五分間の実戦
第47章 五分間の実戦
1 たった五分、されど五分
限定的な接触練習を無事に終えた柚月に、次の段階が示された。
四対四のミニゲーム。
時間は五分。
接触あり。
方向転換あり。
攻守の切り替えあり。
これまでのリハビリとは、明らかに違う。
相手は柚月のために動きを待ってくれない。
ボールは予定どおりには転がらない。
味方のトラップがずれることもある。
相手が急に進路を変えることもある。
一つの判断が、次の一秒を大きく変える。
山田羽美監督は、練習前に柚月へ念を押した。
「五分だからね」
「分かってるっちゃ」
「調子がよくても延長なし」
「はい」
「途中で脚に張りが出たら、その時点で終了」
「はい」
山田は少し目を細めた。
「今日は素直だね」
「うちだって成長するべ」
「その言葉、信じておく」
柚月は笑ったものの、胸の奥では緊張が高まっていた。
実戦形式。
その言葉だけで、身体がワールドカップ決勝の記憶を呼び起こす。
でも、もう逃げるつもりはなかった。
怖さはある。
その怖さごと、ピッチへ持っていく。
2 笛が鳴る
チーム分けが行われた。
柚月のチームには、小野寺葵ら若手が入った。
相手側には黒川真緒をはじめ、守備強度の高い選手たちが入る。
山田監督が笛を持つ。
「無理な接触は禁止。でも、普通に奪いには行っていい」
黒川が柚月を見る。
「今日は少し本気で行きますよ」
「来いっちゃ」
「本当に?」
「三割くらいで」
周囲に笑いが起こる。
笛が鳴った。
五分間の実戦が始まる。
最初のボールは葵が持った。
柚月は中央へ入る。
守備役が一人つく。
受ける前に首を振る。
左。
右。
背後。
ボールを受ける。
ワンタッチで返す。
すぐに位置を変える。
右ふくらはぎは問題ない。
次のボール。
今度は身体を半分開いて受ける。
相手が寄せる。
柚月は右足で一度運び、左へパス。
「ナイス!」
葵が声を出す。
柚月の表情に、少しずついつもの感覚が戻ってきた。
3 最初のミス
開始から一分ほど。
柚月が中央でボールを受けた。
目の前の守備が左を切っている。
右側にスペース。
柚月は右へ運ぶ。
その瞬間、別の守備役が斜め後ろから寄せてきた。
視界の外だった。
柚月はパスを出そうとしたが、一瞬遅れた。
ボールを奪われる。
「切り替え!」
柚月が叫ぶ。
相手が一気に前へ出る。
だが、葵がすぐに戻った。
もう一人の味方も中央へ絞る。
相手のパスコースを二人で消す。
柚月も遅れて戻る。
無理に奪おうとはしない。
相手を外へ追い込む。
最後は葵が足を出し、ボールを奪い返した。
「柚月さん!」
葵がすぐにパスを戻す。
ボールは、再び柚月の足元へ来た。
柚月は一瞬だけ驚いた。
自分のミスで失ったボール。
それを、仲間が取り返してくれた。
前日の言葉が、自分へ返ってくる。
ミスしても、みんなで乗り越える。
柚月はそのまま前を向いた。
今度は無理をしない。
一度右へ預ける。
相手が動く。
自分も位置を変える。
戻ってきたボールを、ワンタッチで葵へ通した。
攻撃が続く。
「そう、それでいい!」
山田監督の声が飛ぶ。
柚月は小さく笑った。
ミスを消す必要はない。
次のプレーで、チームとして立て直せばいい。
4 五分の中に戻ってきたもの
二分。
三分。
時間が進む。
柚月は相手の動きを見ながら、少しずつ判断の速度を上げていった。
身体も反応し始める。
守備で横へ動く。
ボールを奪ったら前を見る。
味方が走れば、その先を見る。
ただし、無理に決定的なパスは狙わない。
一度戻す。
もう一度作る。
四分。
黒川が柚月へ身体を寄せる。
以前なら怖さで身体が固まっていた場面。
柚月は低い姿勢を取り、両脚へ体重を分ける。
右脚だけで踏ん張らない。
黒川の圧力を受けながら、左足でボールを守る。
そして背後へパス。
「今のいいっちゃ!」
自分で言ってしまい、周囲が笑う。
「自画自賛ですか!」
「久しぶりだから許してけろ!」
五分。
山田監督の笛が鳴った。
「終了!」
柚月はすぐに足を止めた。
今度は、あと一本とは言わなかった。
呼吸を整えながら、右ふくらはぎへ手を当てる。
痛みはない。
強い張りもない。
ただ、久しぶりに実戦の動きをした疲労感がある。
それが嬉しかった。
「五分、終わった……」
葵が笑顔で近づいてきた。
「普通に試合してましたよ」
「五分だけな」
「でも、途中から全然リハビリ中に見えませんでした」
柚月は少し照れた。
「そう見えたなら、ちょっと戻ってきたってことだべな」
5 後輩から返された言葉
練習後、葵が柚月の隣へ座った。
「さっきの場面、覚えてます?」
「うちがボール取られたところ?」
