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あの日の春風は今も  作者: リンダ


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壁の向こう側

 第66章 壁の向こう側


 中国戦から二日後。


 日本代表のミーティングルームには、いつもより長い時間、オーストラリアの映像が流れていた。


 高さ。


 フィジカル。


 スピード。


 球際。


 そして、前線へボールが入ったときの圧力。


 中国戦とは、まったく違う種類の相手だった。


 原町監督は映像を止める。


「中国戦の答えを、そのまま持っていくな」


 選手たちが顔を上げる。


「相手が違う」


 スクリーンには、オーストラリアの最終ラインが映る。


 横幅を広く保ったまま、中央にも人数を残している。


 サイドチェンジされても、全体が一気に流れない。


 中国戦で日本が何度も使った、逆サイドへの大きな展開。


 それを最初から警戒していた。


 早川莉奈が腕を組む。


「中国戦みたいには動かせないですね」


 柚月が映像を見たまま答える。


「なら、別の動かし方考えるべ」


 1 横ではなく、前後


 岩出コーチが映像を少し戻す。


 オーストラリアが守備へ入る。


 最終ラインは横幅を保つ。


 中盤も中央を捨てない。


 大きなサイドチェンジをしても、守備全体が大きく崩れない。


 森岡美里が言う。


「横への移動量が少ない」


「そうだ」


 原町監督が答える。


「だから横だけでは崩れない」


 宮野沙季が尋ねる。


「じゃあ、縦?」


「縦というより、前後だ」


 選手たちの視線が集まる。


 原町監督はホワイトボードへ線を引いた。


 前線。


 中盤。


 最終ライン。


「このチームは横幅を保つのがうまい。その代わり、前へ出た選手の背後へ戻る距離が少し長くなる」


 柚月の目が変わった。


「横じゃなくて、縦に伸ばす?」


「そうだ」


 一度下げる。


 オーストラリアを前へ出させる。


 前から圧力をかけてきた瞬間、その背後。


 また下げる。


 また出させる。


 そこから一気に裏。


 中国戦では左右。


 今回は前後。


 相手を動かす方向が違う。


 2 オーストラリアの高さ


 次の映像。


 CK。


 オーストラリアの長身DF、エミリー・ウォーカーがゴール前へ入る。


 さらにFWのケイト・マクファーソン。


 MFのアリシア・ブラウン。


 三人とも空中戦が強い。


 高いクロス。


 ヘディング。


 GKが触れない。


 ゴール。


 伊達葵が映像をじっと見る。


「セットプレー、かなりきついですね」


 藤森彩香もうなずく。


「全員競り合い強い」


 柚月が言う。


「まともに全部ジャンプ勝負する必要ねぇべ」


 原町監督が見る。


 柚月は続ける。


「最初のボールじゃなくて、落ちる場所」


 宮野がすぐ理解する。


「セカンドボール」


「んだ」


 高さでは分が悪い。


 なら、一発目を完全に勝つことだけにこだわらない。


 競らせる。


 コースを限定する。


 落ちたところを拾う。


 そこから日本の攻撃へ。


 3 オーストラリア側も悩んでいた


 一方。


 オーストラリア代表のミーティング。


 監督のジェシカ・カーターは、日本の映像を何度も見せていた。


 最初に正木静香。


「背後への一歩が速い」


 次。


 森岡美里。


「中央から突然入ってくる」


 次。


 宮野沙季。


「攻守の切り替えが速い」


 そして。


 長崎美琴。


 イラン戦。


 身体を使ってボールを失わない。


 二人を引きつけてから前へ出る。


 カーター監督が言う。


「この選手は特に注意しろ」


 スタッフが尋ねる。


「大船柚月より?」


 カーターは首を振る。


「比較するな」


 柚月。


 早川。


 宮野。


 森岡。


 美琴。


 正木。


 誰か一人を止めればいいチームではない。


「日本の怖さは、次に誰が出てくるか分からないことだ」


 4 柚月をどうする


 オーストラリア側でも、当然柚月は重要な分析対象だった。


