表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの日の春風は今も  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
77/82

三枚の切符

 第51章 三枚の切符

 1 一次予選の組み合わせ


 ロサンゼルスオリンピック・アジア一次予選。


 組み合わせ抽選の結果、日本はベトナム、インドネシア、北朝鮮と同じグループに入ることが決まった。


 代表宿舎のミーティングルーム。


 大型モニターには、四つの国名が並んでいる。


 日本


 ベトナム


 インドネシア


 北朝鮮


 選手たちは静かに画面を見つめていた。


 早川莉奈が最初に口を開いた。


「簡単な組じゃないですね」


 宮野沙季もうなずく。


「ベトナムも守備が粘るし、インドネシアも最近は運動量が上がってる。ただ……」


 言葉が止まる。


 多くの選手が、同じ名前を見ていた。


 北朝鮮。


 原町監督が立ち上がる。


「みんなも分かっていると思うが、このグループで特に警戒しなければならないのは北朝鮮だ」


 森岡美里が尋ねた。


「最近の映像は、どのくらいありますか」


 岩出コーチが資料を開く。


「それが問題なんだ」


 スクリーンが切り替わる。


 過去の国際大会。


 断片的な試合映像。


 一部選手の記録。


 しかし、ほかの相手国に比べて明らかに情報が少ない。


「現在の主力選手が誰なのか。最近どのような強化をしているのか。基本布陣が何なのか。情報が非常に限られている」


 柚月は腕を組んだ。


「一番嫌なタイプだべな」


 早川が柚月を見る。


「情報がない相手ですか?」


「んだ」


 柚月は画面から目を離さない。


「強い相手でも、何をしてくるか分かってれば準備できる。でも、どんな選手がいるかも、どう守ってくるかも、どれくらい走れるかも分からねぇ相手は、試合の中で答え探さなきゃいけねぇっちゃ」


