第7章──分かれ道Ⅰ
分かれ道Ⅰ
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そこは澱んだ世界──快楽は与えられず、夢見ることさえない許されない苛酷な世界。
醜く歪んでしまった人間の魂だけが蔓延る〝黒の国〟は、人間界で〝地獄〟と呼ばれ恐れられている。この国はそれほど広大ではなく、その比率は白の国に比べると約百分の一だ。
風も水も草も存在しない──故にこの国は音を持たない。その無音の世界を嫌うかのように聞こえてくるのは──苦しみに喘ぐ亡者の呻き声だ。ここでは亡者の悲痛な叫び声が不気味な風の音に聞こえる。こぼれ落ちる血と涙が露の滴り落ちる音に聞こえる。許しを乞い手をさする音が草の音となって聞こえてくる。
黒の国といっても闇が支配しているような暗さではない。赤黒い光が世界を覆っていて、何とも言いがたいおどろおどろしい雰囲気だ。ならばなぜ黒の国と呼ばれるのか──それはここが白の国とは対照的な存在であること。そして邪心を持った魂──つまりは〝黒心〟の持ち主が行き着く場所であるということがその所以だ。
楽園である白の国への門はたった一カ所しかない。死者がこの門を潜ろうとする時、番人によって篩にかけられる。そこで許された死者だけが白の国の住人として認められるのだ。
ではどうやって篩にかけるのか?その方法は至極簡単だ。白の国への入り口手前には、絶えず澄み切った霊気が流れている大きな川に似た場所が存在する。ここを渡った死者が、まるで蛍光塗料でも付着したように、淡い白色がかった光を帯びていたなら、その死者の魂は白の国での安住が約束される。だが死者にその印がない場合、番人によって黒の国に通じる穴へと容赦なく放り込まれる。
稀にどちらとも判断が付かない魂は〝円満の城〟につれて行かれ、即座にその魂の本質を試されることになる。
天国か地獄か───すべては人間界での行いが明暗を分けることになり、この時点で死者が慌てふためいても手遅れというわけだ。
Ⅰ
「信枝殿……ど、どうしてここへ!?」
「〝どうしてここへ〟ではありませんよ!錫雅様こそどうして拗隠の国から帰って来られていたことを…いいえ、生きておられたことを今まで内緒に?」信枝は錫にしがみついたまま、目に涙をいっぱい溜めている。
「そ、それは…」突如現れた信枝に戸惑わないわけがない。そこへきて、いきなり核心に触れられ、うまい言いわけなど見つからず言葉に詰まっていた錫に、智信枝栄が助け船を出した。
「信枝様……錫雅様は信枝様を思って黙っておられたのです」
「私のことを?」
「そうですとも!信枝様のお気持ちを錫雅様はよく分かっておいででした。それ故住む世界が違う信枝様が永遠に実らない恋を求め続けることに、錫雅様は心を痛められたのです。ですから敢えて信枝様には黙っておられました。貴女には本当の意味で幸せになって頂きたいと切に願ってのことです…」それを聞いた信枝は一層力を込めて錫に抱きついた。
「錫雅様はそれほどまでに私のことを……。あぁ…胸がじんじんするのはどうしてでしょう♡…」
「の、信枝殿……激しく抱きつきすぎです…」たじたじしている錫に、いしが割って入って話題を変えた。
「ところで信枝殿、どうしてご主人様が無事だと…?」その答えは錫も智信枝栄も知りたかった。
信枝から今日が見合いの日だったと聞いて、全員が耳を疑った。けれども、そこに至るまでの経緯を聞かされると、逆に信枝らしいと納得できた。
見合いの席で、〝私が結婚する相手はこの人なんだ…〟信枝は胸の内でそう思いながら道部良文を見ていた。
〝悪い人ではなさそうだし、たぶん上手くやっていけるだろう〟──心のどこかで自分をごまかしていることに気づきつつ、信枝は正立と道部の息の合ったやり取りを聞いていた。それでも自分だけが重苦しい空気を吸っていることに耐えきれず、手洗いに行くと言って席を立った。庭に出て緑の木々を眺めながら大きく胸を張り、新鮮な空気をいっぱい吸い込んだら少し心が安まった気がした。せっかく席を外したのだし、本当に手洗いに行こうと歩き始めた時だ。信枝は誰かに呼ばれている気がして立ち止まった。
「信枝殿…」確かに名前を呼ばれているようだ。
信枝を〝殿〟と呼ぶような相手は、こっちの世界には一人もいない──足を止めて気を研ぎ澄ましてみた。
「信枝殿」確かに聞こえる。「…信枝殿…あたいです」
「あたい?……綿…綿だね!?こっちへ来たの?」
「はい、何日か前に…。人間界の見学をしていましたが、それもそろそろ飽きましたし、お世話になった信枝殿にご挨拶をしておかねばと思いまして…」
