十分で変わる戦術
第53章 十分で変わる戦術
1 北朝鮮の顔が見え始める
前半十分钟。
日本はようやく、北朝鮮の守備にある一つの規則をつかみ始めていた。
北朝鮮の中盤には、守備範囲の広いキャプテンの金智恩、運動量の多い朴美玲、そして前への圧力が強い李善花が並んでいる。
前線では崔英姫と韓珠英が、日本のセンターバックへ不用意には飛び込まず、中盤へボールが入る瞬間を待っていた。
日本の中盤が前を向いた瞬間。
そこがスイッチだった。
早川莉奈が中央でボールを受ける。
金智恩が正面から出る。
朴美玲が横を切る。
李善花が後方のパスコースを消す。
三人で一気に囲う。
開始直後、早川はそれに一度捕まった。
しかし、もう同じ形では奪われない。
柚月が早川へ声をかける。
「莉奈、最初から前向かなくていいっちゃ」
「はい」
「向こうが飛び出すところまで使うべ」
次の場面。
センターバックの藤森彩香から柚月へ。
北朝鮮はまだ出てこない。
柚月が中央でボールを受ける。
前を向く。
金智恩が出る。
朴美玲も寄る。
そこへ柚月はワンタッチで右の宮原彩乃へ逃がした。
北朝鮮の守備が右へ動く。
その背後。
早川が一気に前へ入る。
宮原から縦パス。
早川が前向きで受けた。
「今!」
森岡美里が左斜め前へ走る。
早川は森岡へつなぐ。
森岡が中央へ運ぶ。
正木静香が最終ラインの背後へ動く。
北朝鮮DFの張慧珍と宋恩景が一気に下がった。
早川が追いつき、森岡からボールを受け直す。
しかし、最後の縦パスは宋恩景が足を伸ばしてカットした。
それでも、日本側から小さなどよめきが起きる。
初めて、北朝鮮の囲い込みを正面から崩した。
早川が戻りながら柚月を見る。
「通りました」
「一回な」
柚月はすぐ答える。
「一回通ったら、次は変えてくるべ」
2 相手も、こちらを見ている
その予測は当たった。
前半十四分。
日本が再び中央でボールを持つ。
今度は北朝鮮の三人が飛び出してこない。
早川が少し驚く。
「来ない……」
柚月が周囲を見る。
金智恩は中盤中央。
朴美玲も下がったまま。
李善花も縦を消すだけ。
最終ラインは、さらに五メートルほど低い。
北朝鮮は突然、プレスを捨てていた。
「また変えた……」
早川がつぶやく。
柚月は小さく笑った。
「そう来ると思ったべ」
早川が振り返る。
「どうしてですか」
「三人出した背後使われたんだから、次は出てこないっちゃ」
北朝鮮は今度、中央へ人を集める。
張慧珍。
宋恩景。
右SBの姜麗華。
左SBの尹貞順。
四人の最終ラインが横幅を狭くし、その前に金智恩と朴美玲が立つ。
中央は密集。
正木静香が動いても、簡単には縦パスを通せない。
森岡美里がボールを受ける。
金智恩が距離を保つ。
追い込まない。
ただ前を向かせない。
森岡が戻す。
柚月。
柚月も中央を見ない。
右へ。
宮原彩乃。
北朝鮮は横へ動くだけ。
日本はボールを持つ。
しかし、ゴールへ近づけない。
前半十七分。
日本の保持率は高い。
それでもシュート数は増えない。
原町監督は腕を組んだ。
「今度は引いたな」
岩出コーチが答える。
「日本が背後を使ったのを見て、即座に変えています」
「対応が早い」
原町監督の表情には警戒があった。
情報が少ない。
だからこそ厄介だった。
試合の中で見せる適応力そのものが、北朝鮮の武器だった。
3 外へ出して、戻す
前半二十分。
日本は攻め方を変えた。
中央を無理にこじ開けない。
柚月が低い位置へ下がる。
早川は少し高い位置。
森岡は左へ。
正木は中央。
右には宮原彩乃。
左には國武真央。
柚月が中央でボールを受ける。
北朝鮮は出ない。
ならば、そのまま右へ。
宮原が持つ。
北朝鮮の尹貞順が外へ出る。
その瞬間、早川が内側へ入る。
宮原から早川。
早川はワンタッチで柚月へ戻す。
相手が中央へ戻る。
柚月は今度は左へ大きく展開。
國武真央が受ける。
姜麗華が出る。
森岡がその内側へ入る。
國武から森岡。
森岡からまた後ろへ。
一見、遠回り。
しかし、北朝鮮の守備は右へ左へ動かされる。
柚月が声をかける。
「まだ急がなくていいっちゃ!」
早川も周囲を見る。
「相手の間隔、少し広がってきました」
