第10章──手がかりⅠ
手がかりⅠ
Ⅰ
矢羽走彦は天甦霊主の持つ秘宝〝全気滅消の瑠璃玉〟を手に白の国を後にした。行き先はただ一つ──拗隠の国だ。
照陽尊は言った──。「お前は今や白の国でも英雄となった。それに…悔しいが、今やあのお方の心の中には、私ではなくお前がいるのは明々白々。ここでお前が最後の使命を潔く受ければ、お前は真の英雄となり、その地位は不動のものとなるだろう。そして…これは決して口外できぬ話だが、もしお前が拗隠の国に行き、白の国を救う英雄となれば、あのお方は掟を破ってでもお前に添いたいと申しておった…」
「本当か!?」耳元で囁く照陽尊の言葉に矢羽走彦の心は揺らいだ。今や〝自ら人間界の修行に臨んだ英雄〟となっているのは事実だ。あのお方が以前より自分を頼りにしてくれていることも感じ取れている。照陽尊のいうことに偽りはないだろう。人間界に残している愛する女性のことも忘れてはいないが、実のところ矢羽走彦にとって、それは別の想いだった。照陽尊から聞かされた話は、矢羽走彦にとって何ものにも勝る最高の喜びだった。しかし、そのような話を俄に信じて良いものだろうかという疑いの念も無いことは無い。
「話は分かるが……だがしかし…」
「最後はお前の決断だ。けれど考えるまでもあるまい。今のお前だからこそ、天甦霊主様は大役を任せたのだ。嘘ではない証拠はこれだ!」
「こ、これは…!?これは天甦霊主様の…」
「そうだ…全気滅消の瑠璃玉───これをお前に託されたのが何よりの証拠だ。これを以て天甦霊主様の期待に応えるのだ──それは同時に雫姫の心を射止めることでもある」
「ご、ご命とあらば……」全ては雫姫のためだった。英雄だと持て囃されようが不動の地位を手に入れようが、それそのものは矢羽走彦にとって価値のないものだった。ただ、英雄となることで雫姫の心を奪えるならどんな事もできると思った。天甦霊主が全気滅消の瑠璃玉を手渡してまで白の国を救えということは、即ち雫姫の心を奪えという無言の許可なのだ──矢羽走彦にはそれが分かっていた。
人間界に修行に出たのも、雫姫が絡んでいたのは事実だ。だがそれは周囲が考えているようなものではなかった。真意のほどは矢羽走彦のみが知るところだが、今はそれを誰にも言わずに伏せていた。
そして人間界に残してきた愛して止まぬ気がかりな女性──そのことも矢羽走彦は誰にも口外することなく心の奥底に仕舞っていたのだった。
斯くして、天甦霊主から託された全気滅消の瑠璃玉により、拗隠の国の抜け穴は塞がれ、白の国に再び平和が戻った。だが矢羽走彦がそこへ帰ることはなかった──。
天甦霊主は必ず助けに来ると言った──。矢羽走彦はその言葉を信じて待ち続けた。天甦霊主が約束を違えるはずがない、雫姫は自分を待ってくれているはずだ。そこまで信じて疑わなかったのは、全気滅消の瑠璃玉という秘宝を託されたからに他ならなかった。
矢羽走彦は信じて待った──。もう来るか、もう来るかと待った──。
どのくらい過ぎただろう──それが長い長い時間だったのか…短い月日だったのかも分からない。
そして────今までほんの一欠片も持ったことのなかった感情が初めて矢羽走彦の脳裏を掠めた。
──「こんな悪しき場所にいったい誰が助けに来るというのだ…?来たとしても白の国に帰る術がどこにあるのだ…?」慌てて掻き消した──一人で待ち続けていたために、おかしな感情が過ぎったのだと慌てて掻き消した。目をしっかりと瞑り、頭を両手で掻き毟りながら〝わぁ───っ〟と叫んでみた。
けれど──本当の恐怖はそれから襲ってきた。幾許も経たぬうちに、一欠片だった矢羽走彦の疑念が一握りになっていた。
──「私は騙されたのか…?」。「まさか。誰がお前を騙すというのだ。今に来る…きっと……いいや必ずだ。焦らずに待つのだ」
──「私は騙されたのだ…」。「決めてかかるな。白の国が落ち着けば必ず助けが来る」
──「それはいつのことだ?これほど待っているのに…まだ待てというのか?」。「天甦霊主様がお前を騙すわけがない。あのお方がお前を騙すはずがないではないか」