「そうだったの。で…こっちには何か特別な用事でも?」
「たいしたことではないのですが、錫雅様に伝えることがありま………」ついうっかり口を滑らせた。〝しまった〟と慌てて口を噤んだものの後の祭り───信枝にとっては正に〈寝耳に水〉〈青天の霹靂〉と言ったところだ。
「綿…今なんて言ったの!?」。「あ、あの……あたいは…」
「綿…よ~~く聞きなさい。あんたを拗隠の国から助けてあげたのは誰?私よ私……一番の恩人は、このわ・た・し!まさかその恩を忘れてないわよね……?ハイ、では正直に白状してごらん」
「うぅ~…うぅ~…」綿は一番弱いところを突かれて唸ってばかりだ。
「いい?あんたを拗隠の国から助けてあげたのは誰!?このわ・た・し……世界で一番の恩人は…」
「わ、わかりましたわかりました…信枝殿。全て話しますから…」さすがの綿も、この恩着せがましい信枝の押しには勝てず、錫雅尊が拗隠の国から無事に帰っていた事を正直に話した。
「錫雅様が無事だった…錫雅様が…」今まで現実を受け入れたくなかった信枝は、錫雅尊の〝無〟を心のどこかで拒否していた。それなのに無事だったと聞かされた途端、今度は〝まさか〟と思う気持ちが信枝を惑わせた──〝バックンバックン〟と、まるでハンマーで叩きつけられているような衝撃が心臓を襲う。信枝は矢も盾もたまらず、すぐさま錫雅尊のもとに飛んできたつもりだったのだが──。
「それで信枝殿…お見合いはもう終わったのですか?」智信枝栄はそっちが気になって信枝に尋ねた。
「終わってないわ。黙って抜け出してここに来たから…」
「いいえ。信枝殿はきちんとケリをつけてからここへ来ました…」ばつが悪そうに割って入ってきたのは綿だった。
「雌狛…やらかしてくれたな…」綿への普段の鬱憤を晴らすかのようないしの口調だ。
「あんたに言われるのが一番悔しいけど、今は黙って聞いておくわ…」
「まぁまぁ…二人とも落ち着いて…」
「錫雅様、あたいたちは人間ではありませんよ…」
「よいのだ。お前たちは人間と一緒だ。お前たちを〝何匹〟とは数えたくない」
「やっぱり錫雅様はお優しい方ですわ…」信枝はまた錫に抱きついて猫のようにほおずりした。
「そ、それで綿…信枝殿は見合いの途中で抜け出したのではないのか?」錫はたじたじしながら尋ねた。
「はい、あたいは信枝殿の行動を見ていました。信枝殿はちゃんと相手の方にご挨拶しておられました」
「えっ!私、挨拶してた?そんな記憶ないけど…」信枝はきょとんとして言った。
「間違いありません。信枝殿は客人に〝私の大切な人が向こうの世界から帰って来ました。申しわけないですが、この話は無かったことにしてください〟と仰いました…」
──「無意識とはいえ信枝らしい…」錫はそう思った。
「その後、信枝殿は自分の部屋に戻られ、自ら魂を離脱させてここに来られたのです。衝撃的すぎて意識が飛んだのでしょうが、無意識でもきちんと行動されていました」
「そうだったの…?私は錫雅様の姿が見えてからしか何も覚えてないわ…」信枝はそう言って、また穴が空くほど錫の顔を見つめた──。
智信枝栄は目配せしつつ「スン…」と小声で言った。錫はそれがなんの合図かをすぐに察した。
「信枝殿…すまないが急を要することがあるのだ。今日はこれで帰りなさい」
「嫌です!せっかく再会したばかりなのに……私も連れて行ってください」
「ダメよ!……あっ、いや…ダメだ」慌てると女に戻ってしまう──。
「ねぇ信枝様、錫雅様と私は今から恐ろしい地獄に行かねばなりません。地獄ですよ、地獄…」
「地獄?……たとえ地獄でも錫雅様と一緒なら私には天国よ。錫雅様を失ってからの私は、ずっと地獄にいるようなものだったから…」信枝を脅したつもりが逆効果だった。智信枝栄はもう少し言葉を選ぶべきだったと後悔した。「だからせめて肉体を抜け出した時は、少しでも長く錫雅様と一緒にいます………ね♡?」
──「ね?って可愛い声で言われても困るわよ…。どうして錫雅と一緒だと、こうも人格が変わっちゃうのよぉ…」
「錫雅様、信枝様が良いと仰るんですから、一緒に参りましょう!」
「さ~っすが智信枝栄様!話が分かるわぁ。ね…良いでしょ錫雅様!?」
──「そうね…考えてみたらコワイ者知らずの信枝が一緒なら、私としても心強いかも…」
「信枝殿がどうしてもと言うのなら……仕方がない…」本心は伏せて、錫は信枝の地獄行きを許した。
「よっしゃ!」信枝はこぶしを握って大喜びすると、錫に続いて黒龍に跨り、当たり前のように錫の背中にへばり付いたのだった──。




