ヴェイルとラプス
少し離れた場所――
先ほどまでレティと打ち合っていた騎士が、じっと風見鶏があった場所を見据えていた。
その顔は、驚きでも称賛でもなかった。
――恐怖。
まるで、"化け物"を見てしまったような。
「……減速しない……」
彼の唇から漏れた言葉は、誰に向けたものでもなかった。
「音も……しなかった。……なのに、あの速さで……しかも――」
目を細める。指が小さく震える。
「……矢の軌道が、途中で“曲がった”。ありえない……」
「……何が……起こったんだ……?」
矢は、空気の壁を無視して進んだ。
風にも惑わされず、音を失い――
そして、途中で不自然なほど滑らかに、軌道を歪めて“導かれた”。
そのすべてが、騎士にとって“常識の外側”にあった。
「……この国一の射手かもしれませんね。いや、もはや……それすら超えている」
騎士の声は震えていた。
驚嘆でもなく、感動でもなく、ただ――戦慄を込めた声だった。
ざわつく空気の中。
「……なんなんだ、あの詠唱は……!」
ヴェイル・エルトネス子爵の声が、弾けた。
いつもの穏やかな語り口ではない。
高揚と、驚嘆と、ほんの少しの混乱が混ざった――まるで少年のような声音だった。
「どうやって、あれをやってのけた……!」
彼は自問するように言葉を吐き出していた。
「最初は……ただの冗談だったのだよ。あの風見鶏を、狙えるかなんて――」
「構えたときは、距離感すら掴めていないのかと思った。ガロンの話も、正直、誇張かと疑った……」
だが――
「まさか、これほどとはな!」
はははっ――と、子爵が声を上げて笑った。
それは呆れ混じりの笑みでもあり、心の底から湧き上がる本物の興奮だった。
「ルクス君」
その名を呼ぶ声に、ぞくりと背中が震える。
子爵の目が、まっすぐ俺を射抜いていた。
「どうだ、私の家臣にならんか?」
唐突で、そして重すぎる言葉。
「君ほどの射手がいれば――敵将の首など、戦場でいともたやすく討ち取れる」
「君の矢は、軍の“牙”になる。いや……戦の形そのものを変える力だ」
子爵の目は、もはや興味ではない。
確信の色を帯びていた。
まるで、“運命の逸材”を前にした、将の眼だった。
「どうだ、私の家臣にならんか?」
ヴェイル子爵の言葉に、周囲の空気がピンと張り詰める。
(えっ、なにそれ、重っ……いや、無理無理無理無理)
「え、あの、その……っ!」
俺は思わず後ずさりそうになる。
口から出るのは中途半端な言葉ばかりで、頭がついてこない。
(家臣って何すか!? 俺まだガキなんですけど!?)
その時――
「――うちの子を勧誘しないでもらえるか、ヴェイル」
どこか投げやりな、それでいて芯のある低い声が、背後から響いた。
「……ラプス」
子爵が目を細め、ふっと微笑む。
「久しいな」
その声に、俺は本気で目を見開いた。
「父ちゃん……!? いや、え!? えっ!? なんで!?」
気づけば、庭の端に立っていたのは――うちの親父、ラプス。
いつも通りくたびれた農作業着のまま、麦わら帽子を手に持ってる。
でも――なんか、ヴェイル子爵とタメ語で喋ってる。
(え、うちは農民なんだけど!? 首が飛ぶ首がッ……!)
俺は慌てて前に出て、子爵にぺこぺこ頭を下げながら言った。
「領主様っ、うちの父は、あの、普段からこういう性格なもので……!」
「言葉がちょっと、アレですが! どうか、お気を悪くなさらず……!」
けど子爵は、ふっと肩を揺らして笑った。
「大丈夫だ、ルクス君。……我々は、古い知り合いなのだよ」
「お前の父――ラプスは、昔からの馴染みでな」
「……えっ」
俺は思わず、親父の方を振り返る。
「……父ちゃん、どんな関係だったんだよ……?」
「昔、世話になっただけだ。……ちょっとな」
「だったらなおさら、敬語のほうがよくない?」
親父は肩をすくめながら、飄々とした口調で答えた。
「ヴェイルのやつが“敬語使うな”って言うんだよ。昔から堅苦しいの嫌いだったろ?」
子爵も「ふふ」と笑いながら、問いかける。
「……息災か?」
「まぁ、ぼちぼちだな」
そして、親父は俺を一瞥しながら、まっすぐ子爵に言った。
「それより――うちの子を軍に誘わんでくれ」
言葉はやわらかいが、目は鋭かった。
「んー……しかしなあ」
子爵が腕を組み、やや困ったように眉を寄せる。
「この才能を、埋もれさせるにはあまりにも惜しい」
「この矢があれば、大将首を落とすなど、いとも容易い……」
そして再び、俺の方を見て――言った。
「まさか、ルクス君がラプスの息子だったとはな。……知った時は、本当に驚いたよ」
「……あの魔法は、君が教えたのか?」
「んなわけあるか。俺、魔法なんかもう何年も使っちゃいない」
親父が鼻で笑って答える。
「そうか……では、ルクス君の才能は本物か。ラプスの血にして、この魔術……」
「まさに、天才の所業だな」
「……才能だろうが何だろうが、こいつはまだ九歳だ」
「そんなガキを“戦場の死神”にしたいだなんて――」
親父が真っすぐ子爵を見た。
「戦況、よほど切羽詰まってるってことだな?」
子爵はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……その通りだ。そして、そのことも含めて、今日はお前に会いに来た」
ラプスは嫌そうな顔をしながら答える。
「何かあればお前の力になる、だがお前がここに来れる時点でまだ大丈夫なんだろ?」
その言葉に、ヴェイルはふっと息を吐いて、笑った。
「……たしかにな、でもその言葉が聞けてよかった」
子爵の目が、少しだけ和らいだ。
そのとき、親父――ラプスが、珍しく真面目な顔になった。
そして、俺の目をまっすぐ見て、静かに言う。
「いいか、ルクス」
「お前の人生は――お前が決めろ」
その声には、酒焼けも飄々さもなかった。
「……でもな。他人に決められた人生なんて、ロクなことがねぇ」
「クソみたいなことばっかだ」
「だからもし、選んだ先がどれも地獄なら――せめて自分が楽しめる地獄を選べ」
春風が、ふわっと吹いた。
親父の背中が、いつになく大きく見えた気がした。
(……あれ? なんか、今日の親父、やけにカッコよくね?)
(珍しく……いいこと言ってるじゃん)
と、思った矢先。
「……あ、そうだ。お前、報奨金もらったらしいな」
「酒、買うからよ。奢ってくれ」
「……は?」
ずっこけた。
「……おいおいおいおい!」
バカなのか? さっきまでいい話してたのに、急降下すぎるだろ!
――すると。
「ラプスッ!!」
突然、ヴェイル子爵が本気の語気で声を上げた。
「私は、あれほど“酒はやめろ”と言ったはずだぞ!」
「ましてや、子にたかるとは……なんたることだ! 恥を知れっ!」
普段の柔らかさが嘘のような、まさかの本気怒り。
親父はけろっとした顔で、肩をすくめる。
「いいんだよ。親孝行ってやつだ」
「一杯でいいんだ、一杯で」
「いや、そういう問題じゃねぇよ!!」
――と、叫びたい俺。
(……めちゃくちゃだよ、ほんとに)
(さっきまでの感動、全部ふっとんだわ……)




