第15章──カン違いⅢ
Ⅴ
香神錫の祖母香神ミツは、幼くして両親を亡くしていた。
ミツの父親茜光浄は福岡県の北東部──俗にいう筑豊の炭田で炭坑夫をしていたが、落盤事故で命を落とした。それから一年も経たぬうちに労咳を患っていた母親孝子が後を追うように逝ってしまい、わずか九歳だったミツは頼るような親戚もおらず、中国地方にある孤児院「憑子園」にあずけられた。古い木造の建物はお化け屋敷のようだったが、家が無いより幸せだとミツは喜んだ。根っから前向きで明るかったミツは、一年もすると孤児院の環境にすっかり慣れ親しんでいた。両親を失った悲しさは簡単に拭えなかったが、それでもミツは弱音を吐かず、持ち前の明るさで元気に生きていくことに務めた。それからまた一年も経つと、ミツはみんなのまとめ役になっていた。年上の兄姉も年下の弟妹も、何か事があればしっかり者のミツを頼った。
ある日のこと、両親を亡くした〝白水紗華〟という八歳の女の子が「憑子園」に入園してきた。二年前に父親を事故でなくし、つい最近母親を病気で亡くした彼女にも、これといって頼る親戚はいなかった。境遇がよく似ていたミツは、この子を妹のように可愛がったが、母親を亡くした時のショックが強すぎて、言葉も笑みも忘れてしまっていた。それでもミツは、紗華に根気よくつき合った。
それからどのくらい経った頃だろう──園の庭の花畑で、いつものように静かに腰を屈め、小さな紅い花を見つめている紗華の姿がミツの目に飛び込んできた。
「ねぇ紗華…また紅い花を見ているの?」ミツが声をかけても相変わらず返答はない。ミツはふとあることを思い立って、紗華と同じように腰を屈めると、その背中を優しくさすってやりながらこう言った。「私が紗華に名前を付けてあげる。新しい自分になれるように…。…ね?いい考えでしょ!?」
「…………」紗華は黙って紅い花を見つめたままだ。
「紗華はこの紅い花を静かに見ているのが好きなんでしょう?だから……“静紅”…静紅っていう名前はどう?気に入らない…?」紗華は紅い花から目を逸らさなかったが、それでも初めて恥ずかしそうに口元が笑った。「気に入ってくれたのね。じゃぁ決まり…今からあんたは静紅だよ!」
ある夏の日のことだ──。ミツが大きな蚊帳の中で布団を蹴飛ばして寝ていると、ミツの肩を揺すって起こす者があった。寝ぼけ眼で自分の睡眠時間を奪おうとする犯人の顔を見てみると、静紅が血相を変えてミツを揺り起こしていた。
「どうしたの静紅…おしっこ?」ミツは回りで寝ている子を起こさないように気づかいながら小声で尋ねた。静紅は黙って首を横に振って、ミツの手を両手でつかむと必死で引っ張った。「何かあったの?」
「…」静紅は小さく頷いてまたミツの手を引っ張った。ミツを半ば強引に部屋から引きずり出し、広い廊下の突き当たり近くまで来ると、静紅は足を止めて一点を指さした──そこは物置だ。ガラス張りの引き戸の中には掃除道具や日用品、遊具などが仕舞い込んである。だが今はそんな物に用があるのではなさそうだ。ミツは静紅が自分をここへ連れ来た理由がすぐに分かった。
「子供……男の子……」年齢は六~七歳だろうか?黒い半ズボンに薄汚れたランニングシャツを着た男の子は逃げるわけでもなく、襲って来るわけでもなく、ただじっと膝を抱えたままこっちを見ているだけだった。
「静紅…あんたあの子のことを伝えたくて私を連れて来たんだね?」静紅は無言で頷いた。
ミツは今度は男の子に声をかけた。「君もずっとここに居ちゃダメだよ。早く帰らないと…」だが男の子はその場から動こうとしない。
