第14章──堕羅の門番Ⅰ
堕羅の門番
Ⅰ
「ご主人様、近いです…近いですけん」。「…すぐ近くから強い匂いがしてる」もう一寸先も見えない状態だった。それでも、いしと綿の鼻を頼りに進んでいくと、いしが足を止めて叫んだ。
「ご主人様、ここです…ここが匂いの源ですけん!」
「綿も同じ?」信枝が尋ねた。
「はい、あたいも雄狛と同じです」
「いし、綿、もう一度聞くけど、本当に花の香りではないのか?」錫に念を押されて、いしも綿も今一度その匂いを確かめてみた。
「ご主人様…やはり花の香りとは違います──きさまはどうだ?」。「あたいもこいつと同じです」
「こ、こいつとはなんだ!」。「あんたが先に〝きさま〟って言ったからよ!」
「よさないか…二人とも!」錫に一喝されていしも綿もしんみりだ。「…いし、綿…今はけんかをやめて二人で協力してくれないか…。匂いが変わっている場所はここに間違いないな?…だったらこの辺りに花が咲いていないか調べてみてくれ」両者は一時休戦して辺りを調べてみたが、花は疎か草の一本も生えてそうな場所ではなかった。
――「〝花咲き漂う香り…〟私の考えが間違っているのかな…?」錫は行き詰まったが、いしと綿は諦めず辺りに花が咲いていないかどうかを調べていた。もっとも綿は信枝の手足に収まったままなので動き回っているのは信枝なのだが──。
そんな様子を〝ぼや~〟っと見ていた錫は、いしとの会話を思い出した。
「いし…白の国や黒の国は同じ方角にあっても次元が違うからそれぞれの国に行けるんだったな?」
「はい、そうです…」
「いしや綿のように鼻の利く狛犬は、その次元を探し出すことができる…そうだな?」
「そのとおりです!自慢ではありませんが、わたくしたちにはお易いご用ですけん」
「では探してくれ…今漂っている匂いは、おそらく別の次元への入り口だ。その次元を見つけて東に向かえば、違う国に行けるはずなのだ」
「はいですご主人様…それでしたら簡単ですけん」いしは今立っている場所を少しだけ移動して、嬉しそうに錫に告げた。「ここです。ここから違う次元に入ることができますけん!」
「ありがとういし。綿にも礼を言うぞ!ではもう一頑張りしてくれ。私と信枝殿を乗せて、別の次元を東に走ってもらいたいのだ」
「はい、お任せくださいませ!」いしは大喜びだ。だが喜んだのはいしだけではなかった。先にいしの背中に信枝を乗せ、その後ろに錫が乗ろうとすると、信枝は錫に自分の前に乗ってくれと必死で頼むのだった。悪い予感はしていたが仕方なくそのとおりにすると、案の定いしに跨るや否や信枝は錫の後ろから手を回してきて〝ぎゅっ〟っと抱きついた。
「これで安心ですわ!」
「の、信枝殿…そんなに抱きつかなくても充分安心ですが…」
「ここは地獄ですし、こんな深い霧の中ですもの…何が出てくるか分かりませんから……うふふっ!」
――「〝うふふっ〟って………こりゃ口が裂けても錫雅の正体は明かせないわ…」
別次元に入ったいしは、濃い霧の中を軽快に東へ東へと駆けっていた。錫がこの退屈な景色がどこまで続くのだろうかと思った矢先、錫の心を見透かしたかのように、突然視界が開けた。そこは黒の世界とは異なり目映い光がふりそそぐ楽園だった。天は青く澄み、地は水で満たされ穏やかな湖の如くだ。まるで人間界を彷彿とさせる景色だが、その規模はあまりにも小さかった。例えれば野球場三つ分の世界といったところだろうか。地はほとんどが水で覆い尽くされていたが、中央に向かって細い道が一本だけ通っている。錫たちが出てきた場所はちょうどその細い道の正面だ。蛇のようにくねった細長い道を目で追っていくと、その先には小さな島が一つだけぽっかりと浮いている。それは〝あの島こそが目的地だ〟とお約束されているようなものだった。ところがそう易々と先に進ませてもらえないのもまた――お約束のようだ。
「錫雅様、正面の道が赤い鉄格子の門で閉ざされていますよ。それに見張りでしょうか…小さな赤鬼が正面にのさばっています…」信枝の言うとおり、赤鬼はどっかり胡座をかいて鼻をほじっている。
鬼の存在が恐くなくなった錫は、いしから降りて赤鬼に近づいた。「ここの看守か?」
