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あの日の春風は今も  作者: リンダ


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柚月を消せ

第54章 柚月を消せ


1 後半、北朝鮮の狙いは一人


後半開始。


北朝鮮は、前半とは明らかに違う守備の形を取ってきた。


狙いははっきりしていた。


大船柚月を自由にしない。


日本のセンターバック、藤森彩香がボールを持つ。


柚月がいつものように中盤へ下がり、受ける位置を作る。


その瞬間、北朝鮮の金智恩がぴたりと寄った。


藤森は一度、柚月を見る。


しかし出せない。


右へ回す。


宮原彩乃が受ける。


柚月がまた角度を作る。


今度は朴美玲まで近づく。


早川莉奈が思わずつぶやいた。


「徹底してる……」


北朝鮮ベンチから大きな指示が飛ぶ。


「大船を自由にするな!」


「前を向かせるな!」


「二人目、遅れるな!」


柚月はその声を聞きながら、むしろ少し笑った。


前半、自分のサイドチェンジから北朝鮮の守備を動かした。


だから後半は、自分そのものを消そうとしている。


相手が自分をそこまで警戒している。


ならば。


使える。


2 柚月に出すふり


後半六分。


日本が最終ラインから攻撃を組み立てる。


藤森彩香がボールを持つ。


柚月が中央へ下りる。


金智恩がすぐについてくる。


朴美玲も、その数メートル後方で待っている。


藤森が柚月を見る。


北朝鮮の中盤も反応する。


だが藤森は出さなかった。


そのまま右の宮原彩乃へ。


柚月は位置を変える。


金智恩もついていく。


宮原が、また柚月を見る。


朴美玲まで中央へ寄る。


そこで宮原は突然、縦へ蹴った。


早川莉奈。


完全に空いている。


「莉奈!」


早川が前を向く。


北朝鮮の守備が慌てて寄る。


早川は森岡美里へ。


森岡がワンタッチ。


左の國武真央へ。


一気に北朝鮮陣内へ入る。


クロス。


正木静香が飛び込む。


わずかに届かない。


それでも北朝鮮の守備は大きく乱れた。


早川が戻りながら柚月へ言った。


「柚月さん、一回も触ってないのに崩れました」


柚月は笑う。


「うちを見るなら、見せとけばいいっちゃ」


「囮ですね」


「囮も仕事だべ」


3 ボールを持たない司令塔


それ以降、日本は意図的に柚月を使わない場面を増やした。


もちろん、本当に無視しているわけではない。


むしろ逆。


柚月へ出すように見せる。


相手を引きつける。


そこから空いた場所へ出す。


柚月が右へ動く。


金智恩もつく。


朴美玲も中央を警戒する。


その逆を早川が使う。


柚月が低い位置まで下がる。


北朝鮮の中盤が一人ついてくる。


すると森岡がその背後へ入る。


日本のパスは、柚月の足元を通らなくても前へ進む。


後半十二分。


柚月が右へ寄る。


金智恩がつく。


日本は左へ展開。


國武真央が前へ。


森岡。


早川。


正木。


最後は正木のシュート。


北朝鮮GK、李美香がセーブ。


北朝鮮側は、徐々に迷い始めた。


柚月についていくべきか。


それともスペースを守るべきか。


柚月自身は、ほとんどボールへ触れていない。


それなのに、相手の守備配置を動かし続けていた。


原町監督がベンチでつぶやく。


「これができるなら大きい」


岩出コーチがうなずく。


「ボールを持たなくても、相手の基準になっています」


「自分を消されることまで利用している」


4 北朝鮮も前へ出る


しかし、北朝鮮も守るだけではなかった。


時間が進む。


日本1-0。


このままでは北朝鮮は敗れる。


後半二十分を過ぎると、北朝鮮の前線がさらに高くなった。


崔英姫。


韓珠英。


趙秀蓮。


三人が日本の最終ラインへ圧力をかける。


中盤の金智恩も前へ出始める。


後半二十三分。


日本が右サイドでボールを失う。


金智恩。


ワンタッチで前。


崔英姫。


崔が身体を張ってキープ。


左へ流す。


趙秀蓮が走る。


宮原彩乃が追う。


趙が中央へ折り返す。


韓珠英。


シュート。


伊達葵。


横っ飛び。


弾いた。


こぼれ球へ崔英姫が詰める。


そこへ森岡美里が飛び込んだ。


身体でブロック。


ボールが外へ出る。


森岡はすぐに立ち上がる。


「まだ終わってない!」


北朝鮮のCK。