「はい」
「忘れたいけど覚えてるっちゃ」
「柚月さんが前に言ってたじゃないですか。ミスしても、みんなで乗り越えるって」
柚月は葵を見る。
「だから絶対戻ろうって思いました」
「うちの言葉、覚えてたんだな」
「はい。でも、今日は言葉じゃなくて、本当にそうなりました」
葵は少し笑う。
「柚月さんがミスしたから、みんなで助けられました」
「それ、褒められてる?」
「褒めてます」
二人は笑った。
柚月は、少し胸が熱くなった。
自分が後輩へ渡した言葉が、今度は後輩から返ってきた。
教えるというのは、一方通行ではない。
自分が弱くなったとき、今度は教えた相手に支えられることもある。
それもまた、チームだった。
6 羽美監督から原町監督へ
その日の午後。
山田羽美監督のもとへ、代表の原町監督から連絡が入った。
「今日、ミニゲームへ入ったそうですね」
「はい。四対四で五分だけです」
「状態は」
「終了直後は痛みなし。軽い疲労感はありますが、問題のある張りは出ていません」
「判断はどうでした」
山田は少し考えて答えた。
「まだ完全ではありません。相手が予想外の角度から来たときに、一瞬遅れる場面がありました」
「実戦から離れていた影響ですね」
「はい。ただ、失ったあとに無理して取り返そうとはしませんでした。守備へ戻って、仲間と一緒に立て直しています」
原町監督は電話の向こうで黙って聞いている。
山田は続けた。
「接触への怖さもかなり減っています。ただし、まだ通常の強度には上げていません」
「クラブの試合へ戻す見通しは」
「このまま問題がなければ、次はミニゲームの時間を延ばします。その後、全体練習へ完全合流。そこまで行ってからです」
「急がせるつもりはありません」
原町監督の声は落ち着いていた。
「予選登録期限が近いのは承知しています。でも、こちらの都合で一段階飛ばすことはしないでください」
山田は少し笑う。
「柚月本人にも聞かせたいですね」
「本人には私から言います」
7 原町監督からの電話
夕方。
自宅へ戻った柚月は、右ふくらはぎを冷却していた。
携帯電話が鳴る。
画面には、見慣れた名前。
原町監督。
柚月の表情が変わった。
「もしもし」
『柚月か』
「はい。お疲れさまです」
『今日、五分間のミニゲームへ入ったそうだな』
「羽美監督から聞きました?」
『さっき話した』
柚月は少し姿勢を正した。
『脚はどうだ』
「今のところ大丈夫です。痛みはないです。少し疲れてる感じはあるけど、嫌な張りじゃねぇっちゃ」
『怖さは』
柚月は正直に答えた。
「まだあります」
『どんなときだ』
「予想してない方向から相手が来たときとか、急に身体を当てられそうになると、まだ一瞬固まることがあります」
『それでいい』
柚月は少し意外そうに黙る。
『怖さがゼロになるまで待つ必要はない。大事なのは、怖さがある状態で正しい判断をできるようになることだ』
「はい」
『無理しているか』
「前よりはしてません」
『前よりは、じゃ困る』
柚月が笑う。
「してません。本当に」
『ならいい』
少し沈黙があった。
柚月の胸に、ずっと聞きたかった質問が浮かぶ。
「監督」
『何だ』
「うち、まだ代表の候補に残ってますか」
電話の向こうが静かになった。
柚月は唇を結ぶ。
早川莉奈。
宮野沙季。
他の若手たち。
みんなが代表合宿で結果を出している。
自分はまだクラブのミニゲームを五分間やっただけ。
原町監督は、ゆっくり答えた。
『残している』
柚月は息を止めた。
『代表のお前の席は、まだ空けてある』
言葉が胸へ入ってくる。
柚月の目に、少し涙が浮かんだ。
「本当ですか」
『ただし、勘違いするな』
原町監督の声が少し強くなる。
『空けてあるからといって、無条件で座れる席ではない』
「はい」
『お前が戻ったとき、その席にふさわしい状態でなければ別の選手を選ぶ』
「分かってます」
『だからこそ言う』
原町監督は、はっきりと告げた。
『完全に治して戻ってこい』
柚月は涙を拭った。
『半端な状態で来るな。ワールドカップ優勝の実績だけ持って来ても選ばない。今のお前が代表に必要だと示せ』
「はい」
『焦るな』
「はい」
『でも、諦めるな』
「はい」
『早川も宮野も伸びている。他の若手もだ。簡単には席を返してくれないぞ』
柚月の口元に笑みが浮かぶ。
「返してもらうつもりはねぇっちゃ」
原町監督が少し笑った気配がした。
「結果で取り返します」
『それでいい』
8 空けてある席の意味
電話を切ったあと、柚月はしばらく動けなかった。
代表のお前の席は、まだ空けてある。
その言葉は、特別扱いではない。
むしろ逆だった。
