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私と怪異の箱庭の中にて  作者: 高崎まさき
宇津木の章
2/4

2.出会い

 弁当のパックをゴミ袋に入れ、引き出しの上に置いたプラスチックの籠から紙袋を取り出す。ペットボトルの蓋を開け、ほうじ茶を流し込んだ。つけたままの腕時計に目を落とせば午後十時半過ぎを針が指し示していた。風呂に沸かして入るより睡眠に時間を充てたい。シャワーで済ませてしまおうと下着を取りに寝室へ向かう。扉を開ければ我ながら特徴のない部屋が広がっていた。部屋の奥左側にベッド。右側に細長い机とセットの椅子。中央にホームセンターで買った茶色のラグを敷き、ベッドの隣と机の隣にホームセンターで購入して組み立てた三段のカラーボックスがそれぞれ一つずつ。基本的に服や荷物の殆どはクローゼットに収納し切れていた。クローゼットを開け、プラスチックのチェストから下着を取るついでにぐるっとクローゼット内を見渡す。何も変化のない……ましてや“誰かが住んでいる”痕跡などない薄暗い光景がただあって首をコキコキと鳴らした。

 ベッドの上に投げ捨てられたタブレット。しわくちゃの薄緑色の布団に中央がへこんだ白の枕。机の上の化粧品も、タブレットにブルートゥースで繋げるタイプのキーボードも足元のゴミ箱も何もかも変わらない。一通り部屋を確認し、後にする。

 橋川が言っていた心霊現象に遭遇せず、引っ越してから一カ月が経過しようとしていた。

 拍子抜けである。幽霊か何かはわからないが外廊下の羽虫の方が厄介だ。虫は苦手ではないが、部屋の中に入られては逃がすのに時間がかかる。疲労からかぼんやりと思考が靄がかってきた。足が重く太腿に鈍い痛みを感じる。引きずるように浴室へと進む。破格の家賃と喜んでいたが、広過ぎても面倒なのだと気づいたのは最近だった。家電量販店の片隅で投げ売りされていたコードレス掃除機の充電がもつのか不安を抱えながらいつも使用する羽目になるとは。

 明日は金曜日。乗り切れば二日は休みだ。

 それだけを考え、明日のための身支度をする。鞄にハンカチを投げ入れ、ポーチの中身を点検する。シアーベージュのストッキングを椅子の背にかけて、スマートフォンを枕元の充電器に刺し、右手を左手首に添えた。

 腕時計、どこにやったっけ?

 今の職場に転職したての頃に「社会人たるもの時間を常に意識しろ」と説教され、帰り道で購入した千円の安物だ。四角い銀フレームの文字盤に黒のベルト。シャワーを浴びたのだから、当然その時点では外している。食事の時に邪魔になってその時だろうか。あるいは帰宅して手を洗い、化粧を落とした時かもしれない。いや、さっき弁当を食べ終わった後に時間を確認したような気もする。連日の残業からぼんやりとした頭は数十分前の記憶を既に欠落させていた。数年使用しているのにも関わらず思い入れはない。きっと電池が切れたら交換せずに捨てる。だから失くしても問題はないのだが……。

 ミシリと家鳴りがして、背中に視線を感じる。ハッとして振り返ったが閉じたクローゼットがあるだけだった。

 また音がする。思わず唾を飲み込み、そっとクローゼットに近づき、勢いよく開け放つが数少ない服がハンガーにかけられ揺れているだけだ。また視線を感じ、振り返る。ベッドや机があるいつもの部屋だ。

 遂に、か。

 気がつけば小走りになり、私は家中を駆けていた。洗面所、洗濯機の上、ダイニングテーブルと腕時計を置きそうな場所を巡り息を切らす。腕時計はどこにもない。ドライヤーで乾いたはずの髪が額に張りついていた。

