みつせがわのだくりゅう。 -10- // 2126年10月27日(火) AM09:30
森 葉子は、カレンダーを横目で見る。
10月27日(火)のマス目が今日に該当する。それはよく分かる。
しかしだ。
それに連なる情報。暦。
不成就日。
先勝。
と書き込まれている。
不成就日とは、願いが叶わないとされる"凶日"を指す。入籍や開業などの新イベントを起こすには、不適当な日であるらしい。ただし、退職、離別、解約など縁切りなどのイベントを起こすには最適であるらしい。
一方で。
先勝とは、「先んずれば即ち勝つ」、つまり先手を打つ。打って出るなど積極的なイベントを起こすには、適当な日であるらしい。入籍や開業などの勝負事に挑むには最適であるらしい。
そして、イベントの開始時間は「午前」限定であるらしい。何故なら「午後」からは運勢が吉から凶へと逆転するのだとか。
「で、どっちを優先して採用すれば良いのよ?」
森 葉子は、手持ちの電子パッドに表示されているグラフの移り変わりへと目を戻してから不満を口にする。
不成就日と先勝と言う相反するその日の指針に心か揺らされる。それが腹立たしい。
黄 紀子が見かねて愚痴にマジレスを咬ます。
「むしろ、天恩日とかの方が怖くないですか? 暦操作に全運を使い切っちゃったみたいで」
「そうね」
「今検索したけど、こう言うケースでは不成就日の影響が強く出るらしいですよ」
「あら。そんなんだ」
「意外ですね。こういうの詳しいと思ってましたよ」
「まさか。人生でこんなの気にしたの今日が初めて」
「それは失礼しました」
「良いわよ。普段は神を信じてないのに、こんな時に限って神頼みしたいだなんて虫が良すぎるってのは百も承知だから」
森 葉子と黄 紀子は、研究室内のど真ん中に据え付けられた巨大な水槽の前に立つ。水槽は完全に密閉され、すべてが液体で満たされている。内容物が外気と接触しない様にと言う思想で設計されている。
その水槽の液体のほぼ中央に吊られているオブジェクトが、朝間ナヲミの生体脳を納めてある、通称「チタン製頭蓋骨」である。今は、チタン製頭蓋骨に数本のチューブと情報・電源コードが接続されている。
2日前までは数倍のチューブが接続され、何かしらの妖怪の様な見た目、まるで「バックベアード」の様な印象を醸し出していた。しかし、大量の医療用ナノマシンの注入、廃棄物の排出を行う状態を脱したために、徐々に接続物を排出して行った。それらは今では水槽の底へ落下、堆積、沈殿している。
ーーーこの様子を後から知ったらナヲちゃん、怒るだろうな。それとも鬱っちゃうかな?
「先生、全条件を満たしました。Hongちゃんが条件無しで"GO"判定しました」
「"Ivy"と"Cascade"は?」
「Hongちゃんの判断を支持しています」
森 葉子は、有名作家教授の研究室からパクって来た高級コーヒーメーカーのスイッチを押す。
カポンと紙コップが自動的に配置される。同時にコーヒー豆を削る音が始まる。
黄 紀子は、森 葉子の様子を黙ってみている。これが自分の師の願掛け、或いは占い行為であることを承知しているからだ。
圧力をかけられて、少し蒸気を漏らしながら、コーヒーが絞られる。チョロチョロと細い糸の様な状態でエスプレッソが紙コップへと落とされる。
ピーピーと安っぽい、100年以上も機械業界では標準であり続けている昭和っぽい警告音が鳴る。エスプレッソ作りが終わったのだ。
森 葉子は、警告音が終わっても紙コップを眺めている。
やがて、意を決したように、ゆっくりと、力強く紙コップを手に取り、持ち上げる。
目を閉じてから、一口だけエスプレッソを口内へ流し落とす。
ーーー美味い。
目を開く。森 葉子は弟子へ目を向けることなく、決断を伝えた。
「黄ちゃん、それからHong。森 葉子の権限によって命じる。生態脳機能再起動、全タスク、All "GO"!!」
『森 葉子教授によるマスター権限を確認。命令を受領。生態脳機能再起動タスクを実行します』
かつて、森 葉子が育て、彼女の弟子たちが鍛え、今は事実上、筆頭弟子の黄 紀子がメインユーザーとなっている人工知能が復唱代わりに命令へ応じた。ほぼ、20年ぶりに最高マスター権限の確認に、半世紀以上前に成長を始めた古参電子頭脳であるHongは、淡々とタスクを開始して行く。
