人」の候補は、どの個体も必ず二つの習性を共有していた。
一つ目は、森 葉子を好むこと。
二つ目は、根源である朝間ナヲミから与えられる動機を常に渇望していること。
だったら、森 葉子の都合で朝間ナヲミの治療を成功させる手助けをしてくれる。
それなら、朝間ナヲミが望めば、朝間ナヲミ復活依頼と言う動機を与えられさえすれば、朝間ナヲミの治療を成功させる手助けをせずにはいられない。
それは、一つ目と二つ目の条件が同時に満たされる必要がある。過去の朝間ナヲミによる神懸かりの事例では、最初のいくつかを除いては、必ず満たされていたのだ。
だが。と森 葉子が考える。この辺りは実に微妙なバランスの上で成立している、この世界、と言うより人間が作った社会のバグの様なものだ。何時消えても、また、何時復活しても不思議はない様な、実在証明が出来ない習慣だ。
ーーー理には反する習慣。
だったら、深く追求するべきではない。
奇跡とか奇蹟とか不可思議とか神業とか言って適当に片付けてしまうべきだ。
泡沫夢幻として受け容れるべきだ。
実際、森 葉子の知るところではなかったが、航空自衛軍の飛行開発実験団が死に物狂いで作り出した「第二世代・新世代情報統合システム」を、どういう訳か半世紀が過ぎた今でも量産化にこぎ着けられていないと言う「奇妙」の原因もその辺りにあった。
よく分からない物をありのままに受け容れる。
それで良い。
不安を不安のまま。
未確定を未確定なまま。
あやふやな状態を日常と受け容れられる度量や器量が、22世紀の男達や女達には不足がちだったのだ。
白黒はっきりさせたがるのは、道程と初叙だけで十分である。
社会や人生に深みを持たせるには、グレイゾーンとの共生が不可欠ですらある。
何、焦ることはない。投げられたサイコロはいつかは動きを止めて、最後には必ずたった一つの「目(面)」を出してくれる。だから、焦らず、じっくりとその時が来るのを待とうではないか。
焦っても良いことはない。時の流れを早くすることは絶対に出来ない。場合によっては時の流れをくじいてしまい、サイコロの「目(面)」が出るタイミングを遅らせてしまうかも知れない。
何故なら。
ーーー機が熟しさえすれば、どれほどの難解でも、誰にでもキチンと理解出来る解答へと必ず辿り着けるのだから。
その時には、極めて自然な流れで、難なく形而下学に納められるから。
今は、それ。例えば、朝間ナヲミの生体脳の再建技術など。成功はしたけれど、そのメカニズムが全く解明出来ないなんて言うイベントをヒステリックに拒否せずに、完全な理解を後回しにして、ありのままに受け止められる社会的覚悟が求められる。
何故、解明出来ず、理解も出来ないのか? それは現在の科学大系に取り込める基礎理論、将来から振り返って時期的な適当さなどの条件が満たされていないからだ。
だから、未来技術への扉に手を掛けながら、見える可能性は、いや、見せる可能性は扉の向こうにある未来のの片鱗程度に留まってしまうのだ。
ーーー空花水月。まだ、人の手も足もその域には届かないのだから。
森 葉子は、人格を持つ運命の神の存在は検討に値しないと感じている。しかし、人間の価値観ではまだ受け止められない、超感覚的な原理を用いて思惟するシステムの存在ならば検討してみても良いと感じている。
森 葉子の想いを一言で言い表せる都合の良い言い回しが、日本文学にはある。
ーーーいつか、必ず、点と点がつながり線となる。
問題は、その「いつか」が人には分からないことである。しかし、それに対して、それを理不尽と捉えて戦いを挑むのは不毛である。人に出来ることは「いつか」を待つ事だけなのだ。
森 葉子は、弟子への最後の授業を間もなく終了させる。
知恵は、伝わったかも知れない。伝わらなかったかも知れない。しかし、それが黄 紀子の手に余るものだったとしても、「いつか」の未来に誰かへ伝わることだろう。
何故なら。
いつか、必ず、点と点がつながり線となるからだ。
