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あの日の春風は今も  作者: リンダ


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見えない相手

 第52章 見えない相手

 1 初先発の朝


 ロサンゼルスオリンピック・アジア一次予選第二戦。


 対戦相手はインドネシア。


 初戦のベトナム戦を2-0で勝利した日本には、周囲から早くも大量得点を期待する声が上がっていた。


 しかし、試合当日のミーティングで原町監督は、その空気を真っ先に断ち切った。


「得失点差は重要だ」


 ホワイトボードには、現在のグループ順位と勝ち点、得失点差が書かれている。


「ただし、得点差を考えることと、最初から雑に攻めることは違う」


 選手たちが前を見る。


「五点取ろう、六点取ろうと考えて試合へ入るな。最初に必要なのは、一点目だ」


 森岡美里がうなずく。


「まず試合を握る」


「そうだ」


 原町はスターティングメンバーを発表した。


 GK、伊達葵。


 最終ライン。


 そして中盤。


「大船柚月」


 柚月が顔を上げる。


「はい」


「早川莉奈」


「はい」


 二人が並んで先発する。


 公式戦では初めてだった。


 さらに前線には、この予選へ向けて新たに招集されたFWの名前があった。


 正木静香。


 スピードとゴール前での一瞬の動き出しを評価され、代表へ食い込んできたストライカーだった。


 正木は少し緊張した表情で返事をする。


「はい」


 原町監督は三人を見る。


「大船がリズムを作る。早川は前へ変化をつけろ。森岡は二列目と前線をつなげ。正木」


「はい」


「ゴール前へ入れ」


 正木は力強くうなずいた。


「決めます」


 2 柚月と早川、初めて並ぶ


 アップへ向かう途中。


 早川が柚月の隣へ並んだ。


「ついに先発ですね」


「んだな」


「緊張します」


「うちもするっちゃ」


 早川が少し驚く。


「柚月さんも?」


「代表復帰して初先発だぞ。緊張しない方がおかしいべ」


 早川は笑った。


 少し前を歩く正木が振り返る。


「私、もっと緊張してます」


 柚月が答える。


「静香は代表で初めての大きな予選だもんな」


「はい」


「でも、全部自分で何とかしなくていいっちゃ」


 正木が柚月を見る。


「森岡がいる。莉奈がいる。うちもいる。ボールはみんなでゴール前まで運ぶから、最後の一歩に集中してけろ」


 森岡が前から振り返る。


「最後は私がいいボール出すからね」


 正木は笑顔になった。


「お願いします」


 柚月が森岡を見る。


「美里、プレッシャーかけるなよ」


「今のは励ましてるの」


「うちらの時代も、こうやって先輩に言われてたべな」


「今度は私たちの番でしょ」


 その言葉に、柚月はうなずいた。


 教える。


 支える。


 しかし、競争では手加減しない。


 今のなでしこには、少しずつその文化が根付き始めていた。


 3 最初から前へ


 キックオフ。


 インドネシアは立ち上がりから自陣を固めてきた。


 だが、ベトナム戦とは少し違う。


 守備ブロックを作りながらも、日本の最終ラインまで完全に引くわけではない。


 ボールがサイドへ出れば、一気に寄せる。


 中央で後ろ向きに受ければ、二人目が飛び出す。


 柚月は開始数分で相手の狙いをつかんだ。


「莉奈!」


「はい!」


「後ろ向きでもらうと狙われる! 半身で受けるべ!」


「分かりました!」


 日本もこの日は、初戦より前から圧力をかけた。


 相手GKからのビルドアップ。


 正木がセンターバックへ寄せる。


 森岡がボランチへのコースを切る。


 早川も前へ出る。


 柚月は少し後ろから全体を見る。


「右切って!」


 相手GKが左へ出す。


 日本のサイドが寄せる。


 逃げ道がない。


 ロングボール。


 日本DFが回収する。


 再び攻撃。


 ボール保持率は大きく日本へ傾いた。


 何度もインドネシアのゴール前へボールが入る。


 右から。


 左から。


 中央から。


 クロス。


 こぼれ球。


 シュート。


 インドネシアのGKも粘る。


 開始十分。


 まだ0-0。


 だが、柚月は焦らなかった。