「そうだが、こんな所に客が来るとは…。うちの親分は外出中だが…何か用か…?」
「あの島へ行きたいのだが、この赤い門を開けてくれないか?」
「なに…門を開けろと…?親分に聞いてみんと分からん…。お前はなんという名だ?」
「私は錫雅尊だ」
「錫雅尊だな……ちょっと待ってろ…。鬼は腰にぶら下げていた袋から、折りたたんであった薄い皮のようなものを取り出し、便せんほどの大きさに広げると、指先で〝ごしょごしょ〟と何かを書いていたが、今度はそれを器用に折り曲げて紙飛行機のようにすると、上に向けて飛ばしたのだった。赤鬼の手を放れたそれは、たちまち加速して見えなくなった。
「すぐに返事が来るから待ってろ…」赤鬼の言うとおり、ものの一分も経たないうちに同じ形をした紙飛行機が返ってきた。赤鬼がそれを開いて読むと、内容を錫たちに説明した。
「親分は直に帰って来なさる。そんでと……錫雅尊だけ、このまま島に行っても良いとのことだ…」
「わ、私だけか?他の者たちは?」
「ダメだ!但し狛犬は別だ。因ってお前はここで待機していろ」赤鬼は厳しい口調で信枝を止めた。
「どうして私はダメなの?錫雅様に何かあったらどうするの?」
「ワシに噛みつくな。親分の命令は絶対なんだ。…で、どうする?行くのか?行かないのか?」
「……行く…行くから門を開けてくれ。信枝殿…すまないが少しの間ここで待っていてくれ」
「私はあなた様を何年も待ってた女です…このくらいなんでもありませんわ…」
――「もう、信枝ったら……大袈裟なんだから…」
「綿、信枝殿を頼んだぞ!」赤鬼に門を開けてもらった錫は、島へ続く細長い道を歩き出した。
目の前に浮かぶ小さな島は、絵本に見るような、ポッコリとしたお椀型の島だった。
「黒の国にあって、唯一植物が存在する場所――ご主人様…目的の場所はあの島に間違いないですけん」
「うん……そうあってほしいわ…」
「それでご主人様…どうしてこの場所が?」
「あっ…それね。さっきはボロが出そうで説明しづらかったの…信枝が一緒だったからね…きゃはははぁ」
「信枝殿の勘は鋭いですからね…くくく」
「答えは意外に難しくなかったの。いしが説明したでしょう、干支と方角の関係を」
「はい、確かにいたしましたが…」
「干支は動物でしょ…それで乾丸婦人から貰った謎の暗号文が頭に浮かんできたの。あの暗号文も、一匹とか一頭とか…動物が出てくるじゃない?」
『そこは誰もが嫌う異国
一匹ではない・一頭でもない・二羽はいるけど羽はない
花咲き漂う香りをかぎ分け、ただひたすらに進みなさい』
「誰もが嫌う異国とは地獄に違いないと思ったわ。でも次の文が何を指すのかちんぷんかんぷんだった…もしかして鬼の数え方かなぁ…?とも考えたわ…」錫は〝くすっ〟と笑って話を続けた。
Ⅱ
「朋希は……あの子は女の子なのよ…」朋希は以知子の娘だった。隣の家には三つ年上の俊彦君という男の子がいて、朋希の遊び相手になってくれていた。ただし、俊彦君はお人形さんごっこやおママごとは苦手なので、庭でボール投げをして遊ぶのが常だった。朋希も外で元気に遊ぶ活発な子だったのでそれを喜んでいた。
朋希にボール投げをして遊んでくれるお兄ちゃんがいると聞いた雨月は、勝手に朋希を男だと勘違いしたのだった。男とも女とも取れる曖昧な名前だが、思い込みで〝僕〟と言ってしまったのは致命的だった──。
あれ以来、原越以知子は霊媒師やその類のものを信用しなくなった。娘の朋希と会いたい願望はあったが、それは〝ぐっ〟と堪えて辛抱した。どうせまた騙されて、期待したその何倍も落ち込むのが目に見えていたからだ。
それからまた年月が過ぎた──。以知子の心にはずっと娘の朋希がいた。いつかこの世を去ったら朋希と会える──以知子は自分にそう言い聞かせて過ごしていたのだった。
家政婦としてやって来た以知子が、乾丸家で初日の夕食の支度をしている時のこと――〝貴女も一緒に夕食を食べていきなさい〟と乾丸に誘われた。一旦は遠慮して断ったが、それでも食べていけと強く押された以知子は、それ以上断る理由もなく素直に甘えることにした。急遽自分の料理を一人分増やそうとすると、乾丸は〝すまないがもう一人前料理を追加しておいてくれ〟と言い残してその場を去った。他にも客人が来られるのだろうと思いつつ、以知子は言われるとおり計四人前の食事の準備にかかった。