人間と言う点。森 葉子、朝間ナヲミ、黄 紀子、そしてこれから生まれる誰かと言う、点と点と点。無数の点がつながればそれは線となり、価値観が一次元から二次元的な高みへと昇華する。
二次元の美少女キャラを三次元へと昇華出来る技術は、20世紀にはなかった。だから、その夢に挑んだ多くのモデラー達は、図らずも無数の"邪神"を世に解き放ってしまった。
だが、今はどうだ。21世紀になり、その夢の技術を秋葉原の人類は獲得している。二次元由来の美少女キャラを、破綻のない形状で三次元化出来るになっている。しかも、安価で。
その行幸を求めて、世界中の普通の人々が秋葉原のブックオフでその実現した夢の成果を買い求めている。
まあ、なんだ。焦るな。「いつか」の未来にそれは実現する。
そのうち、ヴォーカロイド実装のロボットは普及する。主婦達が近所公園のドッグランに集まって愛犬自慢でマウントを取るように、マスター達が着飾らせたパートナーを連れて秋葉原で集まって交流する・・・なんて未来もきっと来る。
ーーープラダを着るのは悪魔ではなく、アナタのミクになるかも知れないのだ。
「いつか」が何時なのかは知らんが。
話を戻す。
22世紀に生きる森 葉子としては、本音では自身の業績を継ぐ後継者は居ても居なくても良い。それは、彼女の業績はすべて一つの目的を実現する為だけに始まり、積まれ、重ねられたからである。
すべては、朝間ナヲミの為である。
2030年代、初期の擬体は技術的に熟成されておらず、不具合に起因するトラブルが多かった。また、頻度の高い定期メインテナンスとそれに伴うコストの高さなどの問題を抱えていた。
朝間ナヲミと無理なく人生を重ね、添い遂げるためには、自らが擬体医師となって、数々の問題を一つ一つ丁寧に解決して行くしかなかった。また、自身がそれだけの技術を獲得出来れば、便利さ余って朝間ナヲミが自分の元から離れられなくなる。何てと言う邪な念も多分に混ざっていた(この種の利己的感情は人の身であれば避け様もない)。
だから、朝間ナヲミ亡き後であれば、擬体関係の技術など、根本的にどうなっても構わないのだ。
ただ、付き合いの長い弟子の身を案じれば、弟子が困らない配慮くらいならしてあげたい。その程度の社会性は持ち合わせている。しかし、それだけに、弟子に全ての知恵を無理矢理に押しつけてから逝くみたいな使命感は掛けている。
弟子の代表であり、事実上の後継者と社会から見なされている黄 紀子は、その辺りの師匠の価値観を十分に理解してはいなかった。まず、何より、自己評価がさして高くもなかったので、自分が森 葉子の後継者候補の筆頭であると認めてさえいなかった。森 葉子にとって、"最も使い易いパシリ"でありたいと願っていた程だ。
「先生。擬体の外部シーリング終わりました。パッキング完了しました」
黄 紀子は、完全に人間と同様の外観へと整えられた朝間ナヲミの擬体を、視界ではなく、データとして捉えた。
「Hong、患者の擬体の最終チェックを実行」
森 葉子が、学部部長の部屋からくすねたややコストの高い取っ手付きの2つの紙コップへコーヒーを入れながら指示を出す。紙コップの片方に砂糖とミルクを入れて、これもまた学部部長の部屋からくすねた使い捨てのマドラーを突っ込む。
黄 紀子が、マドラーの突き刺さった紙コップを受け取る。事情を何も知らない者がその光景を目にすれば、年の離れた仲の良い姉妹に見えただろう(ただし、師匠の森 葉子が妹で、年相応の見た目である弟子の黄 紀子が姉と言う構図で)。
ーーー擬体の最終チェック終了しました。検査項目はすべて規定数値内に収まっています。起動条件を満たしています。
「じゃあ、アナタのタイミングで擬体を起動させて。生体脳と擬体の情報接続を実行。許可を渡す。Hong, You have control.」
ーーーI have have control. 直ちに擬体を起動させます。
Hongの最後の擬体制御を眺めながら、森 葉子と黄 紀子は、入れ立てのコーヒーを啜る。果たして、これで治療が終了するのか。即ち、朝間ナヲミは目覚めるのか?