 相手の最終ラインが少しずつ下がっている。


 前線から守備へ戻る距離も長くなっている。


「そろそろ空くべ」


 柚月がつぶやいた。


 4 前半十五分 最初の突破


 前半十五分。


 日本が自陣から組み立てる。


 センターバックから柚月。


 柚月は右足で受ける前に、早川の位置を見る。


 早川は相手ボランチの横。


 その前には森岡。


 さらにゴール前では、正木がセンターバックの間を何度も動いている。


 柚月は一度サイドへ出す。


 インドネシアの中盤が横へ動く。


 戻ってきたボールを、今度は早川へ縦につける。


 早川は半身で受けた。


 相手が寄る。


 しかし、早川は前を向かず、ワンタッチで森岡へ送る。


 森岡が中央で受ける。


 その瞬間、正木が動いた。


 一度ファーへ流れるように見せて、センターバックの前へ鋭く入る。


 森岡は迷わなかった。


 DFとGKの間へ低いパス。


 正木。


 右足。


 シュート。


 ゴールネットが揺れた。


 1-0。


 正木は一瞬、ゴールを見つめた。


 代表での大きな公式戦。


 その最初のゴール。


 次の瞬間、両腕を広げる。


 森岡が抱きつく。


 早川も駆け寄る。


 柚月は少し遅れてその輪へ入った。


「静香、ナイスだっちゃ!」


「ありがとうございます!」


「でも、まだ一点だべ。戻るぞ!」


 正木は力強くうなずいた。


 5 二分後、まったく同じ場所ではない


 キックオフから、わずか二分。


 インドネシアは失点直後で守備の整理ができていなかった。


 前半十七分。


 相手が自陣でボールを持つ。


 早川が寄せる。


 パスコースを限定する。


 相手MFが苦し紛れに横へ出した。


 森岡がそれを読んでいた。


 奪う。


 しかし、そのまま前へ急がない。


 後方の早川へ一度戻す。


 早川が顔を上げる。


「静香!」


 正木が右へ流れる。


 相手DFがついていく。


 その動きで中央に少し空間が生まれた。


 早川は森岡へもう一度送る。


 森岡が前を向く。


 一人を引きつける。


 正木が今度は外から内へ入ってきた。


 森岡のスルーパス。


 正木が抜け出す。


 GKが前へ出る。


 正木は慌てなかった。


 右足のインサイド。


 GKの横を抜く。


 2-0。


 前半十五分。


 前半十七分。


 わずか二分で二得点。


 しかも、二本とも早川から森岡へ渡り、最後は正木静香が決めた。


 ベンチが大きく沸く。


 原町監督は拍手をしながらも、すぐに選手へ指示を出した。


「ここからだ! 雑になるな!」


 柚月も中盤から同じことを叫ぶ。


「二点取ったからって急ぐな! もう一回整えるべ!」


 6 二点取ったあとこそ


 勢いに乗った日本は、さらに前へ出た。


 しかし、柚月は三点目を焦らなかった。


 インドネシアは完全に自陣へ下がり始めている。


 ボールを奪えなくても、ゴール前へ人数を集める。


 中央に五人、六人。


 そこへ無理なパスを入れれば、カウンターを受ける。


 柚月はボールを受ける。


 前がない。


 なら横。


 右から左。


 左から中央。


 中央からまた後ろ。


 スタンドから見れば、もっと前へ行けと思う場面もある。


 しかし、柚月は動かさない。


 相手を動かす。


 ボールを動かす。


「莉奈、もうちょい右!」


 早川が位置を変える。


「美里、一回下りてけろ!」


 森岡が下がる。


 正木が最終ラインの間を動く。


 誰か一人が無理をしない。


 全員で相手の守備陣形をずらす。


 早川が柚月へ声をかける。


「柚月さん、中央行けそうです!」


「まだだべ」


「まだ?」


「相手の右が動いてない」


 早川は改めて見る。


 確かに、インドネシアの右サイドは中央へ絞りすぎず、逆サイドのスペースを消している。


「じゃあ、もう一回左を使う」


「そういうことだっちゃ」


 早川が左へ展開。


 相手が横へ動く。


 また戻る。


 徐々に守備の間隔が広がる。


 柚月は後輩へ答えを渡しているのではない。


 一緒に答えを探していた。


 7 新しいコンビの形


 前半二十八分。


 柚月が低い位置で受ける。


 早川は一列前。


 相手が柚月へ寄せる。