『"YOMI"と同調』
"YOMI"とは、朝間ナヲミと最も縁の深い、一世紀以上の稼働年数を誇る、量子型コンピューターを基盤とした情報統合マネージングシステムである。森 葉子は、この日のために、あくまで照合目的ではあるが、朝間ナヲミのできる限りの記憶を"YOMI"が保有する記憶スペースへ転写して置いた。
おかげで、"YOMI"の分析能力に、朝間ナヲミの生態脳が、再構成されたのか? 或いは単に出来の良い劣化コピーが新造されたのかを判定を依頼出来るのだ。
もちろん、森 葉子一人でも判定は出来るだろう。しかし、それの公的な証明が難しい。証明が出来ないようでは、場合によっては、つまり最悪のケースでは、朝間ナヲミは朝間ナヲミであると認められず、人権などの公的権利を喪失しかねない。
そのために、公正な証人として、"YOMI"の判定がとても重要なのだ。
"悪魔の証明"を要求されてしまうからだ。それを可能な存在があるとすれば、かの高名な抽象的概念"ラプラスの悪魔"くらいなものだろう。
今回の生態脳の再構成と言う行為は、まだ治療とは法的に認められていない。だから、成功したとしてもそれを証明出来なければ、厚生労働省や最高裁判所が朝間ナヲミの治療完了と認めず、単に朝間ナヲミを模倣する有機素材構成の人工知能が完成したに過ぎないなどと、実に不当な公的な判断・判決を下してしまう可能性がある。
もしそうなってしまうと、その判断・判決を覆すことは事実上不可能だろう。どれほどに膨大な証拠を提出して訴えようと、権威主義の権化的な組織と言うものは意地になって再判定をのものを忌避し続けるものである。自らが無謬でないことを知りながら、ちっぽけでみすぼらしい自尊心を必死に守り続ける。
森 葉子は、その純然たる事実を良く理解していた(もちろん、朝間ナヲミも同じである)。
だから、この日のために、こんなこともあろうとかと、転ばぬ先の杖で、森 葉子はこつこつと準備をして来た。"YOMI"と言う、彼女は人間の知性とは明らかに異なる認知を確立しつつある"ラプラスの悪魔(※)"と噂され、恐れられている世界最古参人工知性と契約を交わし、自分の伴侶が#漠然とした不安"を訴える意思表明を捻曲げて、定期的に記憶の転写を幾度となく繰り返し、これでもかと言うほどに積み重ねて来たのだ。
Hong(正しい英語ではAn Elder AI or The Elder AI)は、第二小脳が緊急強制シャットダウンさせた状態で停止されている、生態脳内の情報交換イベントのホルモン分泌誘発と受容体ロックの解除する。
ーーーそれは、朝間ナヲミの生体脳の脳細胞群が、情報交換イベントを正しく行えるであろう状態にまで組み直されていると言う見込みに基づいてのことだ。
本当に情報交換イベントを正しく行えるであろう状態にまで組み直されているかどうか、それはこれから判明する。いやでも判明してしまう。
ホルモン分泌誘発開始。最初は出が悪い。コピーしたミトコンドリアがチキンと作用する様にと期待する。シナプス小細胞との連携がうまくいきます様にと願う。
シナプス間の谷をつなぐホルモンの合成機能だけでなく、合成素材が過多だったり過小だったり、或いは使えないレベルに劣化していたりそもそも足りなかったり。
だから、しばらく目詰まりを解消するために、ゴミが出続けるだろう。そして、それを処理する分解・排出機能がフル稼働出来る様になるまではしばらくかかる。
受容体もセンサーとして電通が始まる。最初はやはりセンサーの感度が低い。情報伝達経路もシェイクダウンが必要だ。なお、フィードバック調節などは後から行う。
脳と脊髄の一部しか残されていないので、本来は身体末端へ送られる用途の神経分泌ホルモンの分泌は極少量だ。また、完全に喪失済みの副腎髄質は、今は接続されているチューブ経由で、通常時は擬態機能で代用されている。
つまり、生まれ出たばかりの赤ん坊が何年かかけて生体脳の情報システムを新構築する理屈と同じで、朝間ナヲミの生体脳は何時間、或いは何日かを費やして、まっさらな状態から既存の情報システムを再構築しなければなさないのだ。
