9.昇る太陽の下で我らは誓う
「カラス」
清々しい朝だった。まだ薄い青を保っている空には点々と雲が流れ、空と溶け込むように太陽が輝いている。窓から光が差し込み、部屋を明るくした。名を呼ばれ、ベッドサイドへと近づく。心寧は仰向けのまま天井の一点を見つめていた。肩甲骨あたりまで伸びた毛先だけこげ茶の髪がシーツの上に広がっている。その髪の中に青白い顔が浮いているようだった。
六本の手を全て伸ばして上体を掴んでゆっくりと起こした。「ありがとう」と聞こえた声はしゃがれ、語尾は激しく咳き込む音に消えた。
「そろそろ……ヤバいかも、ね」
「まだ平気だろう。朝食は粥を茶碗半分は摂取していたし、今日は久しぶりに平熱だ」
「うん、来月生きてるかなぁ。無理だろうなぁ」
「馬鹿なことを言うんじゃない。まだ、お前は生きられる」
「積み木の件頼んだからね」
「ふざけるなよ。そんな弱気ならお前の希望なぞ聞いてやらん」
核を一つ動かして部屋の隅に置かれた積み木を収納した缶を見る。あれから心寧は大きく重い積み木を探したが、見つからなかった。「そりゃそうか。子どもが使うのを想定しているものね」と一人納得し、代わりに大量の木製の積み木を詰め込んだバケツ缶を用意した。ずっしりと、この部屋に本当に子どもが住んでいたら怪我をするのではないか不安になる程度には重い。これを己が死んだら窓に向かって投げて割れとそう言ってくるのだ。
「ガラス代は申し訳ないけど……修理の相場代は机の上にずっと用意したし許してもらいたいよね」
「我は許さんぞ」
「鈴入りの積み木も入ってるからものすごい音がしそう。これなら誰かが気づいてくれるはず」
「そんな話をしたいんじゃない」
では、何を話せばいいのだろう。過ぎった思考に目の前が真っ暗になりかけた。何か目的があって話をしたいのではない。ただ……。
心寧と過ごした一年あまりの時間がめまぐるしく思考を司る器官を駆け巡っていた。始めて存在を認知された日、同居生活を持ちかけられ面食らいながらも了承した。互いに殆ど無言で過ごす日が続き、やがて心寧が仕事から帰ってきて、我に一つのぬいぐるみを手渡した。「日中、暇でしょう」とぶっきらぼうに言い残し、風呂に行ってしまったけれどその頬が赤く染まっていたのをたしかに覚えている。
独り言を我に聞かせるようになったのはその後で、我に何かを毎週一つは買い与えるようになったのもその頃だった。幼子向けのおもちゃや絵本を与え、時には絵本を読み聞かせた。我は文字が読める。だから不要ではあったが、淡々と言葉を紡ぐ声が不快ではなくそのままにしたのを覚えていた。
それから、ずっと。
くだらない毎日だった。ただ時間を消費して、児戯だけを繰り返す。だが。
「今日は調子がいいな……。だからもう今、話しておくね」
「カラス」とまた名を呼ばれ、手の一つを握られる。心寧の手は骨ばってざらざらし、冷たく何だか薄暗い影を背負っているようだった。
「話しておきたいのが何個かあるの。まずは一つ目。……仕事してた時によく会社で話題にあがった“他人”の話をしてたじゃん。あれ、全部私のことなの」
「知っている」
驚いた反応をすればよかったのだろうか。それとも理解していない振りを? 心寧はぱちぱちと瞬きを繰り返して、そしてゆっくりとベッドに倒れ込んだ。
「そのリアクションは……理解していないな? うん、わかってたからいい。だから話せたんだし」
寝返りを打って我の方を向く。握った手はそのままで、我も握り返していた。
「最後の二つだけ伝わればそれでいいからなぁ。だからもう少し独り言、言わせてね。この部屋を選んだの、前のマンションより病院通いに楽できそうだから、こんな未来を予測していたからできるだけ自分の生活費と治療費を残したくて家賃の安い物件を探していたからの二つだって前に行ったよね?」
「それ以外に何かあるのか」
初耳だった。
「アンタ目当てよカラス」
「は」
握った手に力を込めたのは我だったか、心寧だったかわからない。ただ、触れた皮膚が熱を持っていた。
「アンタさぁ。……独りは嫌なんでしょ」
枕の皺の線がついたままの頬を緩ませて心寧が笑う。
