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私と怪異の箱庭の中にて  作者: 高崎まさき
カラスの章
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5/10

5.我の始まり

 我は……と名乗る名前すら忘れるほど、長い年月を生きてきたらしい。

 「らしい」というのはそれすら忘れてしまったのを指す。ぼんやりと周囲が荒れ果てた土地であったりだとか、道行く人間の衣服が現在と異なるものであるとかそういった記憶が体内……人間でいう脳内で断片的に残っている。ただ長い年月を過ごした、という疲労感だけはある。

 とにかく、我の鮮明な記憶の始まり、“我の始まり”はこの部屋であった。気がつけばマンションの一室にいて、どういう理由か外には出られない。室内の移動のためなら扉も壁もすり抜けられるのに、この部屋を出ようと壁に触れれば水饅頭のような身体はぐにゃりと形を変えるだけだった。住民が窓や玄関の扉を開けた時に脱出しようとすれば、不可視の“壁”に阻まれてやはり身体が形を変えるだけであった。

 どうやら我は人間の言う“地縛霊”のような存在になっていたらしい。本当は何者なのかは不明だった。幽霊、妖怪、宇宙人……人間は自らと異なる“モノ”に様々な名をつけるが、それに倣えば一番近しい状況なのが地縛霊な気がした。だが“生前”の記憶も死して蘇った記憶もないため“ような存在”どまりで、“怪異”と大きく括った方が適している気もする。とにかく1LDKの二階角部屋の賃貸マンション。それだけが我の世界で築年数四十年が生きた時間で己は人ならざる者。それだけが真実である。

 出られずとも特に問題はない。己の正体がわからずとも問題はない。

 そもそも出たいという感情も己が何者かという探求心も持ち合わせていなかった。

 暗闇でもこの部屋の中であればすべてが見える。だから照明は必要ない。透明な身体をクッションの上に乗せ、藍色になった窓の外を見つめていれば玄関の方から金属音がする。一際大きな音がしたので扉をすり抜けそちらへ向かう。

「ただいまぁ」

 肩までのこげ茶色の髪にピンク色のブラウスと黒の花柄のスカートの女が片足を上げ靴を脱いでいた。我の姿を見て頬を緩ませる。右肩から貴重品が入った小さなショルダーバッグを、左肩からは大きな黒色のナイロンの手提げ袋を下げている。「ちょっと待ってね」と言いながら、ストッキングを滑らせるように洗面所へ向かった。

 水音を聞きながら我はリビングへ向かう。しばらく待っていれば鞄を担いだ部屋着姿の女が現れ、黒の袋から包装されたおにぎりを二つとほうじ茶のペットボトルを取り出した。鞄をフローリングへ投げ出して乱暴に腰を下ろせば椅子が軋む。そのままおにぎりにかかったビニールを剥がし小さな口でかぶりついた。しばらく咀嚼音だけが部屋に響く。ペットボトルを手にした衝撃で「こんぶ」と書かれたシールが貼ってあるビニールが机からフローリングへと滑り落ちそうになったので手を伸ばしキャッチしてみせた。

「カラス。いいのに。……ありがとう」

「礼はいい。しかし今日も米の塊のみか。前のように『弁当』を買ってはこないのか」

「今日は新しいおもちゃないのよ。そこのパズルで遊んでなさい」

 ほら、と女は人差し指を部屋の隅に向ける。円形のマットとプラスチックの籠が置かれたこの部屋の我用のスペースには十二ピースで構成された未完成のパズルが散らばっていた。

「前々から思っているが、お主は我を世話と庇護の必要がない三歳児だと思っているだろう。少なくとも人間よりは知性的な生物であるぞ」

「じっと見られると食べにくいから。……もしかしてタブレットがいいの? だったら寝室で見てて」

「やはり通じぬか」

 喉の発音器官を震わせる。この生活を続けて半年が経過するが、女には我の声は全て外でゴミを漁る黒い羽の鳥の鳴き声と同じに聞こえているらしい。だからそう名付けられた。ネーミングセンスはどうかと思うが、苦言すら鳴き声に変換されて聞こえているのだからどうにもならない。烏とは真逆の透明な身体なのに。

 仕方がないのでマットの上に行き、パズルのピースを決められた枠の中に嵌めていく。嫌いじゃないが、まさに児戯でありもう少々刺激がほしかった。だからタブレットは良い。アニメーションを見るのもだが、この部屋の人間社会の常識や何が起きているかがある程度把握できた。一日中見ていれば充電が切れてしまうことも知らず、黒いままの板を帰宅した女に見せれば充電の仕方を教わったのも数カ月前の経験だった。