「んだ。あと何回か動かすべ」
焦らない。
中央が閉じているなら、閉じたまま使わせる。
外へ。
戻す。
逆へ。
また外へ。
相手を動かし続ける。
4 北朝鮮のカウンター
前半二十四分。
日本が左サイドで攻める。
國武真央から森岡美里。
森岡が正木静香への縦パスを狙う。
しかし張慧珍が読み切った。
カット。
次の瞬間。
北朝鮮の攻撃速度が一気に変わる。
張慧珍から金智恩。
金智恩は止めない。
ワンタッチで前線の崔英姫へ。
崔が身体を入れて藤森彩香を押さえる。
右へ流す。
そこへ韓珠英が走り込む。
「戻れ!」
柚月が叫ぶ。
日本の中盤が一斉に戻る。
しかし北朝鮮は速い。
韓珠英が右サイドを突破。
國武が追う。
中央へ低いクロス。
崔英姫。
シュート。
伊達葵。
右へ飛ぶ。
片手。
ボールがゴール外へ弾き出された。
スタンドがどよめく。
伊達は着地すると、すぐ立ち上がった。
「集中!」
柚月が自陣へ戻りながら叫ぶ。
「葵、ナイスだっちゃ!」
伊達は短く手を上げる。
北朝鮮はボール保持では日本に劣る。
しかし、奪った瞬間の前進速度は明らかに速かった。
柚月が早川へ言う。
「これ忘れんな」
「カウンターですね」
「んだ。中央で失うと、一気に来る」
「無理な縦は減らします」
「減らす。でもゼロにする必要はない」
早川が柚月を見る。
「行けるときは行く」
「そういうことだっちゃ」
5 森岡が身体を張る
前半二十九分。
今度は日本の右サイドでボールを奪われた。
李善花が拾う。
すぐに縦。
朴美玲。
朴が左へ展開。
左WGの趙秀蓮が走る。
日本の右SB、宮原彩乃が対応する。
しかし趙秀蓮は一気に内側へ切り込んだ。
宮原がついていく。
中央では崔英姫が待つ。
趙のパス。
崔が受ける。
シュート体勢。
そこへ森岡美里が戻ってきた。
身体ごとコースへ入る。
シュート。
森岡の足に当たる。
ボールが外へ。
森岡はその場に倒れた。
「美里!」
柚月が駆け寄る。
森岡はすぐに片手を上げる。
「大丈夫!」
痛そうにしながら立ち上がる。
柚月が言う。
「無茶すんなよ」
森岡は苦笑する。
「柚月に言われたくない」
「それはそうだけど」
二人が笑う。
それでも森岡のプレーは大きかった。
北朝鮮の攻撃は、一本の縦パスから一気にゴール前まで来る。
一人でも守備への戻りが遅れれば、決定機になる。
原町監督がベンチから声を出す。
「切り替えをもっと速く!」
6 早川が悩む
前半三十三分。
早川が中央でボールを受ける。
北朝鮮は出てこない。
前には人数がいる。
早川は運ぶ。
一歩。
二歩。
金智恩が寄る。
その後ろには張慧珍。
早川は縦パスを狙う。
しかし、コースがない。
横へ。
また受ける。
今度も中央は閉じている。
早川の表情に、少し焦りが見えた。
「どこなんだ……」
柚月が近づく。
「莉奈」
「はい」
「ゴールだけ見すぎだべ」
「でも、点取らないと」
「まだ前半だっちゃ」
早川が呼吸を整える。
柚月は指を差す。
「北朝鮮のDF見てみ」
「DF?」
「ボールが右行ったとき、左のSBが中央に入りすぎてる」
早川は少し考える。
「逆サイド?」
「たぶん。もう一回確認するべ」
次の攻撃。
右。
宮原彩乃。
北朝鮮が横へ動く。
左SBの姜麗華が中央へ絞る。
やはり外側が空く。
早川が気づく。
「空いてる」
「んだ」
柚月はすぐに大きく左へ蹴った。
國武真央が完全にフリー。
國武が前へ。
クロス。
正木静香。
ヘディング。
わずかにゴール右。
惜しい。
早川が手をたたく。
「見えました」
柚月は笑う。
「一個見えたな」
7 先制点が遠い
前半三十七分。
日本は少しずつ決定機を作り始める。
宮原彩乃から早川。
早川が中央へ運ぶ。
森岡へ。
森岡が正木へ縦。
正木が反転。
シュート。
北朝鮮GKの李美香がセーブ。
前半四十分。
柚月から國武真央へサイドチェンジ。
國武がクロス。
正木が競る。
こぼれ球。
早川。
シュート。
張慧珍がブロック。
「惜しい!」
柚月が声をかける。
前半四十二分。
今度は北朝鮮のFK。
金智恩が蹴る。
ファーサイド。
宋恩景が頭で折り返す。
崔英姫が飛び込む。
伊達葵が前へ出てキャッチ。