日本全員が自陣へ戻る。


柚月もペナルティーエリア手前まで下がった。


北朝鮮は人数をかけている。


だからこそ。


奪えば、背後が空く。


柚月はそれを見ていた。


5 井上梓


後半二十九分。


原町監督が動いた。


正木静香に代えて、新たに代表へ招集されたFW、井上梓を投入する。


二十三歳。


初速の鋭さと、最終ラインの裏へ抜ける感覚を評価されて代表候補へ入ってきた新戦力だった。


原町監督が短く指示する。


「梓、相手の背後を狙え」


「はい」


「大船に集まった瞬間だ」


井上は柚月を見る。


柚月もうなずいた。


ピッチへ入った直後、柚月が声をかける。


「梓!」


「はい!」


「うちにボール来そうになったら、裏走れ!」


「分かりました!」


「一回目で出なくても走れ。二回目もな」


「はい!」


若いFWは迷わず答えた。


6 狙っていた一瞬


後半三十四分。


日本が自陣でボールを奪った。


藤森彩香。


前を見る。


柚月が中央へ下がる。


金智恩が寄る。


朴美玲も柚月の方向へ動く。


藤森は柚月へ出すように身体を開いた。


北朝鮮の二人がさらに中央へ絞る。


しかし、藤森は出さない。


左の國武真央へ。


國武がワンタッチで早川莉奈へ。


早川が中央を向く。


北朝鮮は柚月と早川の両方を警戒し、一瞬、最終ラインの前に空白を作った。


森岡美里がそこへ入る。


早川から森岡。


森岡が前を向く。


井上梓が走った。


北朝鮮DFの張慧珍と宋恩景の間。


一瞬だけ開いた。


森岡は迷わない。


縦。


井上が抜け出す。


「梓、行け!」


柚月の声。


井上は一気に加速した。


後方の張慧珍が追う。


井上がペナルティーエリアへ入る。


GK李美香が前へ出る。


一対一。


井上は右足でボールを前へ置く。


シュート体勢。


その瞬間だった。


背後から張慧珍が追いつき、井上の身体へ強く接触した。


足も絡む。


井上が倒れた。


大きな笛。


スタジアムが一瞬静まり返る。


主審は迷わなかった。


ペナルティースポットを指す。


PK。


さらに胸ポケットへ手を伸ばす。


赤いカード。


レッドカード。


張慧珍、一発退場。


北朝鮮の選手たちが一斉に主審へ集まった。


7 判定への激しい抗議


北朝鮮側は強く抗議した。


「ボールへ行っていた!」


「接触は軽い!」


「決定機ではない!」


金智恩を中心に、数人が主審へ詰め寄る。


主審は選手たちへ下がるよう指示する。


日本の選手たちは距離を取った。


柚月は倒れた井上梓のところへ行く。


「梓、大丈夫か」


井上は足首を確認しながら起き上がった。


「大丈夫です。ちょっとびっくりしました」


「痛みは?」


「ないです」


柚月は安心して息を吐いた。


一方、抗議は収まらない。


その中で、北朝鮮の朴美玲がなおも激しく主審へ詰め寄った。


主審は一度警告する。


「下がりなさい」


それでも朴は止まらない。


判定への抗議を超えて、主審へ侮辱的な言葉を浴びせながら距離を詰めた。


主審の表情が変わる。


再びポケットへ手が伸びる。


赤。


朴美玲にもレッドカード。


北朝鮮側が騒然となった。


張慧珍に続き、朴美玲まで退場。


二人少ない状態になる。


原町監督はベンチから日本選手へ叫んだ。


「判定に関わるな! 集中しろ!」


森岡も全員へ手を振る。


「離れて! 次のプレー!」


柚月もうなずいた。


ここで感情へ巻き込まれてはいけない。


試合はまだ終わっていない。


8 キッカーは大船柚月


ペナルティーエリア内。


ボールが柚月へ渡された。


早川が近づく。


「柚月さん、蹴ります?」


「蹴る」


即答だった。


森岡も尋ねる。


「大丈夫?」


「大丈夫だっちゃ」


復帰後。


代表公式戦。


オリンピック予選。


1-0。


後半終盤。


このPKを決めれば、勝利は大きく近づく。


北朝鮮GK李美香はゴールライン上で左右へ動く。


柚月はボールを置く。


ゆっくり位置を調整する。


雑音が聞こえる。


北朝鮮ベンチの声。


スタンドの声。


選手たちの呼吸。


だが柚月は、ゴールだけを見る。


以前なら、結果を考えすぎていたかもしれない。


外したら。


止められたら。


予選で失敗したら。


今は違う。


やることは一つ。


いつもどおり蹴る。


主審の笛。


柚月が助走へ入る。


右足で踏み込む。


