残り十五分
第57章 残り十五分
1 七十五分まで待った意味
後半三十分。
時計は七十五分を回った。
スコアは0-0。
日本は、ここまで韓国の守備を崩し切れていない。
だが原町監督の表情に、焦りはなかった。
前半から韓国は、大船柚月、早川莉奈、正木静香の三人を徹底的に警戒してきた。
柚月が位置を変えれば追う。
早川が前を向けば二人目が寄せる。
正木が最終ラインの間を動けば、センターバックも動く。
日本はそれを承知のうえで、七十五分間、何度もボールを横へ動かしてきた。
右へ。
左へ。
後ろへ戻す。
再び中央。
韓国の選手たちは、そのたびに走った。
一歩。
二歩。
十メートル。
二十メートル。
一回の移動なら大したことはない。
だが、それを七十五分続ければ話は変わる。
原町監督はベンチからピッチを見る。
韓国のキャプテン、朴智秀が膝へ手をつく時間が増えた。
右サイドバックの韓多恩も、國武真央へ寄せる最初の一歩が遅れている。
センターバックの金恩智も、正木の動きへ一瞬反応が遅れる場面が出ていた。
岩出コーチが言った。
「来ましたね」
原町監督は短く答える。
「ああ」
そして立ち上がる。
「ここからだ!」
2 日本もカードを切る
日本も動いた。
ここまで走り続けた宮原彩乃を下げ、フレッシュなサイドバックを投入。
さらに中盤にも宮野沙季を準備させる。
ただし、柚月と早川は残した。
二人にはまだ脚がある。
特に早川は、前半から突破の回数を意図的に抑えていた。
原町監督が早川へ指示する。
「莉奈、ここからは前へ行け!」
早川が大きくうなずく。
「はい!」
柚月にも声が飛ぶ。
「大船!」
「はい!」
「好きに動かせ!」
柚月の口元が上がった。
「待ってましたっちゃ」
森岡美里が近くで笑う。
「急に元気になるね」
「七十五分我慢したんだぞ」
「子どもみたいに言わないの」
その会話の間にも、韓国は守備陣形を整えている。
だが、その動きは前半ほど速くない。
柚月には分かった。
今だ。
3 七十六分、最初の揺さぶり
七十六分。
日本ボール。
藤森彩香が最終ラインから運ぶ。
柚月が中央へ下がる。
朴智秀がついてくる。
柚月はボールを受けない。
そのまま左へ流れる。
朴もつく。
藤森は早川へ出す。
早川には徐敏京。
早川もワンタッチで後ろへ。
ボールは再び藤森。
柚月が今度は中央へ戻る。
朴智秀も戻る。
しかし、一歩遅い。
柚月はそれを見る。
また右へ動く。
朴も右へ。
次の瞬間。
柚月は急に止まり、左へ切り返した。
朴智秀が反応する。
だが、脚がついてこない。
半歩。
ほんの半歩だった。
前半なら埋められていた距離。
その半歩が、この時間帯では大きい。
藤森から柚月へボール。
柚月が前を向く。
この試合で初めてと言っていいほど、余裕を持って。
早川が叫ぶ。
「柚月さん!」
「見えてる!」
韓国の中盤が柚月へ寄ろうとする。
だが遅い。
柚月は一度右へ身体を向けた。
韓国守備も右へ動く。
その瞬間。
左。
縦。
鋭いパス。
早川の足元へ突き刺した。
4 電光石火
早川が受ける。
前を向く。
徐敏京が寄せる。
早川は一歩でかわした。
前半なら、二人目がすぐに来ていた。
今は来ない。
早川が一気に前へ運ぶ。
韓国最終ラインが下がる。
正木静香が中央から左へ流れる。
金恩智がついていく。
早川は正木へ出した。
左サイド。
正木がボールを受ける。
韓多恩が戻る。
だが距離がある。
正木はそのまま一歩前へ。
顔を上げる。
中央。
森岡美里がニアへ入る。
韓国DFが森岡を見る。
その後ろ。
柚月が走っていた。
最初に縦パスを出した柚月が、そのまま止まらずペナルティーエリア手前まで駆け上がっている。
正木が見た。
低いクロス。
森岡が一度またぐ。
ボールがペナルティーエリアの外へ少し流れる。
そこへ柚月。
右脚で踏み込む。
右ふくらはぎ。
一瞬だけ、あのワールドカップ決勝の記憶が頭をよぎる。
だが、もう身体は止まらなかった。
左足。
振り抜く。
乾いた音が響く。
ボールが低い弾道で韓国DFの間を抜ける。
GK尹河琳が飛ぶ。
右手を伸ばす。
届かない。
ゴール右隅。
ネットが大きく揺れた。
一瞬の静寂。
そして、日本側のスタンドが爆発した。
1-0。
七十六分。