「よくある“悪霊“……人間を最終的に殺害するのが目的ならずっと見つめたり物を隠すなんてしないでとっとと攻撃するでしょう。なのにアンタは隠れたまま観察して物を隠す。気づいてほしかったんだ。“いきなり人間と違う姿の自分”が現れたら相手は恐れてしまうから、“人とは異なる存在がいると相手に認知させたうえで”話しかけてほしかった」
「そんな言い方しなくてもいいだろう」
「自分から積極的に相手と関わる勇気がないから気を引いて声をかけてくれるのを待ってたわけだ。おそらく一度、その姿のまま引っ越してきた住民の前に現れてそのまま逃げられたんでしょう」
「ああ、そうだ。だが、臆病は撤回してもらおうか。我は我の見た目形に不満は一切ないが、人間は排他的で、この姿を見た途端、顔を引きつらせ悲鳴を上げ逃げて行った! 我は臆病ではないお前達人間に合わせて……」
「私と同じ独りだからいいと思ったの」
心寧のもう片方の手が震えながら伸びてくる。驚愕に固まる我の腕をそっと撫でた。
「この部屋で毎回人間に逃げられてアンタは独りで泣きそうなのに、ずっとここにいる。ということは部屋から抜け出せない理由があるんじゃないかって思ったの。地縛霊みたいにその場所に憑いて縛られて……だから私がこの家に住む限りはずっと一緒にいられる」
声が震えていた。潤んだ瞳が深く揺れていた。
「何だって?」
「たぶんねぇ。私も一緒にいてくれる人がほしかったんだ。親も学校も職場も、何処に行っても決めつけを押しつけて傷つけてくる奴等ばかりだったから諦めようとしたんだけど……無理だった。理解されなくてもいい、けど否定せずにただ隣にいてくれる人が欲しかった。“誰かを求めている同士”なら上手くやっていけると思ったから人じゃなくて逃げられない怪異を探したの」
「だから事故物件なんて呼ばれてる此処を住処に選んだのか」
「ごめんね。私がこの部屋を選んだのはそういう理由」
しばらく互いに言葉が出てこなかった。心寧は深くざらついた音をさせながら呼吸を整えている。核が熱く煮えたぎるようで、見下ろしている心寧の顔が酷く幼く見えた。喉の器官が上下している。「ガア」としか聞こえない鳴き声をそれでも絞り出した。
「我と、同じじゃないか……」
「怒った? やっぱり気持ち悪いよね。アンタの弱みにつけこんで無理やり同居しているようなものだし」
「違う、違う違う! 同じだ! 我もお前も、ただ……」
「私、親も先生もバイト先の奴らも職場の連中も許さないよ。でも今考えればあいつらと私は“相手を決めつけている”点では似ていたんだと思う。あいつらが決めつけで頑張りが足りないと否定したように、私はわかり合えないって決めつけて必要以上に関わりを持とうとしなかったから。アンタが何もわからないのをいいことにただ愚痴を吐き出し続けていた。明確な反省点だ」
「違うだろう! 虐げられた者がそれ以上の苦難を背負う必要はない。お前も、我も」
我も? 発した言葉に靄がかった疑問が湧く。我はただこの部屋で……。
思考の奥底で朧げな光景が浮かんでは消える。無数の人と罵声。しかし今はどうでもよかった。
「ずっと考えてたけど、皆も私もきっと恐怖を否定したいのかも。努力が報われない世界は恐ろしいから、報われなかった人は皆努力していなかったと思い込む。私はその逆で、友達すらいない生き方を選んじゃった。もうすぐ終わりだけど、人生って難しいね」
「お前は“正体不明の我”を受け入れただろう!」
違う、今すべきは人生の振り返りではないのだ。ゴボリと我の体内で空気の泡が弾ける。何度も弾ければ心寧が首だけ上げて、「始めて見た」と呑気な声で微笑んだ。
心寧は我を意思疎通の程度以外は理解していた。我が何故、歴代の住民の所持品を隠したか、ずっと観察を続けていたかその理由をわかっていたのだ。
途方もない時間を過ごしただけの空虚な心を支配したのは孤独だった。
少なくともこの部屋にやってくる者は己と別の“人間”という存在である。早々に気づき、そしてその排他性を知った。逆の立場だったら同じく逃げ出していた可能性もあるが故に責められないが。責める代わりに臆病になった。逃げられるのを恐れるのに、気づいてほしいと願いくだらない悪戯を仕掛けた。