 カサカサとビニールが擦れる音がして女が立ち上がる。プラスチックのコップに水を注ぎ、棚の上の紙袋から丁寧に錠剤のアルミシートを取り出していく。

「最近バタバタしててごめん」

 女がシートの出っ張りを押して錠剤を手のひらに落としながら呟いた。

「気にしていない。しかし大丈夫か。薬の量が増えているようだが」

「たぶんもう少しで落ち着くから。ちょっと待っててね」

「何をだ」

 手のひらに別々のシートの錠剤を二つ乗せ、水で流し込む。シートをしまったら別のシートを取り出す。それをいつも三回繰り返したと思えば、フローリングの上でしわくちゃに投げ出されている黒のナイロンの袋から同じサイズの紙袋を三つ取り出した。

「おい、それも飲むのか。増えすぎじゃないか」

「えっと……これが食後に一錠と二錠で、こっちが寝る前か。そろそろヤバいってアンタも思う?」

「答えを求めない問いはやめろ。……きちんと病院で処方された薬なら間違いはないと思うが」

 女が我に問いかける時は二通りある。一つは本当に回答を求めている時と、もう一つは我が“答えないもしくは理解できない”のをいいことに好き勝手呟く、要は独り言の延長だ。動画で見た飼っている猫に話しかける飼い主に近い。回答を求めてないが、ただ話しかけたい身勝手な欲望の発散だ。

 苛立ちから手をぶらぶらと振っている間に合計三錠を追加で飲み、紙袋の一つを寝室へと持っていく。ついていけば机の上に袋を投げ出し、溜め息をついていた。

 紙袋の下部にはいつもの薬局ではなく、別の場所が印字されていた。このマンションの最寄り駅の内科近くのドラッグストアでいつもは貰っているのに。住所欄を見れば、東京都内の途中までは見覚えがある住所だった。

 女が月に一回通っている大きな病院と住所が似ている。ということは今日は会社ではなく病院への通院日だったのか。

「通院は月一じゃないのか。二週間前の土曜にいったはずでは」

「今日、よく鳴くし動くね。近所迷惑じゃないからいいけど。ここが事故物件で感謝……は不謹慎かな」

「通じないのがもどかしいな」

 女からすれば「ガアガア」と延々鳴いているようにしか見えない。感情の高ぶりと共に体内の核が蠢いていく。女は「綺麗ね」と興味なさげに漏らしていたが、これが我の自分でも仕組みがわからない“人間でいう表情の変化”だった。

 薬の名を記憶してまた女の後に続く。この女が仕事に行っている間にタブレットで検索するのだ。女の発言から湧いた疑問を調べるのが日課になっていた。

「カラス。パズル解けたんだ」

「当たり前だろう。貴様よりおそらく百倍以上生きている」

「次は十六ピースにしようか。駅ビルに売ってたら買ってくるよ」

「いい加減知育玩具を買い与えるのはやめろ」

 飽きは来ないが別の刺激にも触れたい。人間は電子遊具機……ゲーム機で時に遊ぶそうだが、そちらはどうだろうか。 

 女はマットの上のパズルを、壊さないように部屋の隅に寄せる。そして積まれた絵本を我に差し出した。

「風呂入ってくるから読んでなよ」

「インターネットで検索したら三歳向けと出たのだが他にないのか。漢字も読めるぞ」

 「今日は本当にアヒルみたいに鳴く」と不思議そうな顔をして抱えた下着を手に去って行く。女が出て行った部屋は静かで、そして広く感じる。

「そろそろ我の知能が幼児でないことを知らせるべきか」

 女に何か異変があった。薬の量が増えたのも、半年続いたルーティン外の行動を取っているのも、気がかりである。そもそも本気で意思疎通をするならタブレットにキーボードを繋ぎ、文字を打てば一発で解消することをあの女と同居してから学んでいた。

 いや、だが。

 やめておこうと首を横に振る。核が足へと下がっていった。

 何度も悩み、そして毎回同じ答えを出す問いだった。女に我が本当は人間よりも知能が発達していると伝えたら。本来はもっと意思疎通が可能であるし、身勝手な独り言の意味をすべて理解していると知ったらおそらくは。

 籠の中の大量の処方薬が入った紙袋に近づく。どれも別の薬が入っていて、そして同じ名が記載されていた。

 宇津木心寧。

 この部屋に家賃につられて入居を決め、人ならざる我と同居するのを決めた妙な人間の名だった。


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