危ない。
まだ0-0。
日本はグループ突破へ有利な状況にいる。
だが、北朝鮮に勝てる保証はない。
一瞬のミス。
一つのセットプレー。
それだけで試合は決まる。
前半四十五分。
第四審判がボードを上げる。
アディショナルタイム、三分。
8 残り三分
原町監督が叫ぶ。
「最後まで集中!」
北朝鮮も前半を0-0で終えるつもりはなかった。
前へ出る。
金智恩が中央で受ける。
柚月が寄せる。
金は右へ。
韓珠英。
國武が対応。
韓は戻す。
朴美玲。
朴が前へ。
早川がコースを切る。
横へ。
北朝鮮は一度ボールを下げた。
柚月がその動きを見る。
「今だ」
早川が聞く。
「何が?」
「向こう、前に出たぶん、後ろの間隔広がってる」
前半終了間際。
北朝鮮の最終ラインも少し前へ出ていた。
張慧珍と宋恩景の間。
いつもより距離がある。
正木静香がその間に立っている。
柚月がすぐに声をかける。
「静香、そこ!」
正木が小さく手を上げる。
9 前半四十七分
日本が自陣でボールを奪う。
藤森彩香から柚月。
柚月が受ける。
北朝鮮は一気に寄せてこない。
しかし、前半終了が近い。
中盤の選手たちも少しずつ前へ出ている。
柚月は右を見る。
宮原彩乃。
そこへ出す。
宮原が持つ。
北朝鮮が右へ動く。
早川が中央へ入る。
宮原から早川。
金智恩が寄る。
早川はワンタッチで柚月へ戻した。
柚月が顔を上げる。
左。
國武真央が空いている。
柚月は大きく左へ展開。
國武が受ける。
姜麗華が外へ出る。
森岡美里がその内側へ走る。
國武から森岡。
北朝鮮の守備が左へ寄る。
その瞬間。
早川が中央へ入り直す。
森岡が早川へ戻す。
早川は前を向いた。
張慧珍が出る。
早川は一度、右へ運ぶ。
宋恩景も寄る。
二人のCBが、ほんの少し中央へ集まった。
その背後。
正木静香が一歩下がる。
また前へ。
早川が見る。
しかし出さない。
一瞬待つ。
柚月が後ろから叫ぶ。
「今!」
早川が縦へ出す。
森岡美里がそのボールを受けた。
正木ではない。
北朝鮮DFの意識が正木に集中する。
森岡がワンタッチ。
DFの間。
正木静香。
ボールが足元へ入る。
李美香が前へ出る。
正木は右足を振り抜いた。
低いシュート。
李美香が触る。
しかし、止めきれない。
ボールがゴール左隅へ転がる。
ネットが揺れた。
一瞬。
そのあと、日本側の歓声が爆発した。
1-0。
前半アディショナルタイム。
終了間際。
日本、先制。
10 最後に決めたのは正木静香
正木静香はゴールを確認すると、両腕を広げた。
森岡美里が最初に抱きつく。
「静香!」
早川莉奈も走ってくる。
「決めた!」
柚月も最後にその輪へ入った。
「よく我慢したっちゃ!」
正木は息を弾ませながら答える。
「ずっと間が空くの待ってました!」
「それでいいべ!」
早川が言う。
「柚月さんの『今』、聞こえました」
「莉奈も出すの一瞬待ったべ」
「はい。正木さんにDFがついてたから、美里さんを一回使いました」
森岡が笑う。
「私、完全に中継地点だったね」
柚月が答える。
「それが一番大事だったっちゃ」
一人で崩したゴールではない。
柚月が最初に相手の形を見つける。
國武が幅を作る。
森岡が内側へ入る。
早川が相手CBを引きつける。
森岡が間に入り直す。
正木が最後の一歩を合わせる。
何人もの判断がつながったゴールだった。
原町監督は大きくガッツポーズをせず、選手たちへ戻るよう手を振った。
「まだ終わってない!」
11 前半終了
北朝鮮のキックオフ。
一度ボールを下げる。
主審が時計を見る。
数秒後。
笛。
前半終了。
日本1-0北朝鮮。
選手たちはロッカールームへ戻る。
誰も安心していなかった。
むしろ、北朝鮮の怖さを前半四十五分で十分に理解していた。
情報が少ない相手。
試合中に守備方法を変える。
奪えば一気に前へ出る。
日本が一つ答えを出せば、すぐ次の問いを投げ返してくる。
ロッカールームへ入ると、原町監督がすぐに言った。
「いい形で取った」
選手たちが前を見る。
「ただし、後半は必ず変えてくる」
柚月がうなずく。
「うちもそう思います」
原町が尋ねる。
「どう来る」
柚月は少し考える。
