第13章──手練手管Ⅲ
Ⅴ
結局──小鬼稚は獄中の危険な奴を逃がしていた。小鬼稚なりに悩みに悩んだ末の結論だった。けれど約束した時間はとっくに過ぎ、半日経ってもまだ戻らない。小鬼稚を焦燥と不安が襲っていた。
自分の出した答えが間違っていなかったと信じる心を、過ぎてゆく時間が削り取ってゆく。居たたまれなくなって兄鬼にすべてを話そうと決意した時、まるで〝そうしろ〟というタイミングで兄鬼の方から様子を見に来たのだった。
「こ、これは……いったい…」半開きの牢の扉と、頭を抱え込んでいる小鬼稚を見れば、奴がもうそこに居ないことは察しがついた。
小鬼稚は兄鬼の姿を見るや否や、安心と焦りの絡み合った表情で兄鬼に必死で事情を説明した。
「大バカ野郎──絶対に逃がすなとあれほど言っただろうが!」
「でも兄鬼、奴が言ってたことが本当なら、オレはみんなを助けたことになりますぜ…」
「まだそんなことを言ってるのか!だったら一時間で帰って来るはずの奴が半日過ぎても帰って来ないのはどうしてだ?あっ?…ダマされたという何よりの証拠だ…この大バカ野郎!」
「でも兄鬼はオレのことを〝融通が利かない〟とか〝頭が固いくせに、誰の言うことでも信用してダマされる〟とか言ったでしょう?だからオレは頭を柔軟にして融通を利かせたつもりで…」
「…融通が利かないからころっとダマされたんだ、大バカ野郎!なんにも分かってないな、お前という奴は…」
「でもですね…言い訳するわけではないですが、奴が恐ろしい化け物から借りていたという道具……本当に怪しい霊気を放ってましたぜ…」
「だからってその道具が借りてきた代物だとどうして分かる?もしかしたら…いいや、もしかしなくても、その道具は奴の愛用品に違いない」
「けれど…『奴が来る奴が来る』と相当怯えていました…あれはとても演技には見えなかったです…」
「逃げるためならなんだってするに決まっているだろう…お前はどこまでバカなんだ!」
「じゃ…やっぱりオレはダマされたんで?」
「最初からそう言っているだろうが!」兄鬼はそうとうイラついていた。
――「困ったことになった……これからどうすればいいんだ…」
「兄鬼…何を考えているんで?」
「バカな子分の尻ぬぐいをどうすればいいのか考えているんだ…。とにかくオレ様は親方様に事情を説明してくる。おそらくオレ様もお前も〝無〟は免れないだろう…」
「えっっっっ!?そ、そ、そんなに罪が重いんで…?」
「前に説明しただろう…。親方様から絶対に逃がすなと言われていたんだ。奴は相当切れ者だ…。これはとんでもないことになるかもしれんぞ」
小鬼稚は今頃になって、先に兄鬼に相談すべきだったと頭を抱えて後悔した。
Ⅵ
越知英資はようやく自分がおかしいことに気づいた。何日も何日も寝ては覚め寝ては覚めの繰り返しなどあり得ない。しかも腹が減るでもなく便意があるわけでもない。そんなことを考えているうちに、また睡魔が襲ってくる。思考能力がそこで止まってしまい、いつの間にかまた深い眠りに落ちた。
時折越知の様子を覗きにくる家政婦の原越以知子は、眠っている越知を見て気の毒そうに眉を顰めた。その時もし越知が目を覚ましていれば、決まって〝のどが渇いたから水をくれ〟と頼んでくる。以知子が黙って冷たい水をコップに入れて越知に差し出してやると、待ちかまえたようにコップを受け取り、さも旨そうに水を飲みほすのだが、実際は本人の錯覚であって本当に水を飲んでいるわけではない。
以知子は早く越知を元どおりにしてやりたかったが、どうにも成す術がなかった。
〇
原越以知子が乾丸家の家政婦になったのは、今から二十年以上も昔のことだった。
ある日、乾丸婦人は内臓の病に罹った。入院こそ免れたが、暫く安静を強いられた乾丸の屋敷に家政婦紹介所からやって来たのが原越以知子だった。乾丸夫婦は大きな屋敷に暮らしていたが、子供には恵まれず二人だけの生活だった。だが人の出入りが多く、客人は絶えることがなかったので寂しいと感じることはなかった。