日本、先制。
5 走ってきた意味
柚月はゴールを確認すると、その場で拳を握った。
「よっしゃあ!」
次の瞬間、早川が飛びついてくる。
「柚月さん!」
正木も。
森岡も。
國武真央も。
一気に輪ができる。
正木が叫ぶ。
「柚月さん、いつの間にあそこまで来てたんですか!」
「走ったんだっちゃ!」
早川が笑う。
「それは見れば分かります!」
柚月も笑った。
だが、すぐに真剣な表情へ戻る。
「まだ終わってねぇぞ!」
森岡がうなずく。
「あと十四分以上ある!」
全員が自陣へ戻る。
原町監督はベンチ前で一度だけ強く拳を握った。
狙っていた時間。
狙っていた形。
七十五分間、韓国を動かし続けた。
その結果生まれた、半歩の遅れ。
柚月の揺さぶり。
縦パス。
早川の前進。
正木のクロス。
森岡の囮。
そして最後に柚月。
偶然ではなかった。
七十五分間の積み重ねが、一つのゴールになった。
6 韓国は前へ出る
失点した韓国は、当然引かなかった。
残り時間。
1-0。
ここで負ければ二次予選初戦を落とす。
金成鉉監督がすぐに動く。
守備的MFを一人下げ、攻撃的な選手を投入。
朴智秀もさらに前へ出る。
李彩媛。
金素妍。
崔娜英。
韓国の前線が一気に高くなる。
七十九分。
韓国が右サイドを突破。
崔娜英からクロス。
中央の李彩媛。
ヘディング。
伊達葵が両手で弾く。
こぼれ球。
金素妍。
シュート。
藤森彩香が身体を投げ出す。
ブロック。
「集中!」
森岡が叫ぶ。
日本は得点直後、最大の危機を迎えた。
柚月も自陣深くまで戻る。
今度は攻撃の司令塔ではない。
守備の一人。
朴智秀が中央で受ける。
柚月がコースを限定する。
「外行かせろ!」
韓国は左へ。
日本全体がスライド。
クロスを上げさせる。
中央。
藤森がクリア。
セカンドボール。
早川が拾う。
「行ける!」
早川が前を見る。
しかし柚月が叫ぶ。
「今は急がなくていい!」
早川は一度止めた。
後ろへ。
日本が呼吸を取り戻す。
7 八十二分、もう一つの決定機
八十二分。
韓国が前へ人数をかけたぶん、背後は大きく空き始めていた。
日本が自陣でボールを奪う。
宮野沙季。
途中出場した宮野が落ち着いて柚月へつなぐ。
韓国は柚月へ寄せる。
柚月はワンタッチ。
早川。
早川が前を向く。
前には広大なスペース。
「莉奈、行け!」
早川が加速する。
一人目。
かわす。
二人目。
身体を当てられる。
それでも倒れない。
正木が右へ走る。
森岡が中央。
早川は自分で行くと見せて、正木へ。
正木がペナルティーエリアへ入る。
GK尹河琳が前へ。
正木がシュート。
尹河琳が左手で弾いた。
こぼれ球。
森岡。
打つ。
金恩智がゴールライン寸前でクリア。
日本ベンチが一斉に立ち上がる。
「惜しい!」
早川が頭を抱える。
柚月は拍手する。
「いい! そのまま続けるべ!」
1-0。
まだ一点差。
それでも試合の流れは明らかに変わっていた。
8 韓国の意地
八十四分。
韓国も最後の力を絞り出す。
朴智秀が中央から前へ出る。
柚月との競り合い。
身体がぶつかる。
柚月は倒れない。
ボールがこぼれる。
徐敏京。
すぐ前へ。
李彩媛。
反転。
森岡が戻る。
李彩媛が左へ展開。
金素妍がクロス。
ファー。
崔娜英。
ボレー。
伊達葵。
横っ飛び。
指先。
ボールがポストの外へ。
韓国側から悲鳴のような声。
日本側から大きな拍手。
伊達は立ち上がりながら怒鳴った。
「まだ終わってない!」
柚月も両手をたたく。
「葵、ナイス!」
残り五分。
韓国はまだ死んでいない。
9 八十七分、早川が倒される
八十七分。
日本が中央でボールを奪う。
宮野から森岡。
森岡が早川へ。
早川が前を向く。
韓国の中盤。
朴智秀。
徐敏京。
二人が寄せる。
早川は間を抜けた。
一人。
二人。
ペナルティーエリア手前。
あと数メートル。
そこで徐敏京が後ろから足を伸ばした。
早川の足が引っかかる。
倒れる。
笛。
日本、FK。
ゴール正面やや右。
距離は二十三メートルほど。
スタンドが大きくざわめく。
早川はすぐ立ち上がった。
「大丈夫です!」
主審が位置を示す。
韓国は壁を作る。
ボールの前へ柚月が立つ。
左足。
十分狙える位置。
韓国GK尹河琳も、直接FKを強く警戒している。
