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私と怪異の箱庭の中にて  作者: 高崎まさき
宇津木の章
3/4

3.ある他人の奮闘記

「頑張れば人生が変わっていたのに、だってさ」

 カラスは一瞬私の方にのっぺらぼうの顔を向けた。床の上で仰向けになり、一番上についている腕を伸ばして足首を掴み木馬のおもちゃみたいに前後に揺れていた。手が伸びるのを知ったのは姿を現してから三日後くらいだったと思う。

 端っこで繋がった割り箸を割る。白身魚のフライが入った弁当の蓋を開けてきんぴらごぼうを口に含んだ。

「職場の世間話。職場の先輩の友人の旦那の職場の人の昔話……ただの他人だよね」

 随分遠くの人の話であんなに盛り上がっていたのか。スチールでできたテーブルを四つ向かい合わせに並べたチームの光景を思い出す。十くらい上の上司に、あまり歳が離れていない最近髭を生やすか迷っている先輩。一つ下のいつもメイクが完璧な後輩にそれから私。私以外は大きな口を開けて笑っていたなぁとげんなりする。

 牛蒡を咀嚼している間にカラスは興味をなくしたのか、今度は腕を伸ばして、手のひらサイズの熊のぬいぐるみを投げて壁にぶつけては拾うを繰り返していた。二年前に寿退社をした同期の子からどこかに旅行した土産としてもらったものだった。いらないが捨てるのも勿体ない。怪異の遊具として使われるなら本望だろう。

 カラスが姿を現してから三週間が経過していた。

 今のところ、私は無事だ。家から何故か出られないらしいこいつは日中は部屋で一人で過ごし、帰ってくるとこうして一緒の部屋で自由に遊んでいる。こっちの言っていることはわかるようだが、意志疎通が本当の意味でできているのかは不明だ。やたら大きくて世話の必要がない不気味な犬や猫と暮らしているようなものだった。

「その他人さんの実家って、言葉を選ばなきゃかなり貧乏だったらしいの。お父さんは怪我の後遺症で無給どころか店の維持費だけマイナスになっていて、お母さんはそんなお父さんの介護をしながら週三のパート生活。そんな状態が学生時代に長く続いていたらしい。だから他人さんも、小さい頃からお父さんの世話をして、高校は頼み込んで行かせてもらったみたい。アルバイトしながら生活を支える条件で」

 跳ねたぬいぐるみが私の足元に転がってきたのでカラスの方に投げてやる。カラスはキャッチしようとしたものの、胸に当たりゼリー状の身体が震える。「ガァ」と不満げに鳴いたが気にせず、冷めた白米を頬張った。

「高校って色々お金がかかるでしょう? 学費だけじゃなくて二泊三日くらいで京都に行ったりだとか、部活やるなら野球部ならユニフォーム代とかさ。そのあたりを諦めて、時には親の介護で学校休みながら成績も赤点にいかないギリギリだったんだって。そんな状態でね」

 カラスは相変わらず私の話を聞いていない。ただぬいぐるみを投げるのに飽きたのか次は六本の腕でぬいぐるみを撫で始めた。

「担任がどこかの財団法人の奨学金制度を勧めたの。それは成績優秀かつ素行に問題ない若者が金銭上の理由で修学が困難な時に『お金を貸す制度』で、よく言われる学生ローンより利子が少なめらしい……まあ、学生にお金を貸す制度の是非は置いとくよ。ただ無理に決まってるよね。だから当然他人さんは断った。なのにさ」

 聞いた話に寄るとそれは進路指導室と呼ばれる小さな個室で起きたらしい。自分が通っていた高校で想像してみる。

 

 大学別の問題集がしまわれたスチール製の棚が並び、パーテーションで一対一のスペースが二つ分けられていた。手前は問題のない子の進路相談、奥の窓際の部屋はその逆の大事の相談によく使用されていた。その奥に座る。窓から入る日光を背負った教師の表情を窺いながら生徒は制服の裾を握りしめて机の上の書類をじっと見つめるのだ。

