4.ある傷害事件の見解について
「悪いところがあったんだろうだってさ」
スマートフォンを左手で操作しながらうつ伏せに寝返りを打てば、クッションの上でミニカーのおもちゃを転がしていたカラスが手をとめた。カラスはどうやら二、三歳児が遊ぶようなおもちゃが好きらしい。金はかけたくないが、こいつはこの家から出られないのだ。私が仕事に出ている間に何か事件を起こされても困る。百円ショップで購入したおもちゃを定期的に与えていた。最近のお気に入りはプラスチック製の車体が赤、タイヤが黄色のオープンカーだ。
「最近ニュースでストーカーによる傷害事件があってね。被害者の女性は何度も警察に相談してたけど取り合ってくれなかったっていつもの流れ」
いつもの、と言ったがカラスは知らないだろう。寝そべりながらスマートフォンをカラスの方に向ければ、カラスが上体をこちらに伸ばしのっぺらぼうの顔を近づける。見えているのだろうか、人間の文字は読めるのだろうかに対して「何となくは理解してる」と結論付けたのは二カ月前だったか。知能も当初考えていたよりも高く、人間の三歳児より上くらいだとその頃に気がついたのだ。
カラスとの同居が始まってから三カ月が経過していた。
「警察も真面目に世のため人のために尽力してくれている人の方がきっと大半なのもわかるよ? でも、今回も酷い。怪我をする前に色々できただろうに」
カラスがガアガア鳴きながらスマートフォンの画面を叩く。のっぺらぼうの顔には青色の球体が二つ、鼻と右耳のあたりに漂っていた。それが例えば怒りから”眉をつり上げる”だとか悔しくて”唇を噛む”だとかそういう感情のサインかは不明だけど、何かしらこいつの心に動きを与えたようだった。
「これ、嫌なの?」
「ガァ……グァ」
二回。否定のサインを発しながらスマートフォンをぐっと私の方へ押してくる。
「わかった、わかった。ほら。こっちで好きなのを見てなよ」
ベッドの上のタブレットに指を滑らせ、無料公開されている子ども向けアニメを画面に映す。和やかなオープニングテーマが流れ始めれば、カラスは触手を伸ばし私の手からタブレットをぐいぐいと引っ張った。
「好きだよね、それ」
以前休日にカラスと一緒にタブレットで見たアニメを、すっかり気に入ってしまったらしい。最近ではタブレットを私の前に持ってきて「ガァガァ」と鳴いて見せるようにせがむのだ。
私がいない間はおもちゃで遊び、帰ってきて私にまとわりついた後はアニメを見る。そういう毎日を最近こいつは過ごしていた。家の外に出られない以外は中々楽しい生活なんじゃないだろうか。僅かな嫉妬を覚えながら今度は仰向けになる。「悪いことをしたら謝るんだよ」と兎のお姉さんが妹兎を諭す可愛らしい声がタブレットから漏れていた。
白い何も変わらない天井が広がっている。握りしめたスマートフォンから手を離して、腹の上で両手を組んだ。
──強く拒否しなかったその子にも非はあると思わない?
