みつせがわのだくりゅう。 -13- // 2126年10月31日(土) PM08:30
超人的な俯瞰。
それは俗に言われる神の視点ではない。
犬や猫は犬や猫の様に察し、子供は子供の様に察し、大人は大人の様に察し、神は神の様に察する。
察しとは、いや、察しの質は。それを行う「者」の意識に酷く左右される。
意地の悪い言い方をすれば、馬鹿は馬鹿の様に察し、賢者は賢者の様に察するのだ。
馬鹿と賢者。そして、大人と神。それらの間にはアンナプルナI峰頂上とダウラギリ峰頂上に対する谷底までの落差と言うおそらくは地球でもっとも深い谷よりも広大な、精神的な高度差があるに違いない。
だが、渓谷の底をなぞって流れるカリ・ガンダキ川(※1)の水面からはアンナプルナI峰頂上とダウラギリ峰頂上の両方を望む事は出来ない。
つまり、人の身であれば、神の背すら拝めない。正確には、そこに背があったとしても気付けないのではないかと疑ってしまう。
それでも、その時、朝間ナヲミは超人的な俯瞰を手にしていた。
足下で起こった。起こっている。物事の全体像を把握していた。
しかし、大局的かつ客観的に捉えられていたとしても、把握した英知を持って眺めている物事の全体像へ干渉する手段は持ち合わせていなかった。
客観性と呼ぼうが、メタ認知と呼ぼうが、干渉出来ないのであればそれは有っても無くても同じである。
少なくとも客観性やメタ認知では、その様に捉えるしかない筈だ。
ーーーもしかしたら、神なんて何やらが有るならば、こんな気分で人界を見下ろしているのかも知れない。
その時、朝間ナヲミは、私立松島大学の医学部付属、サイバネティックス課、森 葉子名誉教授の研究室の天井付近に漂っていた。
まるで、冬期の暖房の作る暖気の様に、多くの人間がいる床付近にではなく天井付近で滞留する様な暖気の様に、同じ所で浮かんでいた。
正確には、精神的な何かがその辺りに漠然と浮かんでいたのだ。
下方では、人生のパートナーとして一生を共に歩んで来た森 葉子が、自分の生体脳ユニットを納めた水槽が安置されたクリーンルームを遮る巨大ガラスへ顔を押しつけながら、「うっえ!! ごほ!! ごほ!! はー!! はー!!」と苦しんでいる。
それを察知しながら、床へ降りて森 葉子を支えたり、抱きしめたり、色々なアレを出来ない事にヤキモキしていた。
せめて、寄り添っている事を絶対に察知されないのならば、ちょっとしたイタズラでもしたいと思い付いたりする。しかし、その直後に森 葉子の心情を慮って、自己嫌悪に深く落ちる。
弟子が心配そうに自分のパートナーを、精神的な距離で、少しだけ離れて見守っている。
「あ、邪念」
朝間ナヲミは、黄 紀子は森 葉子に対して微かに黒い羨望を抱いた事を見逃さなかった。
しかし、よく考えてみれば、それは彼女自身の立場であっても、共感出来なくもない「どうして?」だった。
森 葉子は、何故か、「物」に愛される。朝間ナヲミが長い時間を掛けて付き合いを重ねて来た「物」、例えば、乗機の三菱・XF-2Bに始まって、統合マネージングシステムの「YOMI」や「KOYOMI」。更に、何となくネットワーク世界を漂っている捉えどころの無い「知性?」も、無条件で手を差し伸べている気配がある。
朝間ナヲミには確信出来ないが、それらの無限に乱立すると覚しき「知性?」の群れは、森 葉子に言わせると朝間ナヲミ自身の可能性から分岐した、野生のネットワーク「知性?」であるらしい。
