16. 悪への誘惑
壁や床を通り抜けて、ショートカットをしながら最短距離で会場に戻る。
とはいえ、私の移動は人が歩く速度と大して変わらない。むしろ足があった方が速く走れる分そっちの方がマシかもしれない。
とろとろとゆっくりと進みながら、気持ちだけが前のめりになって焦っていた。
長い廊下を渡り、使用人たちが忙しく行き交うそばを通り過ぎて、やっと大広間まで戻ってくることができた。
あれから結構時間も経ち、既に国王の姿は見えなかった。
参加者たちは自由になり、これぞ貴族たちの舞踏会という、イメージ通りの世界が繰り広げられている。
会場の中央では何組かが踊り、その周辺では楽しそうに貴族たちが談笑をしている。
すでにリオレットとエディウスのダンスは終わってしまったようで、それが見られなかったのは残念だ。でも、それを犠牲にしてでも得られた情報はかなり大きい。
だからこそ、早く届けなければ。
紳士淑女の間を縫うように見て回り、エディウスの姿を探した。
ざっと見積もっても数百人はいるだろうという会場で、ぱっと見つけるのは難しかった。とにかくウロウロしながら見渡していると、一際目立つ白いドレスが視界に入る。
ミレイナ!
まさかあの忌まわしいドレスが役に立つとは。とにかく急いで近付くと、何やら不機嫌な様子で不貞腐れた顔をしている。
エディウスはどこだと探すと、少し離れた場所でリオレットと一緒にいるのを見つけた。
誰か知らない人と会話を弾ませているため、タイミングを見計らってエディウスに呼びかけようとした――その時。
視界の隅からミレイナが消えた。あれ?と思って目を移すと、コリーヌが彼女をどこかに連れて行こうとしている。
ちょ、待って。エディウスに伝えないといけないのに、今は勝手にどこかへ行かないで。
私の勝手な願いとは裏腹に、しずしずと二人は行ってしまう。
どうしよう。ワイン事件のこともあるから、ミレイナからも目が離せないのに。
悩んだ末に、仕方なく彼女の後を追うことにした。もしアレクが会場に戻っていたとしたら、こんな機会を狙いそうだと思ったから。
人の密度が減る端へと向かうと、二人は会場に隣接する部屋へと入っていった。そこにはテーブルと椅子が用意され、軽食や飲み物が並べられている。
中はメイドが数人控えているだけで、他の貴族の姿はない。
美味しそうな料理やフルーツを眺めていると、早々にミレイナの苛立った声が耳に入った。
「お母様! どうしてリオレットばかり注目されてしまうの? 私だって綺麗な色のドレスを着たかったのに、お母様がこれにしなさいと言うから!」
悔しそうにそう話すミレイナは、実は自分のドレスを気に入ってなかったみたいだ。そんな不満をぶつけていると、コリーヌが諭すように言い聞かせる。
「そのくらい我慢なさい、ミレイナ。大勢の視線ではなく、エディウス様に好いてもらうことを一番に考えないといけないのよ」
「せっかくの舞踏会ですのに、他の殿方に見初められることを期待しては駄目なのですか? この会場にも、若くて素敵な方がたくさんいらっしゃるのに」
いきなり彼女たちの本音が飛び出してきて驚いたけれど、コリーヌとミレイナの意見が割れている。どうもエディウスにこだわっているのは母親の方らしい。
「あなたはまだわからないかもしれないけれど、社交界というものはひと筋縄ではいかないの。それにあなたがエディウス様以上の男性と結ばれるのは厳しいと思いなさい」
「私は伯爵の娘ですのに?」
「……とにかく、これまで通りエディウス様の関心を引きなさい。今の地位を守りたいなら、彼にあなたを選んでもらうのが一番の近道なの」
ここまで話を聞いて、彼女たちの本心というものが初めて理解できた。
コリーヌは女社会の厳しさをよく知っている。リオレットとは違い、元妾である自分の娘には良い縁談が回ってこないと思っているのかもしれない。
その結果エディウスに狙いを定め、本人にミレイナを選ばせるようリオレットのありもしないことを吹き込んでいたということか。
「……でも私、本当にエディウス様と結婚出来るのかしら。今までは優しく気遣って下さっていたのに、少し前から素っ気なく感じて……」
ミレイナは彼の変化を感じ取っていたらしく、不安げな表情を見せる。
