第11章──思わぬ客人Ⅱ
Ⅱ
錫が明日香宅に到着すると、紗樹は錫の両腕をつかんで騒ぎ立てた。のっけから異様な雰囲気の中、錫は自分まで取り乱さぬよう凛とした態度で奥の和室に足を運んだ。
紗樹が周章狼狽していた理由は、美鈴を一目見るなり理解できた。その細くて白い首には、真っ青なミミズ腫れの痣が浮かび上がり、苦しそうに右に左にのたうち回っていたからだ。
「電話で連絡した時は、これほどではなかったのですが…」
「………。この家のもとの主、西河良之はもしかしたら病死ではないかもしれません」
「どういうことですか?」
「あくまでも想像ですが、獄中で首を絞められて殺された…。監視員は事件性を恐れて病死と見せかけた……そんなところでしょうか…」
「それで美鈴の首にこんな痣が?」
「憑物は時に助けを求めて誰かに取り憑きます。西河は真実を暴いてほしくて美鈴さんにこんな悪さをしているのかもしれませんね」
「どうしたら美鈴は助かるのですか?」
「聖霊をすれば簡単に片が付くのですが、どうしてもそれをさせてくれません」錫は平常心を装っていたが、内心は絞殺された霊の憑物かもしれないと思うだけで恐かった。
「それで…ちょっと私のような聖霊師が行うのは筋違いかもしれませんが、西河を供養することにします」
「供養ですか?」
「そうです…供養です。実は今日はお酒をたくさん持って来ました」錫はバッグから日本酒・ビール・焼酎・ブランデー・ワイン、あらゆるお酒を取り出した。「前にもお話しましたが、西河は獄中で好きなお酒を飲みたかったのではないかと思います。そして手で絞められたような首の痣…もしかすると無念の死を遂げたかもしれません。どちらにしてもこちらが理解してあげて供養してみましょう。それで静まってくれれば改めて聖霊もできます」
「はぁ…」紗樹は〝供養ならお坊さんの方が…〟と言いたかったが口を噤んだ。
ともあれ二人は苦しむ美鈴を目の前にして、あらゆるアルコールを並べ、これ以上苦しむことのないようにと祈った。
「ご主人様…美鈴殿の体から黒い憑物が抜け出して畳の下に消えてゆきますよ…」
「本当だ…。西河の霊もやっと落ち着いたのかしら…?」同時に、首のミミズ腫れの痣もみるみる引いていった。
やがて紗樹に抱かれていた美鈴が目を覚ました。「……私また取り憑かれていたの?」憑物のいない時の美鈴は至って普通の女性だ。
美鈴は目の前に並んでいたお酒に驚いていたが、何故だか缶ビールだけを異様なほど恐がった。「いやっ……それをあっちへやって!」紗樹は言われるまま缶ビールを見えないところに隠した。
──「どういうことだろう?以前も西河の霊はビールの缶を転がした…。もしかして私は見当違いをしてる…?本当はお酒が欲しかったわけじゃなくて、ビールが嫌いだったから缶を転がした…?だけどそれもおかしな話だなぁ…」
錫はすっきりしないまま明日香宅を後にした。母親の紗樹には、美鈴の休む場所を二階の自分の部屋に戻すように伝えた。美鈴がどんな行動にでるか様子をみたかったからだ。
──「姿も現さない。原因も教えてくれない。聖霊もできない。いったい西河の霊は何を伝えたいのだろうか…」今の状態が長引くと美鈴が衰弱することを懸念して錫は苛立っていた。
Ⅲ
思わぬ客人が訪れて錫を驚かせたのは、それから二日後のことだった──。
「どうされたのですか!?何かあったのですか?」錫は大きな目をくりっとさせて訪問者に尋ねた。
「お忘れですか?錫さんと約束したはずですが…?」
突然の訪問者は高宮ハルの双子の妹──金子八枝だった。
「ごめんなさい…私最近忙しかったせいか、まったく記憶がないんです…。八枝さんといつ頃どんな約束をしていたかも覚えてなくて…」
「あら…おっほっほっほ……。ほんの数日前のことなのに、もうお忘れ?」
「………?」
「私から出向くと伝えたはずですが?」八枝は悪戯っぽく笑って錫を見た。
「その約束なら須勢理──ま、まさか…す、須勢理毘売さまぁ!?」
