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私と怪異の箱庭の中にて  作者: 高崎まさき
カラスの章
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6/8

6.タイムリミット

 同居が始まってから九カ月頃。いつもより遅く帰宅し、早々に薬だけ飲んだ心寧は目が虚ろだった。

 頬が紅潮して、ふらついている。ブラウスのボタンを外しながら部屋を縦断し、寝室の椅子にかかった部屋着を掴んだ。喉奥で何かが絡んだような濁音交じりの咳を何度も繰り返している。ズボンの内側の紐をちょうちょ結びにして、そのままベッドへと倒れ込んだ。

「心寧、大丈夫か」

「ごめん。今日はちょっと、遊んで、やれない」

「遊べと言っているんじゃない」

 ベッド際に立つ我に背を向け身体をくの字に折り曲げて、短い言葉の合間に咳が入る。ゴボ、ゴボ、と続く。背中を触手で擦ってやれば、咳に語尾が掻き消された礼の言葉が聞こえた。

「カラスは、驚くよね。人間って、弱る時が、あるの」

「それくらい知っている。何か食べなくていいのか。リビングの机の上にゼリーとおにぎりを置きっぱなしだろう」

 持ってくるくらいの知能があるのは見せていた。幼子が親に拾った石を宝物のように見せに来るのと同じような無邪気な素振りで持ってくればいい。我がその場を離れようとすると、「心配してくれてる?」とか細い声がした。

「当たり前だろうが」

「大丈夫。慣れてるから」

「お前が病気がちなのは理解している。九カ月の間何度も体調を崩していたし、そのためのあの量の薬だろう」

「病気ってさぁ。風邪をそれなりの頻度で引いたことがある人と、年に一回も内科にかからない人で認識に大きく差があるよね」

 薬が効いてきたようだ。まだ小さく咳き込むが、間隔が空き身体を丸めて耐えなくてもよくなったようで仰向けになった。じっと見下ろし、今度は心寧の額に手を当てる。普段よりも高い体温が伝わってきた。

「私ね。一人暮らしを始めてから……高校卒業して実家飛び出してこっちで就職してから急に身体が弱くなったの。理由は今でもわからない。学生から社会人になったとか、親から離れたとか生活の基盤が大きく変わったけど、だとしてもこんなに続くわけないし」

 ぽつり、ぽつりと語り出す。今日は誰かの話ではなく、珍しく心寧自身の話らしい。

「最初の会社にいた時……その時は神奈川県に住んでたんだけど、寝ても疲れが取れないし常にだるいし熱っぽい。全身の至る所が痛い……もう何かおかしいのに段々と症状が増えてきてさ。少し歩いただけで息切れと眩暈がして、酷い日は吐いちゃう。お腹だってずっと壊してトイレに籠る日くらい毎日痛かった。……だから病院に行った。近所の内科で大学病院に紹介状書いてもらって……新入社員の時にいきなりお金も時間もかかったけど、これから一人で生きていくためには身体が資本だからね」

 身体全体を震わせて体内の酸素を全部吐き出すように咳き込んだ。浅く呼吸を繰り返していて、ざらついた音が心寧の胸から聞こえた。

「明日聞いてやるから、もう」

「今二十七なんだけど、三十まで生きられるかわからないんだって」

 伸ばしていた手が思わずとまり、身体の内側が激しく痛んだ。

 今、心寧は何と言った?

「検査したんだけど、どこも悪いところがなく原因はわからない。不定愁訴……とは今は言わなくて、MUSだっけ? とにかく何の病気なのか、何が原因なのかお医者さんでもわからないの。ただ身体が異様に衰弱しちゃって、死ぬ手前みたいな“そういう”数値が出た。どうしようもないから対処療法で、症状を緩和する薬を飲むしかない」

「ではあの籠の薬は」

 震える手をベッド下に隠し、心寧にとってはただの鳴き声である言葉を漏らした。症状緩和も大切ではあるが、心寧が毎日飲んでいる大量の薬は病気を治すためのものじゃなかった。足に力を込める。そうでもしなければ崩れ落ちてしまいそうだったし、それは“独り言”を呟いてる心寧にとって、実は“会話”であると突きつける行為だったからだ。

 苦しそうに胸を押さえながら微笑んでいる。頬が赤いのに、首筋が青白かった。

「いつもはね、薬で多少は抑え込めるの。でも時々症状が強まってこんな感じで寝るしかなくなる。その時々の間隔が最近狭まってきていて、一年前くらいの定期検査で余命宣告されちゃった。正確には余命を宣告する容態なのかもわからない“もしかしたら”の覚悟なんだけど……たぶん、ね」

「笑いごとじゃないだろう」

「病院で検査と診察が前より必要になったからこの家に引っ越したの。検査にお金かかるから家賃を押さえたい。何より病院に近くて安心だし交通費も減らせるでしょう」

「……お前、親は? 存命してるんだろう。その状態でどうして」

「一人で生きるって大変だよね。金もかかるし、辛くても動かなきゃ水すら飲めない」

 思わぬところで会話が成立して、言葉を飲み込んだ。いや、正確には我の言葉は愚問であったからだ。

 心寧の両親が心寧の世話をできる状態ではないことを知っていた。

 高校卒業間際には、父親は入退院を繰り返し、母親は手術手前で心寧が治療費の一部をアルバイトで稼いでいた。アルバイト先だった喫茶店でのトラブルは回避したが、代わりに負荷の大きい仕事でないと必要な収入を得られなくなった。

 心寧の職場の雑談の愚痴はきっかけは“本当に他人の出来事”だ。しかし我に語られるエピソードは“宇津木心寧”本人のものであると気づいていた。

「でもそんな病名すらつかない妙な状態って、説明しても理解を得られないことが多くてさ。今日だって症状が強くなったから午後は休みをもらおうとしたんだけど『だるいって皆だるくても仕事してんの。もう少し頑張りなさい』だって。だから頭きて、負けたくないから午後も無理して頑張ったのよ。そうしたら……眩暈が酷くなって立ち上がった途端に仰向けに倒れて意識が遠のいていった。酷かったよ、皆。『俺は帰った方がいいと言ったのに、宇津木さんが頑張ってしまった』だとか『先輩は朝からずっと体調が悪そうだったので、気にしていました』だの。倒れて動けない私に駆け寄りもせずに、周囲に大嘘の言い訳ばっかりしてるの。救急車を呼んだのは隣のチームの人。それで運ばれて、まあ色々あって……」

 「だから遅くなったんだぁ」と幼子のような笑みを浮かべる。それが酷く恐ろしく見え、核が小さく震えていた。

「先生がしばらく休みなさいって診断書出してくれた。体調が整うまでしばらくお仕事はお休み。でも、先生から説明があったし、私も何となくそんな気がしてるんだけど」

 思わず心寧の口を物理的に閉ざそうとした左の触手を右で押さえた。身体が冷え切り、沈んだ核が動かなく痛みを発している。

 やめろ、言うな。聞きたくない。

「そろそろヤバいかもって。もう職場に戻れないんじゃないかな。私……きっと死ぬのかも」

 心寧の背後にその姿を飲み込みそうな藍色の影が見えるような気がした。その悲しみよりも諦めが滲んだ笑顔と影が混ざり視界が段々と真っ暗になった。


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