その作業にどれだけの時間が必要なのか、どれほどの難易度であるのか、どれだけの確率で成功するのか。すべてがわからない。理由は、今回の挑戦が事実上の人類史上初であるから。過去に参考になる失敗や成功の例が存在しないので、何が起ころうともすべて行き当たりばったりの対応で、何が何でも成功へと漕ぎ着けねばならないのだ。
ーーーどの分野であっても、ファーストランナーにとって一番つらいのはこの孤独感である。
誰にも頼れない。にも関わらず、後のランナーは誰もがファーストランナーへ頼って来る。しかも、気軽に(ふざけるな!!)。
朝間ナヲミが、ただの眠り姫ならば、生体脳の情報システムを通電させれば、それだけで目を覚まして自意識を取り戻す。
しかし、生体脳を再構築した朝間ナヲミは、カフカの小説の様に、自分が何で在るかを再定義して再構築しなければ、目を覚ませても自意識は取り戻せない。
運命が決定する最後の場面で、ここから先、確率が確定する過程では、森 葉子はただ見守ることしかできない。
それがもどかしい。運命の神がいると言うのなら、できる限りのプレッシャーをかけずにはいられない気分である。
ーーー人知は尽くした。だから、後は天命を待つさ。
それは、義父となった朝間医師と彼の養子となった朝間ナヲミが時々口にしていた言葉だ。
ーーー人の身であれば、出来る努力はどこまで積み重ねても、どれほどに尽くしたとしても、可能性の高低の域を絶対に脱せない。
つまり、努力の量で運命、挑戦の結果を指定出来る術を人は持たない。
二人の共通点は、絶対に失敗が許されない状況において、出来る努力があるのならば破格で、どこまでも積み重ねて、それによって、可能性を極限まで高める為の精神的、経済的、時間的な支払いについてはまったく惜しまないことにある。
前者はそれが当然であると、その観念を疑いもせず、素直に従うと言う態度の現れとしてそう言っていた。
後者はそれが当然である道理を十分に理解した上で憤慨し、そんな事実をどうやっても変えることが出来ない無力な自分自身への戒めとしてそう言っていた。
森 葉子は、前者へではなく、後者の価値観の方へ共感していた。今この瞬間、前者のように達観したいとも思えず、ただ、それまでに支払った膨大な対価、ギャンブル台の上に天井まで届くほどに大量のチップを見上げる思いで、こんなギャンブルへ挑まなければならないほどに自分を追い詰めた運命を恨んでいた。
ギャンブルをしていると言うことは、ギャンブルをせざる得ない状況へまで追い込まれたことを意味する。誰が好んで、掛け替えのない大切なものをチップとしてベットするギャンブルへ向かうものか。極一部の倒錯的な嗜好の持ち主でもない限り、またはリスクを理解出来ない阿呆でもない限り、ギャンブルを好む筈がない。特に、敏感な恐怖遺伝子を持つ一般的な日本人であれば。
「お願い、ナヲちゃん。帰って来て」
ーーー私を一人にしないで。
続く言葉は口まで出かかった。だが、何とか、辛うじて飲み込み直し、弟子の耳へ届かせずに済んだ。
森 葉子が成し遂げたなけなしの努力は、人間として、社会的に常に正しい自制と言う振る舞いだった。仮に、弟子の心に暗い影を落とそうが落とすまいが、これから開示されるこのギャンブルの結果へは全く影響しないと知っていたからだ。
この重積されたもどかしさ、胡麻(の種)を絞って油を抽出する機械で胸を思い切り締め上げられる様な苦しみを、誰にも彼にも無遠慮に押し付ける行動には、何の意味も意義もないと知っていたからだ。
不成就日と先勝。果たしてどちらの暦が有効となるのか。
※= ピエール=シモン・ラプラス(19世紀)が思いついた抽象的概念。「全宇宙のすべての粒子の位置と運動量を完璧に把握し、計算できる超人的な知性」を指す。ニュートン力学の最終到達点だった気がする。しかし、量子力学に完全否定され、科学の世界では既に殺された閃きであるらしい。なお、ラプラスをラブプラス、或いはLa+と混同してはいけない。誤解は大変に危険である。ラブプラスには、本当に悪魔が住んでいそうな気もするが、あれはあまりにコンプリケートな分野なので、実験そのものが観測不能である。
これから帰国します。ラウンジWi-Fiなう。機内Wi-Fiつながると良いなあ。