「忘れてなくて良かった。高宮ハルの体はもうこの世にはありませんから、妹の八枝の体を借りてきました」
「か、借りてきましたって…そんな簡単に……」
「でもあなたにとっては金子八枝より高宮ハルの方が愛着があるでしょう?ここはハルさんに登場して頂きましょう!」
「きゃっ、本当!?どうやって?」
「天甦霊主様に頼み込んで、高宮ハルの魂をお借りしてきました。私がハルの魂を管理することを条件にね」
「そんなことができるの!?」
「イタコが霊を呼び出すのと変わりません…。それに私は長い間高宮ハルと一緒でしたから、むしろ人間界では彼女の陰に隠れてる方が楽です…おほほほ」
「わーい!憎たらしい婆さんだったけど、再会できるのは嬉しいなぁ…けへへっ」錫はおちゃらけて笑った。
「誰が憎たらしい婆さんだって?」
「げぇ──!もう出てきたの!?」
「早くて悪いか?お前が頼りないからゆっくり休んでもおれんわ…。で、須勢理毘売から聞いたが、須佐之男の話はどうじゃった?」気障りの婆の情報の早さに驚いた錫だったが、須佐之男とのやり取りを全て話した。
「そうか…。だったらぼやぼやしてないで準備をせんか。すぐに秩父へ出発するぞ!」
「うわぁ~…今すぐ行くのはキビしすぎるわよ。第一交通費がない…」
「これじゃこれじゃ~…情けないのぉ……これだからションベン臭い女は困る。だったら体から抜け出して行けばいいだろうが…バカ者が…」
「わっっ、毒舌健在!」
「分かったら早う離脱せい」錫の言うことなどまったく気にしている様子もない。
「お婆さんも行くんでしょ?」
「お前なんかに一人で行かせられるもんか…頼りないのに…」
「幽霊になって行くんだったら、最初から八枝さんの肉体を借りなくてもよかったね?」
「………。あのなぁ……お前が交通費がないと情けない声で言うからそうなったんじゃろうが…幽霊になるのはお前のせいじゃ、バカたれ。ちょっとは申しわけないと思え」
──「むぐぅ……これぞ正しく気障りの婆さん」
気障りの婆は、まず自分が金子八枝の肉体から抜け出した。霊体になった気障りの婆は顔の痣までそのままだった。
「これでお前の大好きな気障りの婆じゃな…ヒヒヒ。ボケっとしとらんでお前も早う抜け出せ。それ、手を引っ張ってやるから」錫は気障りの婆の手を借りて肉体から抜け出した。
「ほれ、狛犬…ワシらを乗せて秩父まで走れ」
「へ、へい…」いしも気障りの婆には逆らえない──。図体を大きくしたいしは、錫と気障りの婆を背に乗せると、一路秩父まで走り出した。
「本当ならば時間をかけて和銅遺跡までの道のりを楽しむのだが、これじゃ情緒も何もあったもんじゃないなぁ…」そう言われると、必死で走っているいしとしては複雑な気持ちだ──。
「あぁ、狛犬──お前は気にするな。全てこのションベンたらしのせいじゃ」
「私のせい!?私はただお婆さんの言うことを聞いただけなのに…」
「口だけは達者じゃな……交通費も持っとらんお前のせいじゃ!…ほれ、もうすぐ遺跡じゃ。何が起きても良いように心の準備をしておけ」
「はいはい…分かりましたぁ…」錫はふて腐れながら返事をした。
「さて…和銅山に入った。そろそろ採掘跡地も近いはずじゃが…」
「今は遊歩道になってるのね。それに『和同開珎』のモニュメントなんかもあったり──須佐之男のおじさんの話とは随分違うなぁ…」
「バカ、当たり前じゃ!あの男が生きていたのは神話の時代ではないか」
「わ、分かってますってば…」
「ふむ…ここら辺りのはずじゃが…」いしの背中から降りた気障りの婆は、切り立った断崖から下を覗き込むと錫にこう言った。
「お前の持ってる集鬼鈴をここで鳴らしてみい」
「い、今ここで…?」
「今さら何をビビっておる…情けない奴じゃ」
「ビ、ビ、ビビってませんから…。見ててくださいよ…」錫はさも堂々と集鬼鈴を出現させて振り奏でた。和銅山に響き渡る集鬼鈴の音は、辺りの草木まで“はつらつ”とさせるほど心地良かった。
