第9章─堕羅Ⅰ
堕羅Ⅰ
Ⅰ
智信枝栄は物音一つしない黒の国を堕羅の大門目指して歩いていた。幸いまだ毒気を持った邪な魂とも遭遇していない。堕羅に近づくには今が絶好の機会に違いなかった。
けれども、智信枝栄は堕羅のことより信枝のことが気がかりだった。信枝はここに来た目的を知らずにいる。もし一人でいたなら、どこに行けばよいのか分からずに途方に暮れていることだろう。
けれど、もし信枝が錫と一緒だったとしても…それはそれで困ることになる…。智信枝栄は頭を痛めていた。というのも、ついさっき智信枝栄は黒の国の状況、掟、そして堕羅で魂が受ける影響を鬼から聞いたのだが、そこに〝ひやっ〟とする内容があったからだ。
それは邪な魂の悪事を防ぐためらしいが──堕羅の大門を潜ると、なんとその魂は本来の姿に戻るというのだ。つまり錫であれば錫雅尊ではなく、香神錫の姿に戻ることを意味する。堕羅の大門を潜る前にそのことを錫に伝えて対処しないと、信枝に正体がばれてしまうことになるのだ。
信枝が一人ではないことを祈るが、願わくば錫とではなく、いしか綿と一緒であること。そして信枝より錫が先に堕羅の大門に到着すること。都合が良くそう願わずにいられなかった。
やがて堕羅の大門が遠くに見え始めた。難無く堕羅に到着することができたのは智信枝栄にとって有り難かった。
「誰もいない……どうやら一番乗りだわ…」まずは一安心と安堵のため息を吐いた。次にここに現れるのが錫であってほしいと願いつつ、智信枝栄は堕羅の大門の正面に立って左右をゆっくりと見回してみた。「これが堕羅…」
黒の国の鬼門に位置し、所謂地獄の中の地獄と恐れられている堕羅。まさにその堕羅が自分の前に立ちはだかっている。話には聞いていたが、初めて目にする堕羅と対峙し、さすがの智信枝栄も身震いした。
何より智信枝栄を驚かせたのは、正面に大きく立ち塞がっている堕羅の大門だ。想像していたものとは何もかもがまったく違っていた。大門は開閉式ではなく、赤黒い霊気の帳が黒の国と堕羅との境を閉ざしているだけだった。今は一時的に行き来ができないようになっているが、決して完全に封印されているわけではないはずだ。おそらく今の大門は、何かの拍子で霊気が消えてしまう状態なのだろうと警戒しながら、智信枝栄はさらにその大門の大きさにも驚いた。幅十間以上──ざっと二十㍍はありそうだ。高さも同じ十間はありそうなので、恐ろしいまでの威圧感だ。その大門の両側の地面からは、突起した黒い岩の塀が左右横並びに延々と続いている。高さはほぼ大門に合わせてあるところを見ると、恐ろしいほどの霊力を持ち合わせた何者かが、地面から岩を一気に迫り上げて作り上げたような塀だ。
同じ黒の国でも、この一画だけは別世界とされ、そこに棲む魂は頑なに幽閉されてきた。何故そうなのかは知らないが、それほどの理由があるに違いないと、改めて堕羅の醸し出す不気味な恐怖に煽られる智信枝栄だった。
★
「兄鬼、最近此奴はずっとこの調子ですぜ」ずんぐりな子分の小鬼稚は、首を必死に伸ばしてちっちゃな覗き窓から牢の中を覗きこんだ。図体の大きな兄鬼は、無理やり小鬼稚をぐいぐい押し退けながら自分も覗こうとしていた。
「おい小鬼稚…兄貴分のオレ様が覗く時ぐらい遠慮したらどうなんだ…。一緒に覗き合ってたらお互いのほっぺたが擦れ合って気持ちが悪いじゃねぇか…。しかもこれじゃお互いが片目ずつしか覗けない…」
「だって兄鬼が此奴から絶対目を離すなって言うからですよ…」
「時と場合ってもんがあるだろうが…。臨機応変って言葉を知らんのかお前は…」
「それくらいはオレだって知ってますって…」
「だいたいお前は昔っから融通が利かん。もう少し柔軟になれ柔軟に…融通無碍というやつにな」
「ムズかしい言葉だなぁ……。兄鬼は意外に賢いんですね…」
「意外には余計なんだ意外には…。いいか、この際言っておくがなぁ……お前は頭が固いくせに、誰の言うことでもすぐに信用して〝ころっ〟と騙されるのが良くない性格だ…」
「へぇ、ご馳走さんで…。ところで兄鬼…此奴ず~~っと、あーやって隅っこに座ってるんですぜ…」小鬼稚は素早く話を切り替えた。「最初の頃のように暴れたりもしなくなりました」
「おとなしい方が逆に気になるな…。油断させておいて突然豹変する……古臭いが引っかかりやすい作戦よぉ!」
「そんなもんですかね?」小鬼稚はそんな危機感をまるで感じなかった。
「親方様はこう言われたんだ…〝何があっても絶対この魂を外に出してはならない。もし逃がしたりしたら大変なことになる…。お前だけではなく私も責任を取って無になるしかない〟とな…。この意味が分かるか?此奴はそれほど危険で恐ろしい奴だということだ……くわばら、くわばら…」
「兄鬼……も、も、漏らしそうです」小鬼稚は〝ぶるぶる〟っと震えた。
「バカか…肉体も無いのに漏れるわけないだろうが…。とにかくだ…お前なんか特に気をつけておかないと一番に襲われるぞ…。何しろ親方様は此奴のためだけにわざわざこんな頑丈な牢を作らせたのだからな…」
「恐いこと言わんでくださいよ。見張ってるだけでも気持ち悪いんですから…」
「親方様の命令だ。四の五の言わずにしっかり見張ってろ」
「兄鬼はそう言いますが…オレは親方様がどんな方なのかさえ知らないんですよ…。おっかない方なんで?」
「それはお前にも言えねぇ──親方様に雇われる時の約束だからな。破ったら褒美が貰えねぇ…」
「はぁ…イヤな役回りだなぁ。…こんな危ない奴をいつまでここに置いておくんでしょう?」
「さあなぁ…親方様がもう良いと言われるまでだな…」
「それはいつです?」
「お前はバカか!?そんなのオレ様にも分かるわけないだろうが…。親方様がもう良いと言われる時がその時だ!」
「いつ頃その時がくるんでしょ…?」
「………。お前とは二度と口をきいてやらん…」
Ⅱ
「あんたの話は大いに参考になったよ…ありがとうね」
「お礼を言われるほど参考になったかどうか…。それに私の方こそお礼を言わないと…こっちから電話しようって幾度思ったことか…。姉さんが連絡をくれて本当に嬉しかった!」
「勝手な時だけ呼び出すかたちになってすまなかったね。これからは時々連絡するよ。そうだ……あんたも私に会いたい時はここに電話しておくれ」
「これは姉さんのケータイ電話の番号?」女は受け取ったメモ用紙に書かれた番号を見て尋ねた。
「まさか…あたしゃ、あんなの持つのが億劫でね…。これは孫のケータイ番号さ」
「姉さんのお孫さん…………じゃ、錫さんの?」
「そう…錫のケータイだ。この子の電話なら気がねしないで大丈夫だからねぇ」
「はい。姉さん…ありがとう。私…姉さんには何も恩返しができなくて…」
「何を改まって…おかしな子だね………静紅は私の可愛い妹じゃないか!」




