残る八チーム
第55章 残る八チーム
1 ここからは、全部が重い
一次予選を三連勝で突破した日本。
ベトナム。
インドネシア。
北朝鮮。
それぞれまったく違う相手と戦い、勝ち点を積み上げてきた。
しかし、ロサンゼルスオリンピックへの道は、ここからさらに狭くなる。
アジア最終段階。
残ったのは八チーム。
その中から本大会へ進めるのは、わずか三つ。
世界王者という肩書も、一次予選三連勝という結果も、ここでは保証にはならない。
代表宿舎のミーティングルーム。
原町監督は、選手たちの前に立った。
「一次予選は終わった」
その一言で、部屋の空気が変わった。
「三連勝したことは評価する。ただし、ここから先はその結果を持ち込むな」
早川莉奈が顔を上げる。
宮野沙季も。
森岡美里も。
柚月も。
原町監督は続けた。
「ここからは、一つのミスがロサンゼルスを消す」
誰も言葉を発しなかった。
それは脅しではない。
事実だった。
三枚しかない切符。
八チームのうち、五つは届かない。
勝てばいいだけではない。
どこで勝つのか。
どこで勝ち点を落としてはいけないのか。
得失点差をどう考えるのか。
大会全体を見なければならない。
「ここからが、本当の予選だ」
柚月は小さく息を吐いた。
「んだな」
2 右ふくらはぎの再確認
最終予選へ向けた準備が始まる前に、柚月にはもう一つ重要な予定があった。
メディカルチェック。
クラブでの復帰戦。
連続出場。
代表復帰。
一次予選三試合。
接触。
方向転換。
高強度の守備。
PK。
試合終盤のスプリント。
右ふくらはぎには、ここ数週間でこれまでとは比べものにならない負荷がかかっていた。
検査室。
柚月はベッドへ腰掛けながら、少し緊張していた。
トレーナーが尋ねる。
「今、自覚症状はありますか」
「普通の疲れはあるっちゃ。でも、痛みとか嫌な張りはないです」
「北朝鮮戦の翌日は?」
「ちょっと重かった。でも次の日には戻ったべ」
触診。
筋力。
左右差。
足首の動き。
片脚での支持。
軽い跳躍。
段階的に確認していく。
柚月は黙って結果を待った。
以前なら、
早く大丈夫と言ってほしい。
早く次へ進みたい。
そう思っていた。
今は違った。
問題があるなら、今見つけたい。
ロサンゼルスを目指すなら、なおさらだった。
しばらくして、担当医が結果を説明した。
「現時点では、再損傷を疑う所見はありません」
柚月の肩から少し力が抜ける。
「よかった……」
「ただし、疲労は蓄積しています」
「やっぱり?」
「当然です。復帰後、負荷はかなり上がっています」
トレーナーも続ける。
「今後は、試合ごとに出場時間を固定的に増やすのではなく、コンディションを見ながら調整します」
柚月はうなずいた。
「分かりました」
「無理に九十分へ戻す必要はありません」
以前なら、少し不満そうな顔をしていたかもしれない。
この日は違った。
「予選を最後まで戦える身体にしたいです」
担当医がうなずく。
「その考え方でいきましょう」
3 二次予選の組み合わせ
その日の午後。
代表全員が再びミーティングルームへ集められた。
スクリーンには、二次予選の組み合わせが映し出された。
日本
韓国
サウジアラビア
イラン
数秒、誰も話さなかった。
そして、森岡美里が最初に口を開く。
「……簡単じゃないね」
宮野沙季がうなずく。
「かなり厳しい組です」
早川も画面を見たまま言う。
「全部、気が抜けない」
柚月は腕を組んだ。
「北朝鮮の次がこれかぁ」
森岡が横を見る。
「嫌そうな顔するな」
「嫌というか、面倒くさいっちゃ」
「それ、たぶん同じ」
少しだけ笑いが起こった。
しかし、すぐに空気は戻る。
原町監督が前へ出た。
「この組を勝ち抜く」
それだけだった。
長い説明はまだしない。
まず全員に、対戦相手を見せる。
それぞれが何を感じるかを見る。
「韓国」
原町が指す。
「日本をよく知っている」
次。
「サウジアラビア」
そして。
「イラン」
「どの相手も、一次予選のような感覚で入れば足元をすくわれる」
柚月が静かにうなずいた。
4 韓国をどう見るか
最初の分析対象は韓国だった。
映像が流れる。
前線からの圧力。
球際の強さ。
縦への速さ。
サイドを使った展開。
中盤での激しい競り合い。
原町監督が映像を止める。
「韓国戦は、ボールを持てば勝てる相手ではない」
森岡が言う。
「奪ってからの速さがある」