壁は五枚。
さらに一人が早川の動きを見ている。
柚月はボールを置く。
ゴールを見る。
壁を見る。
そして、ほんの一瞬だけ早川へ視線を送った。
早川が近づく。
柚月が口元を隠し、小さく言った。
「覚えてる?」
早川の目が変わる。
「右が出るの遅い」
「そう」
七十五分間。
日本は何度も韓国の守備を左右へ動かした。
終盤。
壁を作るときにも、その癖は出ている。
韓国の左側は蹴られる瞬間に前へ出る。
しかし右端の選手は疲労から反応が遅い。
柚月はそれを見ていた。
直接狙う必要はない。
10 直接は蹴らない
主審の笛。
柚月が助走を始める。
韓国の壁が構える。
尹河琳も左足の直接FKを予測する。
柚月が踏み込む。
しかし蹴らない。
ボールの横を走り抜けた。
壁が一斉に跳ぶ。
次の瞬間。
早川が右足で短くボールを横へ動かす。
森岡美里がそこへ走り込む。
韓国の壁が崩れる。
森岡はシュートしない。
さらに左。
國武真央。
完全にフリー。
國武が左足でクロス。
ファー。
正木静香。
ヘディング。
尹河琳が反応する。
ボールを弾く。
こぼれ球。
宮野沙季が狙う。
シュート。
金恩智が身体を投げ出してブロック。
韓国が何とか守った。
日本側から大きなため息。
柚月は笑いながら戻る。
早川が隣へ来る。
「惜しかったですね」
「でも、完全に崩したべ」
「はい」
記録には残らない。
ゴールにもならない。
それでも、七十五分間の観察が最後のセットプレーにも使われていた。
11 残り三分
時計は八十九分。
韓国は全員で前へ出る。
日本は守る。
ただ引くだけではない。
ボールを奪えば、相手陣内へ運ぶ。
韓国を簡単には攻撃へ戻させない。
柚月の脚にも疲労が来ている。
復帰後、これほど長い高強度の代表戦を戦うのは初めてだった。
右ふくらはぎ。
重い。
しかし痛みはない。
嫌な張りもない。
自分の身体と会話する。
まだ行ける。
でも、無茶はしない。
アディショナルタイム。
四分。
韓国最後の攻撃。
ロングボール。
藤森が競る。
こぼれる。
朴智秀。
ミドルシュート。
宮野がブロック。
再び韓国。
クロス。
伊達葵が飛び出し、両手でつかむ。
その瞬間、日本ベンチから声が飛ぶ。
「ゆっくり!」
伊達はボールを抱えたまま数秒待つ。
そして國武へ。
國武から森岡。
森岡から柚月。
韓国が寄る。
柚月は身体を入れる。
ファウルをもらう。
大きな拍手。
柚月は立ち上がる。
時計を見る。
九十三分。
あと少し。
12 最後の笛
日本のFK。
柚月は急がない。
短く宮野へ。
宮野から藤森。
韓国が前へ出る。
藤森は大きく相手陣内へ蹴る。
正木が追う。
金恩智がクリア。
ボールがタッチラインを割る。
主審が時計を見る。
韓国が最後のスローイン。
前へ。
朴智秀。
縦。
李彩媛。
藤森が身体を入れる。
ボールがこぼれる。
森岡が蹴り出す。
そして。
笛。
試合終了。
日本1-0韓国。
二次予選初戦。
日本、勝ち点3。
柚月は両手を膝についた。
苦しい。
脚も重い。
でも、勝った。
早川が隣へ来て、柚月の背中をたたく。
「勝ちました」
柚月は息を整えながら笑う。
「んだな」
正木も来る。
「柚月さん、ゴールすごかったです」
「静香のクロスがよかったんだっちゃ」
森岡が笑う。
「その前の莉奈のパスもね」
早川がすぐ言う。
「その前は柚月さんの縦パスです」
柚月が顔を上げる。
「じゃあ全員のゴールでいいべ」
13 韓国側が感じた七十五分
韓国の選手たちは、悔しそうに立ち尽くしていた。
朴智秀は肩で息をしている。
日本を七十五分までほぼ封じた。
柚月も。
早川も。
正木も。
狙いは間違っていなかった。
だが、そのために使ったエネルギーが最後に響いた。
韓国の金成鉉監督は、ベンチ前からピッチを見つめた。
七十五分まで0-0。
それでも日本は焦らなかった。
自分たちを走らせ続けた。
そして脚が止まり始めた瞬間、一気に縦へ入れてきた。
戦術を読まれたというより、九十分全体を使われた。
それが悔しかった。
14 原町監督の答え
ロッカールーム。
選手たちは静かに座る。
激しい試合だった。
原町監督が前へ立った。
「よく我慢した」
最初の言葉だった。
「前半0-0。六十分0-0。七十分0-0」