 柚月は早川へ出すふりをして、逆へ展開する。


 インドネシアの守備が横へ移る。


 早川がその間に中央から外へ動く。


 またボールが戻る。


 柚月は今度こそ早川へ。


 早川が前を向く。


 一人目が寄る。


 早川は得意のドリブルで前へ出た。


 二人目を引きつける。


 しかし、自分で最後まで行かない。


 森岡へ。


 森岡が正木へ。


 正木は今度はシュートせず、後ろから走り込んできた選手へ落とす。


 ミドルシュート。


 GKが弾く。


 惜しい。


 柚月が早川へ声をかける。


「今のいいっちゃ!」


「行き過ぎませんでした?」


「今日はあれでいい。うちが後ろにいるから、莉奈は前へ行け」


 早川が笑う。


「柚月さんがいると、行きやすいです」


「その代わり、うちが上がったらちゃんと残れよ」


「はい」


 競争相手だった二人が、役割を補い合う中盤へ変わり始めていた。


 8 インドネシアの反撃


 前半三十五分。


 インドネシアが久しぶりに日本陣内へ入った。


 日本の左サイドから攻撃。


 縦へ速い。


 サイドバックが一度抜かれる。


 クロス。


 中央へボールが入る。


 森岡が戻る。


 DFが触る。


 こぼれ球。


 相手MFがシュート。


 伊達葵。


 正面。


 しっかりキャッチした。


「ナイス、葵!」


 柚月が声を出す。


 伊達はすぐにボールを抱えたまま周囲を確認する。


 日本が前へ出ようとしている。


 しかし柚月は手を下げる。


「急がなくていい!」


 伊達も理解する。


 一度ゆっくり再開。


 2-0だから守りに入るわけではない。


 相手に流れを与えないため、一度落ち着かせる。


 それも予選の戦い方だった。


 9 三点目を急がないから、三点目が来る


 前半四十二分。


 日本が再びボールを保持する。


 インドネシアの前線には、明らかに疲労が見え始めていた。


 寄せの一歩が遅い。


 中盤との距離も開く。


 柚月が気づく。


「莉奈」


「はい」


「次、前向けるべ」


 早川が一度後ろを見る。


 相手ボランチとの距離。


 いつもより遠い。


「行けます」


「んだ」


 センターバックから柚月。


 柚月はワンタッチで早川。


 早川が前を向く。


 今度は相手が間に合わない。


 そのまま運ぶ。


 森岡が左へ動く。


 正木は中央でDF二人を引きつける。


 右サイドの選手が空いた。


 早川は右へ展開。


 クロス。


 正木へ行くように見えた。


 しかし正木は触らない。


 その背後。


 走り込んできた宮坂玲奈が右足を振り抜く。


 ゴール。


 3-0。


 前半終了間際。


 日本に大きな追加点が入った。


 正木は得点していない。


 早川にも直接のアシストはつかない。


 柚月にも記録は残らない。


 それでも、何人もの判断がつながったゴールだった。


 柚月が笑う。


「こういうのでいいんだっちゃ!」


 10 前半3-0


 前半終了。


 日本3-0インドネシア。


 ロッカールームへ戻る。


 正木静香は二得点。


 代表スタッフからも祝福される。


 しかし正木は浮かれなかった。


「二点取りましたけど、まだ四十五分あります」


 柚月が笑う。


「いい顔するようになったな」


「柚月さんに、全部自分でやろうとするなって言われましたから」


 森岡が横から言う。


「でも二点とも私のパスだからね」


 早川がすぐに反応する。


「その前、私から美里さんに出してます」


 柚月が腕を組む。


「じゃあ、うちはその前に莉奈へ出したから」


 正木が笑う。


「結局、みんなの得点ですね」


「そういうことだっちゃ」


 原町監督が前へ出る。


 笑いが止まる。


「前半はよかった」


 そしてすぐに続ける。


「ただし、三点差ほど簡単な試合ではない」


 選手たちがうなずく。


「インドネシアは後半、前へ出てくる可能性が高い。そこで雑になってカウンターを受けるな」


 さらに追加点は狙う。


 ただし、守備のバランスを崩してまで取りに行かない。


「四点目を取りに行け。ただし、その前に1点を与えるな」


 11 後半は違う試合


 後半開始。


 予想どおり、インドネシアは前へ出てきた。