「分からないです」
若手の何人かが少し驚く。
しかし柚月は続けた。
「だから、最初の五分でまた見る」
原町監督が小さく笑った。
「それでいい」
12 北朝鮮側も動く
一方、北朝鮮のロッカールーム。
監督の朴成勲は、ホワイトボードへ日本の中盤を書いていた。
大船柚月。
早川莉奈。
森岡美里。
「大船に自由を与えすぎた」
金智恩がうなずく。
「サイドチェンジで動かされました」
「後半は、大船へ最初から一人つける」
「マンマークですか」
「完全なマンマークではない。ボールが入った瞬間だけ強く行け」
さらに早川への対応も変える。
前を向かせない。
森岡が下がったときには、中盤がついていく。
正木静香には張慧珍がより密着する。
北朝鮮も、前半の失点から答えを作っていた。
13 ハーフタイムの会話
日本のロッカールーム。
早川が水を飲みながら柚月へ言う。
「柚月さん」
「ん?」
「北朝鮮、後半また絶対変えますよね」
「変えるべな」
「今度は柚月さんを狙ってくるかもしれません」
「たぶん来る」
柚月は笑った。
「前半あれだけボール触ったからな」
「どうします?」
柚月はタオルで汗を拭く。
「狙ってくるなら、それ使えばいい」
早川の表情が変わる。
「また黒子?」
「んだ」
柚月に一人つけば、どこかが空く。
そこを早川が使えばいい。
森岡が使えばいい。
國武が使えばいい。
「うちがボール触れなくても、日本が前に進めばいいっちゃ」
早川はうなずいた。
「じゃあ、私がもっと動きます」
「遠慮すんな」
「最初からそのつもりです」
二人は笑った。
14 前半で得たもの
前半終了時点。
スコアは1-0。
しかし日本が得たものは、一点だけではなかった。
北朝鮮が中盤で前を向かれることを嫌がること。
三人で飛び出す守備。
その背後。
プレスが効かなければ、一気に最終ラインを下げること。
逆サイドのSBが中央へ絞る傾向。
奪った瞬間、前線へ人数をかける高速カウンター。
セットプレーでファーサイドを使うこと。
そして、戦術変更への対応が速いこと。
何も分からなかった相手が、少しずつ輪郭を持ち始めている。
しかし、それは前半の北朝鮮だった。
後半は、また別の顔を見せるかもしれない。
柚月は立ち上がった。
右ふくらはぎを軽く伸ばす。
違和感はない。
早川も立つ。
森岡がキャプテンとして全員を見る。
「あと四十五分」
伊達葵が言う。
「ゼロで抑えよう」
正木静香が続く。
「もう一点取りましょう」
柚月は最後に言った。
「前半の答えは、一回全部置いていくべ」
早川が笑う。
「また最初から見る」
「そういうことだっちゃ」
原町監督がドアを開ける。
「行くぞ」
選手たちは再びピッチへ向かった。
一つの答えを見つけた瞬間、その答えはもう過去になる。
世界で勝つために必要なのは、正解を暗記することではない。
相手が変わったとき、自分たちも変われること。
後半。
また新しい問いが、日本を待っていた。
次回予告
第54章「柚月を消せ」
前半アディショナルタイム。
早川莉奈、森岡美里、正木静香らの連係から、日本が待望の先制点を奪う。
しかし、後半開始。
北朝鮮は明確に戦術を変えてくる。
狙いは、大船柚月。
柚月がボールを受ければ、金智恩がすぐに寄せる。
前を向けば朴美玲が挟む。
サイドチェンジの時間を与えない。
北朝鮮ベンチから飛ぶ指示。
「大船を自由にするな」
早川莉奈が戸惑う。
「柚月さんに全然ボールが入らない」
しかし柚月は笑う。
「それでいいっちゃ」
自分へ一人、二人が集まるなら、その分だけ別の場所が空く。
柚月は今度、自分がボールを触らないことで北朝鮮を動かし始める。
早川。
森岡。
國武。
宮原。
若い選手たちへ試合を託す柚月。
一方、北朝鮮も同点を狙って前へ出る。
崔英姫、韓珠英、趙秀蓮による高速カウンター。
日本の最終ラインへ、前半以上の圧力がかかる。
そして後半。
日本は自分たちの司令塔を封じられた状況で、もう一つの答えを探す。
次回、
第54章「柚月を消せ」
本当に強い司令塔は、自分がボールを持つことでチームを動かすだけではない。
自分が消えることで、味方を生かすこともできる。