「思わねぇよ」
カラスが「グア」と不安げな声を上げたと思えば、視界の端に水饅頭みたいな触手がちらちらと上下していた。手を伸ばして指先でつっつく。相変わらずひんやりとしていた。
「ごめん、カラスに言ったんじゃないよ」
それでも不安なのか触手がゆっくりと降りてくる。私の前髪を横に払って額を撫で始めた。溶けるとゼリー状になる保冷剤に近い。もう少し冷えてくれれば熱が出た時に額に当てるのに丁度いいかもしれない。
「くすぐったいから。ごめんって」
ぺたぺたと足音がして、点々とした青の影がかかる。カラスが立ち上がり私を見下ろしていた。当然のっぺらぼうの顔からは何を考えているかわからない、けどじっと姿を現す前のように見つめられているのだけは感じ取れた。
……深呼吸をすれば腹がへこんで膨らんだ。仕方ない。
「さっきのニュースの話題が職場で出て、不快だったのを思い出しただけだから心配しないで」
それだけ息と共に吐きだせば、カラスがベッドの近くに腰を下ろした。首だけ動かしよく見れば左の一番下の手にはタブレットが握られていて、再生画面がとまっていた。
「腹立つよね。ただアルバイトしてただけなのに、絡まれて、被害を訴えても誰も聞いてくれなかったなんてさ」
何だか鼻の奥が痛んで、私はカラスの触手に手を添えながらニュースの少女の置かれた状況を想像していた。
「MとLの中間のサイズってないの? 俺、Mだと足りないけど、Lだといっつも残しちゃってさ」
はあ、と少女が瞬きをする。カウンターを挟んで男がわざとらしくカウンターに張られたメニュー表に顔を近づけた。
チェーン店のカフェは暖色系の照明とこげ茶色の机や椅子でまとまっていて、ほんの少し薄暗く、窓際の席だけが日光に照らされ白んでいた。甘い匂いがする。聞いたことのないジャズミュージックが流れ、狭い店内でそれぞれが干渉しないようぽつぽつと間を空けて客が数人座っていた。
黒シャツの男は顔をテーブルに近づけたまま両手を後ろにピンと張っていた。背後のガラス製の自動ドアが開き、スーツ姿の男性がハンカチで額を拭いながら入店してくる。
「ないの?」
顔を俯かせたまま、男が呟いた内容の意味がわからず少女の唇が僅かに開いて閉じた。ああ、サイズのことか。理解し小さく頷けばスーツの男性が前の黒シャツ男の手に顔を顰めながら後ろに並んだ。
「お客様、サイズはこちらに記載されたものだけになっております。申し訳ありませんがご注文を」
「ええー。俺常連なんだけど。知ってるでしょ?」
「すみません。お客様だけ、というのは致しかねます」
「はあ」とわざとらしく黒シャツ男が溜め息をつく。そして「アイスキャラメルラテのLで」とぶっきらぼうにメニューを指差した。
「五百九十円になります」
「高っ! キャラメルのソースがちょっとかかっているだけで九十円も値段違うの!?」
両手を広げてぎょろぎょろと血走った眼を剥きおどけてみせる。もじゃもじゃの手入れをしていない白髪が混ざった長髪がざわざわと揺れた。少女の背筋に冷たいものが走り、奥の厨房に素早く視線をやった。同じアルバイトの年上の女性と目が合うが、マグカップに布巾をかけ始めた。
「お客様のご意見は上の者に伝えておきますので」
ごほん、ごほんと後ろのスーツの男性が咳ばらいをする。黒シャツ男は振り返り、「すみませんね」とねっちょりと無精ひげの顎を撫でる。そして少女に「会計、早く」と捲し立てながら角の布が剥がれている財布のファスナーを勢いよく開け、百円玉と五百円玉を握りしめ手を少女に突き出した。
「こちらのトレイにお願いします」
「何で?」
背後のスーツの男性が貧乏ゆすりを始める。頻りに汗を拭いていた。
「では」
少女が手のひらを差し出せば黒シャツの男は手を重ね、一瞬手を握る。生温かい湿った硬貨が二枚少女の手に残り、速やかにレジを開け、おつりの十円玉をトレイに乗せ、テーブルに滑らせた。
「十円のお返しになります。ご注文の品は隣カウンターからお受け取りください」
「こういう時って手渡しじゃないの。真心が感じられないよ」
また背後から咳払いがして、渋々トレイから十円玉を黒シャツ男が乱暴に財布に捻じ込む。待ち構えていたように奥の厨房から女性がやってきてグラスに牛乳を注ぎ始めた。
黒シャツ男が横のカウンターにスライドしていったのを見送り、少女が小さく息をつく。
「すみません。いつまで待たせるんですか」
だが、休む暇はなかったらしい。スーツの男がハンカチを握りしめた拳をカウンターに叩きつける。慌てて頭を下げて「ご注文は?」と尋ねた。
「あれくらいさばいてくださいよ。アルバイトだって給料もらってるんだから仕事してください」
「すみません。ではご注文は?」
「アイスコーヒー、Sサイズ。クレジットカード一括払い」
「少々お待ちください」
「何泣きそうな顔してるんですか。僕が悪いみたいじゃないですか。女はズルいよな、泣きゃいいと思ってる」
ええと。クレジットカードの端末は。少女は差込口をスーツの男性に向けた。
歯を食いしばって、言葉を飲み込む。そしてまた隣の受け取りカウンターへと案内した。
その姿を壁際に陣取った黒シャツの男が、ストローの先を嚙み潰しながら睨みつけているのに少女はまだ気づいていなかった。
「心寧ちゃんのオススメってどれかな」
一瞬言葉に詰まり少女は目を丸くする。今この人は何て言った?
