ただいま、ユリ
第71章 ただいま、ユリ
長いアジア予選が終わった。
日本は最終予選を三戦全勝。
中国に2-0。
オーストラリアに2-1。
韓国に2-0。
勝ち点9。
堂々の一位通過だった。
二位はオーストラリア。
そして韓国は三位となり、大陸間プレーオフへ回ることになった。
日本は、自分たちの力でロサンゼルスオリンピック出場権をつかみ取った。
だが、柚月にとって、それはゴールではなかった。
むしろ。
ようやくスタートラインへ立っただけだった。
1 仙台へ
代表活動を終えた柚月は、仙台へ戻った。
新幹線を降りたとき、身体にははっきりと疲労が残っていた。
右ふくらはぎにも、長い予選を戦い抜いた重さがある。
それでも。
以前のような不安はなかった。
痛みではない。
疲労。
ならば休めばいい。
そう判断できるようになった。
仙台駅の改札を出ると、徹が待っていた。
「おかえり」
柚月は少し笑う。
「ただいま」
徹は柚月の荷物を見る。
「持つ」
「大丈夫だっちゃ」
「聞いてない」
柚月が思わず笑った。
「原町監督と同じこと言うなぁ」
「誰からでも言われるってことは、それだけ信用ないんだろ」
「ひどい」
でも。
徹の顔を見た瞬間。
張り詰めていたものが少しだけほどけた。
2 最終順位
帰宅してから、二人はあらためて最終予選の順位表を見た。
一位、日本。
勝ち点9。
二位、オーストラリア。
オリンピック出場。
三位、韓国。
大陸間プレーオフ。
柚月が画面を見る。
「韓国、プレーオフか」
徹がうなずく。
「最後まで厳しいな」
「んだな」
柚月は韓国戦を思い出す。
危険なタックル。
一人少なくなっても、最後まで前へ出続けた韓国。
決して弱い相手ではなかった。
「韓国も行ってほしいな」
徹は少し笑う。
「ライバルなのに?」
「ライバルだからだべ」
強い相手と戦いたい。
世界最高峰の舞台で。
また。
3 翌朝
翌朝。
柚月と徹は車で出かけた。
目的地は決まっている。
名取百合子の墓。
車内。
柚月はほとんどしゃべらなかった。
徹も無理に話しかけない。
途中。
柚月が窓の外を見る。
「予選始まる前、怖かったんだっちゃ」
徹が運転しながら答える。
「知ってる」
「また脚やったらどうしようって」
「うん」
「代表戻れなかったらどうしようって」
少し間。
「でも戻れた」
徹が言う。
「戻っただけじゃないだろ」
柚月が見る。
「前より考えてプレーしてた」
柚月は少し照れたように前を向いた。
「ユリにも報告しねぇとな」
4 名取百合子
墓前。
花を供える。
水をかける。
柚月は静かに手を合わせた。
徹は少し離れたところに立つ。
風が吹く。
柚月は目を閉じた。
そして。
「ユリ」
胸の奥。
懐かしい声。
「なんだっちゃ」
柚月の口元が少し緩む。
「出場権、取ったよ」
「知ってるっちゃ」
「絶対それ言うと思った」
「見てたもん」
柚月は笑った。
そのまま。
涙が一つ落ちる。
「一位通過」
「やったな」
「三連勝」
「知ってる」
「うちも点取った」
「それも知ってる」
「じゃあ何報告すればいいんだべ!」
胸の中のユリが笑っている気がした。
5 あの日の約束
ワールドカップで優勝したあと。
柚月はここへ来た。
優勝メダルを持って。
そして言った。
次はロサンゼルス。
あのときは。
まだ右ふくらはぎのけがから、本格的に戻れるかさえ分からなかった。
代表へ戻れる保証もない。
予選へ間に合う保証もない。
オリンピック出場権を取れる保証もない。
それでも。
言った。
「次はロサンゼルスだっちゃ」
そして今日。
その言葉の半分が、現実になった。
柚月は墓石へ向かって言う。
「行けるよ」
声が少し震えた。
「ロサンゼルス」
「まだメンバー決まってねぇべ」
柚月が吹き出した。
「お前、原町監督みてぇなこと言うな!」
徹が少し離れたところから笑う。
6 まだ代表に選ばれていない
そう。
出場権は取った。
しかし。
大船柚月がロサンゼルスへ行けるとは、まだ決まっていない。
本大会メンバーは、ここから選ばれる。
早川莉奈。
宮野沙季。
長崎美琴。
森岡美里。
そして。
ほかにもクラブで結果を残し、代表入りを狙う選手がいる。
柚月は墓前で言った。
「また競争だっちゃ」
「負けんなよ」
「負けねぇよ」
「若い子に普通に負ける可能性もあるべ」
「急に現実的だな!」
でも。
それでいい。
ワールドカップ優勝選手だから。
予選を戦ったから。
そんな理由で席が与えられる代表ではない。
今。
一番必要な選手。
それを選ぶ。
7 金メダル
柚月は少し真剣な顔になる。
「ユリ」
「ん?」
「出るだけじゃねぇんだ」
「知ってる」
「金メダル」
パリでは届かなかった。
あの悔しさ。
ワールドカップを獲っても、消えなかった。
むしろ。
世界一になったからこそ。
次は。
オリンピックでも世界一。
「金、取るよ」
胸の中。
少し間があった。
そして。
「じゃあ取ってこい」
柚月が笑う。
「簡単に言うなぁ」
「またそれ?」
「ほんと昔から変わんねぇな」
8 徹と二人で
帰り道。
徹が聞く。
「どうだった」
柚月は窓の外を見る。
「相変わらず」
「何が」
「言いたい放題」
徹が笑う。
「柚月の頭の中のユリだろ」
「それでもユリだっちゃ」