はじめ以知子は、乾丸のことを〝どうせ胡散臭い霊能者だろう〟と軽く見ていた。それには理由があったのだが、それは以知子の問題であって人に言うことではなかった。
以知子の霊感はかなりのものだった。昼夜を問わず霊を感じたし、その気になれば姿を見ることも話をすることもできた。なのにどうしても亡くなったわが子だけは、その気配を感じることさえ叶わなかった。〝せめて魂となったわが子と会いたい…〟それが以知子の悲願となっていた。
自分ではどうすることもできないと悟った以知子は、家の近くに霊媒師がいると聞いて縋る思いで馳せつけた。眼力の鋭い中年の男性霊媒師は、以知子と対面するとすぐに素性や生活環境、亡き人との間柄、亡くなった時の年齢、理由、想い出など、こと細かく尋ねてからやっと霊媒を始めた。
霊媒師は以知子に背を向け壁側を向いた。その正面には低い台座が置いてあり、質素な供え物と大きなろうそくが左右に灯してあった。
「では始める…」大きく息を吸い込んだ霊媒師は、何やら口の中で“もごもご”と呪文のような言葉を唱えていたが、やがて大きな円を描くようにグルグルと頭を振りだした。その間も“もごもご”と口は動いていたが、頭の振りがピタリと止まると、呪文らしき言葉も止んだ。
「お母さん…お母さん…そこにいるの…?まだ死にたくなかったよ…」子供らしい声色になった霊媒師が語り始めた。
以知子は霊媒師に憑いたわが子の霊に話しかけた。「今どうしてるの?」
「お友だちがいっぱいのところで暮らしてる」
「食べたい物はないかい?」
「大好きだった焼き魚が食べたいよ」
「分かった…供えてあげようね」それから二つ三つ以知子はわが子の霊に語りかけて遣り取りしたが、そろそろみんなのところに帰ると言って別れを告げた。途端、霊媒師は“がくっ”と項垂れたが、やがてゆっくりと頭を上げた。
「うまくいったようだ。お子さんに会いたくなったらまたいつでも来なさい」霊媒師がそう言い残して部屋から出てゆくと、入れ替わりに受付の女性が姿を現した。わが子と話をしていた時間は数分だったが、霊媒料は驚くほど高かった。
以知子は肩を落として家に帰ってきた。騙されたことを責める気にも訴える気にもなれなかった。〝この手の生業に本物などない――騙されたこっちが悪い〟そう自分に言い聞かせた。事前に霊媒師からあれこれ質問責めにあった時、以知子は途中で鬱陶しくなり一つだけ嘘をついた。亡くなったお子さんの好物は?と聞かれて、一番苦手だった魚だと答えたのだ。
以知子は泣いた。騙されたことに涙したのではない――わが子に会えなかったことに涙したのだった。
それから数日後──以知子は隣町に凄い霊媒師がいるとの噂を聞いた。もう騙されるのはご免だと心では思いながらも、足は勝手にその霊媒師の元に向かっていた。
今度の霊媒師は雨月祖代と名乗る以知子より少し若い女性だった。まず白い用紙に以知子自身の名前と生年月日を書くように言われ、そのあと狭い和室に通された以知子は、またあれこれとわが子のことを聞いてくるようなら、その時点できっぱり断って帰ろうと決めていた。けれども雨月が以知子に尋ねたのはたった一つだけだった。「どなたにお会いしたいのですか?」
「五歳で病死した子供に会わせてほしくてここに来ました…」
「分かりました…」雨月は鳴り物の鈴を〝シャンシャン〟と軽く振ると、そのまま頭を垂れて低い声で唸り続けた。「う~ん……ここは…ここはどこなの?」頭をあげた雨月は焦点の定まらない虚ろな目で以知子に尋ねた。「誰……?そこにいるのは誰なの?」
「母ちゃんだよ…」とっさに以知子はそう叫んだ。
「母ちゃん…母ちゃんなの?」
「そうだよ……母ちゃんだよ!」以知子は目を潤まて答えた。