 二点、三点を守る意味はない。


 ボールを奪えば、人数をかけて前へ。


 日本の最終ラインにも圧力をかける。


 前半とは別のチームのようだった。


 早川が驚く。


「来ましたね」


 柚月が答える。


「だから前半の答え、そのまま使うなって話だべ」


「はい」


 日本は一度、少し位置を下げる。


 相手を前へ出させる。


 そうすれば、今度は背後が空く。


 後半九分。


 柚月が自陣でボールを奪う。


 すぐ前を見る。


 正木が走り始めている。


 しかし、柚月は直接正木へ蹴らなかった。


 一度早川へ。


 早川が相手を引きつける。


 そこから逆サイド。


 インドネシアの守備がばらける。


 最後は森岡のシュート。


 GKが防ぐ。


「惜しい!」


 柚月が声をかける。


 試合は完全に日本の思いどおりではない。


 だからこそ、面白かった。


 12 柚月の交代


 後半十五分。


 原町監督がベンチへ視線を送る。


 柚月は代表復帰後、まだ連続した長時間出場を慎重に管理されている。


 この日は先発。


 前半から高い強度で動いている。


 後半十八分。


 交代ボード。


 大船柚月の番号が表示された。


 柚月は少しだけ悔しそうな顔をした。


 もっとやりたい。


 身体は動いている。


 右ふくらはぎにも違和感はない。


 それでも、今は計画された時間で終える。


 柚月はベンチへ歩く。


 原町監督が手を差し出す。


「どうだ」


「まだ行けます」


「聞いてない」


 柚月は苦笑する。


「脚は問題ないです」


「なら予定どおり終わりだ」


「はい」


 以前なら、もっと出たいと食い下がっていた。


 今は違う。


 自分の身体を守ることも、代表で戦い続けるために必要な判断だと知っている。


 早川はそのままピッチに残った。


 柚月はベンチから声をかける。


「莉奈、あとは頼んだぞ!」


 早川が手を上げる。


「はい!」


 13 早川が引き継ぐ


 柚月が下がってから、日本の中盤では早川が一段低い位置へ下がった。


 試合を作る役割。


 前へ運ぶだけではない。


 落ち着かせる。


 横へ逃がす。


 相手を動かす。


 柚月がピッチでやっていたことを、早川はそのまま模倣しなかった。


 自分の強みを残す。


 運べる場面では運ぶ。


 でも、急ぐ必要がなければ戻す。


 後半二十三分。


 早川が中央で受ける。


 相手が寄る。


 前半なら前へ運んでいたかもしれない。


 一度左へ。


 自分も位置を変える。


 戻ってくる。


 今度は右へ。


 相手の守備が横へ大きく動く。


 その中央へパス。


 チャンス。


 ベンチの柚月が立ち上がった。


「いいぞ、莉奈!」


 早川には聞こえていた。


 14 第二戦を終える


 後半にも日本は追加点を重ねた。


 インドネシアも最後まで攻撃を諦めず、日本ゴールへ迫った。


 しかし伊達葵を中心とした守備陣が最後まで集中を切らさない。


 試合終了。


 日本は第二戦も勝利。


 勝ち点を6へ伸ばした。


 選手たちが握手を交わす。


 正木静香にとっては、代表で自分の存在を強烈に示した一日になった。


 二得点。


 しかし本人は、インタビューで真っ先に仲間へ感謝した。


「早川選手と森岡選手がいい形で前を向かせてくれました。私は最後に触っただけです」


 それをテレビで見ていた柚月が笑う。


「最後に触るのが一番難しいんだっちゃ」


 森岡も隣でうなずいた。


「ストライカーらしくなってきたね」


 15 それでも、本番は次だ


 二連勝。


 勝ち点6。


 日本はグループ突破へ大きく前進した。


 しかし、誰も完全には安心していなかった。


 次。


 北朝鮮。


 最も情報の少ない相手。


 代表宿舎へ戻った夜。


 ミーティングルームには、新たに集められた資料が置かれていた。


 しかし、その量は依然として少ない。


 岩出コーチが説明する。


「確認できた情報は増えた。ただし、現在の主力構成を完全には把握できていない」


 森岡が尋ねる。


「フォーメーションは?」


「複数の可能性がある」


 4-4-2。


 4-2-3-1。


 場合によっては3バック。


「結局、絞れないんですね」


 早川が言う。


「そうだ」


