低いところを突け
第61章 低いところを突け
1 予想どおりのマーク
キックオフ。
日本対イラン。
二次予選、最後の一戦。
開始直後から、イランの狙いははっきりしていた。
正木静香。
宮野沙季。
森岡美里。
この三人を自由にさせない。
正木が最終ラインの裏へ走れば、ナディア・ラヒミがつく。
宮野が一列前へ入れば、レイラ・ホセイニが追う。
森岡が中央へ下りてボールを受けようとすれば、別の中盤がコースを消す。
早川莉奈がその様子を見て言った。
「本当に三人を見てますね」
柚月は落ち着いて答えた。
「予想どおりだべ」
「じゃあ、作戦どおり?」
「んだ」
日本は無理に三人へボールを入れなかった。
正木が走る。
でも、出さない。
宮野が前へ出る。
それでも、一度横へ。
森岡が中央へ入る。
そこへイランが寄れば、逆サイドへ展開。
マークされる三人を、むしろ囮として使う。
ボールを奪わせない。
焦って縦へ突っ込まない。
相手を動かしながら、少しずつ守備の形を崩していく。
2 高さを使わせない
開始五分。
イランは高い位置でボールを奪おうとはしない。
日本が後方で回す。
藤森彩香。
柚月。
早川。
また藤森。
そこから右の宮原彩乃。
イランは正木を警戒している。
正木が中央から右へ流れる。
ナディア・ラヒミがついていく。
その瞬間、中央が少し空く。
宮原は正木へ出さない。
森岡へ。
森岡にはすぐマーク。
ワンタッチで早川へ戻す。
早川が左へ展開。
國武真央。
今度はイランの守備全体が左へ動く。
柚月がその様子を見ながら言う。
「いいっちゃ。まだ急がなくていい」
早川も焦らない。
「もっと動かします」
日本は、高いボールをほとんど使わなかった。
足元。
膝より下。
グラウンダー。
速いパス。
イランの長所である空中戦へ、わざわざ付き合わない。
3 初先発、安藤梢
この試合、日本にはもう一人、新しい名前があった。
安藤梢。
今回の代表候補で評価を上げ、イラン戦で初先発を任された攻撃的MF。
ボールへの反応が速く、相手のトラップが少しでも大きくなれば、一気に前へ出られる選手だった。
試合前。
原町監督は梢へ一つだけ伝えていた。
「全部奪おうとするな」
梢は少し意外そうな顔をした。
「全部ですか?」
「相手が処理に困った瞬間だけ行け」
イランは腰より下へ速いボールが入ったとき、一歩目が遅れる場面がある。
日本はそこを狙っていた。
梢の役割は、その一瞬を逃さないことだった。
前半十二分。
イランの中盤へ低いパス。
レイラ・ホセイニが受ける。
梢が寄る。
しかし、ここでは無理に奪わない。
レイラは後方へ戻す。
梢も戻る。
柚月がその姿を見ていた。
「梢、焦ってねぇな」
森岡が答える。
「ちゃんと待ててる」
4 守備を一枚ずつ動かす
前半十四分。
日本が右サイドから攻める。
宮原彩乃。
正木静香が前へ走る。
ナディア・ラヒミがつく。
宮原は出さない。
内側の宮野沙季へ。
宮野にもレイラ・ホセイニ。
宮野はすぐに後ろへ戻す。
柚月。
イランの中盤が少し前へ出る。
柚月は左へ。
國武真央。
森岡美里が内側へ入る。
イランの守備がまた動く。
柚月が小さくつぶやく。
「だんだん広がってきたべ」
早川が近くで答える。
「最初より中央の間隔が大きいです」
「んだ。まだ突っ込まなくていい」
イランは日本の機動力を封じようとしている。
そのために、一人ひとりがマークへ引っ張られる。
日本はそれを繰り返す。
右。
左。
中央。
また右。
少しずつ。
ほんの少しずつ。
守備の形が崩れていく。
5 前半16分
そして、前半16分。
イランが自陣でボールを持つ。
CBのナディア・ラヒミから中盤へ。
低いパス。
受けたのはレイラ・ホセイニ。
しかしボールが少し足元へ入りすぎた。
処理が一瞬遅れる。
その瞬間。
安藤梢。
一気に前へ出た。
「今!」
柚月の声が飛ぶ。
梢が身体を入れる。
レイラの前へ。
ボールを奪う。
完全に前が空いた。
イランの最終ラインは、正木と森岡へのマークで少し外へ引っ張られている。
梢が迷わず前へ運ぶ。
一人目。
かわす。
さらに加速。
ペナルティーエリアへ進入。
GKのマリヤム・カリミが前へ出る。
梢が右足でボールを少し左へ置く。
