名前が戻る日
第50章 名前が戻る日
1 その一覧に、もう一度
代表候補合宿の招集メンバーが発表された朝。
柚月は自宅のリビングで、携帯電話の画面を見つめていた。
上から順に並ぶ名前。
森岡美里。
伊達葵。
宮野沙季。
早川莉奈。
そして、その少し下。
大船柚月。
一度は消えた自分の名前が、もう一度そこにあった。
柚月は何度も確認した。
見間違いではない。
候補。
最終決定ではない。
けれど、確かに代表へ戻るための扉が開いた。
隣にいた徹が尋ねる。
「あったか」
柚月は黙ったまま、画面を差し出した。
徹は名前を確認すると、静かにうなずいた。
「戻ったな」
その言葉を聞いた瞬間、柚月の目に涙が浮かんだ。
「まだ候補だべ」
「分かってる」
「選ばれたわけじゃねぇ」
「それも分かってる」
徹は笑う。
「でも、ここまで戻ったことくらい喜んでいいだろ」
柚月は目元を拭った。
長かった。
椅子に座って三十センチだけボールを転がした日。
三メートルのパス。
三十秒のジョギング。
芝の上へ戻った日。
焦って余計に一往復して、張りが出た日。
走らないことを選んだ日。
最初の接触で身体が固まった日。
五分間のミニゲーム。
公式戦復帰。
復帰ゴール。
黒子に徹した二試合目。
すべてが、この一行へつながっていた。
大船柚月。
日本代表候補。
その文字が、やけに重く見えた。
2 ユリへ最初に報告する
出発前、柚月は書斎へ入った。
名取百合子の遺影の隣には、ワールドカップの金メダルと復帰戦の記念ボールが並んでいる。
柚月は携帯電話の画面を遺影へ向けた。
「ユリ。見える?」
胸の中で、いつもの声が返ってくる。
「見えるっちゃ」
「名前、戻ったよ」
「よかったな」
柚月は少し笑う。
「もうちょっと盛大に喜んでけろ」
「まだ候補なんだべ?」
「徹と同じこと言うなぁ」
「柚月が自分で言ってたっちゃ」
柚月は遺影の前へ座る。
「怖いよ」
「何が?」
「戻ったら戻ったで、今度は本当に競争が始まる」
早川莉奈。
宮野沙季。
そのほかにも若い選手がいる。
けがをしている間に、代表は止まっていなかった。
新しい選手が入り、新しい連係が生まれ、新しいチームの形ができ始めている。
自分の居場所が、そのまま残っているわけではない。
「それでいいんだべ」
「んだな」
「席が空いてるって言われたんだろ?」
「うん」
「なら、座れるかどうかは自分で決めてこいっちゃ」
柚月は力強くうなずいた。
「行ってくる」
3 久しぶりの代表施設
代表合宿初日。
柚月はチームバスを降りると、ゆっくり施設を見上げた。
久しぶりだった。
入口。
ロビー。
スタッフの顔。
代表の練習着を着た選手たち。
懐かしいはずなのに、少しだけ知らない場所のようにも感じる。
それだけ、自分が離れていた時間が長かった。
「柚月!」
声が飛ぶ。
振り返る。
キャプテンの森岡美里だった。
柚月の顔が一気にほころぶ。
「美里!」
二人は抱き合った。
森岡が笑う。
「ほんとに戻ってきたな」
「ただいまっちゃ」
「脚は?」
「問題ない。クラブでも試合出た」
「見たよ。いきなりゴール決めるとか、相変わらずだな」
「二試合目は黒子だったべ」
「そっちの方が柚月らしかった」
さらに伊達葵も近づいてくる。
「復帰おめでとうございます」
「ありがとな」
「でも、代表では容赦しませんからね」
「それでいいっちゃ」
笑い声。
そこへ宮野沙季。
そして早川莉奈。
莉奈は少し緊張しながらも、笑顔で柚月の前へ立った。
「柚月さん」
「おう」
「おかえりなさい」
その言葉を聞いて、柚月は一瞬だけ黙った。
それから、にっと笑う。
「ただいま」
少し間を置き、続けた。
「で、席は返してもらうっちゃ」
早川も笑った。
「簡単には返しません」
「いい返事だべ」
周囲の選手たちが笑う。
しかし、その笑顔の奥には明確な競争心があった。
二人とも分かっている。
ここから先は、先輩後輩だけではない。
同じ代表の座を争う選手同士だった。
4 代表の練習着
ロッカールーム。
柚月は、自分のロッカーに置かれた代表の練習着を手に取った。
胸のエンブレム。
それを指先でなぞる。
ワールドカップ以来。
代表の一員として、もう一度この服を着る。