森 葉子は思い通りに成るだろうと、それなりの楽観で事の成り行きを見守っていた。一方、黄 紀子は、「師匠の願いが叶いますように」と声には出さすに超常的な何かに祈っていた。
やがて、擬体の完全起動が確認された。これで生体脳ユニットの生体維持機能がスタンドアローン状態へと移行する。朝間ナヲミの擬体へ接続されていた全てのチューブや電線やデータケーブルが取り外される。
朝間ナヲミの擬体が作業台から、ストレッチャーよりは頑丈そうな移動用の車輪付きベッドへと移される。
ーーー患者を制限区域から一般区域へ移動させますか?
Hongは治療作業が全て終わったので、患者をクリーンルームから出域させるかと問うて来た。
「Hong、出域させて」
ーーー患者を出域させます。移動先はブロックB、3F、個室304号。輸送時間は推定で20分です。
「ありがとう」
ーーーお疲れまでした。
そこで、Hong森 葉子の研究室との優先的接続を解除した。
電子的にHongがいなくなると、物理的には何も変化していないにかかわらず、黄 紀子は研究室が寂しいくらいに静かになった様な気がした。
長かった治療が一段落したことに気付いて、黄 紀子はそのままぼーっとしている。気が付くと、森 葉子が研究室内の実験用の試薬や化学薬品を流す小さなステンレス流し台の水道の蛇口を全開にして、頭を突っ込んでいる。
「何してるんです。先生?」
濡れた髪にちびた石けんを擦り付けて、出の悪い泡で背中まで届く亜麻色の髪を洗っている。黄 紀子は、既に何度か手を拭いたタオルや、作業台上や床へこぼれた試薬を拭き取るための厚めのペーパータオルを出来る限り集めて走り寄る。
タオルとペーパータオルを受け取り、髪を拭き終わり、手ぐしで髪を解きながら、森 葉子は答える。
「恋人に会いに行くのに、三日徹夜して臭くなった髪ってのはダメよね」
「へ?」
「素っぴんなのは良いけど、汚くやれた自分は見せたくないじゃない」
「そんなもんですか?」
「黄ちゃん、どっかに埋まってるドライヤー探して。見つからないなら、熱くなるものなら何でも良い」
「あ、はい」
「急いで。久しぶりのデートまで残り20分しかないんだから」
黄 紀子は研究室内の戸棚を開けたり、作業台の上の山を崩したりして、ドライヤーを探す。
森 葉子は、状態がマシなブラウスと未使用の白衣を見つけ出して腕を通し始める。足下の素足をサンダルに一瞬目をやるが、横になっていればベッドの上からは足下までは見えないだろうと期待して、改善する努力を放棄した。
見つけ出したドライヤーのコードが焼き付いている事に絶望したが、コンセントへプラグを突き刺すと通電はしている用だ。黄 紀子は、おっかなびっくりとドライヤーのスイッチを入れる。何とか温風らしきものが出て来るのを確認する。
一応、アルコールランプ方ににアルコールを注いで、乾き尽くして固くなっていた芯にアルコールに浸し直してからバッテリー不要の着火機で火を付けた。途中でドライヤーが本当に焼き切れてしまったら、こちらへ切り替えるつもりだった。
森 葉子は動きが今市不安定なドライヤーと櫛で、師匠の髪を居念入りに梳かす。背後から眺めていると、ここ何年かで一番の気合いを感じる。
初めてのデートへ向かう少女の様な、全面的なやる気と、相反するような一目で分かる不安が後頭部からにじみ出ているのが分かる。
どんな言葉を口にして発破を掛ければ良いのか悩んでいると、森 葉子の方から軽口を叩き始める。きっと、何か喋っていないと不安で仕方ない。多分、ものすごく落ち着かないのだろう。
「さすがに下着は変えなくて良いよね?」