空けてあるということは、戻る可能性を信じてもらっているということ。
同時に、自分でそこまで戻ってこいという要求でもある。
徹がリビングへ入ってきた。
「原町監督?」
「うん」
「何て」
柚月は少し笑いながら答えた。
「うちの席、まだ空けてあるって」
徹はうなずいた。
「よかったな」
「でも、完全に治して戻ってこいって」
「それも正しい」
「半端な状態じゃ選ばないって」
「当然だろ」
柚月は涙を拭いながら笑う。
「みんな厳しいなぁ」
「柚月がそれを望んでるんだろ」
「うん」
徹の言葉に、柚月はしっかりとうなずいた。
過去の実績で守られたいわけではない。
もう一度、自分の力で必要だと思われたい。
そのための席なら、取り戻しに行く価値がある。
9 ユリへの報告
夜。
書斎。
柚月は名取百合子の遺影の前へ座った。
「ユリ。今日、五分だけ試合したよ」
胸の中で、明るい声が返る。
「どうだった?」
「一回ボール取られた」
「珍しくねぇべ」
「そこは慰めろっちゃ」
「でも、取り返した?」
「うちじゃなくて、仲間が取り返してくれた」
少し間があった。
「よかったな」
「うん」
柚月は静かに笑う。
「うちが言ってたこと、逆に後輩から返されたよ。ミスしても、みんなで乗り越えるって」
「ちゃんと伝わってるべ」
「原町監督からも電話きた」
「なんて?」
柚月は、少し誇らしげに答えた。
「代表のうちの席は、まだ空けてあるって」
ユリの声が少し明るくなる。
「なら戻らねぇとな」
「でも完全に治して戻ってこいって言われた」
「当たり前だっちゃ」
「ユリまで」
「半分壊れた柚月が代表行ってどうすんだべ」
「言い方」
二人で笑うような感覚が、柚月の胸に広がった。
そして、少し静かになる。
「ユリ。うち、本当に戻りたい」
「知ってる」
「ロサンゼルス行きたい」
「知ってるっちゃ」
「パリで取れなかったメダル、今度こそ取りたい」
「なら、今日の五分を大事にしろ」
柚月は遺影を見る。
「五分できたからって、明日いきなり九十分にはならねぇべ」
「分かってる」
「でも、五分がなかったら九十分にもならねぇ」
柚月はゆっくりとうなずいた。
「んだな」
10 五分が次へつながる
翌朝。
右ふくらはぎに強い張りは出ていなかった。
柚月はすぐにトレーナーへ報告した。
「問題なしです」
「では今日は、ミニゲームを七分に延ばします」
柚月は一瞬だけ目を輝かせる。
「二分増えたべ」
「速度と接触強度は昨日と同じです」
「分かってるっちゃ」
柚月はピッチへ出る。
後輩たちが声をかける。
「今日も一緒にやりましょう!」
「今度はボール取られないでくださいね!」
「おい、昨日助けてもらったからって急に強気だな!」
笑いが広がる。
その空気が、柚月には嬉しかった。
特別扱いされる負傷者ではない。
少しずつ、また一人の選手として見られ始めている。
その日、ミニゲームで柚月は一度も派手なプレーをしなかった。
しかし、ボールを失った味方のカバーへ戻った。
相手に囲まれた後輩へ、逃げ道になる位置へ動いた。
焦った味方へ声をかけた。
「一回戻していいべ!」
「まだ時間ある!」
「次、みんなで行こう!」
原町監督の言葉が胸に残っている。
代表のお前の席は、まだ空けてある。
だからこそ、急がない。
完全に治して戻る。
そして、その席をもう一度自分のプレーでつかむ。
柚月は芝の上を走った。
まだ七分。
それでも、昨日より二分長い。
世界へ戻る時間は、確実に伸びていた。
次回予告
第48章「十五分の壁」
五分から七分。
七分から十分。
実戦形式で動ける時間を、柚月は少しずつ伸ばしていく。
そしてついに示される、十五分間のミニゲーム。
ここからは、単に脚が動くだけでは足りない。
疲れた状態で正しい判断ができるか。
守備へ戻れるか。
接触を受けてもフォームを崩さないか。
リハビリは、いよいよ「復帰」から「試合へ戻る身体」へ変わっていく。
一方、代表候補では第一次選考を突破した早川莉奈と宮野沙季が、オリンピック予選を想定した強化試合へ挑む。
早川は柚月から教わった言葉を、今度はさらに若い選手へ伝え始める。
「ミスしたあとに何をするかで、次のプレーは変えられる」
柚月から早川へ。
早川から、次の世代へ。
受け継がれるものは、もう動き始めている。
そしてベガルタ仙台レディースでは、山田羽美監督が柚月へ初めて具体的な言葉を告げる。
「この十五分を問題なく越えられたら、ベンチ入りを考える」
次回、
第48章「十五分の壁」
代表の席へ戻る前に、まずクラブのベンチへ。
柚月にとって、試合復帰の日が初めて現実のものとして見え始める。




