一歩も下がるな
第68章 一歩も下がるな
1 後半、オーストラリアは距離を消してきた
1-0で迎えた後半。
予想どおり、オーストラリアは前半とは少し違う立ち位置で入ってきた。
中盤が前へ出すぎない。
最終ラインも下がりすぎない。
前半、日本が使った縦の隙間。
そのスペースを、最初から狭くしている。
早川莉奈が中央で受ける。
前を向く。
だが、目の前にはサラ・ミッチェル。
その後ろにも一人。
森岡美里が間へ入ろうとしても、今度はセンターバックが出すぎずに対応する。
柚月が一度後ろへ戻した。
「やっぱり消してきたな」
早川が答える。
「前半みたいには入れないですね」
「そりゃそうだべ」
相手も修正する。
だから、こちらもまた考える。
2 高さを押し出すオーストラリア
後半五分。
オーストラリアが右サイドから前へ出る。
アリシア・ブラウン。
宮原彩乃が対応。
アリシアは無理に抜かない。
一度戻す。
そこから高いクロス。
中央。
ケイト・マクファーソン。
藤森彩香と競る。
ケイトが頭で触る。
ボールがファーへ流れる。
そこへもう一人。
シュート。
國武真央が身体を入れてブロック。
CK。
伊達葵が大きな声を出す。
「ライン上げて!」
日本は押し込まれ始めていた。
クロス。
ロングボール。
セットプレー。
オーストラリアは明確に、自分たちの得意な形を増やしている。
3 下がったら終わる
後半八分。
オーストラリアのCK。
エミリー・ウォーカーが上がる。
ケイト・マクファーソン。
アリシア・ブラウン。
高さのある選手たちがゴール前へ。
ボールが入る。
ファー。
エミリー。
ヘディング。
伊達葵。
両手で弾く。
こぼれ球。
森岡美里がクリア。
ボールがタッチラインを割る。
原町監督がベンチから叫んだ。
「下がりすぎるな!」
日本の最終ラインが顔を上げる。
「ライン上げろ!」
一点を守ろうとして自陣へ引きこもれば、オーストラリアの高さを九十分近く受け続けることになる。
それは最も危険な形だった。
藤森彩香がすぐにラインを押し上げる。
「上げるよ!」
宮原も。
國武も。
日本は勇気を持って前へ出る。
4 一進一退
後半十五分。
日本。
早川莉奈から森岡美里。
森岡が前へ。
オーストラリアがすぐ戻る。
正木静香が裏へ走る。
だが、エミリー・ウォーカーが対応する。
パスは通らない。
次。
オーストラリア。
中央でボールを奪う。
サラ・ミッチェル。
左へ。
クロス。
藤森が跳ね返す。
宮野沙季がセカンドボール。
日本へ。
また攻撃。
どちらにも決定機は訪れない。
ボールは行ったり来たり。
攻撃。
守備。
また攻撃。
スタジアム全体に張りつめた空気が広がる。
1-0。
一点で、すべてが変わる。
5 長崎美琴、準備
後半二十分。
原町監督がベンチを見る。
「美琴」
長崎美琴がすぐ立ち上がる。
「はい」
「行くぞ」
「はい!」
アップを始める。
相手のフィジカルが強い。
ならば、美琴のキープ力が使える。
身体を寄せられても奪われにくい。
一人を背負える。
そして、ボールを奪った直後にそのまま前へ運べる。
岩出コーチが言う。
「オーストラリア、前へ人数をかけ始めています」
原町監督がうなずく。
「だから美琴だ」
6 柚月の判断
ピッチでは柚月も同じことを感じていた。
オーストラリアは一点を追う。
だから前へ出る。
ただし、日本のカウンターも怖い。
そのため最終ラインは完全には上げきれない。
少しずつ。
中盤と最終ラインの間に、別の隙間が生まれ始める。
前半とは違う。
今度は、相手が攻撃へ出たあとの戻り。
柚月が早川へ言う。
「莉奈」
「はい」
「奪ったら一回うち見ろ」
「縦?」
「いや、まず見るだけ」
早川がうなずく。
「分かりました」
まだ急がない。
その瞬間が来るまで。
7 美琴投入
後半二十五分。
交代。
宮野沙季が下がる。
長崎美琴が入る。
宮野はタッチライン際で美琴と手を合わせる。
「頼んだ」
「はい!」
美琴がピッチへ入る。
最初のボール。
柚月から足元へ。
オーストラリアの選手がすぐ背後から寄せる。
美琴は身体を入れる。
奪われない。
一人。
さらにもう一人。
それでもキープ。
そこから横へ早川。
ベンチの原町監督がうなずく。
狙いどおり。
8 日本が呼吸を取り戻す
美琴が入ったことで、日本はボールを失う回数が減った。
後半三十分。
美琴が中央で受ける。
身体を当てられる。
それでも倒れない。