しばらく沈黙。
柚月が言う。
「徹」
「ん?」
「もしロサンゼルス行けたら」
「うん」
「絶対金取る」
徹は前を向いたまま答える。
「知ってる」
「またそれ?」
「ずっと言ってるから」
柚月は笑った。
9 代表競争、再開
数日後。
クラブ練習。
柚月は仙台へ戻る。
代表予選を終えたからといって、特別扱いはない。
山田羽美監督が言う。
「疲労は?」
「あります」
「珍しく正直」
「最近ずっと正直だっちゃ!」
「じゃあ今日は負荷落とす」
「はい」
柚月は従う。
もう。
無理に全部やろうとはしない。
オリンピックまでには、まだ時間がある。
必要なのは。
今日の練習を全部こなすことではない。
本番で一番いい状態になること。
10 早川からのメッセージ
練習後。
スマートフォン。
早川莉奈からメッセージ。
「今日からクラブでまた競争です。ロサンゼルス代表、絶対入ります」
柚月は笑う。
返信。
「うちも入る。ポジション譲らねぇからな」
数秒。
返信。
「私も譲っていただくつもりありません」
柚月が声を出して笑った。
「ほんと強くなったなぁ」
そのさらに下。
長崎美琴。
「私も狙います」
宮野沙季。
「二人だけで話を進めないでください」
柚月はスマートフォンを見ながら笑い続けた。
中盤。
大混戦。
でも。
それがいい。
11 ロサンゼルスオリンピック
そして。
時間は少しずつ進む。
代表候補キャンプ。
クラブリーグ。
コンディションチェック。
国際親善試合。
戦術確認。
本大会メンバー争い。
日本女子サッカーにとって。
オリンピックは特別だった。
世界中から強豪が集まる。
短期決戦。
選手登録人数も限られる。
一つの引き分け。
一つの失点。
一枚のカード。
そのすべてが大会を左右する。
女子サッカー最高峰の戦い。
ワールドカップとはまた違う。
国全体の代表団の一員として挑む。
陸上。
水泳。
体操。
バレー。
柔道。
さまざまな競技のアスリートと同じ選手村で過ごす。
その独特な空気。
柚月はすでに知っていた。
だからこそ。
もう一度行きたい。
今度は。
金メダルを取るために。
12 そして未来
この時点では。
まだ誰も知らない。
ロサンゼルスで。
日本がどんなグループへ入るのか。
誰と決勝トーナメントで戦うのか。
誰が負傷するのか。
誰がヒーローになるのか。
誰がベンチから試合を変えるのか。
何も分からない。
ただ。
一つだけ。
未来から振り返れば。
この大会は、日本女子サッカー史に残る戦いになる。
グループリーグ。
決勝トーナメント。
準々決勝。
準決勝。
そして。
決勝。
最後に待っている相手は。
アメリカ。
ワールドカップ決勝で戦った相手。
あのとき日本は3-1で勝った。
しかし。
オリンピックは別の大会。
アメリカもまた。
雪辱を胸に。
金メダルだけを狙って。
決勝へ上がってくる。
13 もう一度、アメリカ
ロサンゼルス。
開催国。
満員のスタジアム。
圧倒的なアメリカコール。
その中央。
日本。
大船柚月。
早川莉奈。
森岡美里。
宮野沙季。
長崎美琴。
正木静香。
伊達葵。
藤森彩香。
そして仲間たち。
ワールドカップ決勝の再戦。
世界一の座を争った二つの国が。
今度は。
オリンピック金メダルをかけて対峙する。
だが。
そこへたどり着くまでには。
まだ長い戦いがある。
柚月はまだ、その未来を知らない。
墓前でユリへ言った言葉。
「金、取るよ」
その約束が。
ロサンゼルスの決勝戦で。
本当の意味を持つことになる。
14 ただいま
その日の夜。
柚月は自宅のベランダへ出た。
仙台の街。
遠くの灯り。
風。
徹が隣へ来る。
「寒くない?」
「大丈夫」
少し沈黙。
柚月が空を見る。
「今日さ」
「うん」
「ユリに、ただいまって言うの忘れた」
徹が笑った。
「今言えば」
柚月も笑う。
空へ。
小さく。
「ただいま、ユリ」
胸の奥。
すぐに声が返る。
「おかえり、柚月」
柚月は目を閉じた。
涙は出なかった。
今度は。
笑っていた。
次回予告
第72章「金メダルへの選考」
オリンピック出場権を獲得した日本。
しかし、ロサンゼルスへ行ける選手は限られている。
予選を戦った選手にも保証はない。
クラブで結果を出すこと。
コンディション。
戦術適性。
複数ポジションへの対応。
短期決戦を戦う精神力。
原町監督は、すべてをゼロから評価し直す。
大船柚月。
早川莉奈。
宮野沙季。
長崎美琴。
中盤の競争はさらに激しくなる。
そして柚月には、もう一つの課題。
右ふくらはぎ。
けがは治った。
しかし、オリンピックを最後まで戦い抜くには、「治った」だけでは足りない。
連戦。
延長戦。
短い休養。
長距離移動。
そこまで耐えられる身体を作る必要がある。
柚月はトレーナーへ言う。
「オリンピックで六試合戦える脚、作りたい」
一方、アメリカ代表もまた、日本への雪辱を胸に強化を開始する。
ワールドカップ決勝の3-1。
その記憶は消えていない。
それぞれの国が、ロサンゼルスへ向けて動き始める。
次回、
第72章「金メダルへの選考」
出場権を取った者が、本大会へ行けるとは限らない。
世界一を目指すチームに必要なのは、過去の名前ではなく、今この瞬間に戦える力なのだ