シュート体勢。
その瞬間。
後ろから戻ってきたDF、サミラ・ジャバディが足を伸ばした。
梢の軸足に接触。
梢が倒れる。
大きな笛。
スタジアムが一瞬静まった。
主審は迷わずペナルティースポットを指した。
PK。
日本側の歓声。
イラン側は手を広げて抗議する。
サミラ・ジャバディは主審へ近づく。
「ボールへ行った」
そう主張する。
しかし主審はカードを出した。
イエローカード。
決定的な得点機へ入る直前の接触。
ただし一発退場ではなく、警告。
判定は変わらない。
日本、PK獲得。
6 「私が蹴ります」
ボールの近くへ、森岡美里が歩いてくる。
柚月も。
通常なら、柚月がキッカー候補の一人。
だが。
倒された梢が立ち上がった。
少し足を振る。
問題はない。
そしてボールを見る。
「私、蹴っていいですか」
森岡が梢を見る。
「大丈夫?」
「はい」
柚月も近づく。
「初先発だぞ」
梢がうなずく。
「だからこそ、蹴りたいです」
柚月は数秒、梢の顔を見る。
緊張はしている。
でも、目は逃げていない。
柚月はボールを梢へ渡した。
「じゃあ決めてこいっちゃ」
「はい」
森岡も笑う。
「任せた」
梢がペナルティースポットへ向かう。
7 初先発、最初のPK
イランGK、マリヤム・カリミ。
ゴールライン上。
左右へ小さく動く。
梢はボールを置く。
一度だけ深く息を吸う。
スタンドの音。
味方の声。
相手の声。
全部聞こえている。
でも、ボールから目を離さない。
早川が遠くから見ていた。
「落ち着いて……」
柚月も胸の前で手を握る。
主審の笛。
梢が助走。
右足。
GKは左へ動く。
梢は逆。
ゴール右下。
ネット。
1-0。
日本、先制。
安藤梢。
代表初先発。
そして、自ら得たPKを自ら決めた。
梢はゴールを確認した瞬間、両手を強く握った。
「よし!」
森岡が真っ先に抱きつく。
「梢!」
早川も。
宮野も。
正木も。
柚月も走ってくる。
「ナイスだっちゃ!」
梢は少し震えながら笑った。
「入りました……」
「そりゃ入ったから喜んでるべ!」
周囲に笑いが起きる。
8 柚月が言う「まだ始まっただけ」
1-0。
日本が先制。
しかし柚月はすぐに仲間を自陣へ戻した。
「まだ16分だぞ!」
森岡もうなずく。
「切り替えよう!」
イランのキックオフ。
ここから相手がどう変わるか。
それが重要だった。
失点したことで、イランは前へ出る必要がある。
だが、日本の機動力を警戒している。
前へ出れば背後が空く。
引けば一点を追いつけない。
イラン側にも難しい判断が求められる。
柚月はその変化を見た。
レイラ・ホセイニが、少し高い位置へ出始める。
森岡へのマークが一瞬外れる。
「美里、少し空いたぞ!」
森岡が手を上げる。
日本はすぐに次の変化を拾い始めた。
9 イランも高さで返す
前半20分。
イランが右サイドでスローインを得る。
スローワーはサラ・モラディ。
通常のスローインとは違う。
長い助走。
ゴール前へ直接入れるロングスロー。
日本側の選手が一気に戻る。
ナディア・ラヒミ。
サミラ・ジャバディ。
レイラ・ホセイニ。
長身の選手がペナルティーエリアへ入る。
伊達葵が声を出す。
「ファー気をつけて!」
ロングスロー。
高い。
ファーサイド。
ナディア・ラヒミが競る。
藤森彩香も飛ぶ。
ボールが頭に当たる。
中央へ折り返される。
混戦。
サミラが足を出す。
森岡が身体を入れる。
こぼれる。
伊達葵の目の前。
相手FWが詰める。
伊達が飛び出す。
両手。
ボールを抱える。
そのまま身体を丸める。
相手と接触。
しかし離さない。
笛。
伊達がゆっくり立ち上がる。
「大丈夫!」
柚月が走ってくる。
「葵、ナイス!」
「高さ、やっぱり怖いね」
「でも最後取ったべ」
10 高いところで勝てなくてもいい
日本は次のセットプレーでも同じように対応した。
全部をヘディングで勝とうとはしない。
最初の競り合いで完全に勝てなくてもいい。
落ちたボールを拾う。
宮野。
柚月。
早川。
セカンドボールの位置へ先に入る。
前半25分。
イランのCK。
ナディアがファーで競る。
藤森とぶつかる。
ボールが中央へ落ちる。
宮野が拾った。
イランの選手たちは、セットプレーのためほとんど前へ出ている。
