みつせがわのだくりゅう。 -12- // 2126年10月31日(土) PM06:30
朝間ナヲミの生体脳。
それはついさっきまでは、豆腐と大して変わらない極ありきたりのタンパク質の塊に過ぎなかった。
有機生命的には動物性タンパク質である。
まあ、インドのノンベジ家庭でよく食べられている羊の脳のカレー(※)なんか、食べてみるとちょっと癖の強い頭部かな? と言う味と食感と風味である。
豆腐も脳みそも栄養価の視点で語れば、大して変わりがない訳だ。
だが、今、水槽内に吊るされたチタン製頭蓋の内容物は、私立松島大学の医学部付属病院が世界に誇る高効率、新世代ではなく、新構造の統合マネージング・システムである「Hong」が発信した命令分によってある種の普遍的価値を取り戻そうとしている。
普遍的価値を取り戻す第一歩。それは電気信号、電波信号である。「Hong」の管理下で、シナプスで神経伝達物質分泌命令をカットしているピコ/ミュー・マシンが動き出す。
伝達物質分泌命令をカットを停止。
伝達物質分泌命令を最低限で誘発する物質の生成を始める。
ナノ・マシンがシナプスで沈殿している不要物質の排除に入る。
不要物質が血管壁を通過し、血流へと放出され始める。
シナプスで神経伝達物質が満たされ始める。
レセプターが最初は非効率で、やがて効率を上げて伝達情報を受け容れ始める。
約10日ぶりに、生体脳を構成する神経が各所で火花を散らし始める。
朝間ナヲミの生体脳は、再構成を行う為に意図的に人工的な昏睡状態下にあった。
ーーーこれは、元F1ドライバーのミハエル・シューマッハがスキー事故で深刻な頭部外傷を折った際に採られた医療方針に近い。
ミハエル・シューマッハは体力回復優先の為だったらしいが、朝間ナヲミの場合は生体脳が保持している情報の劣化を防ぐ為(当時に低レートで確実に抽出する為)である。また、再構成された生体脳へ「意識」を出来るだけ低いストレスでパス・オーバーする為でもある。
これは走行中の自動車が停車することなく、走行状態にあるままタイヤ交換を行うほどに無理と無茶でまみれた治療だ。だから、せめて自動車が走行中の路面を出来るだけ起伏や凹凸の少ない舗装路へ誘導してから行いたい。
ーーー何も、好き好んで発展途上国でおなじみのタイヤ一つ分がまるごと落ちる凹やタイヤがパンクするどころか客室床を貫く排気管やドライブ・シャフトを一発で折る凸が豊富な路面を走っている時に走行状態にあるままタイヤ交換を行う必要はない。
「間脳、覚醒しました」
「視床下部は? 欠伸してる感じ?」
「戸惑ってる感じですね。ここはどこ、わたしはだれ? 的に」
「「Hong」。ドーパミン分泌延期。アドレナリン分泌は予定通りに」
ーーードーパミン分泌延期受領。それ以外は全て予定通りで進めます。
「いいこね」
森 葉子は、水槽に浮かぶチタン製の脳骸から目を反らさない。
「Hong」への褒め言葉か、それとも自分の思い通りに再起動プロセスを進んでくれる朝間ナヲミの生体脳への評価なの。いずれかは判別が付かない。おそらく、本人もそこまで深く意識して漏らした訳ではないだろう。
おそらく、喫煙習慣のある者が、気が付いたらタバコを加えて火を付けていたみたいな、緊張ほぐす為に無識で生活習慣になぞって行動しただけである。
朝間ナヲミが宿る脳骸は、時々水槽内の液体を汚す。ナノ・マシンが脳骸内で収集した不要物の全てを液体内へ放出しているのだ。脳骸につながれたチューブは、新鮮な血液とナノ/ピコ/ミュー・マシンと神経伝達物質を優先的に送り込んでいる。本来なら、チューブの「下り」で澱を回収する。しかし、今はその余裕が持てないので、身近な環境への放出を行っている。
「脳幹と小脳が自律レベルで機能を回復。ナノ/ピコ/ミュー・マシンによる調整スタンバイです」
「黄ちゃん、「Hong」。脊髄、及び第二小脳のロック状態維持」
ーーー脊髄、及び第二小脳のロック状態維持を続けます。
「側頭葉、特に海馬の状態は?」
「上りの五感情報を探しています」
「「Hong」。海馬と扁桃体の覚醒具体に注意。同調させて。制御権をHong」へ。It has a control.」
ーーー側頭葉に限り制御権を受領。Hong has a control.