 原町監督が答える。


「だから、全部当てようとするな」


 柚月が少し笑った。


「監督、うちが言おうと思ってたこと取ったべ」


 周囲に小さな笑いが起きる。


 原町もわずかに笑う。


「なら大船から言え」


 柚月は選手たちを見た。


「全部当てようとしなくていいっちゃ」


 そして続ける。


「最初の十分で、自分たちの目で確かめればいい」


 16 何を見るのか


 若い選手が尋ねた。


「具体的に、最初の十分で何を見ますか」


 柚月は答える。


「まず守備」


 前から来るのか。


 中盤まで待つのか。


 中央を閉めるのか。


 サイドへ誘導するのか。


「次、攻撃」


 奪ったあと最初に誰を見るか。


 FWへ直接入れるのか。


 サイドを使うのか。


 中盤の誰が起点になるか。


「それから、切り替え」


 ボール失ったあと、何人戻るのか。


 逆に奪った瞬間、何人前へ出るのか。


 早川がメモを取る。


「セットプレーも」


 伊達葵が言う。


 柚月がうなずく。


「んだ。CK一本でも情報になる」


 森岡も続ける。


「相手が誰を狙ってるか。どこへこぼれ球を作りたいか」


 誰にも答えはない。


 だから全員で情報を集める。


 それこそが、情報不足への最大の備えだった。


 17 北朝鮮戦、キックオフ


 そして迎えた第三戦。


 日本対北朝鮮。


 スタジアムの空気は、前二試合とは明らかに違った。


 日本側のスタッフも緊張している。


 どんな入り方をしてくるのか。


 前から来るか。


 引くか。


 原町監督は先発メンバーを送り出した。


 柚月も先発。


 早川もいる。


 森岡美里。


 伊達葵。


 それぞれがピッチへ散る。


 柚月は早川へ声をかけた。


「最初から答え決めんなよ」


「はい」


「見てから考える」


「はい」


 ホイッスル。


 北朝鮮ボール。


 試合が始まった。


 最初の一分。


 北朝鮮は自陣でボールを回す。


 日本は様子を見る。


 相手は前へ急がない。


 柚月がつぶやく。


「思ったより持つな」


 次の瞬間。


 北朝鮮のセンターバックが突然、前線へ長いボールを蹴った。


 FWが走る。


 日本DFが競る。


 セカンドボール。


 北朝鮮の中盤が一気に前へ出る。


「三人来た!」


 早川が叫ぶ。


 日本が慌てて戻る。


 シュート。


 伊達葵がキャッチ。


 開始二分。


 柚月の目つきが変わる。


「なるほどな」


 18 下がったと思えば、飛び出してくる


 日本がボールを持つ。


 北朝鮮は、今度は自陣へ下がった。


 前線も無理に追ってこない。


 日本のDFがゆっくり運ぶ。


 柚月へパス。


 相手は来ない。


 柚月が一歩前へ運ぶ。


 まだ来ない。


「来ない?」


 早川が前を見る。


 柚月がさらに進む。


 その瞬間だった。


 合図があったように、北朝鮮の三人が一斉に飛び出した。


 柚月へ一人。


 早川へのコースに一人。


 森岡への縦パスを切る位置に一人。


「来た!」


 柚月はワンタッチで後方へ戻す。


 日本はボールを失わない。


 北朝鮮の三人は、すぐに元の位置へ戻る。


 早川が戸惑う。


「何ですか、これ」


「誘ってるんだべ」


「誘う?」


「持たせて、出てきたところを三人で狩る」


 日本の想定にはなかった守備だった。


 常に前から来るわけではない。


 ずっと引くわけでもない。


 ボールの位置。


 受け手。


 身体の向き。


 そこに応じて突然スイッチが入る。


 前から来ると思えば下がる。


 下がると思えば、一気に飛び出す。


 19 狙われる中盤


 開始五分。


 早川が中央で受ける。


 前を向ける。


 そう思った瞬間、北朝鮮のMFが背後から寄せる。


 正面からも一人。


 早川はボールを守ろうとする。


 しかし三人目がパスコースを消す。


 ボールを奪われる。


「戻れ!」


 柚月が叫ぶ。


 北朝鮮は一気に縦へ。


 速い。


 日本DFが対応する。


 なんとかサイドへ追い出す。


 早川は悔しそうに戻った。


「すみません」


 柚月は首を振る。


「謝るの後だべ。次見るぞ」


「はい」


「莉奈が受けた瞬間、三人動いた」