亜麻色の髪を櫛で持ち上げながら、毛根付近にまで温風を吹き付けながら、投げやりを装いながら応える。
「良いんじゃないですか? そういうのは帰宅してからどうぞ」
森 葉子は、左手の方の薬指に嵌められている銀のリングを眺めながら、一呼吸置いてから、ゆっくりとした口調で応える。
「うん・・・そうする」
15分後、何とか髪が整う。少し曇った鏡の前に立って、目脂が残っていない事を確認する。最後に、リップをグロスで仕上げ。唇になじませて指塗りで整える。
「うん、おっけー」
後ろから鏡を通じて、そんな少女的ロマンティックな風景を覗き込んだ黄 紀子は、年甲斐もなく感動してしまう。「先生何か可愛い」と声を掛けたくなってしまう。
森 葉子は、右手の方の薬指に嵌められている銀のリングをそっと外して、白衣のポケットの中へ忍ばせた。それは本来は朝間ナヲミの左手の方の薬指に嵌められているべき物だ。
ーーー目を覚ましてくれたら、もう一度プロポーズでもし直しながら嵌めてあげるつもりなんだろう。
だが、洞察した内容をたった今のタイミングで口に出すのは、「なんとなく」だが適当ではないと判断した。だから、口元がむずむずしてしまうのだが、頑張って黙ったままの態度を貫く。
きっと、黄 紀子は森 葉子よりもずっと「大人」の振る舞いができる女なのだ。
森 葉子は、一枚しかない鏡の前で、自分の顔を左右に傾けながら写り具合を確認する。
微かに頷く。
出発の儀式が終わった様だ。
鏡の前でゆっくりと立ち上がる。
「じゃ、行ってくる」
森 葉子は、そのまま振り返ることなく、左手を軽く振って、いそいそと研究室を出て行った。
一人残された、と言うか、突然に扱いが「ぞんざい」に落とされた黄 紀子は「現金だなあ」と笑った。笑えた。そして、「それじゃあ、自分の研究室へ戻ろうか」と考えた。だが、サドンデスな集中治療イベントからやっと開放されたと自覚した瞬間に、この一週間の疲れがどっと出て来た。
若くもないのに、15年ぶりくらいに段ボールハウスへ連泊してしまった。
ーーー年齢的に、もうこう言うの無理になっちゃんだなあ。
若い頃は、研究さえ出来ていれば、途切れ途切れの睡眠など何の苦にもならなかった。
ーーーでも、こんなのは今回で最後にしたいな。
後悔と反省を試みる。にも関わらず、黄 紀子は完全に寝落ちする寸前に、途切れがちな意識で、ここ最近に何度も潜り込んだ段ボールハウスの素晴らしさを久しぶりに思い出しつつあった。
あれはあれで良いものなのだ。徹夜続きと寝不足の末に論文を書き上げ、プリント or PDF出力の命令キーを押す。結果を確認せずに、そのまま床に崩れて寝落ちする。
長らく忘れていた、実際に経験した者同士でしか共感し合えない、あの究極の充実感。それとあの万能感。不覚にもそれらを実に久しぶりに思い出してしまった。
ーーーああ、ダメだ。もうすぐ意識が途切れる。
そんな仮眠に次ぐ仮眠だけで、今まで辛うじて保てていた集中力が、とうとう、ぷつんと切れてしまった。そう言う限界の読みどころ、若い頃に培った感覚までも復活しつつある。
ーーーしゃーない。
黄 紀子は、数歩の距離にある段ボールハウスまで移動するのを諦めて、そのまま、近くにあったソファーの書類を両腕で強引に押しのけて、それでもまだ何枚か残っている書類の上にそのまま突っ伏す様にダイブした。
そして、そのまま目を閉じて、盛大ないびきを立てて爆睡を始めた。
ーーー先生の好きな人が目を覚ましてくれると良いね。
そんな都合の良いことを現実でか、夢の中でか、どちらか分からないまま祈りながら。