黄 紀子は、恩師である森 葉子へこの価値観への不満を持っている。森 葉子は、パートナーが完全に身体を人工物へと置換していることから、「人」と「物」の区別が極めてあからさまである。
黄 紀子は、まだ生まれてもいなかった時代、この件ではかなり解放的だった日本国においても、完全擬体保持者への無自覚な差別は顕著であった。また、差別される側の完全擬体保持者にも、自らを本当に「物」ではなく「人」であるのか? と言う葛藤が強かった。
そんな時代の名残で、森 葉子はパートナーが「物」ではなく「人」であると言う自己評価を保てる様にと、「物」であると評価する「Hong」を「It」と呼ぶ。決して「You」とは呼ばない。
黄 紀子としては、せめて「They」と呼んであげても良いのではないかと感じずにはいられない。しかし、これは人間と生き方の違いであるので、多用性を武器に他人の多用性を封じることは許されないとも感じてもいる。
きっと、感情的な評価(快、不快)ではないのだ。少なくとも扁桃体や海馬がもたらす認知の方ではなく、情動の方のイシューなのだろう。
黄 紀子は、森 葉子の今の指示に対する拘りは、見当識障害の一種である「相貌失認」への予防と捉えた。実際、森 葉子が組んだ治療スクリプトには紡錘状回顔領域、後頭葉顔領域、上側頭溝の認知機能構成の連携を重視している様に見えた。
これは、おそらく、パートナーから、目覚めた直後に「あなたはだれ?」と言われることが耐えられないからだ。見当識障害は、第二小脳経由の外部知性による意識補正で修正出来る。しかし、森 葉子としては、長年のパートナーの生体脳が自分を認識せず、外部知性による意識補正で認識すると言う無情を許せないに違いない。
黄 紀子は感じる。
ーーー令和の価値観。
森 葉子と違って、何世代か若い者達にとって、生体脳固有の意識と外部知性で共生された意識の「差」は大した問題と認識していない。若者にとって、生体脳固有の意識をパンツも履いていないプライベートな状態に過ぎす、外部知性で共生された意識は正装して意中の異性を口説き落とす為の余所行き状態である程度の「違い」でしかない。
ーーー素っぴんとフルメイク。いずれも紛れもない自身である。それと同じ感覚。
「大脳基底核。上り情報を探しています」
「「Hong」。大脳基底核付近を海馬と扁桃体と同じ状態に維持」
「大脳基底核付近、覚醒具体を海馬と扁桃体と同じ状態に抑制します」
森 葉子は、朝間ナヲミの本来は朝間ナヲミの腕に巻かれているべき航空時計の針へ一瞬だけ目を反らす。いつの間にか1時間以上が経過していた。
「「Hong」。前頭葉の状態は?」
実は、位置的にはおでこの上に当たる、類人猿種が持つ巨大な脳部位、前頭葉こそが生体脳の再構成の「肝」だ。これが上手くいかなければ、今後膨大な時間を費やして、ナノ/ピコ/ミュー・マシンを使った修正作業を続ける必要が生じる。
作業の失敗は、最悪、意識を発生・生成させられない事態に直結するかも知れない。
生体脳と言う臓器は、完璧な器へ復元するだけでは済まない。正しい手法で、正しい段階を踏んで、正しい環境で復元する必要がある。そして、何が、どれが、どうすることが正しいのか。それは今はまだ誰も知らない。何故なら、先駆者はこの分野ではまったくいないからだ。
「覚醒具合のバランス取りにもう少し時間が掛かります」
「「Hong」。人工髄膜にクッションの状態は?」
ーーー硬膜、くも膜、くも膜下腔は完成。軟膜との接触部も規定値に達しています。
「「Hong」。アストロサイト、再確認」
