第8章──地獄Ⅱ
地獄Ⅱ
Ⅲ
錫はすっかり生気を無くしていた。今いる場所から一歩たりとも歩きたくない心境だった。そんな主人に対して、どうしたものかと思案していたいしだったが、ここぞとばかり凛とした面持ちで立ち上がった。
「ご主人様、このいしめの背中にお乗りください」
「いしが連れて行ってくれるの?」
「というよりも、ご主人様に乗って頂きたいのですけん」
「いし…あんたは本当に優しい子だね…」主人のその一言で、いしは地獄に居ながら気分は天国だった。
錫がいしの背に跨ると、いしは幸せそうな足取りで歩きだした。いしの背中は大きくて心地よい。それに子供の頃デパートの屋上で見かけた、ぞうさんやパンダさんの乗り物のように楽しい。百円玉を入れると約三分間、前後に〝こっくんこっくん〟動く、あの電動の乗り物だ。
いい気分で揺られていると、いしが錫に尋ねた。「ご主人様、走ってもよろしいですか?」
「うん。もちろんよ」錫の返事を待って、嬉しそうにいしは走り出した。
「…いしは幸せ者ですけん。ここはご主人様にとって恐い世界かも知れませんが、わたくしがご主人様を全身全霊で守りますけん」
「ありがとう…いし。でもいしの場合は全霊全霊だよねぇ~」
「あっ!本当ですけん、わははは…」錫はいしに和まされて、地獄の恐怖もいくらか緩和された。
それからどのくらい進んだだろうか…。速度を緩めたいしが錫に話しかけた。
「ご主人様、前を見てください」まだまだ距離はあったが、正面には地獄に落ちた邪な魂たちが集団で歩いている姿が見える。その集団の先頭と最後尾には監視役の鬼がぴったりと張りついていて、魂たちは鬼に怯えながらどこかに移動させられていた。
地獄に落ちた魂たちを初めて目の当たりにした錫は、恐ろしいというより気の毒に思った。全身は窶れて骨と皮だけだ。そのくせお腹だけが〝ぽん〟と膨れている──栄養失調と同じ症状だ。痩けた頬、くぼんだ目、血みどろの表皮、まるで肉体があるかのようだった。
「いし…生きている間に悪い事をすると、魂はあんなに残酷な仕打ちを受けるの…?」哀れなほど酷たらしい姿に、錫は血の気が引く思いだった。
「はい。そのための黒の国…すなわち地獄ですけん…」
「…………。私…私誓います!…もう二度とお母さんの大事な化粧道具を勝手に使ったりしません。家の掃除を頼まれたとき、寝たふりもしません。パパから嫌な仕事を頼まれても、他に大事な先約があると嘘もつきません。それからそれから……トイレットペーパーが自分の番でなくなっても、面倒くさがらずに次の人のために交換しておきます…。だから死んだ時ここに連れて来られませんように…」胸で手を組み、悲愴な顔でひたすら誰かに祈っている錫だった。
──「もしそんなことで地獄行きなら、人は誰も天国には行けませんですけん…。ご主人様は本当に無垢で愛らしい方です」
錫雅尊と錫──いしにとってはどちらも大切な存在だ。けれどもそれは錫雅尊と錫が同じ魂だからという理由だけではない。たとえ錫雅尊と錫が別の魂だったとしても、いしは錫を主人として迎えたい──そう思えるくらい錫という人間が大好きでならなかった。
いしにとって錫雅尊は安心して自分を委ねられる存在だ。錫はそれとは逆に危なっかしくて放っておけない。それでもいしが錫雅尊と同じだけの忠誠心で錫に仕えたくなるのは、錫の魂の根底にあるその純粋さ清らかさが、錫雅尊が秘めていたそれと同一のものであるからだった。
「止まれ!」突然錫といしの行く手を阻んだのは、今まで出会った鬼より一回り大きな緑色の鬼だった。イボ付きの太い金棒を横に突き出し、いしの歩みを無理やり止めた。
「ひゃっ!この鬼さんいきなり岩陰から現れて…。まるで交通安全週間でスピード違反を取り締まってるお巡りさんみたいだよ」錫がいしの耳元で囁いた。
「お前たちどこへ行く?見たところ黒の国で捌きを受ける魂ではなさそうだが…」
「私たち、堕羅に行く途中なのですが…」
「なにぃ?お前たちは堕羅に行くつもりなのか!?」緑鬼が驚いて聞き返した。
「そ、そうですけど…そんなに驚くことなのですか?…ネズミ取りの緑鬼さん」
「……ネズ…?…おかしな奴だな…」緑鬼は錫に調子を乱された。「お前たちを止めたのは、この先が堕羅だからだ。今あの近辺はとても危険だ──近寄るな」
「えっ!そんなに危険なの?」
「危険なんてもんじゃない…今あそこは地獄だ…」
「いし…なんかこの会話変じゃない?…ここはどこだっけ?」いしは錫の顔を見て軽く笑った。
「お前たちは何も知らずにここに来たのか?」
「堕羅の大門が開いて一大事なのは聞かされてますが、あまり詳しくは知りません」
「だったら白の国で幸せに暮らせ。こんな場所に来るなんて愚か者だぞ」
「私だって来たくて来たわけではじゃないの…成り行きで来ざるを得なくなったというか…。それに、おそらく堕羅で仲間が待っていると思うので、どうしても行かないとダメなの」
「どうしてもと言うなら止めはせんが、危険なのは覚悟しておけ」
「あ、あの…危険って、やっぱり毒蛇や毒虫ですか?」
「あぁ、そうだ。以前も堕羅の大門が開いて奴らが出てきたことがあったが、今回はちっとばかり様子が違う」