戻す。
また受ける。
今度は前を向く。
早川へ。
そこから森岡。
オーストラリアは、簡単には前へ出られなくなる。
日本がボールを持つ時間が少し増えた。
柚月が美琴へ言う。
「それでいいっちゃ」
美琴が笑う。
「まだ前行かなくていいですか」
「隙できたらな」
9 70分を過ぎる
時計は70分。
まだ1-0。
オーストラリアも疲れている。
日本も疲れている。
だが、試合の緊張感はむしろ増していた。
一点。
それだけ。
オーストラリアはまだ十分追いつける。
日本も、二点目を取れれば一気に楽になる。
原町監督が立ち上がる。
「集中!」
柚月は周囲を見る。
オーストラリアの右サイドバックが、攻撃参加のあと戻るのが少し遅れている。
中盤のサラ・ミッチェルも前へ出た。
その背後。
空いた。
柚月の目が変わる。
10 75分、わずかな乱れ
オーストラリアが左から攻める。
クロス。
藤森彩香が跳ね返す。
こぼれ球。
美琴。
身体を入れてキープ。
一人来る。
美琴は倒れない。
そして。
早川へ。
早川が前を向く。
オーストラリアは戻る。
でも。
全員は戻れていない。
正木静香が右へ走る。
森岡美里が中央。
柚月が後ろから上がる。
早川は一度正木を見る。
相手DFも右へ。
その瞬間。
中央。
柚月。
早川が出す。
11 76分
柚月が中央で受ける。
距離はゴールまで二十数メートル。
目の前。
DFが一人。
後ろからもう一人来る。
柚月は右へ運ぶように見せる。
DFが一歩動く。
柚月は左へ持ち替える。
ほんの少し。
シュートコース。
空いた。
森岡が叫ぶ。
「柚月!」
柚月は迷わない。
左足。
振り抜く。
強いミドルシュート。
ボールはDFの横を抜ける。
GKクロエ・ハリスが飛ぶ。
右。
手を伸ばす。
届かない。
ボールはゴール左上。
ネット。
2-0。
76分。
日本、追加点。
大船柚月。
12 柚月の拳
柚月はシュートが決まった瞬間、両拳を握った。
「よし!」
早川が走ってくる。
「柚月さん!」
森岡も。
正木も。
美琴も。
一気に集まる。
美琴が言う。
「私のキープからですよね!」
柚月が笑う。
「そうだっちゃ!」
早川も。
「私のパスも!」
「はいはい、みんなのゴール!」
森岡が笑う。
「またそれ!」
柚月も笑う。
だが、すぐに表情を戻した。
「まだ終わってねぇぞ!」
2-0。
残り十四分以上。
オーストラリアはここから、さらに前へ出る。
13 オーストラリアの猛反撃
失点したオーストラリア。
ジェシカ・カーター監督がすぐに攻撃的な選手を投入する。
センターバックの一枚まで高い位置へ。
ロングボール。
クロス。
セットプレー。
日本陣内へ圧力。
後半80分。
右からクロス。
ケイト・マクファーソン。
ヘディング。
伊達葵。
正面。
キャッチ。
後半83分。
CK。
エミリー・ウォーカー。
高い。
藤森と競る。
こぼれ球。
シュート。
宮原彩乃がブロック。
日本は必死に守る。
14 柚月交代
後半84分。
原町監督が動く。
柚月を下げる。
次の韓国戦。
さらに先。
オリンピック出場を考えるなら、ここで無理をさせる必要はない。
交代ボードを見た柚月は、一瞬だけピッチを見た。
でも、すぐにうなずく。
早川へ。
「頼んだぞ」
「はい」
美琴へ。
「ボール失うなよ」
「はい!」
森岡へ。
「あと頼む」
「任せて」
柚月はピッチを出る。
ベンチへ戻る途中。
一度だけ右ふくらはぎを確認する。
問題なし。
15 88分
オーストラリア。
最後の反撃。
右サイドから高いクロス。
ケイト・マクファーソン。
藤森彩香と競る。
ボールがファーへ流れる。
そこへアリシア・ブラウン。
ワンタッチ。
中央へ折り返す。
途中出場のFW、ソフィー・ハリソン。
右足。
シュート。
伊達葵が反応する。
だが。
DFの足にわずかに当たり、コースが変わる。
伊達の逆。
ネット。
2-1。
88分。
オーストラリア、一点を返す。
スタジアムが一気に沸く。
日本側の空気が変わる。
一点差。
残り時間。
アディショナルタイムもある。
原町監督がすぐ叫ぶ。
「切り替えろ!」
16 「下がるな」
失点直後。
日本は無意識に少しラインを下げかける。
その瞬間。
原町監督の声。
「下がるな!」
森岡も。
「上げよう!」
藤森がラインを押し上げる。
一点を守ろうとして、自陣へ閉じこもらない。
オーストラリアにクロスを上げ続けさせない。