「何で断るんだい? 君にとってもお父さんお母さんにとっても悪い話じゃない。生活の負担を減らすことができる」

 心から不思議そうに教師はパンフレットを息子さんに差し出す。必要条件が記載されているページを指で叩いた。

「先生、理由があろうと成績も素行も悪い自覚はありますよ」

「アルバイトは家庭の事情を考慮して特別に許可しているじゃないか。多少居眠りは多いが……今から真面目に授業を受けて家でも勉強すれば来年には融資を受けられると思うんだ」

「その……最近父の容態がまた安定しなくなったので」

「君のお父さんは怪我でお店を休まれているんじゃ?」

「怪我が原因で病気になって、継続した治療が必要なんです。明日は定期通院の日ですが、付き添いに私が行くか母が行くかまだ決まっていないくらい……」

「大丈夫。もう少し頑張ってみようか」

 「は」と他人さんは声を上げる。教師は名案を思い付いたしたり顔で身を乗り出した。

「こんなこと言いたくないけどね、君はどうも諦め癖がついている。もう少しお母さんに頼ってもいいんじゃないかな? 君がアルバイトやお父さんの介護をする時間を一時的に勉強に回せば、最終的に卒業までの学費は浮くんだ。その時だけお母さんに頑張ってもらえるよう、交渉しよう。長期的にみればお得だからわかってもらえるさ」

「学費が浮くって奨学金は借りるんですよね。長期的に見ればむしろ出費は多くなると」

「でも、金よりも学生という時間の方がずっと大切だ」

 他人さんの胃がぎりぎりと痛んだ。吐く息に胃液の味が混ざる。なのに気にせず、担任は蛍光ペンを取り出しパンフレットの募集要項に線を引いた。

「世帯収入が低ければ低いほど可能性が上がるのだから、君の家は問題ない。後は成績要件と作文が選考要件だ。成績は今から頑張れば必ず上がる。作文は先生が添削する」

「待って、待ってください!」

 他人さんがパンフレットを蛍光ペンと机の間から抜く。真っ直ぐな線が印刷されている笑顔の女学生の顔に引かれた。担任がムッと眉根を寄せる。「どうした」と低く唸った。

「先生が私のために奨学金制度を調べて持ってきてくれたのは嬉しいです。でも、私がどんなに頑張っても、それだと無理なんです」

「だから君のその諦め癖は直した方がいい」

「これ、借りるのが保護者じゃないですか」

 蛍光ペンが引いてある金額や募集要項の右下に米印と共に記載されている小さな一文を指差す。「ご契約者様は保護者様となります」と濃い緑の背景に白字で綺麗に浮かび上がっていた。

「それが何か?」

「つまり、返済義務を負うのは父か母になります」

「だから勧めたんだ。僕はどうも未成年に借金を背負わすタイプの奨学金制度は嫌いでね。大人に守られなきゃいけない子どもがどうして将来の負担を増やされなきゃいけないんだって思うんだ。だから君も安心して……」

「先生がそこまで考えてくれたのには感謝します。でも無理なんです。父も母も借金を返せる余裕なんてありません。そもそも父なんて真っ当な責任能力を有するかどうかもわからない容態で……」

 担任に勧められる前から他人さんは奨学金制度についてある程度は調べていた。高校の学費が今後の経済状況で支払い不可となった場合、まだおぼろげだが大学に進学したくなった場合に必要な資金は借金だろうと自分が契約者となり返済しなければならないからだ。

 パンフレットの女学生が笑っている。反して担任は溜め息をついてパンフレットを置くよう、顎で指示を出した。

「お母さんがいるじゃない」

 担任が机の隅に寄せられたクリアファイルから紙を取り出す。指差した場所に他人さんが首を伸ばすと「申請書」と大きく印字されていた。

「母も……記入してくれないです。だって一時的にでも私が勉強に専念するなら、母がもっとお金を稼がなきゃいけなくなりますが、仕事を増やす余力、あの人にはないです。最近膝が痛くて歩きにくいって毎日訴えてきて……もしかしたら母も病院通いに」