 キッチンから鈍い音がして、肩が跳ねた。そっと近づけば蛇口から水が流しに一滴落ちただけだったが、背後に立たれ見張られているような感覚に襲われた。

 腕を振りほどくようにぶんぶんと振る。しかし宙を切るだけで、「シッ」と息が漏れた空気が喉を刺激し盛大に噎せる。

 ぺた、ぺた、と足音が数秒前までいたダイニングテーブルの方からして、喉がヒュッと鳴り前屈みのまま動きをとめた。

 頭の先からつま先までじっとりと舐めるような視線に晒されている。背筋がぶるりと震えた。

「誰かいるの!」

 前屈みのまま、私は声を張る。喉に唾液が引っ掛かりまた咳き込んだ。流し台に左手をつき、ふらつく足を支える。

 ──あの部屋に住んでいた方々は皆。

 ぐわんぐわんと揺れ、視界が酸素不足からか黒く靄がかる。橋川の馬鹿にしたような、それでいて忌避を抑え込んでいる歪んだ笑顔を思い出した。

 ──私物を住んでいる“誰か”に隠されたと言い張るんです。隠された物を探していたら、視線を感じるようになって今度は“神隠しのように自分が”隠されるのではないかと不安になったと真剣に訴えたそうです。どうせ自分の過失で落としたのを部屋のせいにしたかったんでしょうけど、全員言うのだから……こちらもお祓いをしようと決めたと記録されています。

 腕時計は見つからない。条件はかつての家主と同じだった。

 ぺた。

 音が背後から大きくなる。私の濁音交じりの呼吸音よりもずっと部屋に響いていた。

 ぺた、ぺた。

 フローリングを裸足で歩く、皮膚が張りつき、剥がす音だった。近づいてきている。

 ぺた。

 “それ”は私のすぐ後ろに立ち止まり、視線を私の背中に降り注いでいた。間抜けにも尻を何かに突き出すような形で私は立っていて、喉を震わせる。

「だ、誰なの……?」

 背後に立っている“それ”は何も答えない。ただじっと視線を注いでいる。

「腕時計を隠したのは、あなた?」

 上体を起こすべきか。浅くなった息を整える間もないまま、動けずにいた。

「ねぇ。何が目的なの? 本当に神隠し、とか?」

 神隠しなら後ろに立つ“それ”は神様になってしまうけれども。果たしてこんな都心のマンションの一室にいるのだろうか。右手で額を押さえ、思考を巡らす。恐怖よりもねっとりとした不快感が勝っている、大変残念なことに。

 橋川が言っていた退去者と今の私は同じだった。きっかけは不明だが、現れる条件を満たし腕時計を隠され、姿を現した。見えないが、後ろに、いる。

 心臓がはやく脈打つ。落ち着いて、どうか。

「ずっとこの部屋にいたの? これから先も」

 何も答えは返ってこない。けど、それで良かった。

 だって。

「待っていたのよ。アンタを」

 後ろの何かが身動ぎしたのがわかった。なるほど、言葉は通じるらしい。だったら尚更都合がいい。私は上半身を倒したまま身体を捻るように振り返り、フローリングめがけて飛びかかった。

 昔ニュースに流れていたレスリングのタックルの見よう見まねだ。運動部に入ったこともない私は俊敏さに欠ける。顎をフローリングに打ち付け、歯がガチンと鳴り痛みが走る。舌や頬肉を噛まずに済んだのは助かった。

 私の両手はひんやりとした透明な棒を一本ずつ掴んでいた。その棒が激しく暴れ、逃れようとしているみたいだった。見えないがおそらく台風に晒された街路樹のようにしなっている。

「ガア…! グィッ! ギイ!」

 衝撃が身体全体に走り、カラスの鳴き声を野太くしたような悲鳴が二メートルほど先から鼓膜を突き刺した。透明な“それ”は足首を私に掴まれ、転んだのだ。それでも諦めず、這いずって逃げようとして、私の頬や肩に鋭い風が何度も当たる。蹴り飛ばそうとしているのを察し、一層力を込めつつ、肘と足を使い腹這いに“それ”に近づく。足首らしき場所から上、人間でいえばふくらはぎあたりを握りしめた。蒟蒻みたいな感触がして、染み出てきた何かで手のひらが水浸しになる。

