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私と怪異の箱庭の中にて  作者: 高崎まさき
カラスの章
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8/10

8.月を前に何を祈ればいい

 共に暮らし始めて一年を越えたあたりから心寧はどんどん弱っていった。

 夕方帰ってきた心寧が玄関で待ち構えていた我に「やり残しがなくなった」とただ一言、笑顔で報告した。そしてノートを薬の籠の一番後ろに入れてからその話をすることはなくなった。

「もう後はゆっくり過ごそうか」

 心寧は笑っていた。心底嬉しそうに、穏やかに息を吐いてギュッと我の右手を二本抱きしめた。

 体調が良ければ朝と昼に散歩に一時間ずつ出かける。二日に一回は生活に必要なものを購入し、息を切らしながら黒色のナイロン生地のバッグをいっぱいにして帰ってきた。通院は月に一回のまま。だが薬の種類が増えたのを我は見逃さなかった。

 たまに思いついたように外出して少しだけ離れた駅で買い物をしてくる。それ以外はこの部屋で残された時間を過ごしていた。

「アンタってゲームできるのかな」

 梱包の箱からゲーム機を取り出して、黒いコードでテレビの裏側と繋いでいく。「初期設定が思いのほか楽で助かった」と呟きながらコントローラーを動かし必要な情報を入力していた。

 全年齢対象の二等身のキャラクターが動き回る協力型ゲームと、心寧自身が遊ぶ用のRPGを一つカートに入れてダウンロードを行っていた。テレビの前にクッションを並べて隣に座る。そんな時間が圧倒的に増えていた。「ジャンプはこのボタンで……」と一々画面を見ていれば理解可能なことを熱心に説明するその顔を我は黙って見つめて、わざと操作を失敗しながら幼子の理解力を演じ続けた。

 映画やドラマの配信サービスに複数加入したようで、心寧が働いていた時よりも多くの動画の視聴が可能になった。が、我の“理解力”を考慮して一緒に並んで見るのは児童向けのアニメばかりをチョイスする。我がおもちゃで遊ぶ振りをして離れるとようやくあらすじに小難しい漢字が並ぶ作品を選ぶのだ。

 時々独り言を漏らしながらブランケットに包まり床に置いたマグカップに口をつける。ゆっくりと近づいていけば「アンタわかるの?」と画面から目を離さずにクッションを引っ張られた。

 画面の中の若い男女がホテルの一室で深刻な顔で会話をして、そして。

「アンタにはまだ早い!」

 人と違い眼球が存在しない顔を手で覆われる。ブランケットが落ち、背後から「目ってここで当たってるの」と今更な疑問が聞こえてきた。ちなみに人間でいう目に当たるのは核の全てなので、はっきりと画面は見えていた。

 男女が口づけを交わし、ベッドにもつれ込む。男が口づけを一層深くしながら女のブラウスのボタンに手をかけ、場面が切り替われば互いに服がはだけていた。

 所謂ラブシーンだ。インターネットで得た知識によると知り合い同士でこういったシーンを見ると気まずい思いをするようだが、我には理解できなかった。そもそも我には性欲が存在しないし性別もない。生殖器官がなく、当然生殖活動も存在しない。ただ形の違う人間が唇を合わせ、うねうねと蠢いているだけにしか見えないのだ。

「こら! 駄目だって。そういうのはもっと成長してから!」

 少なくともお前よりは生きているが? そう声に出せば不機嫌そうなアヒルの鳴き声に聞こえたようで、心寧が我から離れリモコンの停止ボタンを押す。男の背中の向こうで顔を歪めながら微笑む女が映っていた。

 心寧が溜め息をつく。我は笑いを堪えながら、仕方がないのでリビングの方へと移動した。

「掃除機かけるからどいて」

 耳障りな音を響かせて心寧が床に掃除機を滑らせる。一週間に一度、散歩から帰ってきてすぐに行っていた。

「おもちゃも拭くから。ほら」

 我のおもちゃ箱をひっくり返し、掃除用クリーナーで一つずつ丁寧に拭きとっていく。積み木にミニカー。動物のマスコットに家の模型とその家具。パズル、絵本……この家に引っ越してきた当時は荷物が少ない女だと思っていたが気づけば我の物で溢れていた。

「はい。綺麗になった。遊んでいいよ」

 淡々と告げて、また掃除機をかける。ゴウゴウと唸るその機械音に混ざって心寧は小さく呟いた。

「あとで、ゲームやろうよ。アンタ意外に上手いよね」

 一回、鳴く。そうすれば鼻歌混じりに廊下の方へと去って行った。

 穏やかな時間だった。同居人の独り言が増え、我が理解できない振りをして答える。日の長さが変わって、水色の空の時間が増え始めた頃だった。

 心寧がベッドで寝転がる時間が増えた。だるそうに頭を抱えながらリビングに向かい、胃に収める食べ物の量が減った。

 病院から帰ってきて、籠に薬を並べる。種類と量が増えて籠が二つになった。 

 散歩が昼間だけになり、遂にはリビングで食事をすることがなくなった。ベッドに取り付けられる机を通販で購入し、ベッドで上体を起こして食事を摂るようにした。空のペットボトルが床に並び、体調が僅かに良い時にまとめてゴミ袋に入れる。最低限の行動で全てを済まそうとしていた。

 ゲームをする手が止まり、眉間に手を添えて電源を落とす。映画を通して見るのではなく、何回にも分けて再生している。

 日用品の殆どを通販で済ませるようになった。食事も宅配サービスを契約し、食べ切れないおかずが冷蔵庫に貯まっていった。

 何よりも。

 浅い呼吸を繰り返し、下腹部を押さえている。うー、と唸り歯を食いしばってベッドの上で身体をくの字に曲げていた。

 昨日は三十九と表記された体温計の隣で解熱剤を握りしめ咳き込んでいた。一昨日は紙袋を抱え、黄ばんだ粘性の液体をひたすら吐き出していた。

 心寧の言う“症状が強まる日”が増え、薬で押さえられている時間と逆転しかけていた。ありとあらゆる苦痛が襲いかかり、ただ耐えている。

「ぁ……う……」

 ようやく落ち着き眠りに落ちた顔が窓から漏れた月明かりに照らされている。なのに全身が空と同じ色の影を背負ったように暗い気がした。

 青白い頬は、出会った頃よりも乾燥し、荒れていた。肉が削いだようになくなり、こけていた。

 弱々しく上下する胸や腹に我の全身の核が痛んだ。

「どうか」

 とまで呟き、窓の外を見る。無数の建物の中にポツポツと明かりがつき、更にその上に満月が藍色の空の中央で輝いていた。温かい光だと、呆然と見上げた。どうにもならない現実を前に我はしばらくそうしていた。

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