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私と怪異の箱庭の中にて  作者: 高崎まさき
カラスの章
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7/10

7.やり残したこと

 宇津木心寧はきっとまだ子どもである時期に、一人で生きるのを選択した人間だ。

 その身に何が降りかかったのか。事実を我が知り判断するのは難しい。心寧の身に降りかかり続けた災難は、心寧の口から聞いたものであるため客観性に欠けるからだ。だが、少なくとも宇津木心寧自身は理不尽な目に遭い他人に裏切られ続けて、一人で生きねばならないと信じている。

 我はこの部屋以外の世界を知らない。しかし心寧の話を真実と受け止めるのであれば、心寧にとって自分の常識で他人を推し量り、平然と当たり前の価値観として押しつけるのが他人であった。その当たり前の価値観から外れた存在がいるとは欠片も考えずに。理不尽の傷を抱えたまま、傷を持たぬ者の“想像力の欠如した発言”で傷口に塩を塗られ続けるから癒えやしないのだ。

 だから我が心寧の言葉を理解しているとは知られてはならなかった。

 一人を選択した心寧にとって、我への過去の話は独り言だった。それはぬいぐるみに話しかけたり、日記帳に殴り書きをするのと同義だ。どうしても吐き出したい怒りや悲しみを聞く相手を持たぬ人生を選んだ女の、人には見せないと誓った弱音だった。言葉の意味をわからぬ存在だから心寧は我と同居できている。我が心寧の理不尽の傷口に触れる言葉を持たないから敵になり得ない。

 もし知ったら心寧はまた傷を負い、我を裏切った敵であるとみなし離れるだろう。死にかけの身体で、新しい住処を探すのだ。

「後悔はないの。でも一つだけやり残したことがある」

 これから家にいるからと購入したテレビには旅番組が映っていた。男が串団子を片手に古い和風の街並みをカメラ目線で歩く。「土産屋」と墨と筆で書かれた看板の隣の暖簾をくぐって番組名を名乗っていた。

「最近出かけている理由か」

 隣に座る我の言葉は相変わらず鳥の鳴き声に変換されているようで、心寧は「団子気になるの? 食べないのに」と見当違いの返事をした。

「旅行に行きたいんじゃないの。そういう人生の思い出作りじゃない。……明日も体調が良ければ出かけてくる」

「また行くのか。そもそもどこにいってるんだ」

「うさぎの形をした饅頭か。こういうの可愛いよね」

 ベッドに腰かけて心寧が笑う。答えは求められていない。ただ「可愛い」と感想を口にしただけなのだ。

 それが身体中の核に痛みを走らせた。今すぐ意思疎通ができる存在だと知らしめて、傷つけてやりたいほどに苦しかった。

 テレビの中の男が土産屋お勧めの漬物をカメラの方に掲げて試食のタッパーから箸で細長い何かを摘まむ。細く切った大根らしく、透明な汁が伝ってタッパーの中に返っていった。

「スーパーに売ってたかな。これに似たの」

 心寧が真剣な顔で大根を見つめる。どうやら食べたいらしい。

 

 同居を始めてから十カ月。療養のため仕事を休んでいる心寧は、最近朝に出かけ、夕方に帰ってくるのを繰り返していた。どこに行っているか、何をしているのか詳細を語らない。ただ「人生のやり残しをなくすため」と呟いて、職場に行くよりも楽な格好で財布とスマートフォン、そして僅かな筆記用具をトートバッグに入れて玄関を開けるのだ。

「公正証書は残したから問題はないの。ちゃんと死後に見つけてもらえるようにもしてある」

 つまり遺言のことだ。机に向かい、出かけるのに持って行ったノートをじっと見つめている。隣にスマートフォンを置き、時折何かを検索してはノートに書き込んでいた。

「これは違うからね」

 ノートの中身は見るな、隠すなと言われている。我は「少しくらい見せてほしい」と抗議したのだが、意味が届くはずもなく更にお決まりの「イエスかノーで答えて」と聞かれ、渋々一回だけ「ああ」と声を出した。あれには何が書かれているのだろう。薬の籠の中に保管されているため、迂闊に触れられなかった。あの場所の配置に対して心寧は敏感だ。生きるために不可欠なものが置かれているのだから仕方がないが。