岩出コーチが続ける。
「特に、日本が中盤で前向きにボールを失ったときのカウンターが危険だ」
柚月は画面を見る。
「北朝鮮戦にも似てる部分はあるけど、韓国はもっと最初から強く来るかもしれねぇっちゃ」
早川が尋ねる。
「柚月さんなら、どう受けますか」
「最初の十五分は、あんまり無理に中央で前向かないかも」
「慎重に入る?」
「慎重というより、相手の出方を見る」
柚月は続ける。
「韓国が前から来るなら、その背後使う。来ないなら、自分たちで運ぶ」
「決め打ちしない」
「んだ」
原町監督がそこへ入る。
「特に韓国戦は、感情的になるな」
日韓戦。
注目度が高い。
過去の対戦結果。
報道。
観客。
そうした外側の熱が、試合を必要以上に重くすることがある。
「挑発に乗るな。判定に集中を奪われるな。相手の球際が強くても、やり返すことを目的にするな」
森岡がうなずいた。
「自分たちのサッカーを崩さない」
「そうだ」
5 サウジアラビアを侮らない
次の映像。
サウジアラビア。
早川が画面を見ながら言う。
「思ったより前から来ますね」
岩出コーチがうなずく。
「近年かなり強化が進んでいる。特にフィジカルと運動量が上がっている」
柚月はじっと見る。
サイドの選手が速い。
縦への切り替えも悪くない。
守備では、一度自陣へ下がると中央を狭くする。
「引いたら、結構固いべな」
宮野が答える。
「しかも一回奪われるとサイドから速い」
原町監督が言う。
「サウジアラビア戦で一番危険なのは、勝てる相手だと思い込むことだ」
選手たちの表情が引き締まる。
「名前で試合をするな」
その言葉は短かった。
でも重い。
ワールドカップ王者。
日本代表。
その肩書を持っていても、試合開始時点では0-0。
「相手は、日本から勝ち点を取れば大きな結果になる」
柚月が静かに言った。
「世界一になってから、毎試合それだべな」
森岡がうなずく。
「全員、本気で倒しに来る」
6 イランの強さ
三つ目。
イラン。
映像が始まる。
身体の強さ。
ロングボール。
セカンドボールへの反応。
セットプレー。
ゴール前での競り合い。
宮野が言う。
「高さがありますね」
森岡も。
「セットプレー、かなり警戒した方がいい」
GKの伊達葵が画面を見ながら言う。
「クロスが単純じゃない。ファーに落としてから折り返す形もある」
柚月は別の部分を見ていた。
中盤。
ボールを奪われたあと。
「これ」
映像が止まる。
「イラン、ボール取った瞬間、最初のパス前じゃねぇときがある」
早川が見る。
「一回横に逃がしてますね」
「んだ。そのあと一気に前」
宮野も気づく。
「最初に日本を食いつかせてから、次で縦?」
「そうかもしれねぇ」
原町監督がうなずく。
「そこは警戒する」
イランは単純に前へ蹴るだけではない。
日本が前へ出てきたところを使う。
一度落ち着かせてから、速く前進する。
「この組、全部違うべな」
柚月が言った。
「だから準備が難しい」
早川が答える。
「でも、面白いです」
柚月は横を見る。
「言うようになったなぁ」
「柚月さんの影響です」
「責任重大だべ」
7 まず誰から
組み合わせが決まれば、次に重要なのは試合順だった。
どの相手と最初に当たるか。
どこで勝ち点を取るか。
何試合目でピークを作るか。
日程によって、戦い方も変わる。
原町監督はホワイトボードへ三つの枠を書いた。
「ここからは、相手ごとの戦術だけじゃない」
一試合目。
二試合目。
三試合目。
「大会全体を設計する」
柚月はその言葉を聞いて、少し目を細めた。
試合だけではなく、大会を見る。
自分が後輩へ伝えてきたことの、さらに大きな版だった。
「一試合ごとに全部出し切ればいい、って話じゃないんですね」
早川が尋ねる。
「もちろん出し切る」
原町は答える。
「ただし、次の試合を壊してまで出し切るな」
連戦。
疲労。
累積警告。
けが。
選手交代。
ローテーション。
誰をどこで休ませるか。
誰を途中から使うか。
「大船も、全試合九十分は使わない」
柚月がすぐ反応する。
「分かってます」
森岡が横から笑う。
「最近ほんと素直になったね」
「何回言うんだべ」
8 柚月の役割
ミーティング後。
原町監督が柚月を残した。
森岡も。
宮野も。
早川も。
中盤の主要メンバー。
「大船」
「はい」
「お前は、三試合全部で役割が変わる可能性がある」
柚月がうなずく。
