第6章──謎Ⅲ
謎Ⅲ
Ⅴ
今日の夕刻──いよいよ錫たちは地獄へと旅立つ。
錫と浩子が喫茶『リンネ』で堕羅に行く計画を練ってから、早くも三日が過ぎていた。
錫が堕羅に行く一番の目的は、父・龍門を助けたいがためだ。堕羅の大門の玉の在処も気にならないではないが、それは二の次三の次──行かずに済むのならばそうしたかった。しかし、龍門を助けるための手がかりは今のところ皆無と言っていい。そうなると、どうあっても堕羅に行き、大門の玉を探しつつ、龍門を助け出す手がかりを見つけるしか策がなかったのだ。
地獄とはどういう場所なのだろうか?──腹を据えて行くことを決意したはずの錫だったが、やっぱり考えただけでゾッとした。今の錫の頭の中は常に三つの恐怖がくるくる巡るのだ。
まず、罪を犯して拷問にかけられた魂が、苦しみ喘ぎながら錫に助けを求めてくる。それから鬼たちが金棒を振り回しながら意味もなく錫に襲かかる。そして堕羅という得体の知らぬ場所に棲む毒々しい魂たちが門の外に逃げ出し悪さをする──そんなおどろおどろしい想像をしたくなくてもしてしまう。ちょっと前までは地獄の何丁目でも行ってやると意気込んでいた錫だったが、時間が経つと、恐くて恐くて布団をかぶってブルブル震える始末だった。
「三重苦だ……これは三重苦だ。パパごめん…やっぱり錫は地獄行きを撤回します…。私はあんな場所には行けましぇん…たとえ一丁目だって無理です。親不孝者の錫をお許しください…」
「スン…何ぶつぶつ言ってるの?早く布団から出なさい……子供と一緒なんだから…ふふふ」
「あっ……相変わらず羨ましいほど美しい智信枝栄命様の浩子殿…いつ来てたの?」智信枝栄は錫と正反対で、もう腹がどっしりと据わっていた。
「煽てても駄目よ…。まったく…白の国を救ったスン様とは思えないわ…」
「あ~…あれはきっと錫雅が取り憑いたのよ…」
「もう…何で自分が自分に取り憑くのよ…。引きずり出すわよ……中身だけ…」
「イヤらぁ~……やっぱり私は単純(T)・天然(T)・臆病(O)なのよぉ~。だから無理…ムリ無理むり、もう一つおまけに無理!地獄に行くなら死んだ方がまし」
「………ねぇスン…もし死んでも地獄行きだったらどうするの?」悪戯っぽくそう言うと、智信枝栄は錫のおでこを指でつんつんと突っついた。
「……んもぅ~、イジワル…今日の浩子はまるで信枝みたいよ」そんな錫を笑いながら智信枝栄は言った。
「ふふっ…あのねスン──実は出発前に客人がおいでになるの…」
「今から?……誰?」。「すぐに分かるわ」
「玄関で待っておこうか?」。「その必要はいらないわ。もうすぐ直接ここにおいでになるはず…」
いったい誰だろうと考えていると、どこからか声が聞こえてきた──。
「錫…」。「えっ!?誰…?どこにいるの?」
「………分かりやすいように姿を見せましょうか…」それから一呼吸置いてのことだった。ベッドの角に転がされていたグリちゃんのぬいぐるみが、命を吹きかけられたように立ち上がり、二~三歩あるいて枕の上にちょこんと座った。
「ヒ~…!」錫はビックリして後ずさりした。やっぱりぬいぐるみは動かない方が可愛いようだ。
「そんなに驚かなくても…。私です…天甦霊主です」
「自称神さ……い、いやっ、天甦霊主様!?お声がいつもと違うようなので分かりませんでした」
「かまいませんよ…自称神様で…ほほほっ」天甦霊主は些細なことに拘泥する様子も見せず屈託なく笑った。
「は、はい…。それで…じ、自称神様はどうしてこんなところに?」少し体裁悪げに尋ねた。
「実はそなたに聞きたい事があって来たのです。智信枝栄よ…この子に説明してやっておくれ」
「かしこまりました天甦霊主様」智信枝栄が端的に説明している間、錫は大きな目を輝かせながら聞いていた。
「矢羽走彦のことは、私もずっと気になっていたんです」
「そなたに嘘をついて悪かった。しかし疚しい気持ちがあったわけではないのです。許しておくれ…」
「や、やめてください。神様に謝られるとくすぐったいわ…」
「では改めて教えておくれ──矢羽走彦は私にダマされたと…本当にそう言ったのですか?」
「はい、間違いありません。狡狗との戦いを終わらせるために、自称神様が矢羽走彦を拗隠の国に行かせたと…」そこで一旦言葉を切った錫は、自分の記憶に間違いないかどうか今一度確認してみた。天甦霊主がわざわざここを訪ねて来るほど重要な事柄であるなら、錫も曖昧な返答をしてはならないと思ったからだ。
「そうです…。自称神様が矢羽走彦に秘宝を渡して、拗隠の国の抜け穴を塞ぐよう頼んだと…。後で必ず助けに行く…帰ったら英雄だと持ちかけられ、白の国を助けるために拗隠の国に行ったのだと言っていました」