「だぁからぁ! やる前から諦めるなって言ってるだろう!」

 担任が机を拳で殴る。長年使用して不安定になっている机が揺れ、大きな音を出した。

 他人さんがびくりと肩を跳ねさせる。その両肩を腰を浮かせた担任が掴んだ。

「どうしてやる前から無理だ、無理だと諦めるんだ! 君の家が大変なのはわかる。でも君がアルバイトをしてまで守りたい家族なのだろう? だったら君の幸せをお父さんもお母さんも願っているに決まってるじゃないか」

 肩にかけられた指が食い込んでいく。近づけられた顔から生温かい息がかかり唾を浴びて思わず瞼を下ろす。

「努力をする……どうしてそんな当たり前のことができないんだ。世の中には君よりも大変な家庭だってあって皆頑張っている。だからもう少しだけ君は学問に専念して成績を上げるように頑張ればいい。最初から否定せずにお父さんとお母さんに理解を求めようとすればいいじゃないか。大丈夫、君は引っ込み思案なところがあるがその殻を破るチャンスなんだ」

 他人さんが目を開ける。担任の大きな顔が目の前にあって血走った眼をぎょろぎょろとさせながら見つめてきていた。

 視線が合う。血走った瞳が細まり、淀んだ匂いがした。

 そして他人さんは──


「『苦学生に学びの機会を与えた熱血教師』になりたかったらしくて、自分が見つけたその制度をとにかく使わせたかったんだって。結局、その他人さんは親の理解が得られないから、その奨学金制度は当然無理。ギリギリ高校は卒業して、大学は諦めたんだとか。奨学金を返せる見込みが他人さん自身もなかったらしくてね。……給付型の奨学金もあるっちゃあったんだけど条件を満たすのは難しかったし、自分の力で調べるには限界もあってね」

 弁当の底に沈むナポリタンを箸で摘まみ、啜る。口の周りについた油分がぬるぬるしてティッシュボックスを自分の方へ引っ張った。

 口を拭き、ティッシュを見つめる。唇の形に赤い円がついていた。そのまま机の上の弁当を入れていたビニール袋に入れようとすれば「ガア」と鳴き声が耳元でして思わず箸を落とす。ケチャップが付着した割り箸が転がって点々と赤い線がフローリングに引かれていった。

「カラス! 後ろから叫ぶのはやめろって言ってるでしょう」

 四つん這いになりながら咎めれば小さく鳴き声が返ってきて頭にひんやりとした感触。箸を拾い立ち上がればカラスがティッシュを左の真ん中の手で掴んでいて、右の一番上の手を私の頭に置いていた。のっぺらぼうの顔が俯いている。反省したポーズなのだと最近理解した。

 ティッシュを受け取りしゃがんでフローリングを拭く。立ったり座ったりを繰り返したせいか一瞬目の前が真っ暗になって箸を叩きつけるようにフローリングに手をつく。カラスが不安げに鳴いた。

「別に大丈夫だって。で、そんな“他人さん”の話が仕事中に出たのよ」

 カラスはダイニングチェア、正確には私の隣で体育座りのような体勢を取って何もない顔を私に向けていた。奇妙な同居が始まってすぐわかったことだが、こいつは私の側にいようとする。仕事から帰ってくると玄関までその大きな図体を動かして廊下を駆けてくるし、叱るまでは風呂やトイレの前で出てくるのを待っていた。目の届く場所にいれば先ほどのように勝手に振る舞って遊んでいたりもするのだが、とにかく別の部屋に移動すると付いてくる。

 だから何も見えなければずっと誰かに見られているような、誰かが家にいるような感覚に襲われるのだ。

 よくわからないがこいつはそういう性質の怪異なんだろう。見た目は化け物だがやはり大きな犬や猫に近い。同居に全く問題はない。しかも家賃は三万だ。

 顔が傾き、私の太腿に寄りかかる。人間だったらセクハラで追い出しているが、怪異だから許すことにした。

 割り箸を元の袋にしまい、ビニール袋に入れる。割引シールが張られた弁当のパックは半分ほど減っていた。食事中に四つん這いになったりと動いたせいだろうか。胃が熱く気持ち悪い。口元を押さえ、百円ショップで購入したプラスチックのカップの中のほうじ茶でせり上がってきたものを流し込む。残りの玉子焼きと白身フライは明日タッパーに詰めて持っていくか。昼食代が浮いてちょうどいい。