「先発も、途中からも?」
「そうだ」
韓国戦では、試合を落ち着かせる役割。
サウジアラビア戦では、引いた相手を動かす役割。
イラン戦では、セカンドボールと試合全体の整理。
「全部同じようにやろうとするな」
「はい」
「身体の状態も見る」
柚月は、少し笑った。
「原町監督、羽美監督みたいになってきましたね」
「お前が無茶するからだ」
「代表でも信用ないなぁ」
早川が隣で笑う。
「実績がありますから」
「莉奈まで言う?」
少し笑いが起こる。
だが、原町監督はすぐに真剣な表情へ戻る。
「経験のあるお前に期待しているのは、技術だけじゃない」
「はい」
「試合中、こちらの指示が届かない場面で、ピッチ内の情報を整理しろ」
柚月の目が変わる。
「任せてください」
9 早川の役割
次に原町監督は早川を見る。
「莉奈」
「はい」
「お前には前へ出る力がある」
「はい」
「だが、この予選では、それだけでは足りない」
早川は黙って聞く。
「大船がいない時間、自分で試合を落ち着かせろ」
柚月は横で早川を見る。
「できるべ」
早川が柚月を見る。
「やります」
「うちの真似すんなよ」
「しません」
「即答だな」
「柚月さんが、自分の答えを作れって言ったじゃないですか」
柚月は笑った。
「そうだったっちゃ」
原町監督は二人を見る。
「競争は続いている」
「はい」
二人同時に答える。
「だが、どちらか一人しか使えないとは考えていない」
早川の表情が少し変わる。
柚月も。
「組み合わせによっては、二人を同時に使う」
柚月が少し笑う。
「面白くなってきたべ」
早川も。
「私も楽しみです」
10 勝ち点の計算
翌日のミーティングでは、より現実的な話へ進んだ。
勝ち点。
得失点差。
直接対決。
「こういう計算、嫌いじゃねぇっちゃ」
柚月が言う。
森岡が笑う。
「珍しいね」
「試合読むのと似てるべ」
原町監督が続ける。
「三試合しかない」
一つの引き分け。
一つの敗戦。
それが致命傷になる可能性がある。
「勝ち点7ならかなり有利」
「6でも状況次第」
「4だと危険」
選手たちが資料を見る。
ただし、最初から勝ち点を計算しすぎるのも危険だった。
「韓国と引き分ければいい」
「サウジには勝てる」
「イランには最低限引き分け」
そんな予定どおりにはいかない。
柚月が言う。
「結局、目の前勝つしかねぇべな」
原町監督がうなずく。
「そうだ」
それでも、大会全体の計算は必要。
この矛盾を同時に持つ。
そこが短期決戦の難しさだった。
11 セットプレーだけの一時間
イラン戦を想定した練習。
この日は、ほぼ一時間をセットプレーに使った。
CK。
FK。
ロングスロー。
こぼれ球。
二次攻撃。
森岡が守備の配置を確認する。
「ファー、もう一人必要!」
伊達葵がゴール前から叫ぶ。
「前で触られても、後ろ残して!」
柚月もペナルティーエリア手前に立つ。
自分の役割は、クリア後のセカンドボール。
「ここ絶対拾われるなよ!」
早川が答える。
「はい!」
一回。
二回。
三回。
何度も繰り返す。
派手ではない。
でも、こういう準備が予選を左右する。
柚月は後輩たちへ言う。
「セットプレーって、点取られたあとに『仕方なかった』って言われやすいけど、準備で減らせる部分いっぱいあるっちゃ」
宮野も続ける。
「立ち位置一歩違うだけで変わるからね」
12 韓国戦を想定した球際
別の日。
韓国戦を想定し、球際の強さを上げた練習が行われた。
身体を当てる。
セカンドボールを拾う。
奪われた直後に奪い返す。
柚月にも接触が来る。
右ふくらはぎ。
もう以前のような強い恐怖はなかった。
それでも、無理な体勢では踏ん張らない。
相手の力を受け流す。
身体を入れ替える。
簡単に奪わせない。
早川が柚月へ当たる。
柚月がボールを守る。
「もっと来いっちゃ!」
「言いましたね!」
早川がさらに寄せる。
柚月は笑いながら身体を入れる。
ボールを失わない。
宮野が横から入る。
「二人は反則だべ!」
「代表予選なら来ますよ!」
「分かってるっちゃ!」
練習は激しい。
でも、空気はいい。
若手とベテランが遠慮なくぶつかる。
そこに、柚月が望んでいた代表の形があった。
13 サウジ戦を想定した崩し
サウジアラビア戦を想定した練習では、逆に攻撃が中心になった。
低い守備ブロック。
中央を閉じる。
日本がどう動かすか。
柚月は中盤でボールを受ける。