──「信じていいんだな…?」。「待つんだ。今はただ待つんだ…」
自問自答を繰り返した。
そうしてまた時間だけが過ぎた──。一握りだった疑念は最早矢羽走彦の全てを呑み込もうとしていた。
──「ここは拗隠の国だ……封印された拗隠の国だ。こんな所に誰が来る…?」。「そうだ!誰も助けに来るものか…。来れるわけがない…」
──「やはり騙されたのか?」。「そうだ!お前は騙されたのだ。最初から助けるつもりなどなかったのだ…」
──「けれど全気滅消の瑠璃玉の件はどう説明する?」「天甦霊主様にとってあんな物はどうでも良かったのだ。自分の役目を遂行し、白の国に平和が戻れば天甦霊主様は真の神となれるだろう…。そうなれば全気滅消の瑠璃玉の一つや二つ手放したところで痛くも痒くもないはずだ。…私はそのための捨て駒だったということだ…くっふっふっ」
──「本当にそう決めつけて良いのか?」。「あぁ…もう待てぬ…。いいや…もう待たぬ!私はこのまま朽ちて〝無〟になったりはしない。どうあっても霊体として残り…私を踏み台にしてまで神になろうとした天甦霊主に復讐してやる。そして私をこんな掃き溜めに追い遣ってまで守ろうとした白の国を奪ってやる──ふっ…ふっ……ふっふぁはっはっはっ!」
矢羽走彦は白の国の霊神という我を捨てた──。
Ⅱ
智信枝栄が口にした名前は、錫にとって衝撃すぎて俄に信じられなかった。けれど、もしそれが智信枝栄の言うとおりならば、どうして矢羽走彦が今こんな場所にいるのか──?錫には見当もつかない。何れにせよ目の前の得体の知れない化け物がどんな返答をするのか、固唾を飲んで待っている状態だった。
「お前は智信枝栄だったな…それに狛犬も一緒か…。そっちの奴は姿が違うが錫雅尊だろう?」
──「これではっきりした…浩子の言うとおりだ」理由は謎にせよ、目の前の化け物が矢羽走彦であることに違いはないようだ。「い、いったいどうしてあんたがこんな場所にいるのよ?」
「ふっ…驚いたか?お前たちと一戦交えた後、私はすぐさま拗隠の国を抜け出した。あそこに留まっている理由がなくなったからな。それから私は次の根城を探し求めて、辿り着いたのがここだったのだ」
「ということは……封印された堕羅の大門を壊したのはあんた?」
「さあな……私なのか…他の奴なのか…」
「…一人じゃないってこと?」
「まぁ、そんなところだ…。そいつは少々危険すぎて牢獄に捕らえられているらしいがな…ぐふふふ」牢獄に捕らえられるほど危険な奴とはいったい何者なのだろうかと想像するだけで、錫は身の毛がよだった。
「それにしても、まさかこんな所に姿を隠していたとは…」智信枝栄も何時にない鋭い目つきで矢羽走彦を睨みつけた。
「ふん…。ちょっとだけタネ明かしをしてやろう…。私は今までキサマの中にいたのだ」そう言って指さした先には錫がいた。
「私の中……!?」またまた驚いた錫だったが、何かに思い当たって大きな目をくりっと回した。
「……なるほど、そうだっのか……大王様が言ってたのはこのことだったのね。で…いつ私に取り憑いたの?」理解できたのは錫だけだ。智信枝栄たちは逆に錫の言ってることが分からない。
「お前が乾丸の屋敷を訪れた時だ。私はなるべく悟られぬよう越知に隠れていた」
「越知さんに?」
「そうだ。お前が屋敷に来た時には驚いたが、面白そうだったので越知からお前に遷り、暫く様子を窺っていたのだ。だがそれからすぐに、そこにいる智信枝栄と接触しただろう…。今もそうだったが、其奴はどういうわけか私の正体を忽ち見抜く。いつぞやの三輪山でもそうだった──私は阿仁邪に身を潜めていたにも拘わらず、其奴は私が信枝という女に隠れていたのを見破った。それ故今回は智信枝栄がお前に近づいた時、私はさらに深く念を閉じ込めた──絶対ばれぬよう冬眠状態にしてな。おかげで気づかれずにすんだのは良かったのだが……残念なことに、その時から今に至るまでのお前の行動がまったく把握できていない…」
「ではあなたはずっと錫雅様に潜んでいて、たった今集鬼鈴で叩き起こされたということですか?」
「そうだ。鈴の一振りで目を覚まし、音色を追いかけるように飛び出てしまった」