 原町監督がうなずいた。


「その通りだ」


 北朝鮮が守備を固めるのか。


 前から激しく奪いに来るのか。


 縦へ速いのか。


 ボールを保持するのか。


 三バックなのか。


 四バックなのか。


 あるいは試合中に形を変えてくるのか。


 確かな答えがない。


「だから北朝鮮戦は、事前分析だけでは勝てない」


 原町監督は選手たちを見回した。


「ピッチの中で、自分たちで情報を集めろ」


 柚月の表情が変わった。


 それはまさに、自分が後輩たちへ伝えてきたことだった。


 見る。


 感じる。


 変化を拾う。


 そして、その場で答えを作る。


 2 三試合すべてが予選


 原町監督は、ホワイトボードへ三つの対戦を書いた。


 第一戦。


 ベトナム。


 第二戦。


 インドネシア。


 第三戦。


 北朝鮮。


「北朝鮮だけを見すぎるな」


 選手たちが顔を上げる。


「ベトナム戦で勝ち点を落とせば、北朝鮮戦へ入る前から苦しくなる。インドネシア戦で得失点差を稼げる場面を逃せば、それが最後に響くかもしれない」


 一次予選は短期決戦。


 一試合ごとの重みが大きい。


 世界大会では、内容のよい引き分けより、泥臭い1-0の方が価値を持つことがある。


 逆に勝てる試合で追加点を取ることが、順位を左右する場合もある。


 柚月が口を開いた。


「目の前の一試合と、グループ全体の両方を見るってことだべ」


「そうだ」


 原町監督が答える。


「一試合だけ勝つチームではなく、予選を勝ち抜くチームになれ」


 森岡美里が選手たちを見る。


「まずベトナムから。一つずつ行こう」


 早川も静かにうなずいた。


 三枚しかないアジアの切符。


 その前に、まずこのグループを突破しなければならない。


 ロサンゼルスという言葉は、まだ遠かった。


 3 初戦、ベトナム


 一次予選初戦。


 日本対ベトナム。


 スタジアムには、日本のワールドカップ優勝を知る多くの観客が集まっていた。


 世界王者。


 当然勝つだろう。


 外から見れば、そう思われる試合だった。


 しかし、ピッチに立つ選手たちは違った。


 ベトナムは守備ブロックを低く設定。


 中央を狭くし、日本にボールを持たせる。


 そして奪えば一気にサイドへ展開する。


 原町監督は先発中盤に、宮野沙季と早川莉奈を置いた。


 柚月はベンチ。


 完全復帰して間もないこともあり、まだ出場時間には慎重な管理が必要だった。


 前半十分。


 日本が保持率で圧倒する。


 しかし、決定機が作れない。


 早川が中央で受ける。


 前を見る。


 FWへの縦パス。


 ベトナムのMFが足を出す。


 カット。


 カウンター。


「戻って!」


 宮野が叫ぶ。


 日本がすぐに守備へ戻る。


 危険な場面にはならなかった。


 それでも、ベンチの柚月は少し表情を険しくしていた。


「中央、閉められてんなぁ」


 岩出コーチが尋ねる。


「どう見る?」


 柚月は少し前へ身体を乗り出す。


「ベトナム、中央だけは絶対使わせたくないんだべ。莉奈が中へ入るたび、二人寄ってる」


「なら?」


「一回、外をもっと使った方がいい」


 柚月はピッチを指す。


「サイドバックに持たせても、相手はそこまで強く出てきてねぇ。外に持たせて、相手の中盤を横に引っ張れば、中央に隙ができるっちゃ」


 前半二十分。


 日本はまだ0-0。


 ボールを持つ。


 回す。


 しかし、焦りが少しずつ見え始める。


 早川がもう一度縦へ狙う。


 通らない。


 宮野がミドルシュート。


 ブロック。


 スタンドにも、わずかなざわつきが生まれる。


 ベンチの柚月は、若い選手たちの表情を見ていた。


 焦るな。


 まだ時間はある。


 4 世界王者を倒したい相手


 ベトナムの選手たちは、明らかに集中していた。


 日本がワールドカップを制したことは、彼女たちにとって恐れる理由ではなかった。


 むしろ逆。


 世界王者を倒せるかもしれない。


 日本から勝ち点を取れば、自国の女子サッカーにとって大きな歴史になる。


 一つのクリア。


 一つのブロック。


 一つのタックル。


 そのたびに、ベトナムベンチが盛り上がる。


 柚月がつぶやく。


「世界一になったら、相手がびびってくれると思ったら大間違いだべな」


 森岡が隣で笑う。


「むしろ全員本気で倒しに来る」


「そういうことだっちゃ」


 世界王者になる。


 それは、追われる側になるということでもある。


 相手は研究する。


 日本のパスコースを知っている。


 早川の前進力も。


 宮野の守備範囲も。


 日本がどうやって中央から崩そうとするかも。


 柚月はその現実を、ベンチから改めて感じていた。


 5 前半の答え


 前半三十一分。


 日本が右サイドへ展開する。


 サイドバックが高い位置を取る。


 ベトナムの左MFが初めて大きく外へ引き出された。


 その瞬間。


 中央にわずかな空間ができる。


 早川が気づいた。