「誰でもいいから、我を見て、共に在ってほしかったんだ」
「もしかして飽きちゃった? もう少し聞いてね」
「相も変わらず伝わらないか……だがそれでいい。一緒に暮らせたから、だから生きてくれ。頼む」
「随分甲高く鳴くね。隣、空き部屋で良かった」
「生きてくれ、ずっとここで暮らして生きてくれ……お前が苦しもうが、死んだ方が楽になるかもしれないが知ったことか。ずっと此処で暮らせ」
あんまりな本音がようやく漏れ出して自嘲する。かつて満月に苦しむ心寧の幸福を願おうとしてやめた理由だった。一体どちらが心寧にとって幸福なのか、考えたくもなかった。どちらにしても我は、苦しんででも生きてほしい。その願いから逃げられないのだ。
目的などない。ただここで共に児戯を繰り返す日々こそ必要だったのだ。
「自分勝手に押しつけて、ごめん。それから一緒にいてくれてありがとう」
「それはお互い様だ。謝らずに、どうか」
涙が流れる身体ではないのに、視界が滲んでぼやけていた。心寧の周囲に藍色の靄が見える。広がった髪と溶けて混ざっているようだった。
「だからお礼を考えたの。選択肢は二つ。一つはお礼と言うかアンタが私が死んだ後もこの部屋で誰かと暮らせるように、私の死体の発見を早めること。ちょっと前に橋川に連絡取ったんだけど、私がずっと“何もお化けなんかに会わず”暮らし続けているおかげで悪い噂を払拭できる可能性があるんだって。だからちょっと家賃は高くなるかもしれないけど、私のせいで事故物件にならなければきっと次の入居者が現れる。だから今度はちゃんと悪戯じゃない方法で入居者にアプローチしなさい。返事は?」
「他はいらぬ。お前がいい」
「ううん、伝わらない?」
「身勝手だからな」
「いい? とにかく私が死んだら窓ガラスを割る。そして次の入居者は悪戯しないで、ちゃんと挨拶すること。アンタ、人畜無害なんだからきっと好きになってくれる人、いるよ」
腕を撫でていた手がペシペシと叩いてくる。「いい?」「わかった?」と繰り返され渋々一度鳴いたように聞こえる返事をした。
「それじゃあ、次ね。こっちの方が本題かも……ちょっと待って、ね」
やせ細った足をよろよろとベッドの下に出し、フローリングに足の裏をつける。リビングから机の上に移動させられた薬の籠の一番後ろに手を突っ込み、ノートを取り出した。
腰を支えてやる。そのまま僅か数歩なのに震えながら足を動かし、ヘッドボードに上体を預けてベッドに座った。まだ心寧が日常生活を送れていた時に何度も外出に持ち出していたノートだ。言いつけを守って中身は見ていない。
細い枯れ枝のような指でページを捲る。そして我を見上げた。
「ちょっと長くなるけど、聞いて」
一度、鳴いた。
「アンタが何者なのかなんだけど」
声が漏れ、また思考の奥が揺らぐ。家具の影ではない何かが心寧の周囲を覆っている気がした。
ふと、心寧と暮らしてからずっと心寧の身体を暗い何かが覆っているような錯覚を何度も見ているのに気づく。病に苦しむ心寧の憂いを帯びた姿は時折、そのまま消えてしまいそうだったからだ。
また思考の奥底で朧げな光景が浮かんでは消える。緑に囲まれた土地で暗い靄のようなものに手を伸ばしている。
「たぶんわかった」
揺らいだ思考を振り切り、心寧の話に集中すべきだと震える足に力を込めた。
「よくあるお化けだとか心霊系……って言うの? そういうのには詳しくないんだけど『不動産会社が真面目に依頼をしてお祓いをした』のにアンタが普通にいるのが不思議だった。橋川に嘘をつかれた可能性もあるけど、不動産会社が地鎮祭とかのために神社と関わりを持つのは普通らしいし、間違いなくお祓いはしたんだと思う。じゃあ、アンタは少なくともお祓いで祓われる対象じゃない。心霊の専門家じゃないし超常的なものって定義自体もわからなかったから曖昧だけど、例えばこのマンションや土地で非業の死を遂げた人間……ではないのだと仮定した。アンタに直接情報を聞ければよかったんだけど……きっとわからないだろうし、そもそもガアガアしか言えないから仕方がないよね」