「なんと…………まことか…?」
──「どうも自称神様の物言いと、グリちゃんのぬいぐるみとがそぐわないわ…」真面目な話をしている最中、錫はふとそう思っておかしくなった。
「私とて本当はこんなクマのぬいぐるみより市松人形の方が好ましいのです…」グリちゃんのぬいぐるみは顔を歪ませて言った。
「ゲッ……心を読まれているのですか?」錫はまたしても体裁が悪くなって俯いた。
「ふふふふっ!」智信枝栄はくすくす笑っている。
──「浩子…あとでお仕置きだよ!」錫は俯いたまま智信枝栄を睨んだ。
「ところで天甦霊主様、本当のところ…どうだったのですか?」智信枝栄は何事も無かったように尋ねた。
「秘宝はたしかに私が持っていた物です。ですが私が矢羽走彦に秘宝を渡し、拗隠の国に行くよう命じたことなどありません…」
「じゃ、どうして矢羽走彦が自称神様の秘宝を持って拗隠の国に?」
「恥ずかしい話なのですが──盗まれたのです」
「盗まれた!?いったい誰に?」
「今まで誰が盗んだのか私にもはっきり分かりませんでした…」思わぬ話の展開に、錫の頭からはいつの間にか地獄行きの事などすっかり消え去っていた。「矢羽走彦が拗隠の国で狡狗を牛耳っていたことをあなたから聞かされてから、ずっとその事を気に病んでいたのは事実です。それまであの者は無にされたと信じていましたから…。矢羽走彦は仮にも霊神──わざわざ狡狗を支配しに行くだろうか?…それが引っ掛かっていました。そして先日、私が矢羽走彦をダマして拗隠の国に行かせた事になっていると智信枝栄から聞きました。それで私の中で一つの仮説が生まれたのです──矢羽走彦は誰かに踊らされていたのかも知れないと…。それはあくまでも仮説でしたが、今錫から詳しく話を聞いてはっきりしました──どうやら私の仮説は真実に間違いなさそうです」
「そのような大それた事を企てたのが誰なのか、天甦霊主様はお分かりになられたということですか?」
「はい…。矢羽走彦を陥れた者と、私から秘宝を盗み取った者はおそらく同じ者の…。そして、その者はあなたたちと共にあった霊神です」
「えっ、誰?誰?私も知ってる人?いや…霊神か…」錫はいつもの如く、おとぎ話を聞いているような感覚だ──。
「その霊神とは〝照陽龍社王尊〟です」
「あっ!その名前…拗隠の国の牢で浩子から聞いたわ」錫は古い記憶を思い出して答えた。
「……まさか…そんな…照陽尊は同じ四天王ではありませんか…?」智信枝栄は信じられないといった様子だ。
「盗まれた秘宝は、寿命の尽きかけた古き瑠璃色の石でした。私は秘宝に〝全気滅消の瑠璃玉〟と名付け、多くの戦いを共にし、白の国の治安を守ってきたのです。照陽尊はいつ朽ち果てるとも分からぬその秘宝を盗み、まんまと矢羽走彦を拗隠の国へ追いやったのでしょう…」
「……天甦霊主様、それが照陽尊の仕組んだ事だという確たるものがあるのですか?」
「秘宝を欲しがる者はたくさんいます。ですが、白の国の者がそんなことをするとは私とて考えてもみませんでした…」
天甦霊主の話によると、矢羽走彦が拗隠の国の抜け穴を塞ぐために使った全気滅消の瑠璃玉は、錫が使った錫杖と効力はほとんど同じだったという。おそらく瑠璃玉は、拗隠の国の抜け穴を塞いだのを最後にその寿命を終え、消滅したのだろうと天甦霊主は語った。
全気滅消の瑠璃玉が盗まれて暫く後、矢羽走彦が無にされたと報告しに来たのは誰あろう照陽尊だった。しかも照陽尊は矢羽走彦の最後を見届けたと天甦霊主に告げている。その矢羽走彦が拗隠の国で息を潜めていたとはどういう事なのか?そして矢羽走彦自身が天甦霊主に秘宝を渡されダマされたのだと訴えている──これは何を意味するのか?導き出せる答えは一つしかない。照陽尊が矢羽走彦に〝この秘宝を持って拗隠の国に行き、穴を塞いでこいと天甦霊主が言っている〟──と持ちかけて、まんまと嵌めたのだ。これほど分かりやすい答えはないと天甦霊主は二人に話して聞かせた。
「だけど自称神様…どうして照陽尊は矢羽走彦にそんな事を?」錫のその質問に答えるために、まず天甦霊主は、〝何人も愛してはならない〟という白の国唯一の掟について話して聞かせた。その後、照陽尊と矢羽走彦が泉坂乃雫姫を密かに奪い合っていたことを話した。
「魂だって心があるのに…誰かを愛せないなんて、白の国らしくないわ…」