 一度外へパス。


 自分は内側へ入り直す。


 リターン。


 ベトナムのボランチが寄る。


 早川は自分で前へ行かず、宮野へ落とす。


 宮野が逆サイドへ展開。


 左からクロス。


 中央で森岡美里が合わせる。


 シュート。


 ゴール。


 1-0。


 早川は両手をたたいた。


 ベンチの柚月も立ち上がる。


「それだっちゃ!」


 森岡が仲間たちと抱き合う。


 中央へ無理に突っ込み続けなかった。


 一度外へ広げる。


 相手を動かす。


 それから中央。


 ベトナムが守ろうとしていた場所を、外から崩した。


 前半終了。


 日本1-0。


 まだ安心できる点差ではない。


 6 ハーフタイムの柚月


 ロッカールーム。


 原町監督が戦術修正を伝える。


 そのあと、早川が柚月のところへ来た。


「柚月さん」


「ん?」


「前半、何が見えてました?」


 柚月はタオルを肩に掛けながら答える。


「ベトナムは中を守ることに集中しすぎてるっちゃ」


「やっぱりそうですよね」


「外へボールが行ったとき、最初はあんまり出てこなかった。でも失点した場面では外に引っ張られた」


「中央が空きました」


「そう。なら後半は、相手が外を警戒し始める可能性がある」


 早川が少し考える。


「今度は中央が最初から空く?」


「かもしれねぇ。でも決めつけんな」


 柚月は人差し指を立てる。


「相手も修正してくる。前半の答えを、そのまま後半に持っていくな」


 早川はうなずく。


「試合の中で、もう一回見る」


「んだ」


 柚月は笑った。


「莉奈ならできるべ」


 7 それでも崩れない


 後半。


 ベトナムは予想どおり修正してきた。


 サイドへの寄せが速くなる。


 日本が外へ出すと、すぐに二人で囲む。


 その代わり、中央の間隔が少し広がる。


 早川が気づく。


 中央へ位置を取る。


 しかし、そこへ出す直前に別のMFが落ちてくる。


 完全には空かない。


「やるなぁ」


 ベンチの柚月が小さくつぶやく。


 ベトナムも考えている。


 ただ守るだけではない。


 日本の修正に、さらに修正を返してくる。


 後半十五分。


 まだ1-0。


 ベトナムのカウンター。


 左サイドを突破される。


 クロス。


 中央で合わせられる。


 伊達葵が横っ飛び。


 セーブ。


「葵!」


 森岡が叫ぶ。


 伊達はすぐに立ち上がる。


「集中!」


 一つのミス。


 一つの遅れ。


 それだけで同点になる。


 予選の怖さが、試合全体に漂っていた。


 8 原町監督が柚月を呼ぶ


 後半二十二分。


 原町監督がベンチを振り返る。


「柚月」


 柚月が顔を上げる。


「準備しろ」


 一瞬、胸が高鳴った。


 代表復帰後、初めての公式戦出場。


 柚月はビブスを脱ぎ、タッチライン横でアップを始める。


 早川がピッチの中から気づく。


 目が合う。


 柚月が軽く手を上げる。


 早川も小さくうなずいた。


 競争相手。


 でも今日は、一緒に勝つ仲間。


 後半二十六分。


 交代。


 柚月がピッチへ入る。


 早川はそのまま残る。


 宮野沙季が交代で下がる。


 つまり、中盤には柚月と早川が並ぶことになった。


 原町監督の狙いは明確だった。


 経験と若さ。


 試合を落ち着かせる柚月。


 前へ変化をつける早川。


 二人を同時に使う。


 9 久しぶりの代表公式戦


 柚月が芝へ入る。


 胸のエンブレム。


 スタジアムの声。


 公式戦。


 代表。


 すべてが戻ってくる。


 最初のボール。


 森岡から柚月へ。


 相手がすぐ寄る。


 柚月はワンタッチで早川へ。


 早川が前を向く。


 ベトナムのMFが早川へ寄る。


 早川は戻す。


 柚月。


 柚月は逆サイドを見る。


 左側が空いている。


 大きなサイドチェンジ。


 左サイドバックが受ける。


 一気に前へ。


 ベトナムが横へ動く。


 柚月が中央へ入り直す。


 またボールが戻る。


「莉奈!」


 早川が前へ動く。


 縦へのパス。


 早川が受ける。


 相手が寄る。


 ワンタッチで柚月へ戻す。


 柚月は止めない。


 さらに右へ。


 ベトナムの守備が振られる。


 一つひとつは簡単なパス。


 でも、相手は少しずつ動かされている。


 10 中央じゃない


 後半三十二分。


 日本が右でボールを持つ。


 ベトナムが右へ寄る。


 柚月は中央に立つ。


 早川は少し高い位置。


 相手の最終ラインが狭くなる。


 柚月は叫ぶ。


「外、もう一回!」


 右へ展開。


 ベトナムのサイドが出る。


 中央のMFも一歩外へ動く。


 その瞬間。


「莉奈、中!」


 早川が中央へ入る。


 右サイドから柚月へ戻る。


 柚月はワンタッチ。


 中央の早川へ縦パス。


 早川は前を向く。


 ベトナムのDFが出る。


 早川は自分で仕掛ける。