「腹立つけど私が死んだら親に連絡がいくだろうから。わずかだけど遺りそうなお金をなるべくあげたくなくて。お世話になった病院に寄付してもらうことになってる」

「お前の病名すら特定できなかったのにか」

 部屋の隅で積み木を組み合わせていた我に視線を向ける。我が知っている現代の医療技術はただネットの海に書かれた真偽不明の文字だけだ。しかし、科学というものが跋扈している現代でそのようなことがあるのだろうか。

「積み木は飽きた?」

「……いや、違う」

 二回鳴いたように聞こえているはずだ。

「仕事だからだろうけど一番真っ当に私のことを扱ってくれたからね。他にあげる場所がないからだけど、僅かな寄付でも誰かが助かるなら親に行くよりマシ」

「誰かが、か」

 お前はどうなる。わかり切った問いは相手に届かないにしても声として発せなかった。積み木が崩れ、フローリングに倒れる。円柱の形をした緑のが転がって、手を伸ばした。

 ころころと転がっていく。手を伸ばす速度よりも早い。もう一本左側の手も慌てて伸ばせば、紺色の靴下に円柱がぶつかりその場で止まった。

「カラス」

 心寧がその場でしゃがみ、フローリングに太腿をつけた。窓から差し込むオレンジ色の空に照らされ、我と心寧は向き合っている。灰色と黒のスウェットは毛玉だらけで袖から出ている腕や、丸首から出ている首筋が出会った頃より青白く綺麗にオレンジに染まっていた。こげ茶色の肩までの髪は頭頂部が黒くなっているが、こげ茶の部分が金色に輝いていた。

「一つお願いがあるの。真剣な話。わかるなら一回鳴いて。わからないなら二回。いつもの」

「なんだ」

 ホッとして心寧が息を吐いた。

「私が死んでもアンタはここにいるんでしょう」

「残念ながらな」

「私が死んだら……この積み木をこの窓に投げて壊すことってできる?」

 かつて心寧に「ここから出られないのか」と問われたことがある。いつものイエスとノーで我の見解を答えて出られないことを。そして”出られないが壁に物を使えば傷をつけることができる”とは回答した。脱出の意欲がないのでやらないが、例えばこの積み木のような固いものを壁に向かって思い切り投げつければ、壁に傷を入れられるのだ。それは昔、何人も前の家主が出かけている間にこっそり実証済みだった。

「おそらく可能だ」

 積み木を心寧が我に手渡す。積み木を持った右手と、何も持たない左手。それぞれを窓に押しつける。左手は見えない壁に弾かれ。右手は積み木の角とガラスがぶつかりコツンと音がした。ガラスの強度次第だが、可能だろう。

「できそうだね」

「だが何故そんなことを」

 積み木を握った右手と見えない壁を押し続けている左手の両方をそっと心寧が手に取る。両手で握りしめて、目を閉じ眉を下げて微笑んだ。

「病死は発見が遅れ、特殊清掃が入らない限り事故物件の原因にならないんだって」

 ゴボリと核が体内で激しく動いた。

「ここを案内してくれた人……橋川って営業担当をアンタも見てたでしょ? あの人が言うには早く私の死体が大家さんにでも見つかれば、この部屋は“普通の部屋”として売りに出せる。橋川は態度が悪かったけど、だからといってここを事故物件にするのは申し訳ないからね。だから……窓ガラスを割って外の人間に異常を伝えてほしい。……理解できた?」

「……ああ」

「よし。ありがとう。もっと硬くて大きな積み木用意しておくから」

 温かい手が離れていく。立ち上がった心寧は眩暈がしたようで額を押さえながらベッドへと身体を横たえた。

 ふざけるなよ。

 言葉は発せず、ただそう思った。

 宇津木心寧は身辺整理をしている。己の死を想定し、後処理を我に任せて。身勝手にいなくなろうとしている。

 核がぐるぐると動く。身体が夕日に照らされた理由以外で熱い。

 コンコンと甲高い咳が静かに響いていた。

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