「母ちゃん…先に死んでしまってごめんね。いっぱい悲しませてごめんね…」
「謝らなくていいのよ。病気になったのは朋希のせいじゃない……。母ちゃんが丈夫に生んでやれなかったのが悪かったんだ…許してちょうだい…」以知子は花柄のハンカチで涙を拭った。
「あっ、そのハンカチは…!?」少し高いトーンで雨月が尋ねた。
「あっ、これ覚えてるの?母ちゃんがずっと使ってたハンカチだよ…覚えてるの?」
「うん、もちろん覚えてる。それに母ちゃんが聞かせてくれてたお話も忘れてないよ」
「あの絵本だね?『トモちゃんとセミ』……朋希とおんなじ名前だからとっても気に入ってたもんね!?」
「うん…あのお話…また聞きたいなぁ」
「読んであげるよ。毎日読んであげる!」
「嬉しいなぁ!一緒に遊んでくれた人たちも元気かなぁ?」
「みんな元気だよ。お隣の俊彦兄ちゃんは朋希とボール投げができなくなって残念がってるよ…」
「そうか…お兄ちゃんいっぱい遊んでくれたから…。あのね母ちゃん、病気になったのは母ちゃんせいじゃない。死んでしまったことを残念に思ってもいないよ。僕は母ちゃんの子供で良かった……ありがとう母ちゃん…。また会いに来てくれる?」
「えぇ……また会いに来るわよ…」
「ありがとう母ちゃん……じゃ、そろそろ帰るからね…」こうしてわずかな時間だったが、以知子はわが子と会話ができた。
今度は驚くような霊媒料を取られることはなかった。以知子は楽しい夢を見させてもらったと自分に言い聞かせたが、もう二度と雨月祖代を訪れることはないと誓って言えた。結局雨月も霊媒のパフォーマンスを生業にしているだけだったのだ。騙しているのではなく、それを生きるための糧にしているのだと相手を理解することで、以知子は自分の心を和らげようとした。
雨月の手法は最初の霊媒師と違って実に見事だった。はじめに細かく亡き人の情報を仕入れてから霊媒をされても信憑性に欠ける。だが雨月は余計なことは何も聞かなかった――すべてを霊媒の途中でおこなっていたのだ。それも巧妙な誘導手段で情報を聞き出し、霊がまさに本人であるかのような会話に仕立て上げていた。俗にいうコールドリーディングという手法だ。
取っかかりは何でもよかったのだろうが、今回の場合はハンカチだった。雨月は〝あっ、そのハンカチは?〟と問うただけだ。それに対しての以知子の次の言葉を待って、どうにでも対応できる。仮に〝新しく買ったハンカチよ〟と答えが返ってくれば〝よく似合っているね〟と答えればいい。
だが厳密には最初に雨月が〝そこにいるのは誰?〟と聞いた時からもう情報収集は始まっていたのだ。以知子は雨月に〝誰?〟と聞かれて〝母ちゃんだよ〟と答えている。亡くなった子が母親の以知子をどう呼んでいたかを一番に聞き出していたのだ。
絵本の会話もそうだ。以知子は自分から先にわが子が病気で亡くなったと話している。そして亡くなってまでも尚、わが子に会いたくてわざわざこんなところまで足を運ぶほど子煩悩な母親だ。だとすれば五歳の子が病気で床に伏せっていて、何かしら物語の一つや二つは話して聞かせてやっていて当然だ。雨月の凄いところは〝聞かせてくれてたお話も忘れてないよ〟という言い回しをしているので、絵本でも、空で語っていても、どちらでも対応できる尋ね方をしているところだ。以知子は真っ先にわが子に絵本を読んで聞かせていたことを思い出し〝あの絵本だね〟と答えた。それから雨月も初めて絵本と断定した言い方に切り替えている。先手を打っているようで実はそうではなかったのだ。
同様に〝一緒に遊んでくれた人たちも元気か?〟と先に尋ねて〝隣の俊彦兄ちゃん〟を引き出している。すべては雨月の誘導で以知子が答えていたのだ。だが――雨月は一つだけポカをやらかした。〝朋希という子は隣の俊彦兄ちゃんとボール投げをしていた…〟 雨月は頭の中で会話を一つに纏めたまでは良かったのだが、間違った思い込みをしてしまったのだ。だからつい〝僕は母ちゃんの子供で良かった〟と言ってしまった――それで以知子はすべてを悟った。この人も本物ではなかったと──。