 一人をかわす。


 中央へ折り返す。


 森岡。


 シュート。


 GKが弾く。


 こぼれ球。


 日本のFWが押し込む。


 2-0。


 選手たちが一斉に集まる。


 早川が柚月へ駆け寄る。


「柚月さん!」


「よく入ったっちゃ!」


「外を見せたから、中が空きました!」


「んだ。相手に一回信じさせるんだべ」


 二人は笑った。


 競争相手同士が作った追加点だった。


 11 若さと経験は対立しない


 2-0。


 残り時間。


 早川はさらに前へ出たがっていた。


 三点目を取りたい。


 得失点差も重要。


 しかし、柚月は相手を見る。


 ベトナムの前線が少し高くなっている。


 一点でも返したい。


 前へ人数をかけ始めている。


「莉奈」


「はい」


「あと五分、ちょっとだけ低く」


「攻めません?」


「攻める。でも、先に失点しない」


 早川は一瞬考え、うなずいた。


「分かりました」


 柚月が後ろを支える。


 早川が前へ出る。


 ボールを失えば、二人で戻る。


 早川が疲れて戻れない場面では、柚月が中央を埋める。


 柚月が接触で遅れれば、早川が一歩戻る。


 どちらか一人が正しいのではない。


 二人で足りない部分を補う。


 原町監督は、その姿を見ていた。


 代表の未来は「ベテランか若手か」という二択ではない。


 強い選手同士が、競争しながら共存できるか。


 そこに答えがある。


 12 初戦勝利


 試合終了。


 日本2-0ベトナム。


 一次予選初戦。


 勝ち点3。


 選手たちは喜んだ。


 しかし、派手に騒ぎすぎる者はいない。


 まだ一試合。


 ロサンゼルスは遠い。


 原町監督はロッカールームで短く話した。


「勝ったことは評価する」


 選手たちが聞く。


「だが、二点目が入るまで苦しんだ」


 前半。


 中央へこだわった時間。


 後半のカウンター。


 伊達葵のセーブ。


 一つ間違えば、試合は変わっていた。


「世界王者だから勝ったんじゃない」


 原町監督は言う。


「試合の中で相手を見て、自分たちが変わったから勝った」


 柚月はその言葉を聞きながら、早川を見る。


 早川も小さくうなずいた。


 13 次はインドネシア


 翌日。


 リカバリーを終えた選手たちは、第二戦へ向けた分析へ入る。


 インドネシア。


 運動量。


 素早い縦への攻撃。


 積極的なサイドアタック。


 ベトナムとは、また違う。


 原町監督が言う。


「相手が変われば、昨日の答えは捨てろ」


 柚月が少し笑う。


 早川が気づく。


「柚月さんがいつも言ってることですね」


「監督に使用料もらおうかな」


「代表から請求しないでください」


 周囲に笑いが起きる。


 それでも、選手たちの集中は切れていない。


 一試合目の成功体験にしがみつかない。


 次は次。


 14 そして、北朝鮮


 インドネシア戦の分析が終わったあと。


 最後に、スクリーンへ北朝鮮の名前が映った。


 空気が少し変わる。


 岩出コーチが言う。


「現状、新たに入っている情報は多くない」


 柚月が眉を寄せる。


「やっぱりか」


「直近の試合映像も限定的だ。選手の入れ替えも完全には把握できていない」


 早川が尋ねる。


「じゃあ、どうやって準備するんですか」


 原町監督が答えた。


「どんな相手が来ても対応できる準備をする」


「具体的には?」


「複数の展開を想定する」


 北朝鮮が前から来る場合。


 引いて守る場合。


 ロングボール主体。


 細かくつなぐ。


 三バック。


 四バック。


 最初の十五分だけ激しく来る。


 後半から強度を上げる。


 どれもあり得る。


「分からないなら、一つに決めつけない」


 柚月が静かに言った。


「最初の十分で、できるだけ情報取るしかねぇっちゃ」


 原町監督がうなずく。


「大船、その役割はお前にも期待している」


 柚月はまっすぐ監督を見る。


「分かりました」


 15 見えない相手を見る


 夜。


 柚月、早川、宮野、森岡ら数人が自主的にミーティングルームへ残っていた。


 北朝鮮の過去映像を繰り返し見る。


 古い。


 現在と同じとは限らない。


 それでも、何もないよりはいい。


 柚月が映像を止める。


「ここ」


 選手たちが画面を見る。


「このときはボール取った瞬間、最初のパスがほぼ前だべ」


 宮野が言う。


「縦への切り替えが速い」


「ただ、これが今も同じとは限らない」


 早川がうなずく。


「だから特徴として覚えるんじゃなくて、試合で確認する材料にする」


 柚月が笑う。


「そういうことだっちゃ」


 森岡が別の映像を止める。


「セットプレーも警戒した方がいい」


 北朝鮮の選手がゴール前へ大量に入る。


 セカンドボールを狙う。


「体格だけで考えない方がいいね」


 森岡が言う。


「こぼれ球への反応が速い」


 伊達葵もGK目線で確認する。


