第17章──堕羅の化け物Ⅲ
Ⅴ
時間がなかった──。黒の国から帰ってきた錫は、一刻も早く済ませなければならないことがあった。
──「私の予想どおりなら、聖水さえあれば、あそこで無理にパパを助け出さなくても、人間の世界からパパを元に戻せるはず…。けれど、まず大ムカデのおじさんと乾丸先生を先に…」そうするのには理由があった。錫にとって自分の父親が大切なのは言うまでもない。だからといって不思議な能力で新天地の在処を示してくれた乾丸婦人──そして番で地獄へ行かせる約束を果たしてもいないのに、先に玉を渡してくれた大ムカデ──何はともあれ両者を助けねばならない。この順序を間違えると錫自身だけではなく、錫雅尊の名も汚してしまうような気がしてならなかったのだ。まして真っ先に自分の解毒をするなど錫には論外だった。
──「自分は最後でいい。幸いまだ症状は出ていない…。パパも、もう少しだけ待っててね…後で必ず助けるから…」錫はまず、大ムカデの待つ秩父の銅山へと向かった。肉体を離れた錫の魂は、いしのように早くはないにせよ、それでもとんでもない移動速度だ。たちまち大ムカデの棲む銅山へと到着した錫は、大声で大ムカデを呼び出した。
「慌ててどうした?今度は何があった?」
「大ムカデのおじさん朗報だよ!とうとうおじさんたちは番いになってムカデの地獄に帰れるよ!気の遠くなるような長い年月本当にお疲れ様でした…」錫は潤んだ目でそう告げた。
「本当に…本当にあいつをムカデの地獄に連れて行けるのか?間違いないのか?」
「うん、間違いないはず……これがそうよ!」取り出したのは宝水玉に溜めた祠の泉の聖水だ。
「〝実のならない樹になる木の実〟そして〝闇に眠る生命の源〟……大ムカデのおじさんが教えてくれなければ、この聖水を手に入れることは困難だったわ」
「その聖水とやらで、ワシたちは番いになれるのか?」
「そのはずよ!早く雌の……いや、ムカデの奥さんをここへ呼んで!」
「あぁ分かった…」大ムカデが奇妙な声で一鳴きすると、岩陰から雌のムカデが姿を現した。
「さてっと……じゃ、聖水をかけるわね…」錫は宝水玉に溜めた聖水を雌ムカデの頭からそっとかけてやった────果たして、それまで雌ムカデを覆っていた黒い霊気がみるみる取り払われたのだった。「やったぁ──!」
「おぉっ!……気の遠くなるような長い年月…ワシらはこの瞬間をどんなに待ち望んだことか。門番よ感謝する…心から感謝する」
「ううん…さっきも言ったように、大ムカデのおじさんが教えてくれなければ私は何もできなかった。須勢理毘売様や須佐之男のおじさん、乾丸婦人…みんなのおかげなの。それに…私の大切な仲間たちがいなければここまで辿り着けなかった…」錫は胸を熱くして語った。
「いいや…それこそがお前の人徳というものだ。…それよりお前…大丈夫か?皮膚の色が変わってきているが何かあったのか?………あっ、まさかお前…毒に!?」
「あ~…大丈夫大丈夫!解毒薬は…ほら、ちゃんとあるんだから」錫は宝水玉を持ち上げてニッコリと笑ってみせた。
「どうしてそれを使わない?……はっ!そうか…」大ムカデはすべてを悟って目を潤ませた。「…改めて感謝する。それをまだ使わないということは、他に助けたい者がおるのだな…?さぁ、急いで行くがいい」
「ありがとう、大ムカデのおじさん…お幸せに!」約束を果たした錫は急ぎ帰路に就いた。自らの霊気が徐々に弱まってゆくのを感じながら。
★
「なんと…奴がいとも簡単にやられるとは…。せっかくの切り札が…」
「申しわけございません…予想外でした…。どうやら堕羅の大門の門番に退治されたようで…」
「何?…先だって集鬼鈴を持っていた奴に違いない。むうんん……うっとうしい奴め…。奴はもう一度必ず来る──堕羅の大門を封印しにな…。その時に決着をつけてやる」
Ⅵ
錫が次に向かった場所は乾丸邸だった。幸いだったのは乾丸であろう魂を狶狶から救い出せたことだった。
──「狶狶が取り込んでいた魂は全部ここにある。この邪身玉の一つはおそらく乾丸先生のはず…」錫は乾丸の部屋のドアを開けることなく通り抜けた。婦人は乾丸の寝ているベッドで、腕を枕に眠っている。錫は乾丸の枕元に立つと、手のひらから宝水玉を取り出した。
その時だ──。婦人が錫の霊気を感じて目を覚ましてしまった。
「あら…巫女さん…………えっ!?あなた体はどうしたの?……まさか、あなたも越知のように呪われた?」
「あっいや…それが…あの~…毒には侵されたのですが、それが原因で肉体から離れたわけじゃないんです…。そんなことよりも乾丸先生と越知さんを元に戻す解毒薬を持ってきました。これを使って早く二人の呪いを解きましょう」
「えっ!?どこからそんなものを?」
「それは企業秘密です」さらっと流して、錫は乾丸の額に聖水を“ぽとりぽとり”と垂らしてみた。
──お願い…うまくいってよ…」ただただ祈るばかりだ。
「巫女さん、主人の顔が…」乾丸のざらついたウロコ肌が元の人間の肌へと戻っていった。「あ、あなた……よかった…………」婦人は乾丸にしがみついて安堵の涙を流した。「ありがとう…ありがとう巫女さん…」
「さて…次は越知さんね…」
越知英資も毒に侵されてはいるが、その魂はどこにも行かないよう乾丸婦人が摩訶不思議な封印札を使って別の和室に匿っている。
「越知さん…あなたもこれで戻れるわ」越知の額に聖水を垂らすと、乾丸同様、越知のウロコ肌はみるみる本来の滑らかさを取り戻し、両頬に赤みが差した。
「これでよしっ!…他に毒に侵された霊能者の人たちも、これを使えば大丈夫です。これは奥様に預けておきますね」
錫は別の宝水玉を取り出すと乾丸婦人に手渡した。
「では私…早く帰らないと…」急いで部屋を出て行こうとした錫は、クルリとふり向いて乾丸婦人に尋ねた。
「ところで…私…どこへ何しに帰るんでしたっけ!?」錫の記憶は曖昧になり──そして深い眠りに落ちた。
Ⅶ
お互いに同じことを考えていた──。信枝は綿が自分の体から抜け出せなくなったことを気の毒に思いながらも、心のどこかで〝ずっとこのままでも良い〟という気持ちを拭え切れなかった。綿もまた、自分は主人など持たないと言い聞かせながらも、このままずっと信枝の中で彼女の手足となって働けたらどんなに良いだろうかという思いが、まるで満ちてゆく潮のようにどんどん心の中に押し寄せてくるのだった。
「綿…聞こえる?もしこのまま私から出れなかったらどうなるの?」
「長い年月このままだと、同化してしまって抜け出るのが困難になるかもしれません…」
「そうなの…。でも大丈夫!必ず錫雅様が助けてくれる…。綿は一匹狼ならぬ一匹狛犬が似合ってるもんね…」
「「はい。〝ご主人さまぁ~…ずっと一緒ですけん〟などの忠誠心は、あたいの性に合わないですから…」綿は珍しくおどけていしの真似をしてみせた。
「そうだね…あはは…」。「はは…」
両者とも、意地っ張りなところまでよく似ていた。