「私が狙われてます?」


「莉奈だけじゃねぇ」


 次の場面。


 柚月が受ける。


 今度も同じ。


 最初は距離を空ける。


 柚月が前を向いた瞬間。


 一人。


 二人。


 三人。


 柚月はすぐ横へ逃がす。


「中盤が前向いた瞬間だっちゃ」


 早川が気づく。


「そこがスイッチ?」


「たぶんな」


 まだ断定はしない。


 もう一度見る。


 20 情報を作る


 柚月は、あえて低い位置へ下がった。


 センターバックから受ける。


 北朝鮮は来ない。


 横へ出す。


 また戻る。


 次に、少し高い位置へ移る。


 受ける。


 北朝鮮が一気に出る。


 柚月はすぐに後ろへ戻す。


「やっぱり」


 森岡が聞く。


「何が分かった?」


「中盤で前向かれるの嫌がってる」


 早川が言う。


「なら、最初からワンタッチで外?」


「それもあり。でも、それだけだと向こうも読む」


 柚月はピッチ全体を見る。


「一回、中を見せる」


「わざと?」


「んだ」


 北朝鮮が飛び出す。


 その背後。


 必ず空間ができる。


「三人出てくるなら、三人いた場所が空くべ」


 早川の表情が変わった。


「そこを使う」


「そういうことだっちゃ」


 情報は、与えられるものではない。


 自分たちで作る。


 相手を動かす。


 反応を見る。


 そして次の答えへ変える。


 21 最初の十分


 開始八分。


 日本が後方でボールを回す。


 柚月が中央へ。


 北朝鮮は待つ。


 柚月が前を向く。


 三人が飛び出す。


 しかし今度は、日本が準備していた。


 柚月はワンタッチで右へ。


 右サイドの選手が中央へ戻すように見せる。


 北朝鮮がさらに寄る。


 その瞬間。


 早川が、三人の背後へ入った。


 右サイドから縦パス。


 早川が前を向く。


 初めて北朝鮮の中盤の背後を取った。


「行け!」


 柚月の声。


 早川が運ぶ。


 森岡へ。


 森岡が前線へ。


 シュートまでは行かなかった。


 それでも、日本は初めて相手の守備構造を崩した。


 早川が戻りながら柚月を見る。


「見えてきました」


 柚月もうなずく。


「少しな」


 開始十分。


 まだ0-0。


 しかし、十分前とは違う。


 日本は相手を知らなかった。


 今は、少し知っている。


 北朝鮮もまた、日本が対応し始めたことに気づくだろう。


 そこから次の駆け引きが始まる。


 柚月は味方へ声をかけた。


「ここからまた変えてくるぞ!」


 森岡が答える。


「分かってる!」


 早川も。


「もう一回見ます!」


 情報のない相手。


 答えのない試合。


 だからこそ、一つずつ自分たちで答えを作る。


 世界と戦うために必要なのは、知っていることの多さだけではない。


 分からないものを、試合の中で理解していく力。


 柚月が長い代表生活で身につけてきたものが、今まさに試されていた。


 次回予告

 第53章「十分で変わる戦術」


 開始十分。


 日本はようやく、北朝鮮守備の一つの狙いを見抜く。


 中盤の選手が前を向いた瞬間に、複数人で一気に囲い込む。


 ならば、その飛び出した背後を使う。


 柚月と早川は、ワンタッチのパスとポジション交換で北朝鮮の守備を動かし始める。


 しかし北朝鮮も黙ってはいない。


 日本が対策を始めたと見るや、突然プレスをやめる。


 今度は最終ラインを下げ、ゴール前を狭くする。


 早川が驚く。


「また変えた……」


 柚月は答える。


「そう来ると思ったべ」


 一つの答えを見つけた瞬間、その答えが古くなる。


 さらに北朝鮮は、奪った直後の高速カウンターから日本ゴールへ迫る。


 伊達葵のスーパーセーブ。


 森岡美里の身体を張った守備。


 そして前半終盤、日本が初めて迎える決定機。


 情報不足だった相手との戦いは、ピッチ上で互いの手を読み合う高度な駆け引きへ変わっていく。


 次回、

 第53章「十分で変わる戦術」


 世界の舞台では、正しい答えを持っているだけでは足りない。


 相手が答えを変えた瞬間、自分たちも次の問いへ進まなければならない。

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