──「ということは………矢羽走彦は私たちが自称神様とやり取りしたことを知らないんだわ…」
「もともと今の私は念だけの存在だ。どこかに取り憑いていなければ何もできない。慌てて身近な亡霊に取り憑いたのが爬虫類の此奴だった…。けれど長い年月狡狗の体を借りていた私の意識には、あの獣のイメージが強すぎたようだ。此奴を支配しようとして主導権を奪ったらこんな姿になって現れてしまった…。まぁ、これも悪くない。お前たちをいたぶるにはちょうど良い姿かもしれん。くっくっく…」矢羽走彦は不敵に笑って、真っ赤な二股の長い舌を〝チョロリ〟と出した。錫は背中から氷水を垂らされたような、ぞぞっとする寒気を感じた。
「此奴には毒がある…お前たちがこの毒でどうなるのか見てみたい。せっかく再会できたことだし、少し肩慣らしといくか?」
「矢羽走彦……喰えん奴ですけん…」いしが低く唸りながら呟いた。
「さぁ、では私から行くぞ!」矢羽走彦は筋肉の張った獣の足で地を一蹴りして錫に襲いかかってきた──錫は慌てることなくひらりと体を左に躱す。そこまでは誰が見ても絵になるほど勇ましい姿だった。ところが錫は反撃に転じることなく、敵に背を向けて脱兎の如く逃げ出した。
「お願いだから私に近づかないで…」適度な距離を取って錫は訴えた。
「お前は本当に臆病だな……くっくっ…。面白い…どれ、まずお前を毒の餌食にしてやろう!」矢羽走彦が再び錫目がけて襲いかかった。だがその動きを瞬時に止めたのは力の強い保鬼だった。ざらついたウロコの尻尾を大きな手でぎゅっと握ると、矢羽走彦は勢いあまって前のめりにつんのめった。そこへいしが透かさず加勢し、矢羽走彦の足に噛みついた。
矢羽走彦は怒って体をくねらせると、毒の牙を剥いて逆にいしに噛みかかった。だが、それよりも一瞬早く、保鬼が丸太のような腕を出して代わりに噛ませた。保鬼は顔を顰めたが、声を上げることなく太い腕に牙を食い込ませたまま、もう片方の手で矢羽走彦の首根っこを押さえつけた。ところがたちまち保鬼の霊体に毒が回りだすと、保鬼の赤い表皮がざらざらした歪なウロコに変化し始めた。同時に保鬼は脱力を覚え、押さえつけていた矢羽走彦の首から手を離してしまった。
「おかしい……なんだか〝ぼー〟っとして、頭の中から記憶が消えてゆくみたいだ…」
「ぐははは……気に入った。これほどまで効力があったとは…ぐははは…」
「なんということを…」智信枝栄が怒りの籠もった霊気を溜め込み、思い切り矢羽走彦に投げつけた。飛んでくる霊気に気づいた矢羽走彦は、素早く避けようと体をぐねらせたが、完全に躱し切ることができず胴体の一部に霊気がぶつかった。矢羽走彦は一瞬顔を歪めたが、すぐにニヤついた表情になって訴えた。
「おっと…よしてくれよ…まだ上手く体が動かせんのだ…。まともに喰らっていたら大事だったぞ…」
「……そうか…矢羽走彦は黒の国の霊体じゃないから、霊気を使って戦っても罪にはならないんだ…」憚る必要がないと分かった錫は、晶晶白露を出現させるべく右手に霊気を集め始めた。錫が何をしようとしているのかを察した矢羽走彦は、一見落ち着いた物腰だったが、出た言葉はその態度とは相反していた。
「おい、分かったからもうよせ……。私も黒の眩燿刀で立ち向かいたいところだが、まだこの霊体に慣れんでいかん。今日のところは退散する。また交えることもあるだろう…その時は覚悟しておけ…ふふん」分が悪くなった矢羽走彦は、捨て台詞を残してとっとと錫たちの目の前から消え去った。
台風一過の如く、その場は無音の静けさを取り戻した。
「ポッキーのおじさんごめんなさい!全部私のせい…。私はいつも逃げ回ってばかり…その度に誰かが酷い目に遭って…」錫が目に涙を溜めて泣き出した。
「ご主人様、ご自分を責めてはならんですけん…」いしは錫を労るように宥めた。
「だけど…私はみんなの足を引っ張ってばかり……聖霊師とは名ばかりのダメな霊能者…」
「スン…誰もあなたをそんな風に思ってやしないわ。スンは白の国を救った英雄なのよ」
「あれは錫雅の正義を真似ただけ……みんなに支えてもらっただけ。本当の私はこうなのよ…」そのやり取りに保鬼が口を挟んだ。