前でボールを持つ。
美琴がキープ。
早川が走る。
正木がコーナー付近までボールを運ぶ。
相手陣内に時間を作る。
17 90分
オーストラリアは最後まで攻める。
90分。
ロングボール。
エミリー・ウォーカーまで前線へ。
藤森が跳ね返す。
早川が拾う。
美琴へ。
美琴が身体を入れる。
ファウル。
日本ボール。
大きな拍手。
美琴はすぐにボールを置かない。
森岡が近づく。
「落ち着いて」
「はい」
アディショナルタイム。
4分。
18 最後の4分
オーストラリア。
左。
右。
また中央。
日本が跳ね返す。
一度奪う。
早川が正木へ。
正木はゴールへ急がない。
タッチライン際。
ボールを守る。
オーストラリアが二人来る。
正木は國武へ戻す。
また前へ。
時間が進む。
93分。
オーストラリア最後の攻撃。
クロス。
高い。
伊達葵が前へ出る。
パンチング。
こぼれる。
森岡美里。
大きくクリア。
ボールがセンターラインを越える。
美琴が追う。
身体を入れる。
キープ。
主審が時計を見る。
19 試合終了
笛。
日本2-1オーストラリア。
勝った。
最終予選。
二連勝。
勝ち点6。
日本の選手たちは、大きく息を吐いた。
森岡が両手を膝につく。
早川も。
美琴も。
伊達葵はゴール前で拳を握る。
ベンチの柚月が立ち上がる。
「よっしゃ……!」
苦しかった。
最後まで。
2-0になっても終わらなかった。
88分に一点を返された。
それでも。
逃げ切った。
20 大きすぎる勝ち点3
ロッカールーム。
原町監督が選手たちを見る。
「よく耐えた」
静かな拍手。
「今日の勝ち点3は大きい」
中国。
オーストラリア。
二連勝。
勝ち点6。
二位以内へ。
ロサンゼルスへ。
大きく近づいた。
だが。
原町監督は続ける。
「まだ決まったと思うな」
全員がうなずく。
最終戦。
韓国。
まだ残っている。
21 76分のゴール
原町監督が映像を出す。
柚月のミドルシュート。
美琴。
早川。
柚月。
三人のつながり。
「このゴールが大きかった」
もし1-0のまま88分を迎えていたら。
あの失点は同点ゴールになっていた。
2-0にしていたから、2-1で耐えられた。
柚月が言う。
「一点取りに行った意味、ありましたね」
「そうだ」
一点を守ろうとしなかった。
それが、最終的に一点差の勝利を守った。
22 美琴の役割
原町監督は長崎美琴を見る。
「美琴」
「はい」
「よくキープした」
「ありがとうございます」
「二点目の起点もお前だ」
美琴が少し笑う。
「柚月さんにいいところ持っていかれました」
柚月が横から言う。
「ゴールはうちが決めたっちゃ」
美琴が笑う。
「分かってます」
早川も。
「でも美琴のキープなかったら始まってないです」
柚月がうなずく。
「そういうことだべ」
23 ロサンゼルスを見るのは、まだ
夜。
順位表。
日本。
2試合。
2勝。
勝ち点6。
最終戦。
韓国。
条件次第では、すでに非常に有利。
それでも柚月は、順位表を長く見なかった。
名取百合子の写真を置く。
「ユリ」
胸の中。
「勝ったな」
「2-1」
「決めたな」
「うちがな」
「自慢すんな」
柚月が笑う。
「でも、まだ韓国ある」
「ロサンゼルス見えてるべ」
柚月は少し黙る。
「見えてる」
そして。
「でも、まだ見ない」
目の前。
最後の一試合。
それだけ。
次回予告
第69章「あと90分」
中国戦、2-0。
オーストラリア戦、2-1。
日本は最終予選二連勝。
勝ち点6。
ロサンゼルスオリンピック出場へ、大きく前進した。
最終戦の相手は韓国。
二次予選でも1-0の激戦。
日本のことを知り尽くした相手。
そして韓国にとっても、オリンピック出場をかけた絶対に負けられない一戦。
韓国はさらに日本を分析。
大船柚月。
早川莉奈。
正木静香。
森岡美里。
長崎美琴。
二次予選以上の対策を用意する。
一方、日本も韓国の変化を読む。
原町監督は最後のミーティングで言う。
「あと90分だ」
ただし。
柚月が答える。
「90分全部見なくていいっちゃ」
見るのは。
最初の五分。
次の一本。
次の守備。
その積み重ね。
そして、試合開始。
韓国は序盤から前へ出る。
日本も受けない。
互いに一歩も引かない。
ロサンゼルスへの最後の90分が始まる。
次回、
第69章「あと90分」
夢までの距離を数えるのは、すべて終わってからでいい。
今はただ、目の前の一歩を勝ち取る。