朝間ナヲミには、自分が分岐したと言う認識はないが、たびたびしばしば、パートナーの言うところの「知性?」から、人生の節目節目で接触を受け、援助を受けているそうなのだ。
「だったら、今こそ助けてほしいな」
朝間ナヲミは、まだ存在を認識出来ていない、野生のネットワーク「知性?」とやらの手を借りてでも、一秒でも早く世界へと干渉できる立場、人間界でのプレイヤーの一人としての権限を取り戻したいと願った。
だが、そこで一つの可能性に気付いた。もし、自分が、百合子さんの言う通りに早めに森 葉子の人生から退場すると言うのであれば、その後は自分の可能性から分岐した「知性?」に何かを託せるのではないだろうか? と。
何を託せるのかは、どうにも腹立ってしまって、深く検討の余地がなかった。だが、自分がいなくなった後もパートナーの身の安全を確保し、退屈などさせないように寄り添って生きる。本来ならば、自身がそうであるべきだが、それが叶わないと言うのならば、自分が認められる「騎士」を置いていきたい。
そんな事を考えていたら、森 葉子が奇行を始めた。
「あ、やめて」
森 葉子が、防弾×対生物コートを施してあるガラスに自分の頭を打ち付けている。それを見て、本当に一秒でも早く人間としてやり直せるようになりたいと願わずにはいられない。
朝間ナヲミは、自分の苦労や苦痛にはそれなりに鈍感であるが、森 葉子や二人の娘達のそれらに対しては実に敏感であった。
朝間ナヲミは森 葉子へ向かってを手を伸ばそうとする。しかし、手が伸びているのか、それどこか、手があるのかどうかすら疑わしくなってしまう。
「ちょっと前まで賽の河原にいたっていうのに・・・どうして今はここにいるんだろう」
朝間ナヲミとしては、百合子さんから放置処置を受けた後、一人で、体育座りをしながら、目前を流れる三途の川を眺めていた。
ーーーそれ意外に、物理的に出来ることがなかったからだ。
しかし、精神的には出来ることがあった。それは思考。考える事だけは自由だった。ただし、外部へと接続された記録ストレージや計算依託サービスは利用出来ない。あの世とこの世の狭間は、どうやらデータ通信の「圏外」であるらしい。
それから、あの世とこの世の狭間は、地球地表、地球宙空、地球低軌道、地球高軌道、月周回軌道、月の裏側、ディープスペースネットワーク(DSN)からも完全に引き剥がされた「位置」にあるのだろう。
いや、もしかしたら、あの世とこの世の狭間へは有機物しか持ち込めないのかも知れない。だから、データ通信用のアンテナを自分は実装していないのかも知れない。それなら、以上の仮説は全て無意味となる。
朝間ナヲミはそんなどうでも良い検討を重ねることで、膨大なヒマを片っ端から潰していた。
そんなことをしていたら、気が付いたら、賽の河原ではなく、森 葉子の研究室を漂っていたのだ。
そして、自分の本体である筈の、どこまでが自然由来であるかは微妙だが、唯一残された臓器=有機物で構成された身体である生体脳を納めらるチタン製の頭蓋と、自分のパートナーの慌てがちな行動と、師をなんとかサポートし続ける弟子達が繰り広げる漫才を、彼女等の頭上から見下ろすという・・・超人的な俯瞰図を見せつけられていた。
「・・・?」
いつの間にか、森 葉子が、まだ覚醒していない自分の生体脳を全身擬体へと封じようとしている。
ーーー何時もとは手順が違う様な?