 大船柚月。


 ボールを持ったとき。


 持たないとき。


 相手を動かす。


 時間を使う。


 速くする。


 遅くする。


 カーター監督は映像を止める。


「この選手に、試合の速度を決めさせるな」


 MFのサラ・ミッチェルが尋ねる。


「マンマークですか」


「追い続けるな」


 中国や北朝鮮が柚月へ人をつけた試合も分析している。


 追えば。


 ほかが空く。


 柚月はそれすら使う。


「大船にボールが入った瞬間だけ圧力を上げろ」


 そして。


「一人目で奪えなくても、前を向かせない」


 5 誰を止めても、別の誰か


 日本側。


 長崎美琴が言う。


「私、出るか分からないですよね」


 原町監督が答える。


「全員そうだ」


「はい」


「スタメンもまだ決めない」


 柚月が笑う。


「競争だな」


 美琴も笑う。


「狙ってますから」


 早川が横から言う。


「私も」


 宮野も。


「私も」


 森岡が少し呆れたように笑う。


「中盤、ほんとに大変だね」


 柚月が答える。


「だから強くなるんだべ」


 競争。


 でも。


 相手を蹴落とすためだけではない。


 誰が出ても、日本の質を落とさないため。


 6 ロサンゼルスが見える


 最終予選。


 中国戦勝利。


 勝ち点3。


 ここでオーストラリアにも勝てば。


 日本は、二位以内へ大きく近づく。


 組み合わせ次第では、最終戦を待たずにロサンゼルス出場がかなり現実的になる。


 原町監督はミーティングの最後に言った。


「ここで勝てば、ロサンゼルスが見える」


 一瞬。


 部屋の空気が変わった。


 早川。


 美琴。


 宮野。


 若い選手たちの顔に、ほんの少し光が差す。


 だが。


 柚月は首を振った。


「見んでいいっちゃ。まだ」


 全員が柚月を見る。


 原町監督も。


 柚月は続ける。


「オリンピック見始めたら、今日の試合見えなくなるべ」


 森岡が静かにうなずく。


「まずオーストラリア」


「んだ」


 夢はある。


 でも。


 夢を見すぎると、足元を失う。


 7 前後に動かす練習


 翌日。


 戦術練習。


 日本は何度も後方へボールを戻した。


 藤森彩香。


 宮野。


 柚月。


 また藤森。


 オーストラリア役の前線が出る。


 その背後。


 早川が入る。


 縦。


 早川。


 ワンタッチで森岡。


 森岡が前を向く。


 正木が裏へ。


 次。


 今度は早川へ出さない。


 相手の中盤が前へ出る。


 美琴がその後ろへ。


 縦。


 美琴が身体を入れてキープ。


 そこから逆サイド。


 國武真央。


 原町監督が笛を吹く。


「それだ!」


 相手を横へ走らせるのではない。


 前へ。


 後ろへ。


 前へ。


 後ろへ。


 その距離を積み重ねる。


 8 正木のスピードを隠す


 正木静香。


 オーストラリアは当然、彼女のスピードを警戒する。


 だから原町監督は言った。


「最初から何回も裏へ走るな」


 正木がまた苦笑する。


「また言われた」


 柚月が笑う。


「もう慣れたべ」


「私の仕事、走ることなんですけど」


「だから隠すんだっちゃ」


 前半。


 一度。


 二度。


 あえて足元へ。


 下がる。


 ボールを受ける。


 相手DFに「今日は裏へ来ない」と思わせる。


 そのあと。


 突然。


 走る。


 速度は、見せ続けるより隠してから出した方が効く。


 9 森岡の役割


 森岡美里は、少し低い位置からのスタートを繰り返した。


 前へ。


 戻る。


 また前へ。


 オーストラリアの中盤がついてくる。


 でも、完全には追い切れない。


 柚月が言う。


「美里、今回たぶんその動き効くぞ」


「前後?」


「んだ」


 中国戦では中央突破。


 今回は、相手の中盤を前後へ引っ張る。


 森岡が下がればついてくる。


 その後ろへ早川。


 逆に森岡が走れば、宮野や美琴が空く。


「忙しいなぁ」


 森岡が笑う。


「キャプテンだからな」


「関係ある?」


「あることにしとくべ」


 10 高さへの守備