ーーーフィルター効果は規定効率を維持しています。
「先生。グリア細胞レベルでバランスが規定値に到達。アストロサイト、オリゴデントロサイトは完全に再起動。上位細胞はミクログリアは待機状態。クログリアはナノ/ピコ/ミュー・マシンを止めれば機能を開放出来ます。残りの4つも再起動OKです」
「「Hong」。再確認。前頭葉の状態は?」
ーーー前頭葉覚醒準備完了。
「・・・」
森 葉子は、息を止めた。正確には息をするのを忘れてしまった。水槽内で吊られている朝間ナヲミを生体脳を見つめたまま、目を大きく開いたまま、完全に黙り込んでしまう。
黄 紀子は、恩師の心持ちをそれなりに理解している。だから、声を掛ける勇気。長年のパートナーとの再々の可能性をチップをベットする、一世一代のギャンブルへの参加を促す責任を持ちあぐねていた。
しかし、森 葉子カラ「It」と呼ばれる「Hong」は、機械らしく空気を読まない。事前に書かれているスクリプトに従って、黄 紀子の恩師に対して、何の遠慮も思慮もなしで「どうすんの? やんの? やんないの?」と言う問いを投げかけた。
ーーー各部再覚醒準備完了。生体脳の再起動キーを使用しますか?
それを三回聞き流した後、森 葉子は凍り付いている自分に気付いた。そして、息苦しさも感じる。
「うっえ!! ごほ!! ごほ!! はー!! はー!!」
息をいなければ生きられないことを思い出して、急に深い呼吸を始める。唾が気管支へ入っていまい、悶え苦しむ。「It」はそんな人間らしい弱さに対して、極めて冷徹に詰め寄る。
ーーー生体脳の再起動キーを使用しますか?
その「「Hong」を振る舞いを、目前の、自分の研究室を朝間ナヲミの生体脳ユニットを納めた水槽が安置されたクリーンルームを遮る巨大ガラスへ倒れ掛かりながら、森 葉子は苦笑で受け止めた。
「「Hong」。生体脳の再起動キーを使用する」
ーーー確認します。生体脳の再起動キーを使用する。追認しますか?
事が重大なので、「Hong」は規定に従って、「Yes」or「No」と言う最終確認を提示した。
森 葉子は、荒い呼吸のまま、まるで飼い始めたばかりの子犬のイタズラを発見した飼い主の様な複雑な表情を浮かべた。
「「Hong」。生体脳の再起動キーを使用する」
そう言明する。そして、最後の認証キーを発生する。
「制御権を「Hong」へ。You have a control.」
黄 紀子が、自分の耳を疑っていると言うあからさまが表情を浮かべる。
ーーーI have a control. 生体脳の再起動作業を実行します。
そして、黄 紀子はもう一度自分の耳を疑った。「Hong」が自らを「I」と規定したのだ。今まで、彼女が何度「You」と呼ぼうとも、自らを「It」としか規定しなかったに関わらずだ。
『先生はずるい』
黄 紀子は心からそう思った。外観ならば自分よりも遙かに年下に見える恩師を横目で一瞥して、自分のやましさに気付き一瞬で目を閉じる
一方、弟子から密かに妬まれた森 葉子は。そんな事実を残る生涯を通じて悟ることなく終えるのだろう。黄 紀子としては、その点は妬ましいのではなく、自分の個性には極めて「足りない」属性であると再確認し、妬むと同時に憧れもした。
そんな森 葉子は、無邪気にも、ただ、強い期待と重い不安に満ちた視線を朝間ナヲミの生体脳ユニットへ送り続けていた。
ーーー早く起きてくれないかな。
そんな少女のような想いを水槽の中へ向けて募り続けていた。
※= カリフラワーと一緒に炒めるととても美味しい。ギディ・タルカリね。




