第13章──手練手管Ⅱ
Ⅲ
拗隠の国での戦いで錫たちに大敗を喫した矢羽走彦は、逃げる傍ら次の策略を早くも決めていた。
矢羽走彦は抜け穴を通って拗隠の国を脱出すると、黒の国を目指した。黒の国には堕羅がある。堕羅を次の根城にして体制を整え、今度こそ白の国を奪ってやろうと目論んでいた。
矢羽走彦にとって運が良かったのは、その決断の早さだった。自分が狡狗ではなかったので、戦いに敗れると拗隠の国にさっさと見切りをつけたことが矢羽走彦の明暗を分けた。もし拗隠の国に長く留まっていれば、先に錫に抜け穴を塞がれてしまい万事休すとなっていただろう。
長きに渡って拗隠の国にいた矢羽走彦は、朽ちてゆく霊体を維持できず、かといって〝無〟になることを避け、念を己として狡狗に取り憑き隠れてきた。ただただ白の国を奪うためだけに――自分を陥れた〝天甦霊主〟に復讐するためだけに──〝無〟を選ばず辛酸を嘗めてきたのだ。
新たな拠点に根を張るために、強い霊力を持った狡狗が欲しかった。矢羽走彦は阿仁邪という狡狗の霊体を離れ、別のめぼしい狡狗に取り憑くと、一路堕羅へと向かった。
やがて矢羽走彦は威圧されそうな霊気を纏った堕羅の大門と対峙した。
――「こんな危険極まりない堕羅の大門の封印を解く愚かな者など誰もいないだろう…」矢羽走彦はそんなことを考えながら堕羅の大門の封印を強引に解いた。重苦しい黒の国の悪気と、さらに輪をかけて重苦しい堕羅の邪気が入り交じり混沌と蔓延る。たとえ黒の国の獄卒の鬼でさえも足を竦めてしまいそうな悍しい邪気だ。だが矢羽走彦はそんな堕羅の大門をなんの躊躇もせずに潜り――そして奥へ奥へと進んで行ったのだった。
矢羽走彦は堕羅のことをよく理解していた。このまま奥へと進んで行けば何があるのかも──。
まだ鮮明に記憶は残っていた。遙か昔────堕羅の大門の門番だった頃の記憶が――。
Ⅳ
「出られないって!?…大蛇の毒に侵されたせいなの?…いや、せいなのか?」錫は信枝の中にいる綿に尋ねた。驚きすぎて、つい女言葉に戻ってしまう。
「はい、それしか考えられません…」姿は無いが綿の声が聞こえる。
「それで…信枝殿はなんともないのか?」
「私はおかげさまでこのとおり…。でも何かあれば錫雅様が介抱してくださるかしら……あぁ、思っただけでシビれます」
――「もう…信枝ったらこんな時に何を色気づいてるのよ…」
「信枝殿…シビれるのですか?毒がまわったのですか?」綿が心配そうに尋ねた。
「信枝殿…綿は堅物なのですから勘違いさせるような言い方はやめなさい…」
「あっ…ごめんなさい…」信枝は舌をぺろっと出して謝った。
「信枝殿はご主人様と一緒だとまるで別人ですけん…」いしが小声で錫に囁いた。
「まったく…。あのクールな信枝は今頃どこを彷徨っているのかしら…?」左手で口元を隠して錫が返答した。
「綿…窮屈だろうけど解毒する方法が見つかるまでここで辛抱してね?」信枝は綿を労るように話しかけた。
「あたいは窮屈ではありませんが……信枝殿が迷惑なのでは…?」
「バカね…厄介な憑き物なら遠慮だけど、綿は私の最高のパートナーじゃないの!」
「………………の、信枝殿…」綿は今まで一度も味わったことのない感情に突き動かされていた。それがいったい何なのか──綿自身にも分からなかった。
「…そういうことで信枝殿と綿は良いとして、これからどうするかだ…」
「錫雅様はどこに行こうとされてたのですか?」
「私は堕羅に行こうとしていたのだが…」
「じゃ、私もお供いたします」
「いや……用があって行こうとしていたわけではないのだ…。堕羅はまたにしよう…」
「えっ?…用も無いのに行こうとされていたのですか?」
「ちょ、ちょっと散歩に行こうかと…」気の利いたごまかし方ができない自分が情けなかった。
「…あやしいですわ…私が足手まといだからそんなことを?」信枝が絡む。
――「もう…信枝ってば勘弁してよぉ…。堕羅に入ったら錫の姿に戻っちゃうのよぉ…」
「ご主人様は信枝殿を堕羅に連れて行って、もしもの事があれば大変だと案じておられるのです」
「しゃ、錫雅さまぁ…なんてお優しい…。私の錫雅様への熱い想いは、いったいどこが頂なのでしょうか!?」
――「いしぃ…助け船はありがたかったけど……逆効果だよ~」
「信枝殿、ここは錫雅殿の言うことを聞いて戻りましょう」綿もそれとなく口添えした。
「そうね……そうしましょ…」信枝も今度は素直に頷いた。「もと来た道を戻るの?」
「はい。堕羅と反対の方向、つまり未申・南西の方向に戻れば良いのです」
「ヒツジ猿?おもしろい言い方をするんだね?」信枝が笑いながらも興味を示した。
「はい。あたいたちは東西南北を干支で示します。堕羅の方角は北東なので丑寅です」
「………北東がどうして丑寅なの…?」
――「よく考えてみたら私もよく分かってないなぁ…。前に気障りのお婆さんに鬼門は丑寅の方角だと教えてもらったけど…あまり詳しく理解はしてないわ…」
「……う~ん…ねぇ雄狛、あんた頭いいんだから説明してあげてよ。あたい上手く説明できないからさ…」綿にそう言われて、いしは悪い気はしなかった。
「信枝殿、時計を思い浮かべてください。干支はご存じのとおり〈子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥〉の十二支です。時計の十二時の方向を北として、そこが子に当たります。あとは順番に、一時の方向が丑、二時の方向が寅、三時の方向が卯といった具合に当てはめます」
「そういうことか、理解できたわ!私は無知だから…ありがとういし」
「何をおっしゃいます。今の人たちはこんな言い方しませんけん、知らなくて当然です」
「そういうことだ信枝殿。では帰るとしようか…」錫はすべてを知っている体で振舞った。
「はい、錫雅様!えぇっと…未申に向かって帰りましょう」信枝はそう言って笑った。
一行は向きを変え歩き出した。信枝は相変わらず必要以上に錫にぴったりとくっついて離れようとしない。
「信枝殿…近すぎはしないか…?」
「私は人間に戻ったら錫雅様と離れなければなりません…。せめて今だけでも楽しんでおかないと…」
――「な、何を楽しむのよこの子は…。それにしてもさっすが信枝…恋心も半端じゃないわ…」
それからどのくらい歩いただろうか――。はたと足を止めた錫は、焦点の定まらない眼を宙に向け、そのまま暫く固まったままになった。
「やっぱり帰らない…」やっと口を開いた言葉はそれだった。「このまま東へ向かうことにする!」
「ひ、東へ?いったいどうなされたのですか?錫雅様…」理由も分からず信枝は戸惑った。
「解けたのだ!信枝殿のおかげで。礼を申すぞ!…信枝殿天晴だ!──はははっ…」
「はい?…………はい」信枝は何がなんだか理解できなかったが、愛しい錫雅尊の役に立てたようなので取りあえず嬉しい様子だ。
――「ご主人様は何が解ったのだろう…?」いしさえも錫の考えていることが理解できなかった。