左足。


振り抜く。


李美香が右へ飛ぶ。


ボールは逆。


ゴール左下。


ネットが揺れた。


2-0。


柚月は派手に走らなかった。


両手を握り、小さく叫ぶ。


「よし!」


早川が最初に抱きつく。


「さすがです!」


森岡も来る。


「落ち着いてたね」


柚月が笑う。


「心臓はめちゃくちゃ速かったっちゃ」


井上梓も走ってきた。


「ありがとうございます!」


柚月は井上の頭を軽くたたく。


「PK取ったの梓だべ。うちは最後に蹴っただけ」


9 人数差ができても急がない


2-0。


しかも相手は二人少ない。


ここから大量得点を狙うこともできる。


しかし、原町監督は違う指示を出した。


「無理するな! 試合を終わらせろ!」


アジア予選。


勝ち点3。


それを確実に持ち帰る。


北朝鮮側には苛立ちが残っている。


不用意な接触に巻き込まれる必要もない。


柚月が中盤でボールを受ける。


今度は、誰も激しく寄せられない。


人数が少ない。


しかし柚月は自分で突破しなかった。


横へ。


後ろへ。


また横へ。


日本がボールを動かす。


早川も理解する。


「無理しない」


柚月がうなずく。


「相手にボール渡さなきゃいいっちゃ」


國武。


宮原。


藤森。


森岡。


早川。


柚月。


日本は人数差を使い、冷静に時計を進める。


10 北朝鮮の最後の意地


それでも北朝鮮は諦めなかった。


二人少ない状態でも、前線の崔英姫と韓珠英は走る。


一度ボールを奪えば、真っすぐゴールを目指す。


後半四十三分。


金智恩が中央でボールを奪う。


崔英姫へ。


崔が前を向く。


藤森彩香が対応。


横へ韓珠英。


韓がシュート。


伊達葵。


正面でキャッチ。


伊達はボールを抱えたまま大きく息を吐いた。


「最後まで!」


森岡が叫ぶ。


北朝鮮は苦しい状況でも戦うことをやめていない。


柚月はその姿を見ていた。


二人少ない。


二点差。


それでも走る。


その強さは、認めなければならなかった。


「最後まで気抜くなよ!」


柚月が声を出す。


11 アディショナルタイム


表示は五分。


日本はほとんどボールを保持していた。


北朝鮮は奪うために走る。


しかし人数が足りない。


後半四十七分。


早川が右で受ける。


柚月へ戻す。


柚月は前を見た。


井上梓が走っている。


出せる。


しかし柚月は出さなかった。


後ろへ戻す。


早川が少し驚く。


「出せましたよね?」


「出せた」


「じゃあ、なんで?」


「今は行く時間じゃねぇべ」


二点差。


残り二分。


必要なのは三点目ではなく、勝利を確定させること。


早川はすぐに理解した。


「はい」


柚月は笑う。


「得点だけがサッカーじゃねぇっちゃ」


12 試合終了


後半五十分。


北朝鮮が最後にロングボールを入れる。


森岡美里が競る。


藤森彩香がクリア。


ボールがタッチラインを割る。


主審が時計を見る。


そして笛。


試合終了。


日本2-0北朝鮮。


一次予選。


日本はグループ三連勝。


選手たちは大きく息を吐いた。


早川が柚月の隣へ来る。


「終わりましたね」


「んだな」


「予想以上に難しかったです」


「情報なかったからな」


「でも、試合の中で分かっていきました」


柚月は早川を見る。


「それが今日一番大きかったんじゃねぇか」


知らない相手。


予想外の戦術。


途中で変わる守備。


高速カウンター。


そこで日本は、一つずつ相手を見て答えを作った。


13 試合後の混乱


試合終了後も、北朝鮮側には判定への不満が残っていた。


ただし原町監督は、日本の選手たちへすぐ指示する。


「相手ベンチへ近づくな。握手できる相手とは握手して、すぐ戻れ」


森岡もチームをまとめる。


感情的な衝突へ巻き込まれない。


判定は主審の仕事。


日本が議論することではない。


柚月も井上梓へ声をかけた。


「梓、本当に身体大丈夫?」


「はい。問題ありません」


「ならよかった」


井上は少し笑う。


「柚月さん、PK全然緊張してないように見えました」


「見えただけだっちゃ」


「緊張してたんですか?」


「そりゃするべ」


早川が横から言う。


「顔、完全にいつもどおりでしたよ」


「長くやってると隠すのだけ上手くなるんだっちゃ」


三人が笑った。


14 原町監督の評価


ロッカールーム。