着替え終え、鏡を見る。
以前と同じユニフォーム。
しかし、中にいる自分は以前と同じではない。
世界一になった。
大けがをした。
代表から離れた。
若手に追われた。
恐怖を知った。
焦りから失敗した。
そして、一から戻ってきた。
柚月は胸のエンブレムへ手を置いた。
「また、ここからだべ」
5 原町監督の最初の言葉
ミーティングルーム。
候補選手たちが座る。
前方には原町監督。
岩出コーチ。
メディカルスタッフ。
原町監督は全員の顔を見回した。
「今日から、オリンピック予選へ向けた本格的な競争を始める」
室内の空気が引き締まる。
「まず、大船」
「はい」
「戻ってきたな」
「はい」
「ただし」
柚月はまっすぐ監督を見る。
「ここは、戻ってきたことを祝う場所ではない」
「はい」
「代表復帰はゴールではない。ここから競争だ」
柚月は迷わず答える。
「望むところです」
原町監督は小さくうなずいた。
そして全員へ向き直る。
「今回のオリンピック本大会に出場できるのは十六の国と地域」
開催国アメリカを除けば、残る切符は十五。
そのうち、アジアに与えられた枠は三つ。
「アジア予選を勝ち抜かなければ、ロサンゼルスはない」
世界大会で優勝したから出られるわけではない。
過去の実績は、出場権にはならない。
一つずつ勝つ。
勝ち点を積む。
得失点差を考える。
短い大会の中で、どんな状況にも対応する。
「十五枚しかない」
原町監督は続けた。
「アジアでは三枚だ。簡単な戦いになると思うな」
誰も言葉を発しない。
「パリでメダルを逃した悔しさを知っている選手もいる。初めてオリンピックを目指す選手もいる。立場は違う」
原町監督の視線が、柚月、森岡、宮野、早川らへ動く。
「だが、目標は同じだ」
ロサンゼルス。
そして、金メダル。
6 柚月からチームメートへ
ミーティングの最後。
原町監督が柚月へ言った。
「戻ってきた選手として、一言あるか」
柚月は少し驚いた。
「うちが?」
「嫌ならいい」
「いや、言います」
柚月は立ち上がった。
前に出る。
自分より若い選手が増えた。
二十歳。
二十一歳。
二十二歳。
代表入りしたばかりの選手もいる。
かつて自分が「若手」と呼ばれていたころとは、立場が変わった。
柚月は最初に頭を下げた。
「改めて、大船柚月です。長いこと離れてました。今日からまたよろしくお願いします」
拍手が起こる。
柚月は続けた。
「見て分かると思うけど、うちより年下の選手がかなり増えたっちゃ」
笑いが起こる。
「美里とか、うちらの世代もまだいるけどな」
森岡が後ろから言う。
「勝手に年寄り組に入れるな」
「同世代だべ!」
また笑い。
その空気が少し和らいだところで、柚月は表情を引き締めた。
「でも、今日は先輩として優しく戻ってきたわけじゃない」
若手たちが顔を上げる。
「うちも全力で、自分のポジションを奪いに行く」
早川莉奈が柚月を見る。
宮野沙季も。
「うちは、あなたたちにポジションを譲るつもりはないから」
声は穏やかだった。
しかし、迷いは一切なかった。
「年上だから譲ってもらう気もない。ワールドカップで優勝したから特別扱いしてもらう気もない」
柚月は胸のエンブレムを指した。
「この代表のユニフォームは、その時いちばん必要な選手が着るものだべ」
少し間を置く。
「だから、遠慮なんかしないで、全力でかかってこい」
若手選手たちの表情が変わる。
柚月は笑った。
「うちも全力で行くっちゃ」
7 早川莉奈の返事
沈黙を破ったのは、早川莉奈だった。
「柚月さん」
「ん?」
早川は立ち上がる。
「だったら、私も遠慮しません」
柚月の口元が上がる。
「おう」
「柚月さんから教えていただいたことはたくさんあります。でも、代表では、それとは別です」
「当たり前だべ」
「先発を狙います」
「うちも狙う」
「柚月さんが戻ってきたからって、自分から一歩引くつもりはありません」
柚月は笑った。
「それでいいっちゃ」
宮野沙季も口を開く。
「じゃあ、二人がやり合ってる間に、私が取ります」
「沙季さん!」
早川が振り返る。
柚月も笑う。
「三つ巴だべな」
森岡が手をたたく。
「よし、そのくらいでちょうどいい」