「本当はいくらでも喋れるが」
吐き捨てた言葉は上擦り、緊張感に包まれていた。
我の正体? 思いも知らぬ方向から突然現れた情報に人間だったら目を剥いていただろう。
「じゃあ何なのか、と考えて実はね……図書館に通ってたの。貸し出し不可の本、禁帯出……だっけ。ネットにはなかったから昔の本に言い伝えとか載ってないかなと思って」
「我が言い伝えに載っていると思うのか」
「土地の神様から沼の主。妖怪や異常気象、季節外れに咲いた花まで……これ一緒くたにしていいかわかんないけどね。とにかく“伝承”として人間は現代の研究では解明済みの現象も人間の間引きを神隠しの仕業とする嘘も含めて、様々な方法で後世に伝えようとする生き物らしい。そう小学校の時に習ったのを思い出して図書館に行って片っ端から本を読んだ。アンタの姿と鳴き声だけが手がかりだったけど、どうしても知りたかったの。餡が青色の水饅頭みたいな二メートルの巨人がいる伝承を……そしてようやく見つけた」
ボールペンで殴り書きされたページを一枚ずつ捲っていく。小さな文字がびっしりと並んでいたり、時折何かの図が混ざったりしていた。その一ページを心寧は見つけノートが真っ直ぐになるくらい開く。そして我の手を一本引っ張った。
「これ。……カラス、よく聞いて。詳しい説明は省くけど、アンタは天下統一後の安土桃山時代からここの森に住んでいた妖怪みたいな存在だったらしい。名前は……バンハ。おそらく当時希少品だったガラスの南蛮玻璃からつけられたんだと思う。不思議なのは当時のガラスって貿易でしか手に入らない希少品で本に記されたとおりだとしたら農民が知ってる気がしないんだけど……まあ、日本史の話はいいか。とにかく森を中心にできた村で“上手くやっていた”存在だった。これだけ理解して。アンタは大昔の妖怪、そして強い力を持っていた」
見せられた見開きにはまず左上に「バンハ」と大きく文字が書かれ、その下に不格好な六本腕の人型のイラストがついていた。矢印が引かれ「透明」、「中に翡翠の記載。青色のやつ?」といった心寧のコメントが添えられている。右側はびっしりと全ての行に文字が詰め込まれていた。
「そんな力は我にはないぞ」
「よし、一回ね。その強い力ってのが、単純明快。願いを叶える力なの。ただ当時の農民達の願いといえば米を増やすこと。二公一民って収穫物を三分の二も収める大重税時代の始まりだったから、皆必死だった。例えば……『バンハは米を右の一番上の手から出し、対する左上部の手から塩を出現させた。中段の両手からは水を出し、下段の手は己のために使用された』なんて記述があった」
「出ないぞ、そんなもの」
試しに上の右手に力を込めてみる。が、当然だが米は一粒でも出現しない。左手も同様で顔の前に手を持っていきじっと眺めた。透けて心寧の顔が見える。ぼさぼさの髪の真ん中の青白い顔は真剣だった。
ページを捲る音がする。小さく咳き込んだ後にいつもより早口で続けた。
「当時は村で年貢が管理されていて、帳尻が合えば良かったから足りない家族の分をアンタに頼んでいたみたい。最初はそうやって村人全員でアンタを崇めて暮らしていた。けど、アンタの力は有限だったの。アンタ自身も知らない間に“米を出現させる力”は衰えていった。そんな時に今だったら記録的な雨が降らない気候が村を襲った。田んぼはひび割れ、稲は枯れ、それでも年貢の徴収は休まらない。村人達はアンタに米を出せ、雨を降らせろと迫った。アンタも頑張ったけど、もう限界が来ていた。そこで誰かが言ったんだって。『バンハに生贄を捧げれば力が復活するかもしれない』と」
核の一つに捻じ切れるような痛みが走り、思考の中に鮮明な光景が浮かんだ。ひび割れた土地を枯れ始めた木の上から我は眺めている。その木の下には数十人の人間が集まっていた。心寧や他の元住民とは違う衣類をまとい、誰も我を見ず互いの顔を恐ろしい形相で睨みつけていた。
──お前さんが一番足を引っ張っておるじゃろう。末の娘っ子を一人、バンハに。幼子の肉は美味かろう。
──何を! 娘はやがて子を産み労力を増やす。それなら用済みのお前んとこの婆を!