そんな二人の会話に聞き入っていたところ、声が急にピタリと止まった。
「おや、先客がいらっしゃいましたか」
背後から聞こえた声にはっとする。それは先程クラードと話していた男の声。
振り返ると、あのアレクという側近がにこやかに二人に近付いてきた。
「まだ時間が早いせいか、人がいませんね」
「ええ……。この娘は、本日社交界デビューをしまして、慣れない場で少々疲れてしまったらしく少し早めに休憩を取らせておりました」
「ああ、そうだったのですか。先程ダンスを拝見させていただきましたが、とても素敵でした」
そんな挨拶が目の前で繰り広げられる。
嘘つけ、あんたはクラードの所にいて観ていないでしょ。
さらりと出てくる嘘に、ゾワゾワとした寒気がする。
そしてミレイナとコリーヌ、そしてアレクという三人が揃ったところで、私の中で警報が鳴った。
ここに問題の三人が揃って、何も起きないはずがない。
固唾を呑んで彼女たちの会話を見守っていると、後ろからか細い声が聞こえた。
「あの……お継母様」
「あら、リオレット。どうしましたか?」
見れば、リオレットまでこの部屋にやって来た。これはもうワイン事件は避けられなさそうだ。
「お継母様がお呼びになっていると伺って、こちらまで来たのですが……」
「私が? いいえ、呼んでいませんよ」
コリーヌが訝し気な顔をする。まさかこれもアレクが仕込んだもの?
「誰からそんな事を? 私はいいからエディウス様の所へお戻りなさい。あなたは仮にも婚約者なのですからね」
優しく諭すようでいて、二人が不仲であるようなことを匂わせて話す。
そして用はないと言われたリオレットは、言われるがままに部屋を出ていったけれど、それが何か意味あるようで嫌な予感がする。
「きゃあっ!」
突然の叫び声に驚いて振り向くと、取り乱した様子のミレイナが悲鳴を上げていた。
そこには空のグラスを持ったアレクと、白いドレスに大きな染みを作って呆然としている彼女がいる。
ついに来た! と私の心臓が跳ね上がる。あの小説の冒頭のシーンの始まりだ。
「何よこれ、酷いわ!」
「申し訳ない!」
取り乱すミレイナに、アレクはすぐに謝った。
「今のご令嬢に気を取られて、つい手元が狂ってしまい……」
「これではホールに戻れませんわ。酷すぎます!」
涙目になって訴えるミレイナに、アレクが申し訳なさそうに言った。
「よからぬ噂の人物が突然現れたもので、つい気を取られてしまったのです。リオレットという名でしたか、あなたの姉なのですね」
「そんなことより、このドレスはどうしたら……」
ミレイナは汚されたことで頭がいっぱいらしく、アレクの言葉が耳に入っていないようだ。
「本当に申し訳ない。デビューしたばかりのご令嬢になんてことを」
「もう嫌、帰りたい!」
「お待ちなさい、ミレイナ」
ここでコリーヌが割って入った。その表情は落ち着いていて、僅かに笑みも浮かべている。
「リオレットがここに現れたのがいけないのですよ。ねぇ、アレク様。私の娘が驚かせてしまい申し訳ございませんでした」
「いえ、私はどうお詫びをしたら……もちろんドレスに掛かった費用は払わせていただきます」
「そこまでしていただかなくても結構ですわ。それなら――いっそリオレットのせいにしておきましょう。伯爵にもそのように説明しておきますので、アレク様の責任は免れますわ」
「まさかそのような…………本当によろしいのですか?」
「姉妹間のことにしてしまえば大きな問題にはなりません。――そのかわり、少しだけご協力いただいても?」
思った以上に話がトントン拍子に進んでいく。実行犯はアレクで、コリーヌがそれに自ら乗っかってきた形だ。
「お母様、何をおっしゃっているの?」
「あなたはね、この姿のままエディウス様とお父様の所へ行きなさい。これはリオレットにやられたと言うの。そうすればアレク様の面子を潰さずに済むのよ」
コリーヌがチラリとアレクを見てそう言い聞かせると、彼は恭しく礼をして言葉を返す。
「私へのお心遣い感謝致します。身勝手ながら、それで矛を収めていただけるならご協力を惜しみません」
そこまでのやりとりを聞いて、すぐにエディウスの所へ戻ることにした。ここまで見たら充分だ。
悪意に満ちたあの空間から、早く遠ざかりたかった。