「お客様、何を」
「太奈河さんが教えてくれてさ、土曜日の午後から夕方まで働いてる子って名前何ていうのって聞いたら」
少女は右に首を向け、毎週同じ黒シャツにジーンズ姿の男がガラスでできた自動ドアの前に立った途端、厨房に消えた女性をじっと見つめる。女性……太奈河はぺろりと舌を出しそそくさとサンドイッチ用のレタスを冷蔵庫から取り出した。
「日曜の早朝もバイトしてるんだってね。太奈河さんにはお話ししたいならそっちがオススメって言われたんだけどさぁ。俺朝弱くて、誰か起こしてくれる人がほしいなぁなんて」
これで苗字も名前も知ることができたね、と少女の胸元のバッジを黒シャツの男は指差した。現実逃避のように視線を逸らせば席についている客と次々に目が合い、そして視線を逸らされる。
聞き耳を立てられ、観察されている。そう認識した途端、少女の頬が怒りと恥で熱を持った。
「名前で呼ぶのはやめてください。個人情報保護の観点からも推奨されておりませんので」
「いいじゃないか。俺の名前だって知ってる癖に。佐東って……ああ、とうが藤じゃなくて東なの、珍しくて覚えやすいでしょ」
「……すみません。ご注文はどうされますか?」
「愛想のないバイトがいるって本社に電話するぞ」
低く怒鳴り、佐東が膝でカウンターを小突く。胃が頬よりも熱く、ぐるぐると中で液体が回っている感覚がした。吐き出しそうになる胃液と言葉を押さえ、笑顔を張りつける。小さく会釈をしてもう一度「すみません。ではご注文は」と繰り返した。
「注文、注文ってさあ。俺は注文だけをしに来たんじゃないの。今、お客さんも少ないし心寧ちゃんのアルバイトが上手くいくようアドバイスしてあげようと思ってここにきたの」
「あの、店長や先輩に教わっておりますので……お気持ちだけ受け取っておきますね」
「ふぅん。本当に電話しちゃうよ? いいの?」
「お客様、すみません! ほら、謝って!」
後頭部に突然重さを感じ、カウンターのメニュー表が眼前へと迫ってくる。少女は目をぎゅっと閉じ、「ぐう」と唸った。
「太奈河さぁん。心寧ちゃんの教育どうなってるの?」
「すみませんねぇ。最近の子は礼儀知らずと言うか、まだ高校生なんでね」
「え? 高校生なんですか」
思わぬ個人情報の流出に少女は太奈河の腕を振り払い頭を上げた。
「先輩。私の情報を……」
「わっかいなぁ。うんうん、だったらやっぱりおじさんが導いてあげなきゃ」
佐東は頷いて、黒シャツの袖でこめかみのあたりの汗をぬぐった。毛羽立ち色落ちした黒が濃くなり、酸っぱい匂いが充満した。
「それなら学校には秘密のバイトなのかな? それくらいの“冒険”は若い内は必要だ。今日は何時上がりだい? よければ夕飯でも」
「来週小テストがあって勉強するので! ごめんなさい!」
少女の大声が喫茶店内に響く。様子を窺っていた客が笑いを堪え、一斉に珈琲を飲んだり、持ち込んだ文庫本で顔を隠して“我関せず”の姿勢を貫こうとした。
「うるさいぞ!」
野太い声が突如少女の声を掻き消した。佐東が大きく舌打ちをして、カウンターをつま先で蹴り飛ばす。「誰だよ」と叫び、奥のソファ席の方に振り返った。
先日のスーツの男が腕を組んで、大きく貧乏ゆすりをしている。佐東が鬼の形相で睨みつけた。
「あなた……トラブルばかり持ち込んでいい加減にしてちょうだい」
太奈河にそう耳元で吐き捨てられ、少女は胃が大きく波打った気がした。
「その被害者、それからもずっと佐東にまとわりつかれて店長や他の先輩に相談したんだってさ。でも店長も他の先輩も我関せずで『適当にあしらいなさい』どころか『あしらえないから勘違いするんだ』と逆に責められた。佐東は毎週被害者の子のシフトの時に現れてはカウンターで話し込んで帰り、その度に接客に必要な愛想なのに色目を使ってると批判され続けた。日によっては裏口でバイトが終わるのも待ち構えていたんだって。だから被害者は警察に相談しに行ったんだけど、追い返されちゃった。どうにもならないからバイトを辞めて数週間後……事件が起きた」