醜い争いの声だった。我は、人を喰らってまで願いを叶えるつもりはない。そもそも我は食事をしなくとも生きられる存在だ。そう伝えるも、声は「ガアガア」と鳴き声と化し、村人達を震え上がらせるだけだった。
──そもそも、バンハの力は蘇るんか。贄は一人で足りるのか。
当時は人身御供という文化がまだ生きていた。命を捧げれば自然を操れると皆信じている。人を川に流しても川の氾濫はとまらない。人を生き埋めにしても雨は降らない。
──バンハ。お前さんが選んでくれ。誰を贄として望む? 柔らかい幼子か、肉付きのよい娘か。
──早く選べバンハ。選んで救え! この化け物め!
互いに睨み合っていた顔が全て我に向く。囲まれ、怒号が飛んでくる。
問題は人間の望みを、“我は本当に叶えてしまえる”ことだった。対価に見合った願いを叶えられる、そういう生物だった。生まれ落ち、すぐに確信したそういう存在であった。生きるために食物を必要としない。だが捧げ物を体内に取り込み力を行使できる。
だから我は己を山へ封印した。逃げるように山奥へ走り、土の中の一欠片の石へ。
──バンハは何処へ逃げた! 探せ! あの恩知らずの化け物が!
村人と共に藍色の影が押し寄せてくる。影は戦国の世に死した者の恨みの感情を怪異共が増幅させた呪いで、この土地のは全て体内に取り込み、あるいは握り潰したはずだった。それを対価として願いを叶え、遂に尽きただけだった。そんな事情を知らぬ者達の罵声を背に我は地中に潜った。深く長く眠り、一層力と共に記憶すら失い、石も削れていった。そうして四十年ほど前に目が覚めたのだ。マンションのこの部屋の一部に我を封印した石の欠片が僅かだが混入したためである。
ああ、何だ。そういうことか。
思い出してみたものの、感慨はなかった。ただの昔話に過ぎない。よく寝たな、とそれくらいの感想だった。
「バンハは人間の欲深さに耐えられなくなり、山で長い眠りについた。欲望に憑かれた人間の記憶を忘れるまで。善良な人間のささやか願いを叶える日を待って……。これ、アンタだよね?」
「たった今お前の話で思い出した。くだらないがな」
心寧は相変わらず真っ直ぐに我を見つめている。我を憐れんで図書館へ通ったのかもしれんが、過去などどうでもよかった。目の前の現実が我の全てだ。
「思い出せないか……でもそれは問題じゃない。アンタが本当はバンハなのが、大きな願いは無理でも、対価さえあればまだ“僅かな願いなら叶えられる”のが大切なの」
一転して、頭から真っ直ぐに縦に引き裂かれたような衝撃が走った。
「お前、心寧」
「カラス、あのね。よく聞いて」
「聞かぬ。絶対にだ。なんてことを……何てことを考えたんだお前は!」
一番下の両手が勝手に伸び、心寧の肩を掴んでいた。心寧は隈が目立つ顔を強張らせ、そしてゆっくりと頷く。
「違う! お前、我が納得したと思っているな! ふざけるなよ。そんなこと、許さぬぞ!」
「喜んでくれたみたいだね。うん、これが私の唯一の心残りでやり残さずに済むよ」
心寧は笑っていた。無邪気に、幸せそうな顔でクスクスと声を上げた。ノートをまた一ページ捲る。読みたくもない文字が大きく書かれている。同じ言葉を心寧は決意を持って口にした。
「他の文献も漁ってアンタのこと調べたの。アンタに対する贄って、アンタが直接体内に摂取しなくても“アンタの目の前で命を落とせばそれが贄扱いになる”んだってね。だからきっと、私がこの部屋で死んだらアンタへの贄扱いになって力を少し取り戻せるよ。つまり」
ノートを心寧が閉じ肩に置いた我の腕を掴む。そして片方の手を自分の心臓の位置へと持って行った。
「私の命を対価として、かつて自分にかけた封印を解くお願いをしてよ。そうしたらこの部屋からアンタは出られる。……外にはいくらでもアンタを受け入れてくれる人間も、もしかしたら同族もいるかもしれない。もう独りじゃなくなるよ、カラス」
それだけ言うと、心寧は口を閉ざした。我も動きをとめたまま、しばらくそうしていた。