以知子は家に帰ると霊前のわが子の写真に手を合わせて、ほろりと涙をこぼした。
「朋希は……朋希は娘よ…」
Ⅶ
――「信枝のおかげでほったらかしてた謎が解けちゃったわ!……こういうのを〝棚からぼたもち〟っていうのかなぁ…?」錫は一人で喜んでいる。
「ご主人様…いったい何が解ったのですか?」いしが錫に尋ねた。
「私も気になります…錫雅様。…私、何かしましたか?」
――「ちゃんと説明するとボロが出ちゃうわね…」信枝には詳しく説明できないと判断した錫は、とりあえずその場を繕った。
「あの~…ん~と……信枝殿の優しさに癒されていると気づいたのだ…。そして東へ行ってみたくなった…」完全な失言だ。言うに事欠いて錫は禁句を口にしてしまった。
「しゃ、錫雅さまぁ~……私はその言葉だけで百年は長生きできそうですぅ~…♡」毎度のことだが、信枝の背景には真っ赤なバラの花びらがヒラヒラと舞っている。
錫はすぐに後悔したが、あとの祭りだ。チラリといしに目を遣ると、いしは錫を労って手の甲に鼻先を押し当てた。
──「ご主人様はどうして東へ行くと言い出しなされたんだろう…」いしはその肝心な理由が知りたかった。
「さぁ、錫雅様──参りましょうか!」信枝は地獄に来ているにも拘わらず溌剌としていた。
方向を変えた錫たちは、東へ東へと進んでいた。
「の、信枝殿………さっきよりも、私との距離が近いんですが…」
「錫雅様にもっと癒されてほしいですから──ん~ん~んん~♪」
――「まったくもう……信枝ったら…のんきに鼻歌まで歌っちゃって…」害は無いが悪戦苦闘する錫だった。
気が付くと、辺り一帯は霧が濃くなっていた。
「先に行けば行くほど濃くなっていきますね、ご主人様…」
「もう少しだけ進んでみるか──信枝殿が一緒だし…」
「まぁ!錫雅様ったらそんなふうに…。私も錫雅様が一緒で嬉しいですぅ♡」
――「もう……頼もしい信枝が一緒で心強いっていう意味なのに…トホホ」
「ご主人様……匂いがしますけん…今までと違う匂いが…クンクン」。「あたいも感じる…クンクン……」いしと信枝の中の綿が何か変化を感じたようだ。
「…お前たち、その匂いがどっちから漂っているか分かるか?」
「一応わたくしは犬ですけん鼻は利きます…。雌狛もおそらく同じです…蓄膿でないかぎり…」
「蓄膿の狛犬がどこにいるのさ!あたいが信枝殿から出れないからってバカにして…あとで覚えておきなさいよ…」
「まぁまぁ…」信枝が仲裁に入って両者を宥めた。「それで…この匂いはどこから漂っているの?」
「もう少し先の左側ですけん!」。「もう少し先の左側です!」いしと綿が同時に答えた。
「その匂いとは、花のような香りか?」今度は錫が聞いた。
「…ん~…そういう匂いとは違いますけん」。「あたいも雄狛と同じ…」
「そうか…とにかくお前たちが教えてくれた方向に進んでみよう…」いしと綿の鼻を頼りに錫たちは濃い霧の中を進んだ。
少しするとまたしても錫は〝ピタッ〟と歩みを止めて宙を見つめた。
「そういうことか…。お前たち、この匂いの源を必ず突き止めてくれ!」
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そいつは黒の国の亡者ではない――どれほど危険な奴なのかも判らない。
そいつは岩陰に隠れて姿を潜めると、怪しげな霊具を片手に辺りの様子を窺った。
――「やっと脱獄できた…。あの小鬼稚という奴がマヌケで助かったが、今頃は脱獄したことが兄鬼の耳にも入っているに違いない…。そうなればじっとしてはいないだろう…」
そいつは獄卒の鬼たちの目を掻い潜りながら場所を転々としていった。