「さて…今回は何が現れるかのう…」錫とは逆に気障りの婆は楽しげだ。やがて鈴の音の余韻が消えかけた頃、辺りが重たい霊気に包まれ始めた。
「ほ、ほんわかした空気がどこかに行っちゃった…。神さま神さま…なんにも起こりませんように…」錫は引きつった顔で手をすり合わせた。
そんな錫の不安をよそに、断崖の下から地響きが起こり地面が割れた。その割れ目から黒い影が這い出ると、たちまち断崖を駆け登り錫たちの前に姿を現した。
「ワシを長い眠りから起こした奴はお前たちか?」それは大きなムカデの魔物だった。
「ひぃ~っ!」錫は思わずいしにしがみついた。
「情けない奴じゃなぁ…。お前が呼び出したのだ──ちゃんと話をせんか」
「うぅ~……あのう、私は堕羅の大門の玉を探しています…。ム、ムカデさん知りませんか?」
「……まるで幼稚園のお使いじゃな…」気障りの婆は呆れている。
「知っているとも」大ムカデの魔物は即答した。
「ほんとに!?」錫の目が忽ち輝いた。「私は堕羅の大門を封印する玉を探しにここに来たの!玉はどこにあるのですか?」
「ワシが持っている」
「えっ!?…やったー!」錫の頭の中でファンファーレが鳴る。
「だが……だが…お前に渡すわけにはいかない」
「どうしてよ……どうして駄目なの?」
「約束なのだ──堕羅の大門を守る門番とのな」
「や、約束ってどんな約束?」錫はこわごわ聞いた。
「遥か昔、須佐之男は言った。必ずワシと雌とを永遠に番いにする手段を見つけてやるとな…。ワシはムカデたちの棲む地獄で静かにその時を待ち、雌はこの断崖の地下深くで息を潜めていた。そこへ堕羅の門番を名乗る者が現れ、須佐之男の代わりにそいつが約束を果たすと誓った。ただしそれには一つだけ条件があって、堕羅の大門の玉を預けるので、再びその玉を取りに来るまで大切に守っていてほしいとのことだった。ワシはこうして玉を胸に秘め、その時が来るのを待っているのだ」
「須佐之男のおじさんが〝半分は当たりで半分は間違いだ〟と言ってた意味が分かったわ。門番がムカデさんたちを番いにしてやるのは正解だけど、玉を預かっているのは須佐之男のおじさんじゃなくて、大ムカデさんの方だったのね…」黙って話を聞いていた気障りの婆は、顔を曇らせながら大ムカデに問うた。
「お前は堕羅の門番が、もういないのを知っておるか?」
「何!?奴がいなくなった?」
「存在しないのだ──もう無になってしまっている」
「なんだと!?…では誰がワシらを永遠の番いにしてくれるのだ…。約束は…約束はどうなるのだ…」ムカデといえども苦悩している様子は錫にも見て取れた。
「大ムカデさん……堕羅の門番がいない今、私がその門番の代わりに堕羅の大門を封印しようとしているの。大ムカデさんが持っている玉を頂けませんか?」
「ならぬ。何があっても玉を守るように門番に言われたのだ。お前のような小娘に渡すつもりはない。たとえ門番が無になっていたとしてもだ。もし欲しければワシと戦って力ずくで奪うがよい」
「ふんっ…今のお前の霊力ではこの大ムカデに傷ひとつ負わせることはできんわ」
「………もう…そこまではっきり言わなくても…」錫はほっぺたを膨らませて怒って見せていたが、心の内では大ムカデに対しておかしな感情が芽生えていた。それは錫といしの関係のように、大ムカデもまた、門番に対して絶対的な信頼を持っていると感じたことだった。
ついさっきまでは大ムカデに対して気味の悪い感情しか湧かなかった錫だったが、今は違っていた──大ムカデから玉を貰うことしか考えていなかったが、今はそうではなかった。
「私…大ムカデさんたちを永遠に番いにする方法を探し出します」
「お前が?…だが、たとえワシたちを番いにしてくれたとしても、門番ではないお前に玉はやれんぞ」
「分かってます。私は門番の代わりに大ムカデさんとの約束を果たしたいだけなの──見返りなんか求めてないわ…」
「須佐之男も変わっていたが、お前も変わった奴だ。どうしてそんな意味のないことをする?」