チーム内の空気が一気に変わった。
復帰を祝う空気から、競争する集団の空気へ。
原町監督は黙ってその様子を見ていた。
求めていたのは、これだった。
若手がベテランへ遠慮しない。
ベテランが経験を盾に席を守らない。
互いに成長させる。
そして、最後に強いチームを作る。
8 代表の速度
午後。
全体練習。
ウォーミングアップを終え、ボール回しへ入る。
最初の数分で、柚月はクラブとの違いを感じた。
速い。
一つひとつのプレー判断が速い。
パス速度も違う。
寄せも速い。
少しボールを持てば、二人目が来る。
柚月が中央で受ける。
早川が寄せる。
柚月は身体を入れる。
宮野が次のパスコースを消す。
「二人で来るんかい!」
柚月が笑いながら言う。
早川も笑う。
「遠慮するなって言いましたよね!」
「言ったけど復帰初日に二人がかりは聞いてねぇべ!」
それでも柚月はボールを失わない。
右足で一度引く。
早川の重心を見る。
宮野が中央を切る。
ならば外。
ワンタッチでサイドへ逃がす。
すぐに次の位置へ動く。
原町監督が声をかける。
「大船、止まるな!」
「はい!」
柚月は走る。
右ふくらはぎは問題ない。
次のパス。
接触。
切り返し。
守備への戻り。
クラブ復帰戦より、明らかに負荷が高い。
それでも身体はついてくる。
呼吸は上がる。
脚も重くなる。
だが、怖さより楽しさが上回っていた。
代表の速度。
これだ。
この場所へ戻りたかった。
9 若手から見た柚月
練習途中。
若手MFの一人が、早川へ小声で尋ねた。
「大船さん、けが明けですよね」
「そうだよ」
「全然、ボール取れない」
早川は少し笑う。
「簡単には取らせない人だから」
別の場面。
柚月が相手の寄せを受ける。
前を向けない。
すると無理にターンしない。
後ろへ落とす。
相手が一歩前へ出る。
柚月はすぐに別の位置へ移動する。
また受ける。
今度は前を向ける。
次の瞬間、逆サイドへ大きく展開。
「ナイス!」
味方から声が飛ぶ。
柚月は目立ったドリブルをしていない。
しかし、相手が柚月へ寄るたびに、どこかが空いていく。
早川はその動きを見ながら、自分も同じ場所を狙おうとはしなかった。
柚月が作った空間へ入る。
そこへボールが来る。
早川は前を向き、ドリブルで運ぶ。
柚月が声を出す。
「莉奈、そのまま行け!」
早川が一人をかわす。
FWへパス。
シュート。
惜しくも外れる。
早川が振り返る。
柚月が親指を立てる。
競争している。
でも、同じチームでもある。
その二つは矛盾しなかった。
10 経験を譲る、席は譲らない
練習後。
若手選手たちが柚月の周囲へ集まった。
一人が尋ねる。
「大船さん、受ける前に何回くらい周囲を見てるんですか」
「回数は決めてねぇっちゃ」
「でも、ずっと見てますよね」
「見ること自体が目的じゃないべ」
柚月はボールを足元へ置いた。
「次に必要な情報を取るために見る」
相手との距離。
味方の身体の向き。
相手の重心。
次に空く場所。
自分がボールを受けたあとでは遅い。
「ボールが来てから考えると、世界では一秒遅い」
「どうしたら早く判断できますか」
「最初から答えを一個に決めない」
柚月は説明する。
「右へ出す。縦へ出す。戻す。自分で運ぶ。最低でも二つくらいは持っておく。それで相手を見て最後に決める」
別の後輩が聞く。
「それ、全部教えていいんですか?」
柚月は笑った。
「いいっちゃ」
「でも私たち、柚月さんのポジション取るかもしれませんよ」
「取れるなら取ってみろ」
笑いが起こる。
柚月は続けた。
「技術とか経験は、いくらでも渡す。でも席は譲らねぇべ」
早川が横から言う。
「そこは本当に一貫してますね」
「当たり前だっちゃ」
11 三枚の切符
夜のミーティング。
原町監督が、アジア予選の全体像を説明する。
壁には大きな文字。
アジア出場枠 3
ロサンゼルスオリンピック本大会。
出場できる国と地域は十六。
開催国アメリカを除く残り十五枠を、各地域が争う。
アジアから出られるのは三つ。
「三枚しかない」
原町監督は繰り返した。
「この三枚を、アジアの強豪国が奪い合う」
一試合も簡単ではない。
体格差。
速さ。
カウンター。
ボール保持。
守備ブロック。