 水がフローリングに飛び散る。“それ”が間違いなくここに“いる”証拠で私は歓喜の笑い声を上げた。

「ガアァ……ア!」

「隣が空き部屋で良かった。夜に掃除機もかけられるし洗濯機もドライヤーも使い放題。そしてアンタの声も届かない」

「ガ……アア! ァア!」

「反撃されたのは始めてだったの? 人の物に触れて隠して、足音まで出せるんだからよく漫画にある蜃気楼みたいな幽霊じゃなくて、実体があるってことでしょ」

 手に力を込めればまた水が手から溢れ出る。食器を洗うスポンジを思い出していれば、“それ”が大きく飛び跳ねた。アシカショーのアシカのように私も跳ねて“それ”の下半身の上に身体ごと飛び乗る。全身が濡れて、蜂蜜を薄めたような匂いがした。

 「グギッ!?」と首を絞めたような濁音が声に混じった。全身が強張って、やがて弛緩した。姿形が見えないものだから考えもしなかったが、もし見えていたら下半身に覆いかぶさっている変質者でしかない体勢を私は取っていた。

 「グィ……」と震えた声が頭上からする。親に叱られまいと機嫌を伺う子どもの怯えた声を想起させた。逃げられない、と悟ったのだろう。それくらいの知能があるとわかったのも収穫だった。

「あのね……私の言ってること理解してる? 肯定は一回。否定は二回鳴いてみて。答えたくない時は三回」

 一回の鳴き声。しがみついたまま、続けた。

「名前がないと不便だから……カラスと呼ぶね。カラスは私の腕時計を隠しましたか?」

 鳴き声がカラスみたいだから。安直過ぎるだろうか。

「ガア」

「よし。じゃあ次の質問。……カラスは私の命を取ろうとしてる?」

 「アァ! ア!」と被せるように否定される。「今までの入居者にも私にも出て行ってほしいからやったの?」と聞いても同じく慌てて否定された。

「それなら何で怖がらせるようなことしたのよ。じっと見られたり、物を隠されたら不気味に思うでしょうに」

「グア、アア、ガァ……」

 自分で指定しておいて一瞬何を言われたか反応が遅れた。答えたくないのか。疑問は湧くがまあ、いい。

 その後、何個か質問をした。アンタはここから出て行かないのかにはイエス。むしろ出て行けないのかにもイエス。誰かの未練から生まれた悪霊かにはノー。私が住み始めてからずっと見ていたかはイエス、姿を現すことはできるのかもイエス、飲食が必要かはノー……等々、まとめると。

「つまりだ。アンタはここから出て行けない存在だが幽霊ではない。私や今までの入居者に対し、追い出したり命を奪うためでないのに物を隠したり見えないのをいいことにじぃーっと観察していた。自分は怪異のような存在だが無害だ、そう言いたいと?」

「グア……」

 ふうん、と唸ればまたカラスの身体が震えた。

「信じられる要素が一切ないのわかる? 殺そうとしている相手に『私を殺しますか』と尋ねられて馬鹿正直に答えるわけないしね」

 湿気を帯びた空気が頬を撫でた。たぶん全力で首を振っている、そもそも首があるかも不明だがとにかく否定の動作を取っている気がした。

「とにかく確実なのはここが法的な意味で事故物件かは別として、人じゃない生き物のアンタが住み着いていたこと。アンタの思惑通りかは別として、皆アンタを怖がって退去しここは事故物件扱いになった」

 眼前にいるはずの透明な存在の正体は不明だった。ただ所謂“悪霊”の類でないから、橋川が言っていたお祓いの対象にもならなかったのだと思う。妖怪、UMA、宇宙人……知っている単語を思い浮かべてみたが何も変わらなく、便宜上“怪異のような存在”と呼んだがそれすら正解かも不透明だ。深く吐いた息がカラスの表面に当たったようで、押さえつけていた身体がもぞもぞとうごめいた。くすぐったかったらしい。