 棚の上の紙袋を見つめて、息を吐く。あそこに行きたいが、まだ視界がちかちかと点滅し眩暈がした。だから背もたれに体重を預けながらカラスに続きの話を聞かせようと頭を撫でた。

 私の話の意味をどこまで理解しているのか、そもそも話を聞きたがっているのかも不明だった。出会った時のようなイエスノーの問いを一々するのも煩わしかった。もしかしたらこいつからすれば独り言を延々話している妙な家主なのかもしれない。

「そうしたら会社の連中皆、担任と同じリアクションだった。『何でそいつは家族と助け合わなかったのだろう。手を差し伸べてくれた担任の誘いを断ったのだろう。ほんの少し頑張れば人生が変わったのに』ってさ。その他人さん頑張れるだけ、頑張ってただろうに」

 「何で素直になれなかったんだろうね」と上司が心底不思議そうに腕を組み、周りが「反抗期で人生を棒に振るった」「学歴が全てじゃないですがやはり大学は」「取り返しのつかない間違いですね」と蔑み笑う。思い出せばまた、胃の不快感が戻ってきた。

 カップを持ち上げ、軽さに舌打ちが漏れた。意を決して弁当のプラスチックケースとカップを手に腰を上げれば、カラスが首の支えを失い不満の声を上げる。そのまま私の後を付いてきて背後から冷蔵庫を見下ろしていた。

「担任も会社の連中も何様なんだろう」

 弁当の残りはしまって、二リットルのペットボトルの蓋を捻る。半分ほど入れたカップを手に紙袋を漁ってそのまま寝室へと向かった。

 扉を閉めてベッドに転がれば扉をすり抜けて、カラスが入ってくる。茶色い木目のついた扉から餡子が青色をした水饅頭みたいな物体がすり抜けてくる。引っかかることもなく長い手足、胴体、頭とうねりながら寝室を縦断し、駅ビルで購入した平たいクッションの上に座った。犬や猫は飼い主が購入した寝床を無視すると聞いたが「よければ使って」と敷けば腰を下ろし手足を上下させていた。

 タブレットをつけて、適当に動画サイトの一覧を眺める。ペチペチと横からする音を聞きながら、子猫の画像の下に「【一緒に野球観戦!】バッターと一緒にホームランのジョン君」とタイトルの動画をタップした。

 野球中継を映すテレビとその前のマットの上で座る灰色の猫。「ジョン君はですね、バッターと同じタイミングで尻尾振るんですよぉ」と手前に見切れている発泡酒を持つ右手だけの男がゲラゲラと笑っていた。しかし、テレビのバッターと同じタイミングで全く尻尾を振ってはいなかった。

「タイトル間違ってんじゃん、これ」

 それでも甘ったるい声で「可愛いなぁ、すごいでしょ」と男は繰り返していて、コメント欄も肯定的な意見で埋まっていた。

「私達も心霊チャンネルでもやる?」

 冗談を投げかければカラスがハッと肩を跳ねさせる。見れば腕を伸ばしカラーボックスに突っ込んでいた。

「隠してもいいけど、後で返しておいてね」

 カラスは身体を一度震わせてカラーボックスから腕を引き抜く。先端で買い置きしていたマスクの箱を握りしめていた。

「物を隠す怪異は“炎上”しそうだなぁ」

 「果たしてこいつはカメラに映るのか」とか「人間でない存在の窃盗はバッシングを受けるのだろうか」とかそんな妙な考えばかりが浮かんでくる。そんな私をカラスは目のない顔でじっと見つめて、肩を落としたような素振りでそっとカラーボックスへと返却した。

 何だか可笑しくて思わず「フフッ」と声が漏れる。カラスは身体の中の青色の球体をせわしなく流動させぷるぷると震えていた。

 気がついたら動画の再生が終了していたタブレットの画面が消灯するまで私達はそうしていたのだった。


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