相手役が出てこない。
なら、外。
戻す。
逆。
また戻す。
早川が言う。
「前入れたくなりますね」
「我慢だべ」
「でも、ずっと横だと相手も楽じゃないですか」
「だから、たまに刺す」
柚月が突然、縦へ出す。
森岡が受ける。
相手が寄る。
ワンタッチで外。
國武が抜ける。
クロス。
正木静香が合わせる。
ゴール。
柚月が早川を見る。
「ずっと横だと思わせてから縦」
早川が笑う。
「また相手に覚えさせる」
「んだ」
14 ミーティングは続く
夜。
映像。
朝。
練習。
昼。
また映像。
選手たちは、同じ相手を何度も見る。
それでも、毎回違う発見がある。
韓国の右サイドの立ち位置。
サウジアラビアの守備時の距離。
イランのセットプレー時の配置。
森岡が言う。
「見れば見るほど、簡単じゃないね」
柚月が答える。
「簡単な最終予選なんかねぇべ」
早川も。
「でも、準備できることは多いですね」
「そういうことだっちゃ」
原町監督は、選手たちに答えを全部与えなかった。
問いを投げる。
「この場面、韓国は何を狙っている」
「サウジはなぜここで下がった」
「イランはこの選手が上がったとき、誰が残る」
選手たちが考える。
話す。
意見が割れる。
また映像を見る。
それを繰り返す。
15 柚月が後輩たちへ伝えること
ある夜。
ミーティングが終わったあとも、若手数人が残っていた。
早川。
正木静香。
井上梓。
宮原彩乃。
柚月も残る。
井上が尋ねる。
「柚月さん、こういう予選って、やっぱり怖いですか」
「怖いよ」
「世界王者でも?」
「何回その質問されるんだべ」
みんなが笑う。
柚月は続ける。
「でも、怖いから準備するんだっちゃ」
韓国。
サウジアラビア。
イラン。
どこか一つだけを強く警戒しても意味がない。
「この予選で必要なのは、完璧になることじゃねぇ」
若手たちが聞く。
「何か起きたとき、みんなで修正できることだべ」
早川がうなずく。
北朝鮮戦で学んだこと。
相手が変わる。
こちらも変わる。
「ミスも絶対起きる」
柚月は言う。
「でも、その一個でチームが壊れなきゃいい」
世界と戦うために必要なもの。
技術。
フィジカル。
戦術。
そして信頼。
「この三試合、誰か一人が全部救うなんて無理だっちゃ」
柚月は後輩たちを見る。
「みんなで行くべ」
16 抽選表の前で
夜遅く。
選手たちが部屋へ戻ったあと。
柚月は一人、ミーティングルームへ戻った。
スクリーンには、まだ二次予選の組み合わせが残っていた。
日本。
韓国。
サウジアラビア。
イラン。
どれも強い。
どれも違う。
一つでも気を抜けば、ロサンゼルスが遠ざかる。
柚月は右ふくらはぎへ手を添えた。
ここまで戻った。
代表へ復帰した。
一次予選を戦った。
ゴールも決めた。
後輩とも競争した。
でも、まだ何も手にしていない。
オリンピックの切符は、まだない。
柚月は画面を見ながら、小さくつぶやいた。
「ここからが本番だべな」
そして、名取百合子のことを思い出す。
ユリなら何と言うだろう。
たぶん。
「なら、勝ってこいっちゃ」
柚月は少し笑った。
「分かってるよ」
三枚しかない切符。
そのうちの一枚を取るために。
日本は、また一つ準備を積み上げる。
次回予告
第56章「最初の壁・韓国」
二次予選初戦。
日本の最初の相手は、韓国。
激しい球際。
速い切り替え。
日本をよく知る相手。
序盤から中盤で身体がぶつかり、セカンドボールの奪い合いが続く。
柚月も先発。
早川莉奈と並んで中盤へ入る。
しかし韓国は、柚月へ自由を与えない。
前を向けば寄せる。
横へ出せば次の受け手へ圧力をかける。
さらに韓国側は、早川の前進力にも明確な対策を用意してくる。
試合開始十五分。
まだ0-0。
日本はボールを持ちながら、前へ進めない。
そこで柚月は、早川へ言う。
「今日は、うちらが前行くんじゃねぇ」
「じゃあ、誰を使うんですか」
柚月が見るのは、日本のサイドバック。
韓国の中盤が中央へ集まるほど、外側に小さな空間が生まれている。
一方、韓国も奪えば一気にカウンター。
伊達葵が早くも一対一を迎える。
二次予選最初の九十分。
ここで勝ち点を落とせば、その後のサウジアラビア戦、イラン戦すべてが重くなる。
次回、
第56章「最初の壁・韓国」
ロサンゼルスへの三枚は、まだ遠い。
だからこそ、最初の一歩を絶対に落とせない。