夕食が整うと、乾丸夫妻は改めて以知子に〝これからよろしく頼む〟と頭を下げた。家政婦として雇われているだけの以知子には心苦しい歓迎ぶりだった。それから三人でテーブルを囲んで以知子の作った夕食を食べ始めた。だがあと一人の客人はその席には来なかった。以知子は客人が何かの事情で遅れてるのだろうと思っていたが、とうとう最後まで現れることはなかった。遠慮して言い出せなかった以知子だったが、食後のコーヒーが済み、片付けを始めようとした時、思い切って尋ねてみた。
「どなたかもう一人来られるはずだったのですよね?このお料理はどうすればよいでしょうか?」
すると一言――乾丸は笑いながら答えた。「もう一緒に食べたよ!」
以知子は乾丸の言っている意味が分からず、思わず婦人に目を遣った。すると婦人も同じように笑って頷いたのだった。以知子が困惑している様子を見て乾丸は高々と笑った。
「すまないすまない。そう深刻にならんでくれ」そう言って以知子をもう一度イスに座らせた。
「以知子さん…あんたは幼い娘さんを病気で死なせているね?さぞ辛かったろう…。亡くなった娘さんは未だ片時も離れることなくあんたの側にいる。ずっとあんたを守護しているんだ。今日はそんな娘さんにも一緒に夕食を食べてもらった。いやぁ~…あんたの手料理は実に美味しかった。うちのやつよりずっと上手だ」そう言ってチラリと婦人を見た。
「あらっ……私もそれは認めますけど、目の前でそうはっきり言われたら面白くありませんわ」乾丸夫妻は睦まじやかに笑い合った。そしてまた続きを話し始めた。
「娘さんは喜んでわれわれと夕食を共にしてくれた。あんたが意図的にそうしたのかどうかは知らんが、娘さんが普段から大好きだったジャガイモの煮っころがしが一品あった──そう…娘さんが生きている時、最後に口にした料理だ。それはそれは喜んでいたぞ――〝やっぱり母ちゃんのおじゃがは美味しい…〟とな…」
もう駄目だった――。それまでなんとか涙腺の出口で堰き止めていた涙が一気にあふれ出した。以知子は噎びながらしゃくって泣いた。
乾丸の言うとおりだった。以知子の一人娘・朋希は、五歳という可愛い盛りに白血病でこの世を去った。母一人子一人だった以知子には気が狂いそうなほど辛い出来事だった。悲しさと孤独さに耐えきれず、自分も後を追って死のうと何度考えたか分からない。けれどもそんなことをすれば娘がかえって悲しむだけだと、その度に踏み留まった。
乾丸は母子しか知り得ないことを知っていた。朋希は以知子を〝母ちゃん〟と呼んでいたし、病気が原因でこの世を去っている。最後に口にしたのが、じゃがいもの煮物だと言い当てたのにも驚いたが、朋希がじゃがいものことを〝おじゃが〟と言っていたことを知っていたことにはもっと驚いた。しかも乾丸はそれとなく朋希のためにお膳を据えてくれていたのだ。この配慮は以知子にとって格別嬉しいものだった。
その夜、以知子は目が冴えて眠れなかった。暗い部屋で布団をかぶり、教えてもらった娘のことを何度も何度も思い返しては、その度に胸を熱くしていた。
「相手への思いがあまりにも強すぎると、かえって何も感じなくなることがある。今のあんたが正にそれだ。だが娘さんは片時も離れることなくずっとあんたの側にいたのだよ。大好きな母ちゃんを守ってあげたくて付ききりだった。それはこれからも同じだろう。いつまでも親子仲良く寄り添ってゆくといい」乾丸の一言一言が以知子の冷えきっていた心を暖かくしてくれた。泣きながら乾丸の話を聞いていた以知子の背中を優しくさすりながら――今度は婦人がこう語った。
「娘さんのことは安心していなさいね。亡くなっていても幸せそうよ。私からも一つだけ教えてあげましょうか?朋希ちゃん…白いエナメルの靴を大事そうに抱えているわよ。いつか母ちゃんと手をつないで歩く時に履くんだといって、それはそれは大事そうに…」
「………うっ……あっ…ううぅ…」以知子は婦人から目を逸らそうともせず、それまで以上に泣いた――。