「あなたの言うとおりです。けれど悲しいかな…雫姫を巡る両霊神の愛の縺れが、結果的にこのような不幸を招いたのです。残念ですが、ますますこの掟は確固たるものになってしまうでしょう」愛することがやがて嫉妬となり、白の国が瓦解することを恐れて理不尽な掟が作られたことを錫は残念に思った。と同時に、拗隠の国で牢獄に捕らわれていた時、智信枝栄が胸の内に秘めていた錫雅尊への切ない恋心を打ち明けたときのことを思い出していた。
智信枝栄は無になることを覚悟して、悔いのないように思いの丈を錫雅尊に告げたに違いない。今になってみると〝こんなことでもなければ、あなた様に恋心を告白するなど永遠にできなかったでしょう…〟あの言葉が錫の胸に痛く突き刺さる。やがてそんな錫の思いは、徐々に憤りへと変わっていった。
「私やっぱり納得できない!どうして人が人を……いや…幽霊が幽霊を好きになっちゃいけないの?」
「ですから…嫉妬心が白の国を乱しかねないからです」
「そんなのおかしいです!自称神様…私絶対にそれだけは納得できません。誰かを愛することは心ある者として素晴らしいことじゃないですか!自称神様の言われるとおり、ときに結果がややこしくなることがあったとしても、それを恐れて白の国の法にするなんて…そんなの許せない!」
「分かりましたが錫…。今はその事についてゆっくり論じている時間はありません…」
「ごめんなさい…神様に盾突いてしまって…」
「よいのです。しかし不思議なものです…あなたたちはまったく別の人格かと思えば、そっくりだと思うこともある……本当に不思議。では私はこれで…後は頼みましたよ…」それからすぐグリちゃんのぬいぐるみは、ぱたんと後ろ向きに倒れた。
「……自称神様、とっとと帰っちゃった…。怒らせちゃったかな…?」
「大丈夫、怒ってないわよ。それよりもスン…ありがとう!私を思ってあそこまで言ってくれたんでしょ?」智信枝栄は目頭を潤ませながら、嬉しくも切ない目をして錫に礼を言った。
「やだなぁ、そ、そんなんじゃないわよ!それよりさぁ、さっき自称神様が言ってた、あなたたちは別の人格とかそっくりとかって…あれは私と浩子のこと?」
「まさか…違うわよ!スンと錫雅さぁ~ま…」智信枝栄は錫のおでこを人差し指でつんと突っついて教えてやった。
「あぁ~……………私と私…」複雑な表情で一人頷いている錫だ。
「さぁて、今度こそ行きましょうか…スン」
「……むにゅ~…」錫には容赦のない一言だった。暫し忘れていた地獄行きの恐怖が再び錫を襲った。
「いしもお待たせしたわね」
「はいです!わたくしはいつでも大丈夫ですけん」背筋をしゃんと伸ばし、お座りしてその時を待っている。
「ほら、凛々しいいしを見習って、いいかげん覚悟を決めなさい!」
「分かってるってばぁ…。浩子…引っ張って!」半分自棄気味に手を出すと、智信枝栄は素直にその手を取り、錫の魂を〝すぅ~〟っと肉体から引き抜いた。抜け殻と化した錫の肉体は、〝どさっ〟という音と共に崩れるように倒れた。
「あぁ~軽い軽い…肉体が無いのは落ち着かないけど爽快だわ」
「そうね、肉体疲労もないものね…うふふ。さっ、乗って…黒龍がお待ちかねよ」
見た目とは違って龍は優しく繊細だ。錫たちが乗りやすいように、少しウロコを逆立ててくれた。
「以前浩子に地獄には黒龍で行くんだって聞いてたけど…本当にそうなるとは…。さっ、覚悟を決めてっと…」そう言った途端、錫の姿がみるみる変わった。
「…スン、あなたもう錫雅様の姿になっちゃったの?」智信枝栄はくすくす笑って言った。
「これから地獄に行くのかと思うと落ち着かなくて…。この凛々しい姿だと強そうで安心するのよ…」
「素直な子ねスンは…ふふふ」智信枝栄が笑っていると、どこからか錫の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「錫雅さまぁ~!」あまりにも聞き覚えのある声に、錫も智信枝栄も、そしていしまでも声のする方に目を遣った。
「生きておいでだったのですね錫雅様──っ!」いきなりのことで返答にまごついている錫の胸元に容赦なく飛び込んできたのは、誰あろう栗原信枝だった。錫雅尊と化した錫にしっかり抱きついた信枝を遠巻きに見ていた智信枝栄といしには、信枝の背景に真っ赤な薔薇の花びらが舞っているように映って見えた。
★
「どうだ小鬼稚…奴はおとなしくしているか?」
「大丈夫ですぜ。この頃やっと静かになってきたようで…」
「そうか…その調子でしっかり見張ってろ」
「兄鬼…此奴はそんなに危険な奴なんで?」
「そうとも…。親方様の口ぶりだと、そうとう危険な奴だ…。なんたって逃がしただけで俺たちは重罪だ。それくらい危険極まりない奴なんだ…」
「ぶるぶるっ、おっかねぇ…。逃げ出さないようにしっかり見張りますです…」