原町監督は全員を前に立った。


「まず、一次予選三連勝。よくやった」


拍手が起こる。


しかし、すぐに監督は続けた。


「今日一番評価するのは、相手が想定と違ったときに、自分たちで修正したことだ」


前半。


北朝鮮の囲い込み。


それを崩す。


すると北朝鮮が引く。


日本も変える。


後半。


柚月への封鎖。


今度は柚月を囮にする。


「大船」


「はい」


「後半、ボールへ触る回数が減ったな」


「はい」


「不満だったか」


柚月は笑う。


「全然。相手がうちに二人使ってくれるなら、その方が楽でした」


選手たちが笑う。


原町も少し口元を緩める。


「そこが今日のポイントだ」


自分が活躍することより、チームが前へ進むこと。


相手が柚月を消すなら、その消された柚月を利用する。


「井上」


「はい」


「いい動きだった。PKを取った場面、相手が大船へ寄った瞬間に裏へ出た」


「柚月さんから、何回でも走れと言われていました」


原町がうなずく。


「続けろ」


「はい」


15 柚月が早川へ渡した次の課題


ロッカールームを出る前。


早川が柚月へ声をかけた。


「今日、また勉強になりました」


「何が?」


「自分が消されても、それを利用できることです」


柚月は少し考えた。


「次は莉奈がそれやる番だべ」


「私が?」


「代表で結果出せば、いつか絶対マーク強くなる」


「はい」


「そこで『ボール来ない』ってイライラするか、『だったら味方空くだろ』って考えられるか」


早川は静かにうなずく。


「自分が目立たない試合でも、チームを勝たせる」


「そう」


柚月は早川の肩を軽くたたいた。


「それができたら、もっと嫌な選手になれるべ」


「嫌な選手?」


「相手にとってな」


早川は笑った。


「それなら、なりたいです」


16 三連勝の先


日本は一次予選を三連勝で終えた。


ベトナム。


インドネシア。


北朝鮮。


三つの相手は、まったく違った。


低い守備ブロック。


前からのプレッシング。


情報の少ない相手による変則的な戦術。


そのすべてを乗り越えた。


しかし、ロサンゼルスへの切符はまだない。


アジアから本大会へ進めるのは三つの国と地域。


ここから、さらに厳しい戦いが始まる。


柚月は宿舎の部屋へ戻る。


名取百合子の写真を机へ置いた。


「ユリ。一次予選、突破したよ」


胸の中で声が返る。


「三連勝?」


「三連勝」


「PKも決めた?」


「決めたっちゃ」


「珍しく落ち着いてたな」


「珍しくって何だべ」


「でも、後半ほとんどボール触ってなかったな」


柚月は笑う。


「見てた?」


「見てたっちゃ」


「囮だったんだよ」


「楽しそうだったな」


「楽しかった」


柚月は少し静かになる。


「前なら、自分にボール来なかったら焦ってたかもしれねぇ」


「少し大人になったべ」


「二十八だからな」


「まだ若いって何回言わせるんだっちゃ」


柚月は声を出して笑った。


そして、窓の外を見る。


一次予選突破。


でも、本当の三枚の争いはこれから。


「ロサンゼルス、まだ遠いな」


胸の中のユリが答える。


「でも、一個近づいたべ」


柚月は静かにうなずいた。


「んだな」


次回予告


第55章「残る八チーム」


一次予選を三連勝で突破した日本。


しかし、ロサンゼルスオリンピックへの道はここからさらに狭くなる。


アジア予選は最終段階へ。


残った強豪国・地域は八。


その中から、本大会へ進めるのはわずか三つ。


日本。


韓国。


中国。


オーストラリア。


北朝鮮。


そしてアジア各地を勝ち上がってきた強豪たち。


一次予選の成績は、ここでは何の保証にもならない。


原町監督は選手たちへ告げる。


「ここからは、一つのミスがロサンゼルスを消す」


一方、柚月には右ふくらはぎの状態を確認するため、再びメディカルチェックが行われる。


連戦。


接触。


代表の高強度。


身体は本当に耐えられているのか。


そして最終予選の組み合わせ抽選。


日本の対戦相手が決まる。


柚月は結果を見て、小さく息を吐く。


「ここからが本番だべな」


次回、

第55章「残る八チーム」


三枚の切符は、まだ誰のものでもない。


世界王者であっても、もう一度、自分たちの手で取りに行かなければならない。

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