「様子が違うって…どんな風に?」
「時々えげつない奴が現れる──霊力や知恵を兼ね備えている奴らだ。そいつらが地獄の亡者を襲ったり、こともあろうに我々鬼にも牙を剥いて襲ってくる始末だ…」話を聞けば聞くほど、錫は硬直し、気力は削がれてゆく──。
「やっぱり帰りたいよぉ~…」錫はいしに跨ったまま覇気のない声で呟いた。
暫し緑の鬼は気難しい顔をして錫といしを睨んでいたが、顔に似合わないほっそりとした声で言った。「お前たちを引き留めたいが、仲間が待っているなら早く行ってやるといい──手遅れでなければ良いがな…」
「……手遅れ?」
「あぁ……手に負えない奴らが何時現れるか予測がつかんのだ。もしも其奴等が今現れたらお前たちの仲間も危ないぞ」
「大変だぁ!いし、こうしてはいられないよ」。「はい、急ぎましょう!」
「緑のおじさん、いろいろありがとう!また会いましょうね」
「…………。緑のおじさん?…よく分からんが気に入った!」鬼は上機嫌に金棒を振りながら錫たちを見送った──。
Ⅳ
智信枝栄は鬼と情報の交換をしながら、黒の国の知識を得ていた。
「……とても勉強になりました。知らなければ過ちを犯すこともあったでしょう…」
「ワシもあんたと話せて良かった。どうしてこの一大事に堕羅の大門の門番が来ないのか不思議に思っていたのだ。どおりでいつまで経っても来ないはずだ……まさかもう存在していないとは…」
「ですが一縷の望みはあります。堕羅の大門を封印できるお方が今動き始めていますから…」
「ほ、本当にか!?門番以外にあの大門が封印できるのか?」
「今は僅かな手がかりしかありませんが……あの子ならきっと…。ちょっとばかり天然で臆病ですが……なんとかしてくれる不思議な子なんです…」
「……?あんたの話を聞いていると期待して良いのかどうか分からんなぁ…」智信枝栄はそれには答えず、黙って微笑んだ。
「長居をしました。もう行かなくては…」
「そうか…気をつけて行けよ!さっきも話したとおり、堕羅に入ったら決して油断するでないぞ」
「はい、教えて頂いたことは肝に銘じておきます」
Ⅴ
「月夜美乃神様は、信枝殿にそう話されたのですか!?」
「そうなのじゃ…。まさかそんな事情があるとは思わなかったのでな…」
月夜美乃神から錫雅尊が人間に生まれ変わっていると聞かされた信枝は再び意識を失っていた。
信枝と入れ替わりに目を覚ました綿が月夜美乃神からその話を聞くと、なんとか上手く繕う方法がないものかと考えるのだった。
「あのぅ…月夜美乃神様にお願いがあります。実は今、錫雅様は堕羅の大門を封じる手がかりを探しに黒の国に来ています」
「なんじゃと!?」
「ですが信枝殿にはその目的を告げておりません。信枝殿は、ただただ錫雅様の側に居たいがために黒の国について来ただけなのです」
「うっふっふっふ…はっはっはっ…漸く分かった。この子が言ってたことは本当だったのじゃな…」月夜美乃神は信枝と噛み合わない会話をしていたことが滑稽に思えた。
「そこでお願いなのですが、月夜美乃神様の力でこの信枝殿を元の人間界に帰してくださいませんでしょうか?」
「錫雅尊のところへは連れて行かぬのか?」
「今回はこのまま帰した方が良いような気がするのです…。信枝殿もここより人間界の方が気持ちを落ち着かせることができるでしょうし、こっちもその間に錫雅様の秘密を取り繕う良い方法を考えてみます」
「分かった──言うとおりにしましょう。これから先のことは錫雅尊やそなたたちに任せて、私はこの子を人間界に送り返すとしよう」
「神様をお使い立てして申し訳ございません…。あたいはこの足で、はぐれたお方たちを探してこのことを伝えます」
「ふっふっふ……」。「何が可笑しいのですか?」
「そなたは主を持たないのか?」突拍子もない話に変わり、さすがの綿も戸惑った。
「あたいはそんなめんどうくさいもの必要ありません」
「そうか…。私にはこの信枝という女性がそなたの主にぴったりだと思うが…」
「そ、そんなこと…いくら神様でも勝手に決めないでもらいたいです」押しつけられて迷惑だという態度をしていた綿だが、満更でもない心の内が上手く隠せていない。
「そうじゃな…この者の魂はまだ人間界にあるからな…。だが…こうしてこの者が幽体離脱した時には、主として仕えてみては?ふふっ…」
「あ、あたいはこのままでいいですってば…」
「分かった分かった、無理強いはせん。でもそなたたちは気質がよく似ている──二人で力を合わせたら良い間柄になるじゃろう」
「…………」綿は一言も言葉が出なかった。
「ではこの者はたしかに月夜美乃神が引き受けた。…そうそう、それから何か困ったことがあれば私をお呼びなさい。月に向かって願えば、私のできることはいたしましょう──この者にも同じ事を伝えてやりなさい」
「もったいないことです──月夜美乃神様」綿は信枝を抱えて連れて行く月夜美乃神を見送った。だんだんと天に消えてゆく姿を見ていると、意味も分からぬまま切なさが込み上げてきた。
その後すぐに、信枝と初めて出会った時のことが綿の脳裏を過ぎった。信枝の手足となって狡狗と戦った場面が懐かしく蘇り、妙に胸が高鳴る綿だった。