「大丈夫!君のことはこの子と私でちゃんとしてあげる。だから帰りなさい」その言葉に男の子は黙って立ち上がると、物置の中にすぅーっと消えていった。
「静紅……あんたもなの?あんたも見えるの…?あんなのが見えるのは私だけかと思ってたよ──驚いちゃった…」
「……」静紅は戸惑って視点が定まらなかった。ミツはそんな静紅をなだめるように優しく言った。
「今まで静紅はああいうのをたくさん見てきたんだね?たぶん自分がおかしいと思っていたんでしょ?大丈夫、静紅がおかしいんじゃない…私だって同じモノが見えてるよ。もし静紅がおかしいなら私もおかしいんだ。私たちは姉妹だ……おかしな姉妹だ……でしょ!?……ふふふっ」
「…………!」静紅は今まで見せたことのない笑顔をミツに見せた。
それからの静紅は片時もミツから離れようとしなかった。園の世話に忙しいミツを率先して手伝いもした。いつの頃からか、静紅は園の仲間たちから〝ちいミツ〟と呼ばれるようになっていて、静紅はそれが嬉しくてならなかった。相変わらずしゃべることはできなかったが、以前と違ってミツに見せる表情や豊かな表現で、十分静紅の思いが理解できた。互いに身寄りのない二人は実の姉妹以上に心を開いていった。
小さな山の麓に古くからある孤児院「憑子園」は、これまで親に恵まれなかった多くの子供たちを見守ってきた。
泣いたり笑ったり、時には回りからの偏見にも耐えながら、子供たちは“土筆”のように真っすぐ育った。
。
十八歳になったミツは、今日「憑子園」を巣立ってゆく──。何年も世話になった孤児院だったが、荷物はわずか風呂敷一枚に収まった──ここを出てゆく孤児たちはみんなそうだった。けれども親代わりになって育ててくれた園の先生たちの溢れんばかりの愛情や、同じ境遇で育った仲間たちの想い出は、風呂敷一枚程度ではとても収まりきらなかった。
いよいよ別れの時──孤児院の全員が外に出てミツを見送った。泣きじゃくっている者がいた。ミツの体にさばりついて放そうとしない者もいた。先生からは〝今までで一番辛い別れだ〟と惜しまれた。
けれどもたった一人──静紅の姿だけがなかった。ミツは孤児院のみんなと別れを惜しみながらも、静紅のことが気になって仕方なかった。
汽車の時間が迫る──いつまでも別れを惜しんではいられない。ミツは後ろ髪を引かれる思いで「憑子園」を後にした。
汽車の発車時刻になんとか間に合ったミツは、窓側に座って重たい窓を上にあげ、外を見ながら静紅のことを考えていた。
──「あの子はきっと別れがツラいのね…」静紅の気持ちを察しながらミツは涙を浮かべた。
間もなく汽車の窓の景色が動きだすと、柱の陰にポツンとたたずむ姿が飛び込んだ。ミツはその姿を見るや否や身を乗り出して叫んでいた。
「しずくぅー……幸せになりなさ~い!あんたは私のかわいい妹だからね…だから…絶対に絶対に幸せにならなきゃだめー!」静紅は居たたまれず柱の陰から飛び出してきた。そして走った──ミツを乗せた汽車を追いかけて、線路の横をただただ走った。何かに蹴躓いて転んだが、すぐに立ち上がると、静紅は大きな声で叫んだ──。
「ねぇさ~ん…姉さんありがとう……ミツねぇさ…ん…………」ミツは一瞬自分の耳を疑った。驚きと喜びで窓から落ちんばかりに身を乗り出し、泣きながら静紅に負けない声で叫んだ。
「しずくぅ~…しずくぅ~……」。「ねぇさ~ん……ミツねぇさぁ~ん……」
声が届かなくなっても、二人は互いの名前を呼び続けていた──。