朝間ナヲミは突然に、何やら急激に眠気の様な、意識の滞りを感じた。
意識の目を開いていることが難しくなり、やがて、スマホを眺めながらベット上で寝落ち、みたいな自然なシャットダウンを余儀なくされた。
朝間ナヲミによる俯瞰は終わったが、それでも研究室内の師弟は、何やら、あーだーこーだとコミュニケーションを続けている。
観察者による測定行為がければ世界は確定しないと言う、コペンハーゲン解釈的な確率の分布はこの場では成り立たないようだ。
脳を通して知覚的に獲得・成立する「主観」の中にしか世界は存在しないと言う、ショーペンハウアー的な観念論は、客観的な世界は認知不能と言うこともなさそうである。
全ての事象を包摂する単一の『世界』は存在しないと言う、無限に平行する多様な領域の相重なるマルクス・ガブリエルの新実在論であっても、『世界』の外から覗いている筆者や作者と言う超人的な俯瞰があるなら、哲学的に否定出来そうだ。
おそらく。この『世界』は単一であり、「主観」だけでなく「客観」とも相重なっていて、筆者や作者と言う超人的な俯瞰がある限り単一である。
朝間ナヲミが見て有ろうが、見て無かろうが、『世界』は存在し、この世界に時間経過の概念が実装されていこうは、勝手に、自動的に進んで行くのだろう。
マルクス・ガブリエルの「世界は存在しない(※2)」なんて悲観(的な推察的主張)は、地上に有ろうが無かろうが。人間社会に広く認知されていようがいまいが。人間の社交的活動はそんな思想には一切関係なく、ただただ前へ前へと進んで行くのだ。
哲学や思想は人間の社交的活動のブレーキにはならない。なりえない。なる能力はない。徒花として芽吹き、多くは花を付けることなる枯れてしまう。
哲学や思想は人間の社交的活動を止める事は出来ない自動車のタイヤの転がり抵抗となる、小さな石粒にもなりえない。結局は、摩擦率ゼロ。透明的な幻でしかないのだ。
我々の思いに貴賤はなく、善悪は無く、募る思いには多い少いも重い軽いはなさそうだ。世界へはプレイヤーとしては干渉できる。だが、そう言った理由で世界の理への干渉は、どれほどに努力をしても腕は届かず、空を切る。虚しくも、宙を泳ぐのが関の山だ。
だが、それでも、積極的に両腕に宙を泳がせる者がいる。泳ぐ両腕を止めない者がいる。
それが、朝間ナヲミであり、森 葉子であり、世界ではなく自分自身を前へ進め様と藻掻き足掻く者達の特徴である。
そうでない者達から見えれば、無駄で無意味な努力で滑稽な「生き方」であるに違いない。
朝間ナヲミであり、森 葉子やその他のよく似た人々が、積み立てた努力に成果が見舞わないと知れば、そうでない者達の多くは大急ぎで駆け寄り、揶揄したり、冷笑することで、自らの生き方の正しさを確認して、心から安心しようと努めるだろう。
そして、朝間ナヲミであり、森 葉子やその他のよく似た人々は、そうでない者達に対して圧倒的に少数派であることから、多数決で評すればそうでない者達の価値観の方が圧倒的に「優勢」でさえある。
だから、朝間ナヲミであり、森 葉子やその他のよく似た人々=何かと成そうとする人々は「劣勢」であり、「優勢」に対して対抗する手段を持ち合わせていない。
しかし、それでも、彼等はそう易々と生き方を変えようとはしない。何故なら、その種の希有な人々は、「ただ生きる」のではなく「どう生きるか」が重要であると言う価値観を捨てられないからである。
故に、彼等は、客観的には愚かな不幸者であり、主観的には運命に従順な冒険者なのだろう。
一つだけ確実に、証明済みの事実がある。それは冒険者の歩いた後に、跡にだけ、道と言うのは成立する。社会は、遅かれ早かれ、客観的には愚かな不幸者の所業へ右へ倣えすることになる。
歴史、習慣、常識、文化、正しさ、モラルはそうやって繰り返しアップデートされて来たし、これから先もリノヴェートされて行くだろう。
だが、将来、その流れが途切れる時が来るだろう。
その時こそ、人類と生き物の群れの寿命を迎える時である。
まあ、朝間ナヲミや森 葉子がその悲劇を直視することはありえないと確約出来るほどに先の未来の話である。
※1= ガンダキがネパール語で「川」なので、この表現だと正確に日本語へ訳すと「カリ川川」となるのはご愛敬。なお、カリはカーロ(黒色)の形容詞(だと思う)。だから、カリ・ガンダキは「黒川」と言う主旨の言葉である。
※2= イケてる論文を読んだのがイケなかった。 https://www.zenkokuyuiken.jp/wp-content/uploads/2024/06/39bunkakai3_resume_nakashima.pdf