選手たちが聞く。
「そこで焦らなかったことが、今日の勝因だ」
韓国は強かった。
マークも機能していた。
カウンターも危険だった。
「無理に前半で答えを出そうとしていたら、逆にやられていた可能性がある」
原町は柚月を見る。
「大船」
「はい」
「七十六分の場面。最初から自分でシュートまで行くつもりだったか」
柚月は首を振る。
「全然。最初は莉奈へ出したところで終わるつもりでした」
「なぜ走った」
「韓国の中盤が戻れてなかったからです」
原町がうなずく。
「そこだ」
一つ目のプレーをしたあとに終わらない。
状況が変わったら、もう一度参加する。
柚月のゴールは、シュート技術だけで生まれたものではなかった。
15 早川が学んだ十五分
ロッカールームを出たあと。
早川が柚月へ声をかけた。
「今日、すごく分かりました」
「何が?」
「前半から全部やらなくていいってこと」
柚月は笑う。
「だから言ったべ」
「分かってるつもりだったんです」
「でも?」
「七十五分まで、本当に我慢するとは思ってませんでした」
二人は歩きながら話す。
「私は前半から一人抜きたかったです」
「知ってる」
「何回か行こうとしました」
「それも知ってる」
「でも最後、相手が疲れてから抜いたら、全然違いました」
柚月がうなずく。
「同じドリブルでも、いつ使うかで武器の強さ変わるっちゃ」
早川は少し考える。
「試合の時間まで使う」
「そういうことだべ」
16 右脚の確認
その夜。
柚月はメディカルスタッフのチェックを受けた。
この試合では長い時間を戦った。
高強度。
接触。
スプリント。
そして七十六分のゴールでは、かなりの距離を走って左足を振り抜いている。
トレーナーが右ふくらはぎを確認する。
「痛みは?」
「ないです」
「張りは?」
「普通に疲れてる」
「嫌な感じでは?」
「ないっちゃ」
検査結果にも、大きな問題はなかった。
ただし疲労は強い。
「明日は完全リカバリーです」
「はい」
柚月は素直に答えた。
トレーナーが少し驚く。
「反論しないんですね」
「みんなそれ言うなぁ」
柚月は笑った。
「次の試合あるから。今無理する方がもったいないべ」
それを自分の口から自然に言えるようになった。
けがをする前とは、そこも変わっていた。
17 ユリへの報告
夜。
宿舎の部屋。
柚月はベッドへ座り、名取百合子の写真を見た。
「ユリ。勝ったよ」
胸の奥で声が返る。
「見てたっちゃ」
「うち、決めた」
「見てたって」
「七十六分」
「しつこいなぁ」
柚月が笑う。
「でもさ、今日のゴール、ちょっと嬉しかった」
「復帰ゴールより?」
柚月は少し考えた。
「種類が違う」
復帰戦のゴールは、自分が戻ってきた証明だった。
今日のゴールは。
七十五分間、みんなで相手を動かし続けた。
その最後に自分が走り込んだ。
「みんなで作った感じがしたっちゃ」
「ならいいゴールだべ」
「うん」
少し沈黙。
「でも、まだ勝ち点3だけ」
「その通り」
「次、サウジアラビア」
「勝て」
「簡単に言うなぁ」
「ロサンゼルス行くんだろ?」
柚月は笑った。
「行く」
迷いはない。
次回予告
第58章「勝って当然という罠」
二次予選初戦。
日本は韓国との激戦を1-0で制し、勝ち点3を手にした。
次の相手は、サウジアラビア。
周囲からは「日本が有利」という声が広がる。
しかし原町監督は、選手たちへ最初に告げる。
「一番危ないのは、勝てると思った瞬間だ」
韓国戦を長時間戦った柚月はベンチスタート。
中盤には宮野沙季と早川莉奈。
前線には正木静香、そして井上梓が並ぶ。
日本は序盤からボールを持つ。
だが、サウジアラビアは中央を徹底的に閉め、ゴール前で粘り強く跳ね返す。
十五分。
二十分。
三十分。
スコアは動かない。
そして前半終盤。
日本が一瞬の油断からボールを失う。
サウジアラビアの高速カウンター。
伊達葵と相手FWが一対一。
誰もが「勝って当然」と考えていた試合が、一気に危険な表情へ変わる。
ベンチの柚月は立ち上がる。
「これ、簡単な試合じゃねぇぞ」
次回、
第58章「勝って当然という罠」
世界王者という肩書は、勝利を保証しない。
むしろ、その肩書を倒そうとする相手の力を何倍にもすることがある。