 セットプレー練習。


 オーストラリア役の選手が高いボールを入れる。


 藤森彩香が競る。


 伊達葵が出る。


 宮野が落下地点へ。


 一回目。


 失敗。


 ファーで相手役に触られる。


 ゴール。


 原町監督が笛を吹く。


「誰がセカンド見る!」


 宮野が手を上げる。


「私です!」


「なら、最初の競り合いへ入りすぎるな!」


 二回目。


 藤森が競る。


 相手が触る。


 ボールが中央へ落ちる。


 宮野が先。


 クリア。


 三回目。


 伊達がパンチング。


 早川が拾う。


 そのままカウンター。


 正木が走る。


 原町監督がうなずいた。


 高さを守る。


 だけではない。


 守った次まで考える。


 11 柚月の身体


 トレーニング終了後。


 柚月の右ふくらはぎ。


 問題なし。


 イラン戦で出た重さはかなり抜けている。


 中国戦でも終盤に交代し、負荷を管理できた。


 トレーナーが確認する。


「痛みなし」


「なし」


「張り」


「なし」


「重さ」


「今日はない」


「本当に?」


 柚月が笑う。


「もう信用してけろ」


「前科がありますから」


「前科って言うなぁ」


 とはいえ、状態は良い。


 オーストラリア戦。


 十分戦える。


 ただし、また九十分すべて使うとは限らない。


 それも理解していた。


 12 大船と美琴


 練習後。


 長崎美琴が柚月へボールを転がす。


「柚月さん」


「ん?」


「私ならオーストラリア戦、どう使います?」


 柚月が少し考える。


「美琴を?」


「はい」


「相手が前から来た時間」


「キープ?」


「そう」


 一人目を背負う。


 ボールを失わない。


 相手の二人目を呼ぶ。


 そこから離す。


「オーストラリア、身体強いからこそ、美琴が奪われなかったら嫌がるべ」


 美琴はうなずく。


「じゃあ、身体ぶつけられても耐える」


「無理して耐えなくていい」


「え?」


「逃げられるなら逃げろ」


 美琴が笑う。


「柚月さん、最近ずっと無理するなって言いますね」


「学んだからな」


 13 試合前夜


 最後の映像確認。


 原町監督は、選手たちへ一つだけ強く言った。


「オーストラリアの強さに付き合うな」


 フィジカル。


 高さ。


 球際。


 相手の得意なところだけで戦わない。


 日本には日本の武器がある。


 判断。


 速度差。


 機動力。


 連係。


「相手が強いなら、もっと賢く戦え」


 柚月がうなずく。


 その言葉は、自分のリハビリにも似ていた。


 無理に以前と同じ方法で戻ろうとしない。


 身体の反応を見る。


 変える。


 進む。


 サッカーも同じだった。


 14 オーストラリア戦当日


 スタジアム。


 ウォームアップ。


 オーストラリアの選手たちは、確かに大きい。


 身体も強い。


 スプリントも速い。


 日本側の若手には、少し緊張が見える。


 柚月が早川へ言う。


「大きいな」


 早川が答える。


「大きいですね」


「でもゴールの大きさは同じだべ」


 早川が笑った。


「急に雑な励まし方」


「事実だっちゃ」


 森岡が二人の間へ入る。


「はいはい、集中」


 15 スタメン


 日本の先発。


 GK。


 伊達葵。


 DF。


 藤森彩香。


 宮原彩乃。


 國武真央。


 ほか最終ライン。


 中盤。


 大船柚月。


 早川莉奈。


 森岡美里。


 宮野沙季。


 前線。


 正木静香。


 そして一人。


 原町監督は、美琴をベンチに置いた。


 試合の後半。


 相手の疲労が出たところで投入する可能性を見ている。


 美琴も理解していた。


「いつでも行けます」


 原町監督は短くうなずく。


 16 最初の五分


 キックオフ。


 予想どおり。


 オーストラリアは、日本のサイドチェンジに大きく振られない。


 柚月から右。


 宮原。


 逆。


 國武。


 中国戦のような一拍の遅れがない。


 早川が言う。


「やっぱり動かない」


 柚月が答える。


「んだな」


「じゃあ?」