「どうして皆が支えてくれるのか……お前はそれを考えたことがあるか?」
「………へっ?」錫は泣きながら〝きょとん〟と保鬼に目を向けた。
「お前が本当にどうしようもない奴なら、どんなにたくさんの者たちが側にいても力にはなってくれん。助けるに値する者なればこそ、こいつらは身を挺してお前を守ろうとしているのだ」
「………」錫は保鬼から目を離すことなく神妙にその言葉を聞いていた。
「わしとて同じだ。お前と出会って間がないが、それなのに何故だか一緒に目的を果たしたいと心が踊る…。お前にはそんな魅力があるのだ。…でもそれとてお前だけの力ではない──お前をそうやって育ててくれた親、さらに遡り、絶えることのない血を分けてくれた先祖があってのこと───この意味が今のお前に分かるか?ちと難しいだろうが、心の眼を広く広くして物事を見てみることだ。自分がどれほど恵まれているのかが分かる。忘れるな…喜びと感謝の念を持ち続ければ、お前は永遠に仲間を失うことはない」
──「ポッキーのおじさんの話……いつかおばあちゃんが教えてくれた話によく似ているなぁ…」
「すまん………なんだか説教染みてしまったな…」
「ううん……。感謝してる…ポッキーのおじさんのこと…」保鬼はほんのりと笑みを浮かべた。ウロコは最早ほぼ全身を覆いつつある。徐々に力が抜け、気力が失われてゆく我が身をなんとか奮い立たせると、錫たちに乞い願った。
「だんだんとわしの記憶が薄れてゆく…力も抜けてゆく…。完全にどうにかなる前に、わしを堕羅から黒の国へ戻してはくれまいか…。そして洞穴を見つけてくれ…」
「えぇ、分かりました!」智信枝栄は保鬼の巨体を脇から抱えた。錫ももう片方の脇から保鬼を優しく抱えてやった。手のひらからウロコの感触が伝わってくる。さっきまで気持ち悪いと逃げ回っていた錫だったが、今は逆にその感触が愛しいと思えた。
堕羅の大門から黒の国へと戻った一行は、すぐに小さな洞穴を見つけた。
「ここでいい…これからこの洞穴で静かに暮らす…。わしの体がどうなるのか自分でも分からん。もし、この魂が朽ちるなら、それも良かろう…」
「ポッキーのおじさん………ごめんなさい…私のせいで…」
「言うな……さっきも教えただろう…。わしは自分の意思でお前を助けたのだ…」
「うん……。でもやっぱり割り切れない…」
「そうか……では一つだけ答えてくれ…。わしがお前を助けたことで、わしもお前たちの仲間になれたかな?」その一言に皆が涙した──綿さえも泣いた。
「…うん、うん……もちろんだよ………ポッキーのおじさんは私たちの大事な仲間だよ!」
「そうか…それでわしは満足だ!だからお前ももう悩むな…」
「うん…うん…ぐすん…」
「ここから先は、わしだけで行く…」保鬼はふらふらした足取りで洞穴の中へと進みだした。
「助けに来る!」錫が大声で叫んだ。「絶対に助けに来るから!」その言葉に保鬼は振り返って微笑んだ。
そうして再び洞穴へと歩き出そうとした───が、今一度振り返りこう言った。「いけない…忘れるところだった…。わしが仕えていた門番様だがな…」そのことは錫たちもすっかり忘れていた。「由真乃美鳥姫様だ。それは美しい霊神だった…」
「由真乃美鳥姫…?そのお姫様はどこにいるの?」
「さぁな…わしにはそれ以上のことは分からん。それに記憶がだんだんと曖昧になってきた…」
「となると名前だけが手がかりか…」
「そうだそうだ!そういえば…いつぞや災いがあり堕羅の大門が開いたことがあった。門番様は毒を持つ蛇やムカデたちを、持っていた道具で見事に追い払ったのを見たことがある」
「それは大きな手がかりだわ…」
「駄目だ……もう…頭が真っ白になって思いだせん…。たしか、とく…とくさの……」
「と、と、十種神宝!?もしかしてこれ?」錫は須勢理毘売から譲り受けた領巾を取りだして保鬼に見せた。保鬼は怪訝そうに眉を顰めて領巾を見ていたが小さく首を振った。
「思いだせない…もう何も分からない。…すまんが…わしはもう行く…」保鬼は暗い暗い洞穴へと消えていった。