トクン、トクンと弱々しく心臓の脈動が我の手に伝わる。部屋着越しだが温かい。血が全身を巡り、内臓や細胞が動き、神経が働き、現代科学でも証明できない心が生を維持している身体だった。
これを奪ってまで、外になんか出たくない。どうしてそれがわからぬのだ。
かつて我は人から逃げた。そうしなければあの村の者は殺し合いに発展していただろうから自分の選択は間違いではないと信じている。それでも心寧が自らの生き方を反省したように、あの者達と向き合わなかったのは事実であった。
また逃げてしまいたいが、今度は逃げ場すらない。心寧は死ぬ。現在の我に残された力だけでは心寧の原因不明の病を完治させることは不可能だ。心寧が死して、その対価に心寧を生き返らせるのも不可能だ。我は神ではない。失った命はどんな対価でも取り戻せないのだ。だから贄として受け取ろうが拒否しようが一番重要な結末は変えられない。心寧は、もうすぐ我の前からいなくなる。心寧はわかっていないのではない。自分の死が避けられぬなら我のために利用しようとしているだけなのだ。
同じ独りの時間を抱え、共に過ごしたよしみとして。
「カラス。返事がほしい」
無情にも沈黙を破ったのは心寧だった。穏やかな声で我に決断をねだる。
「カラス……? 今の話、わかんなかったかな。あのね、もう一度説明するね」
説明なぞ不要だ。できるだけ簡単な言葉を選び我の置かれた状況と成すべきことをゆっくりと繰り返し始めた。
「……カラスは、私が動かなくなったら『外に出たい』ってお願いすればいいの」
小さく咳き込む。コン、と咳払いをして息を深めに吸えば、胸が上下した。
ゆっくりと唇を動かす心寧の顔を見た。ぼさぼさの黒髪から涙の跡が残る目尻、紫がかった唇。窪んだ鎖骨。
大きめの汚れた部屋着に包まれた腕は震えていて、我はようやく思い違いに気がついた。
死を受け入れたのではない! ただどうしようもない現実という恐怖を押し殺して心寧はその命をせめて最期まで使い切ろうとしているだけなのだ。本当は生きていたい。第一、そうでなければあんなに薬を飲み、苦痛に耐えながら、独りで生きようとしていないのだ。
恐怖が伝播する。我の身体も震え始めた。生きてくれ、死なないでくれ。どうか、どうか。叫び出したい喉を押さえそうになりながら、絶対に今、心寧から目を逸らさないと誓った。
そして。
目を凝らせば藍色の炎のような物体が髪に混ざって、心寧にまとわりついていた。
病に苦しみ消えてしまいそうな宇津木心寧という我の誤った感傷による錯覚ではない。生を渇望しながら足掻く心寧とは真逆の影であった。だから今、それが何を指すのかを、何をすべきかを理解した。
「心寧」
名を呼ぶ。沸々と怒りに近い激情が湧きあがる。身体が熱く、内が震えている。
「何て自分勝手な人間なのだ。自分勝手に話しかけ、決めつけて、自分の残り時間を我の孤独のために注いだ。死を目の前にしたやり残しが我の未来への祈りだった。傲慢にも程がある。お前は何も変わっていない。先ほどの反省の言葉は嘘だったのか」
「カラス。急にずっと鳴き出して……何か」
「だが反省すべきは我もだ。お前が去るのを恐れて、対話から目を背けていた。我ら共に必要だったのは、言葉を交わし向き合う力。一方的に抱えるのではなく、恥すら共に見つめ直す時間。お前を真っ直ぐ見ていれば、もっと早くに楽にしてやれたのに」
「その……我慢して? だってどうにもならないんだから」
「だが我ら共に生きる意思だけは強固だ。故に我がどうにかしてやろう」
残り四本の手を一斉に伸ばせば、心寧は驚き身じろぐ。既に押さえた肩に力を入れ、腰に下段の両手を回し仰向けになるように引きずった。頭をヘッドボードにぶつけた心寧から悲鳴が上がり、緩慢な動きで両手足を動かし暴れた。
「悪いな。少し頑張ってくれ」
「カラス! カラスどうしたの!」
「願いは……決まっている」