相手によって特徴は異なる。
「ワールドカップ優勝国だから、周囲は日本を倒しに来る」
柚月は黙って聞く。
世界一になった。
その瞬間から、日本は追われる側でもある。
相手は研究する。
日本の弱点を探す。
柚月の動きも。
早川の特徴も。
森岡の守備も。
すべて分析される。
「予選では、内容より結果が必要になる試合もある」
原町監督は言う。
「一点取ったら守り切る。相手によっては引き分けも計算する。得失点差を考えて追加点を狙う。大会全体を見なければならない」
柚月はパリを思い出していた。
短期決戦。
一つの判断が命取りになる世界。
それを知っているからこそ、伝えられることがある。
12 柚月が話すオリンピック
ミーティング後。
若い選手の一人が尋ねた。
「大船さん。やっぱりオリンピックって、ワールドカップとは違いますか」
柚月は少し考えた。
「違うっちゃ」
「緊張感が?」
「それもある。でも、一番違うのは、時間がすごく短く感じることだべ」
予選。
本大会。
連戦。
休養。
移動。
一試合を引きずっている暇がない。
「パリでメダル逃したとき、うちらは本当に悔しかった」
柚月は静かに話した。
「でも、いつまでもその試合だけ考えてても次には行けない」
若手たちが耳を傾ける。
「オリンピックで必要なのは、切り替える力だっちゃ」
勝っても。
負けても。
自分が活躍しても。
ミスしても。
次の試合が来る。
「それと、仲間を信じること」
以前ベガルタの後輩たちにも話した。
世界で戦うために本当に必要なもの。
技術。
フィジカル。
戦術。
もちろん全部必要。
でも最後の最後にチームを支えるのは信頼だ。
「必ず誰かがミスする」
柚月は言う。
「でも、そこで誰が悪いって始めたら終わりだべ」
誰かが失えば、誰かが戻る。
誰かが抜かれれば、隣がカバーする。
GKが弾けば、DFがクリアする。
シュートを外したFWへ、次も打てと声をかける。
「ミスしないチームが強いんじゃねぇ」
柚月は若手たちを見る。
「ミスしても壊れないチームが強いんだっちゃ」
13 先輩だから伝えられること
話を聞いていた早川が尋ねた。
「柚月さんは、いつからそう考えるようになったんですか」
「パリで負けてからかな」
「ワールドカップ優勝ではなく?」
「パリで負けたから、ワールドカップで変われたんだべ」
失敗は、ただ経験しただけでは財産にならない。
振り返る。
認める。
次の方法へ変える。
その積み重ねが経験になる。
柚月は後輩たちを見る。
「うちも、みんなよりちょっと年上になった」
すぐに森岡が言う。
「また年寄りみたいなこと言ってる」
「二十八だぞ、まだ!」
笑いが広がる。
柚月も笑った。
「まだまだやるっちゃ。でも、いつかは引退する」
今度は誰も笑わなかった。
「だから、うちが知ってることは渡していきたい」
試合の読み方。
相手との駆け引き。
プレッシャーの中での判断。
オリンピックの空気。
ワールドカップの重圧。
敗戦後の立ち直り方。
「誰か一人だけ強い代表じゃ、続かねぇべ」
柚月の声が強くなる。
「うちが引退した途端に弱くなりました、じゃ駄目。美里がいなくなったら崩れました、でも駄目」
森岡も静かにうなずく。
「みんなが受け継いで、また次へ渡していかなきゃ、日本はいつか世界から置いていかれる」
世界は進歩する。
止まって待ってはくれない。
「昔強かったからって、ずっと強いわけじゃねぇっちゃ」
14 女の子たちへ見せたい未来
柚月は少し笑顔になった。
「それに、日本中にまだ小さい女の子がいるべ」
初めてボールを蹴る子。
テレビの中の代表選手を見ている子。
男子に混じってプレーしている子。
サッカーを始めたいけれど、一歩を踏み出せない子。
「その子たちに、女子だってサッカーできるって見せたいじゃん」
選手たちの表情が柔らかくなる。
「世界と戦える。ワールドカップで優勝できる。オリンピックで金メダルを狙える」
女子だから。
女の子だから。
そんな理由で夢を狭めないでほしい。
「うちらの試合見て、『私もサッカーやりたい』って思ってくれる子が一人でも増えたら嬉しいべ」
早川が言った。
「その子が、十年後に代表へ来るかもしれませんね」
「そう」