「意味ならあるわ────それは…………無になった門番が私のおじいちゃんだからよ!」
「なんと…お前のか?」
「そうよ。だからおじいちゃんの代わりに私が約束を果たしたいの」
「門番の代わりに孫のお前が約束を果たすと?……ならば──本来は話してはならぬが、門番から教えられたことを話してやろう…」
大ムカデの話によれば、雌のムカデは人間界で物の怪と化したムカデ故に、今のままでは地獄の門を潜れないということだった。そのためにあることをしなくてはならないのだが、それには二つのものが必要だと門番から聞かされたという。
「ワシはこんな姿をしていても、物の怪ではなくこの銅山の〝主〟…もっと言えば神に値する存在なのだ」
「でも地獄から来たんでしょ?」
「そのとおりだが、堕羅に棲むムカデたちとはまったく異なる世界だ…」
「疑問に思っていたんだけど、蛇や虫の形をした堕羅の魂と、須佐之男様が管理してる白の国に棲む同類の魂とはどこが違うの?」
「さあなぁ……ワシにもそれは分からん。だが堕羅の奴らには強い毒性を持つ者もいる。ワシらは霊力で人間の魂を奪うが、あのような毒性で魂を奪ったりはせん」
──「ポッキーのおじさんが侵されたあの毒…だんだん記憶を無くしていって、霊気も萎えていったわ…」
「奴らの毒性は極めて強い。もし魂が毒に侵されたら確実に知能は低下し、魂は放置されるか、あるいは弄ばれる…」
「もし生きた人間の魂が毒に侵されたらどうなるの?」
「同じことだ。知能は低下し、魂は肉体から離れるだろう…。生きた肉体にどんな変化が生じるのかはよく分からんが、幸いなのは毒には霊気が宿っているので、肉体から魂が抜け出しても死に至ることはないはずだ」その一言に錫は救われた。
「だが…肉体を持った魂が毒に侵された場合…あるいは感染するかもしれない…」
「か、感染…?」
「そうだ…大昔そんなことがあった…。けれども霊力の強い魂にしか感染しないがな…」
「た、助ける方法はないの?」
「解毒するものがあるというが、簡単に手に入るような代物かどうか…。それにたとえ手に入ったとしても、捕らわれている魂ならば、それを解放しておかねばならないのはいうまでもない」
「ふぅ~ん……この世にはまだまだワシの知らんことがたくさんあるわい──もっともワシはもうこの世の者ではないがなぁ、ふぉっほっほっほ…」気障りの婆は自分の冗談がおかしくて笑っている。
「話を戻そうか…。雌は人間界の物の怪ゆえ、地獄に行くためには二つのものが必要なのだそうだ──門番は今の使命を終えたら再びここへ戻って来て、ワシたちを番いにしてくれると約束してくれた。その二つとは…」
「な…なんなの?」錫は喉の奥で唾を飲み込み、一言も聞き漏らすまいと上半身を乗り出した。
「一つは〝実のならない樹になる木の実〟もう一つは〝闇に眠る生命の源〟だ」
「………?」言うまでもなく錫にはさっぱり意味が分からなかった。「…その二つがあれば、雌の大ムカデさんは地獄で暮らせるの?」
「あぁ、門番はたしかにそう言った。奴はワシを騙すような悪い霊神ではない。それくらいはワシにも分かる」
「そりゃ私のおじいちゃんだもの!」
「大ムカデ殿、今の話だけでは二つの探しものがどこにあるのかさっぱり分からんですけん。他に何か手がかりはないでしょうか?」
「実際に見た者はいないのだが……地獄のどこかに唯一植物が存在する新天地ができたらしい。誰がなんの目的でそこを創造したのかも謎だ。分かっているのは創造されてからまだ日が浅いということだ」
「う~む…〝木の実〟とは植物のこと…。そして地獄でその一カ所だけが植物の存在する場所だとすれば、それこそが〝実のならない樹になる木の実〟である可能性は高い…」気障りの婆は腕を組んで呟いた。
「決まったわね。次の目的は植物が存在する新天地を探すこと!」
「はいですけん!」いしは錫のお供ができるだけで満足だ。
「大ムカデさん、待っててね。私が必ず雌ムカデさんと永遠の番いにさせてあげるから!」