宮野はすぐ早川へ。
早川が前を向く。
正木が走る。
「行け!」
柚月の声。
早川が縦へ。
正木。
オフサイドラインぎりぎり。
抜ける。
しかしイランGKマリヤムが早く飛び出し、ペナルティーエリア外でクリア。
惜しい。
それでも、イラン側に警告を与えた。
セットプレーへ人数をかけすぎれば、日本のカウンターが来る。
11 イランが迷い始める
前半30分。
イランはさらに難しくなっていた。
高さを使いたい。
前へ人数をかけたい。
しかし、奪われれば日本が走る。
正木。
宮野。
森岡。
さらに早川。
梢。
誰が前へ出ても速い。
ナザリ監督はタッチラインから指示を出す。
「後ろを残せ!」
すると今度は、セットプレーへ入る人数が減る。
日本守備側の負担が少し下がる。
柚月が早川へ言う。
「効いてるべ」
「カウンターが?」
「カウンターを見せたことが」
実際に得点しなくてもいい。
相手が警戒すれば、それだけで配置が変わる。
また一つ、日本が試合を動かしていた。
12 梢は欲張らない
先制点を決めた安藤梢。
初先発。
初ゴール。
気持ちが上がってもおかしくない。
だが、梢は無理をしなかった。
前半34分。
中央でボールを受ける。
前へ行けそうに見える。
しかしイランの二人が待っている。
梢は突っ込まない。
柚月へ戻す。
柚月から逆サイド。
國武真央。
イランの守備が横へ動く。
梢はその間に位置を変える。
またボールが来る。
今度は前を向ける。
森岡へ。
森岡から正木。
攻撃が続く。
柚月が梢へ声をかける。
「いいぞ!」
梢が振り向く。
「行けそうだったんですけど」
「行けそうと、行けるは違うっちゃ」
「はい!」
初先発でも。
初得点後でも。
焦らない。
それは、日本がこの予選を通じて身につけてきたものだった。
13 柚月の右ふくらはぎ
前半38分。
柚月が中央から右へ動く。
一度止まる。
また前へ。
その瞬間。
右ふくらはぎに、少し重さを感じた。
痛みではない。
張りでもない。
だが、いつもより脚が一拍遅い。
柚月はすぐに自分で分かった。
「重いな……」
原町監督も気づいていた。
ボールを持つ動きは問題ない。
ただ、切り返した後の一歩が少し遅い。
岩出コーチが言う。
「出てますね」
「ああ」
原町監督はすぐにメディカルスタッフへ視線を送る。
まだ交代はしない。
だが、見逃さない。
14 監督からの確認
前半40分。
ボールがタッチラインを割る。
原町監督が柚月を呼ぶ。
「大船!」
柚月が近づく。
「右脚どうだ」
柚月は正直に答える。
「ちょっと重いです」
「痛みは?」
「ないです」
「張りは?」
「それもない」
「本当か」
「本当です」
原町監督は数秒考える。
「前半まで行けるか」
「行けます」
「無理だと思ったら自分で言え」
「はい」
昔なら「大丈夫です」で終わっていた。
今は違う。
重い。
でも痛くない。
そこまで正確に伝える。
それも復帰後に身につけた力だった。
15 前半終盤のイラン
イランは一点を追って、前半終了前に再び攻勢へ出る。
42分。
右サイドからクロス。
高い。
サラ・モラディ。
ヘディング。
伊達葵がキャッチ。
43分。
FK。
またゴール前へ。
藤森彩香が競る。
こぼれ球。
宮野が身体を入れてクリア。
44分。
ロングスロー。
ナディア・ラヒミが折り返す。
森岡美里が足を出す。
ボールがペナルティーエリア外へ。
梢が拾う。
前を見る。
走れる。
正木が右。
早川が左。
しかし梢は、無理に前へ出さなかった。
柚月へ。
柚月が一度落ち着かせる。
「前半、これでいい!」
日本は時計も使う。
1-0。
無理をして失点する必要はない。
16 前半終了
アディショナルタイム。
イラン最後の攻撃。
レイラ・ホセイニから右。
クロス。
藤森が頭で弾く。
宮野がセカンドボールを拾う。
早川へ。
早川が前を向く。
主審が時計を見る。
笛。
前半終了。
日本1-0イラン。
先制点は安藤梢。
前半16分。
相手の低いボール処理が乱れた一瞬を逃さず奪い、ペナルティーエリアへ進入。
PKを獲得。
そして自ら決めた。
狙っていた弱点が、そのまま結果になった。
しかし、日本はイランの高さにも何度も脅かされた。