「クロスの軌道も見たい。直接合わせるのか、ファーへ落とすのか」


 誰にも完全な答えは分からない。


 だから全員で考える。


 16 分からないことを恐れない


 早川が資料を閉じた。


「正直、ちょっと怖いです」


 柚月が振り向く。


「北朝鮮が?」


「はい。何してくるか分からないって、やっぱり不安です」


 柚月は少し考えた。


「それでいいんじゃねぇか」


「いいんですか?」


「分からないのに、分かったつもりになる方が危ないべ」


 早川は黙って聞く。


「うちがけがから戻るときもそうだった。走れるか分からない。接触できるか分からない。代表戻れるか分からない」


「はい」


「でも、分からないことを一個ずつ確かめてきたっちゃ」


 三十秒走る。


 次の日の脚を見る。


 接触する。


 身体の反応を見る。


 試合に出る。


 翌朝を確認する。


「北朝鮮戦も同じだべ。最初の五分、十分で見る」


 柚月は指を折りながら続ける。


「前から来るのか。どこで奪いたいのか。誰が一番速いのか。誰がボールを持つと攻撃が始まるのか。セットプレーは何狙ってるのか」


「一つずつ確認する」


「そう」


 柚月は笑った。


「情報ないなら、自分たちで集めればいいっちゃ」


 早川の表情が少し和らぐ。


 17 名取百合子へ話す予選


 その夜。


 柚月は宿舎の部屋で、名取百合子の写真を携帯電話に表示していた。


「ユリ。初戦勝ったよ」


 胸の中で声が返る。


「知ってるっちゃ」


「二対ゼロ」


「ちゃんと出た?」


「後半から」


「どうだった?」


「莉奈と一緒にやった」


「喧嘩した?」


「試合中にするか!」


 柚月は笑う。


「いい感じだったよ。うちが落ち着かせて、莉奈が前行って」


「相性いいんじゃねぇの」


「んだな」


 少し間が空く。


「次はインドネシア。そのあと北朝鮮」


「北朝鮮、情報少ないんだろ?」


「うん」


「怖い?」


 柚月は少し考えた。


「怖いっていうより、不気味だべ」


「なら、最初から決めつけんな」


「分かってるっちゃ」


 ユリの声が少し笑う。


「柚月、自分が後輩に言ってること忘れんなよ」


「最近、みんなうちの言葉でうちを殴ってくるなぁ」


 それでも、柚月は笑っていた。


 18 三枚への第一歩


 ベトナム戦を終え、日本は勝ち点3。


 しかし、予選は始まったばかりだった。


 インドネシア。


 北朝鮮。


 さらに、その先。


 アジアに与えられた切符は三枚。


 一つの国しか勝者になれない大会ではない。


 だが、三つに入らなければロサンゼルスはない。


 日本は世界王者。


 それでも保証は何もない。


 柚月は翌日の練習場へ出る。


 代表の練習着。


 右ふくらはぎには問題なし。


 早川が隣へ並ぶ。


「柚月さん」


「ん?」


「北朝鮮戦、もし途中で全然分からなくなったらどうします?」


 柚月は即答した。


「簡単なことから見る」


「例えば?」


「相手がどっち向いてるか」


「そこから?」


「そこからでいいっちゃ」


 柚月は芝へ視線を向けた。


「世界と戦うとき、最初から全部分かってることなんかほとんどねぇべ」


 一歩ずつ。


 一つずつ。


 分からないものを、分かるものへ変えていく。


 それは、けがから戻ってきた柚月自身が歩いてきた道でもあった。


 ホイッスルが鳴る。


 日本代表の選手たちが走り始める。


 三枚の切符へ向けた戦いは、まだ始まったばかりだった。


 次回予告

 第52章「見えない相手」


 一次予選第二戦。


 日本はインドネシアと対戦する。


 初戦の勝利を受け、日本には大量得点を期待する声も集まる。


 しかし、原町監督は言う。


「得点差を考えることと、最初から雑に攻めることは違う」


 早川莉奈は先発。


 柚月も代表復帰後初の先発出場を告げられる。


 二人が初めて公式戦で並んでスタートする。


 柚月は試合を落ち着かせ、早川が前へ出る。


 競争相手だった二人が、今度は中盤のコンビとして新たな形を作り始める。


 そしてインドネシア戦のあと。


 いよいよ北朝鮮戦。


 限られた映像。


 分からない主力。


 読めない戦術。


 日本のスタッフは複数の想定を準備するが、柚月は後輩たちへ言う。


「全部当てようとしなくていいっちゃ。最初の十分で、自分たちの目で確かめればいい」


 ところが試合開始直後。


 北朝鮮は、日本が用意したどの想定とも違う形で入ってくる。


 前から来ると思えば下がる。


 下がると思えば、一気に三人が飛び出す。


 狙われる日本の中盤。


 早川が戸惑う。


 柚月はピッチ全体を見回す。


 次回、

 第52章「見えない相手」


 情報がないなら、試合の中で情報を作る。


 世界と戦う力とは、知っている答えを使うことだけではない。


 答えのない場所で、自分たちで答えを見つける力なのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