柚月は笑う。
「そしたら、今度はその子にうちらの席取られるっちゃ」
宮野が笑う。
「柚月さん、その頃まだ現役だったりして」
「さすがに十年後は三十八だべ!」
森岡が横から言う。
「分からないぞ」
「無茶言うなぁ」
笑いが広がった。
でも、その笑いの中に未来があった。
今ここにいる選手だけではない。
次。
その次。
さらにその次。
女子サッカーの歴史は、そうやって続いていく。
15 競争の初日
翌日。
代表練習。
中盤の選手たちは複数の組み合わせでテストされた。
柚月と宮野。
早川と柚月。
宮野と早川。
さらに若手も加わる。
最初は柚月と早川。
柚月が低い位置。
早川が前。
相手が柚月を警戒して寄る。
柚月はワンタッチで早川へ送る。
早川が前を向く。
一人かわす。
FWへ縦パス。
原町監督が叫ぶ。
「いいぞ!」
次の場面。
早川が前へ出たまま戻れない。
相手がカウンター。
柚月が中央へ入る。
コースを限定する。
相手が外へ逃げる。
そこへ宮野が寄せる。
奪う。
柚月が声を出す。
「莉奈、次もう半歩早く戻るべ!」
「はい!」
次は逆。
柚月が前へ出る。
早川が後ろへ残る。
相手の縦パスを予測し、カット。
柚月へ渡す。
「ナイス、莉奈!」
「ありがとうございます!」
競争。
連係。
指導。
学習。
すべてが同時に起きている。
原町監督は、その光景をじっと見ていた。
柚月が戻ったことで、単純に一人の選手が増えたわけではない。
中盤全体の競争強度が上がった。
早川も、宮野も、さらに集中している。
柚月自身も、若手に負けまいと動いている。
チームが一段階強くなり始めていた。
16 三枚を取りに行く
合宿最終日のミーティング。
原町監督は、大きく三本の線をホワイトボードへ引いた。
「アジアの枠は三つ」
選手たちは前を見る。
「この三枚を取りに行く」
誰かにもらうのではない。
過去の実績で与えられるのでもない。
勝ってつかむ。
柚月は、隣に座る早川を見る。
早川も柚月を見る。
少し笑う。
代表の席を争っている。
それでも、この三枚を取りに行くときは仲間だ。
森岡美里が前方で口を開く。
「みんなで行こう」
短い言葉だった。
それだけで十分だった。
柚月も言う。
「三枚しかないなら、その一枚をうちらが取ればいいっちゃ」
宮野が続く。
「それだけですね」
早川もうなずく。
「取ります」
原町監督は選手たちを見回した。
「ここから先、一試合ごとにロサンゼルスが近づくか、遠ざかる」
静かな緊張が部屋を包む。
「準備はいいか」
全員が答える。
「はい!」
柚月は胸のエンブレムへ手を置いた。
戻ってきた。
でも、ここからだった。
代表へ戻ることが目標だった時期は終わった。
次は、代表として勝つ。
アジアを勝ち抜く。
そしてロサンゼルスへ行く。
パリで届かなかった場所へ。
ワールドカップでつかんだ世界一の、その先へ。
柚月は小さくつぶやいた。
「行くべ、ユリ」
胸の奥で返事が聞こえた気がした。
「行ってこいっちゃ」
十五枚しか残されていない切符。
アジアに与えられた三枚。
その一枚を懸けた戦いが、ついに始まる。
次回予告
第51章「三枚の切符」
ロサンゼルスオリンピック・アジア予選が開幕する。
日本に与えられた保証は何もない。
アジアから本大会へ進めるのは三つの国と地域だけ。
初戦。
日本は、堅い守備と高速カウンターを武器にする相手と対戦する。
ワールドカップ世界王者という肩書は、相手に恐れではなく闘志を与える。
柚月は先発ではなく、ベンチスタート。
中盤には早川莉奈と宮野沙季が入る。
原町監督が示したのは、世代ではなく、その試合に必要な選手を使うという明確な方針だった。
前半、日本はボールを支配する。
しかし相手の守備を崩せない。
焦り始める若い選手たち。
ベンチの柚月は、相手守備のわずかな変化に気づく。
「中央じゃねぇ。外を見せて、中を空けさせるんだべ」
後半。
原町監督が柚月を呼ぶ。
「準備しろ」
柚月が立ち上がる。
早川はピッチの中から、その姿を見る。
競争相手が、今度は試合をともに勝つための仲間として入ってくる。
次回、
第51章「三枚の切符」
代表の席を争うことと、同じ夢を追うことは両立する。