カラスの触手を揉むように握ってみる。青い楕円が流れてきて触手の先端に溜まった。これを握るのは怖い。学生時代の理科の教科書に書いてあった微生物の核を彷彿とさせた。これがこいつの心臓とか大切な内臓だったら一大事だ。手を離したのに、触手は私の額の上に留まったままだった。
「スーツの……会社員のおっさんいたじゃん? アイツも佐東とは別方向で厄介な客でさあ。佐東は被害者にストーキング行為をしていたんだけど、会社員の方は“怒鳴ってストレス発散できるから”カフェに通ってた。佐東のせいで仕事がままならない被害者に“客の立場”から“正当な”苦情を言えると思ったみたい。カスハラだよね、こんなの。だから被害者の子のシフトには被害者の子目当ての駄目なおっさんが二人もいた。一人はストーカーと化した佐東で、もう一人はカスハラの会社員。佐東は……勝手に自分と被害者と会社員を三角関係だと思い込むようになった。で、被害者の子がバイトを辞めたのは会社員のカスハラが原因だと暴走して会社員を路上でナイフで切りつけた」
カラスはずっと無言で私の話を聞いていた。スマートフォンでのニュースは拒否したのに妙だと思いつつ、続けた。
「あれだけ“被害者”の少女が困っていたのに、世間では“被害者”はその会社員の男だけ。ようやく警察も動いて店にも事情聴取が入ったって。で、本当の“被害者”の存在が明らかになってその結果……」
スマートフォンを再度見る気にもなれなかった。
「『その女子高生が毅然とした態度で男を勘違いさせなきゃこんなことにはならなかった』なんて、くっだらないことを皆インターネットに書き込むわけよ。馬鹿でしょ、人間」
「ア……」と小さな不思議そうな声が振ってきた。
「怪異のアンタから見たら、こういう人間の外野からの責任の押し付けってどう見えるんだろうなって思っただけよ。会社の連中も面白がって仕事中に『女子高生と加害者の男がそういう関係だった』とかニヤニヤしながら言うの……『宇津木さんはどう思う?』って加害者もろとも消えてほしい以外の回答を捻り出す身にもなってほしいわ。で、腹立ったから……」
胃から妙な水音がする。腸のあたりが刺すように痛んだ。
「今日は頭きてやけ食いにたこ焼き買ってきたのよ。消化不良起こして後悔してるけど」
左真ん中の触手が伸びて私の臍あたりを部屋着越しにさする。礼を告げれば「グァ」と小さく鳴いた。
「……あのさ」
「ガ……ァ?」
のっぺらぼうの顔が僅かに傾く。人間でいう首を傾げる動作なのかもしれない。
「何で皆、頑張れば何でも解決するから頑張るのが正しくて……問題はその人が頑張らないから解決しないって思うんだろうね」
「そんなことないだろうに」と唸れば、喉に違和感を覚え咳き込む。コンコン、と咳き込めば私の身体に乗せていたカラスの触手が震える。しばらく咳き込んで、そのまま上体を起こせばカラスが背中をさすった。
「だってさ。頑張れば何でも解決するなら佐東が諦めなきゃ被害者と付き合えてたし、それが正しくなっちゃうんでしょう? そう考えりゃおかしいって一発でわかるのに」
それだけ吐き出せばまた喉が震えて、身体がスプリングの上で跳ねた。立ち上がり、机の上に置いてあったコップの水で隣の錠剤を流し込む。ほんのりと甘い味が口内に残ってしまったので、残さないようにと口いっぱいに水を含んで飲み干した。
カラスがじっと背後から私を見つめている。その視線に佐東や会社員の男のような奴とも、その事件を面白がり無責任な感情で他人を傷つける会社の連中とも違う何かが込められていた。
「ちょっと考えればわかるのになぁ」
沸々とした怒りで何故か鼻の奥が痛んで、視界が滲んだ。何でだろう。何で、皆。
「……ア」
背後に気配を感じて、肩にそっと触手が添えられる。そのまましばらく私もカラスも空のカップを前にしてただ立ち止まっていた。




