第8章──地獄Ⅰ
地獄
Ⅰ
堕羅の大門からそう遠くない場所に落ちたことは、智信枝栄にとって幸いだった。意識を失わなかった智信枝栄は、これからどうすべきかを考えたが、錫が堕羅を目指して来ることを想定し、自分もそこまで足を運んで待つことにした。
堕羅に向かう途中、智信枝栄は黒の国が人間の想像する地獄とは随分違っていることに驚いた。所謂地獄絵とはまったく異なっていたからだ。
辺り全体はなんとも言葉にしがたい重苦しい空気が満ちていて、それは確かに地獄を感じさせるものだった。だが──ここには針地獄も、釜ゆで地獄も、血の池地獄もない。あるのは平地から突起したごつごつした岩と、同じく平地のあちこちにぽっかり空いている大きな洞窟だ。洞窟の付近には必ず鬼が一体か二体見張っていて、どの鬼たちも退屈そうに胡座をかいて腕組みをしたまま居眠っている。寝ている鬼の側を通る時は、なるべく静かに歩いていたつもりだったが、一匹の黄色い鬼が智信枝栄に気づき目を覚ました。一瞬黒の国の亡者が脱走したと勘違いして鬼の形相になったが、そうではないと分かると、のんびりとした顔つきに戻った。
「おんや…今どき客人とは珍しいなぁ。しかもこんな美しいお方が…。んで、どこへ行きなさる?」
「私は堕羅へと向かう途中です」
「堕羅ならもうすぐそこだが、ますます珍しいなぁ…今どき堕羅とは…」
「差し支えなければ黒の国の現状を聞かせてもらえませんか?」鬼はキョトンとして逆に智信枝栄に尋ねた。
「あんた、何を目的にここに来なすった?」
「私は堕羅の大門を調べに…」
「あら~…ではあなた様は…」鬼はそう言うと正座をして智信枝栄にひれ伏した。
「失礼しました…あなた様は堕羅の門番様で?」
「ち、違うわ…私は調べに来ただけです。門番ではありません」
「えっ…?違うのか?なんだ…やっと門番様が来てくれたと思ったんだが…」鬼はガックリと肩を落として、大きくため息を吐いたが、ぽつりぽつりと黒の国のことを話し始めたのだった。
Ⅱ
信枝は錫と同じく黒の国に落ちたとき意識を失っていた。目が覚めた信枝は、自分が穴に突き落とされたことを忘れていたが、小綺麗な部屋に寝かされ、そこが自分の部屋ではないことに気づいて、やっと今までの経緯を思い出した。枕元には、まだ意識を失っている綿が背を丸めて休んでいる。それだけでも信枝には心強かった。
「おや、気がついたようじゃな」何かの本の挿絵で見た卑弥呼のような格好をした女性だった。
「ここは?」信枝は上半身を起こして尋ねた。
「黒の国じゃ。私は人間界の夜を司る月夜美乃神。堕羅の大門が壊され、黒の国が混乱しているにも関わらず門番が現れないので、時折こうして様子を見に来ているのじゃ」信枝には全てが宇宙語に聞こえる。
「あのですね、月夜の神様…」
「月夜美乃神じゃ」
「あっ……。悪いですが何を仰っておられるのか私にはまったく分からないのです」
「分からぬのか…!?そなたは何者なのじゃ?黒の国の亡者ではなかったので助けたのだが、私の言ってる意味が分からないとすると、いったいそなたは何をしにここへ来たのじゃ?」
「実は…何も知らずにここへ来ました。ただただ、愛しいお方のおそばを離れたくなくて…」
「はぁ───っ!時折そなたのような変わり者がおる。好いた者同士が心中を図り、どちらかが黒の国に行く羽目になると、もう片方がついて来てしまうのじゃ…」月夜美乃神は呆れてそう言うと、さらに話を続けた。「気の毒じゃが、そなたの相手は刑を免れぬ。今頃は鬼たちに連れて行かれ、地獄の苦しみを味わっていることじゃろう…地獄だけに……くふっ」
──「自分で笑っているわ…」気さくな神様だが、つまらない冗談だと信枝は密かに思った。
「私の愛しいお方はそんなんじゃありません。ここに来なければならない理由があったのです」その言葉に月夜美乃神はますます呆れて、顔を小刻みに振った。
「はぁ──────っ!よくお聞きなさい。こんな所に来なければならない理由は一つしかないのじゃ。人間界で極悪非道な罪を犯した…ただそれだけじゃ!愛しい方とやらのことは諦めなさい。今なら私がそなたを白の国に帰してやりましょう」話が通じなくて信枝は少し苛立った。
「白の国?…あそこは死者が行く場所でしょ?…私はまだ死んでませんよ…。私が帰るのは人間界です」
「はぁ────────っ!…気の毒に………時折死を受け入れられぬ哀れな魂がおる…」
──「だめだなこりゃ…」月夜美乃神に理解してもらえない信枝は、もっと噛み砕いて説明することにした。
「よく聞いてください月夜の神様…」
「月夜美乃神じゃ」
「あっ…ごめんなさい…。実は私の愛しいお方は霊神なのです。そして私は自分から幽体離脱してここに来ました。愛しいお方と一時でも一緒にいたかったからです。そのお方がここに来た目的は分かりませんが、きっと何か大事な用があったのでしょう…」
「なんと…そなたの愛しいお方は霊神か!?私の知っているお方であろうか…?」その質問に、信枝は少女漫画宛らのキラキラした瞳を宙に向けて答えた。
「錫雅様と仰る方です。とっても凛々しくて優しくて………思い出すだけでシビれてしまうんです…」
「錫雅…?ひょっとして…錫雅美妙王尊のことであろうか?…だがあの者は人間界に修行に出ているはずじゃ」
「そのお方に違いありません。人間界に出ているのは、私の友人の守護神をしているからです」
「そういう意味ではない。あの者は今人間に生まれ変わっているはずじゃ…」
「何ですってェ──!?」それから信枝はまた意識を失った──。