 柚月は後ろへ戻す。


 藤森彩香。


 オーストラリアのFWが前へ出る。


 さらに一人。


 柚月が見る。


「じゃあ、前に来てもらうべ」


 日本は意図的に後方へ。


 オーストラリアが追う。


 その背後。


 森岡。


 早川。


 空間ができる。


 最初の答えが、見え始めた。


 17 正木は走らない


 前半七分。


 正木静香。


 いつもなら裏へ走る場面。


 走らない。


 足元へ。


 オーストラリアDFのエミリー・ウォーカーが少し戸惑う。


 正木が受ける。


 戻す。


 また足元。


 また戻す。


 三回。


 四回。


 相手DFは「今日は足元か」と考え始める。


 柚月がそれを見ていた。


「もうちょい」


 正木も分かっている。


 走りたい。


 でも我慢。


 18 最初の攻防


 前半十一分。


 オーストラリア。


 左サイド。


 速い。


 宮原彩乃が対応する。


 クロス。


 高い。


 ケイト・マクファーソン。


 ヘディング。


 藤森彩香が競る。


 少し触られる。


 ボールが落ちる。


 宮野沙季。


 一歩先。


 拾う。


「莉奈!」


 早川へ。


 オーストラリアの中盤が前へ出ている。


 早川が前を向く。


 森岡が走る。


 正木はまだ走らない。


 早川が一度美里へ。


 森岡がキープ。


 柚月。


 また後ろ。


 相手が戻る。


 日本は、あえて一度止めた。


 19 待つ


 前半十五分。


 0-0。


 互角。


 日本は横へ大きく振っても崩せない。


 オーストラリアは高さで何度かゴール前へ入る。


 どちらも、自分たちの形だけでは決定打にならない。


 原町監督がベンチで腕を組む。


 岩出コーチが言う。


「我慢比べですね」


「ああ」


 柚月も同じことを感じていた。


 今日は。


 一瞬で答えを出す試合ではない。


 少しずつ。


 相手の反応を貯める。


 そして。


 その中から、一つだけ遅れる場所を見つける。


 20 柚月の視線


 前半十八分。


 柚月が中央でボールを受ける。


 サラ・ミッチェルが寄る。


 前を向けない。


 柚月は戻す。


 次。


 もう一度。


 今度は少し低い位置。


 サラが一歩前へ。


 その後ろ。


 空く。


 早川が入る。


 縦。


 早川。


 前を向く。


 オーストラリアの最終ラインが一歩下がる。


 柚月はその動きを見た。


「これかもしれねぇ」


 森岡が聞く。


「何?」


「中盤出てきたあと、最終ラインが下がりすぎる」


 早川も気づく。


「間が広がる?」


 柚月がうなずく。


「そこ、次見るべ」


 横ではない。


 縦。


 前へ出る中盤。


 下がる最終ライン。


 その間。


 新しい壁の向こう側が、少しずつ見え始めていた。


 次回予告

 第67章「縦に裂ける」


 前半20分。


 0-0。


 日本は、オーストラリアの横幅を崩せない。


 しかし柚月は別の変化を見つける。


 日本が後方でボールを持つと、オーストラリアの中盤が前へ出る。


 その一方、正木静香のスピードを警戒する最終ラインは下がる。


 前と後ろ。


 その間が、少しずつ広がる。


 柚月が早川へ言う。


「横じゃねぇ。縦だべ」


 早川莉奈。


 森岡美里。


 宮野沙季。


 日本は、その中間地点へ次々に選手を送り込む。


 そして正木静香。


 ここまで裏へ走ることを我慢してきた正木へ、柚月が初めて合図を送る。


「次、行け」


 オーストラリアDFが、一瞬だけ対応を遅らせる。


 一方、オーストラリアも高いクロスから日本ゴールを襲う。


 伊達葵。


 藤森彩香。


 一瞬たりとも気を抜けない。


 前半終盤。


 日本が中央の縦の隙間を完全に使った瞬間、正木がついに最終ラインの背後へ飛び出す。


 次回、

 第67章「縦に裂ける」


 壁は、正面から壊す必要はない。


 横が閉じているなら、縦。


 相手が守れていない方向を見つければ、そこに道は生まれる

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