そして。
柚月の右ふくらはぎには、連戦の疲労が確実に出始めている。
17 ハーフタイム
ロッカールーム。
原町監督は最初に柚月を見る。
「メディカル」
トレーナーがすぐに右ふくらはぎを確認する。
柚月はベッドへ座る。
触診。
足首。
筋肉の張り。
左右差。
柚月が言う。
「痛くはないです」
トレーナーが答える。
「でも、疲労は出ています」
原町監督が尋ねる。
「後半行けるか」
トレーナーは慎重に答えた。
「短い時間なら可能。ただし、長く使う必要はないと思います」
柚月はすぐ言う。
「行けます」
原町監督は柚月を見る。
「お前に聞いてない」
早川が思わず笑いそうになる。
柚月も苦笑した。
「ほんと、みんなそれ言うなぁ」
原町監督は真剣なままだった。
「後半頭から行かせる。ただし、状態が少しでも落ちたら交代する」
「はい」
「意地張るな」
「張りません」
「本当に?」
「本当にだっちゃ」
ようやく少し笑いが起きた。
18 原町監督の修正
戦術ミーティング。
原町監督は言う。
「後半、イランはさらに前へ来る」
一点差。
このままでは予選を終えられない。
当然、高さをさらに使ってくる。
「日本は低いところを引き続き使う」
ただし、同じ形ばかりでは読まれる。
「正木へのマークが強いなら、正木はもっと動かせ」
「はい」
「宮野、セカンドボール」
「はい」
「森岡、無理に前へ出るな。相手がついてきたら残れ」
「はい」
「梢」
「はい」
原町監督が少しだけ表情を緩めた。
「初先発だからって、もう一つ決めようと欲張るな」
梢も笑う。
「はい」
柚月が横から言う。
「でも空いたら行っていいべ」
原町監督が柚月を見る。
「お前は監督か」
「すみません」
ロッカールームに少し笑いが広がった。
19 初先発の梢へ
ピッチへ戻る直前。
安藤梢が柚月の隣へ並ぶ。
「柚月さん」
「ん?」
「PK、すごく緊張しました」
「知ってる」
「分かりました?」
「顔ちょっと固かったっちゃ」
梢が笑う。
「でも、蹴ってよかったです」
「んだな」
「柚月さんが譲ってくれたから」
柚月は首を振った。
「譲ったんじゃねぇよ」
梢が見る。
「梢が蹴る顔してたから任せたんだべ」
その言葉に、梢の表情が少し変わる。
「次も、自分で決めろ」
「はい」
柚月は笑った。
「でも次のPKは、うちが蹴るかもしれねぇぞ」
梢も笑う。
「競争ですね」
「んだ」
20 後半へ
選手たちがトンネルを抜ける。
1-0。
まだ一点差。
イランは高さを使ってくる。
日本は低さと速さで対抗する。
そして、両チームとも相手の狙いを理解し始めている。
ここから先は、最初に用意した戦術だけでは勝てない。
試合中に変える。
相手を見る。
自分たちを見る。
柚月は右ふくらはぎを一度だけ軽く叩いた。
重い。
でも、まだ動ける。
無理はしない。
それでも、必要な時間は戦う。
主審の笛。
後半が始まる。
ロサンゼルスへの道。
その一本が、少しずつ近づいていた。
次回予告
第62章「交代する勇気」
1-0で迎えた後半。
イランは高さをさらに前面へ押し出す。
ロングスロー。
CK。
FK。
日本ゴール前へ、何度も高いボールが入る。
伊達葵。
藤森彩香。
森岡美里。
そして宮野沙季。
日本は一つずつ跳ね返していく。
一方、日本も低いクロスと高速カウンターで二点目を狙う。
安藤梢には初先発二点目のチャンス。
正木静香にも決定機。
しかしスコアは動かない。
そして後半十五分。
原町監督が柚月を呼ぶ。
「大船、交代だ」
柚月は一瞬だけ悔しそうな表情を見せる。
まだ戦える。
痛みもない。
しかし右ふくらはぎの疲労は隠せない。
そのとき、柚月は自分が後輩たちへ何度も語ってきた言葉を思い出す。
無理をしないこと。
走らない勇気。
止まる勇気。
ロサンゼルスは、この一試合の先にある。
柚月はキャプテンマークではなく、自分の役割を宮野と早川へ託してピッチを出る。
そして試合終盤。
イランが最後の力で前へ出た瞬間、日本に決定的なカウンターの機会が訪れる。
次回、
第62章「交代する勇気」
最後までピッチに立つことだけが、強さではない。
次に戦うために、自分からピッチを離れることもまた、勝利へ向かう選択なのだ。