 目を閉じる。冷たい感触と恐る恐る私を見つめる視線。手を緩めた途端、惨たらしく殺される可能性だってあった。それくらい未知の生物が目の前にいて……いや、一カ月は共に暮らしていたのだ。水浸しの服が体温を奪っていく。濡れていない背筋にも冷たいものが走った。

 それでも目的は、決まっていた。

「私、この部屋、気に入ってるの。生きていくのに必要な場所へのアクセスもいいし、何より家賃が圧倒的に安い。生きるのって大変なのよ。その一つのお金の問題を軽減できるのは非常にありがたい。でもアンタもここから出られないんでしょ。だったら」

 きっと私は正気ではないのだろう。躊躇いなく出た言葉にカラスがまた震えたのがわかった。

「一つ約束して。一方的に観察するなんて悪趣味にも程がある。ストーカーの盗撮みたいで本当に不快。だから姿を現して、私のわかる範囲で見るなら許す。これを言いたくて私物を盗むの待ってたの」

「ガァ……?」

 一層甲高い声が上がり冷たいグミみたいな感触から柔らかさがなくなる。私の上体が反っていく。この正体不明の生き物が上体を起こしたらしい。

 おそらく座ったまま抱き合っているような体勢に私達はなっていた。ドラマで見た女性がソファで寝転がった男性の上に乗る恋人に甘える姿だった。経験がないから実際の恋人がああやって甘え合っているのかはわからないけれど。

 抱き合っても冷たい身体の持ち主は、こちらの様子を窺っているようだった。今まで以上に視線を、特に私の顔のあたりに感じる。私の発言の意図は察しているが、だからこそ困惑しているのだ。

「同居しましょうって言っているの。私はここに住みたい。私の要求を呑んでくれるなら私物を隠す以外は実害がないみたいだからね」

 途端、フローリングと私の間に青色のゼリーがじわじわと姿を現す。私の両手でも収まらないくらいの楕円もあれば親指と人差し指で作る円よりも小さなものもあった。一つ、二つ……と数えて十を越えたところで首を横に振る。そして、返事として私も拘束を解き立ち上がった。

 二メートルくらいの腕が六本、足が二本生えている人型がそこにはいた。透明な膜が張られ、中に更に透明な液体といくつかの青色の大小様々な球体が浮かんでいる。顔と思われる部分に目鼻口のパーツはなくのっぺらぼうだった。代わりに喉元が窪んでいて、そこから「ア゛ァ」と音がした。

 液体砂時計──雑貨屋でたまに見かけるそれを私は思い出していた。中身は常に流動していて青色のゼリー状の球体が不規則に動いている。

 あるいは餡が青く細かく分かれている水饅頭か。透明な身体はあの独特の見た目を想起させた。

「私物を隠してもいいけど、そこの紙袋と財布とスマホはやめてね。それ以外だったら後で返してくれるならいいよ」

 六本の腕の右の真ん中の腕がこちらに差し出される。そこに青色の球体が収束して手のひらの部分で穴が開いた。

 手を同じく差し出せば、ポトリと何かを落とされる。

 探していた腕時計だった。つまり、同居の了承でもある。

「よろしく。とりあえず寒いからもう一度シャワー浴びてくる。……あ、風呂とトイレも見ないでね」

 何故か一切濡れていない状態の腕時計をダイニングテーブルに置き、私は寝室へと向かう。また着替えを出して、シャワーを浴びたら床を拭かなければ。

 カラスと呼んでいる生き物は大きな身体を揺らし、私の後を付いてくる。照明を通して青色の光が私に降り注いでいた。カラスよりもガラスなんてしょうもないギャグと、カラスの色とは真逆だったなという僅かな後悔が脳裏を掠めた。

 一体何故私物を隠すのか、じっと入居者を穴が開くほど観察し続けていたのかわからないことがそもそも多すぎる。それでも私はこの勝手に“カラス”と呼んでいる謎の怪異と生活を始めるのを選んだのだった。


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