馬乗りになり、中段の手に全ての核を集中させる。四百年ほど前はこうやっていた。
「喜べ。お前の努力がお前を生かすんだ。お前が我を知ろうとしたからだ」
中段の手で髪に拳を振り下ろす。たしかに“それ”を掴み、一気に引きずり出した。
ギャア! と悍ましい声がベッドのマットからして心寧が目を見開く。藍色の炎が我の手の中で揺らめいていた。
「よくもこいつを苦しめ続けたな」
心寧がどこで呪われたか検討はついていた。高校卒業と同時に心寧は家を出て働き出したと言っていた。両親に搾取され、ボロボロの身体を引きずって安全地帯へと旅立ったのだ。しかし、両親はそう思わなかったのだろう。“獲物”が逃げた、裏切られたと激しい恨みを募らせたのだ。
おそらく偶然居合わせた“こいつ”はその感情を利用して呪いを作り、心寧にかけた。そして苦しみ続ける心寧をずっと一番間近で観察し続けたのだ。そういう怪異だった。目の前が真っ赤に染まり、憎悪が溢れた。
その感情をぶつけるように炎を握り潰し核へ吸収させる。断末魔の悲鳴を上げ、“それ”は瞬く間に消滅した。あとは。
「心寧の身体に後遺症が残りませんように。そして──」
はっきりと口にした願いが小さな寝室に響き渡った途端、押さえつけられたように身体が重くなり、眩暈がした。
心寧の上に倒れるのは避けたい。咄嗟にベッドから転がり落ちて床に強かに背をぶつけた。身体の至る所が痛み、己の意思と関係なくじわじわと蠢いていた。それでいい。足りない分は持っていけと願ったのは我だ。
仰向けで天井を見つめていれば、天井が遠ざかっていく。軟体の顔がぐにゃぐにゃと動き、切れ目が入り空気に触れひんやりとした。
「え? ……あれ」
「まだ動くな。もう“お前の命を脅かす呪い”は解いたが体力は落ちているからな」
「は、ええ!?」
「大声も出すな。体力を消費するだろう」
起き上がろうと手を伸ばせば酷く短くなっていた。おまけに四本、腕を失った。慣れない新しい身体を起こそうとしてまた仰向けに倒れる。“口が窄まってチッという音がして”これが舌打ちかと場違いに納得した。
黒い影が全身にかかる。心寧がベッドから降り、我を見下ろしていた。そっと抱きかかえられる。瞳には青色のゼリーの中に白の核が浮いた二段の雪だるまに手足を生やし、上段の球に黒の円が二つ配置され、その下に大きな切れ込みが横に入っている妙な生き物が映っていた。
「まあ、悪くないな。目と口は欲しかったからな」
「カラス、だよね?」
心寧が呆然と我を天に掲げ、じろじろと視線を上下させる。そして腕の中に抱き止め、眉を下げた。
「カラスだが?」
「あの……色々と、わからないことだらけで、えっと」
「お前を長年苦しめ死に追いやろうとしていた病は呪いの類だ。いつそんなものを受けたかは知らんが、医者が見抜けないわけだ。先ほど贄として喰らってやったから安心しろ。もうあれで死ぬことはないし後遺症も残らない」
「呪いって……」
「我を受け入れて呪いは信じられぬか。まあいい。とにかくもう病は完治した、とだけ覚えておけ。一応明日にでも病院へ向かい検査も受けろ。さすれば現実として幸福を受け入れられよう」
「解いてくれたの?」
「ああ、そうか知らぬのか。ではもう一度言うが」
「待ってほしい」
唇を震わせて心寧が呟く。生気が戻り血色がよくなった顔が困惑を張りつけていた。眉根を寄せて、唇をへの字に曲げている。
「なんだ、不満でもあるのか」
「ありがとう……ございます。でも待って。あまりにも色々ありすぎてまだ実感がわかないというか」
「なら実感がわいてからもう一度礼を言え。頑張った甲斐がないだろう」
「でも、その一つだけ聞いていい?」
頬が朱に染まっている。そして腕の中の我を膝の上に乗せた。
「アンタ、喋れたの? というかそれだけ喋れるってことは……今までの私の話、全部理解していた?」
「ああ」と満足気に新しくできた口角を上げれば心寧が絶叫した。
青空の色が濃くなり、太陽が一層輝く時刻のことだった。




