最初の接触
第46章 最初の接触
1 次は、ぶつかる
部分合流を続ける柚月のリハビリは、また一つ大きな段階へ進もうとしていた。
これまでの守備役は、あくまで「存在するだけ」だった。
パスコースを切る。
受ける場所を限定する。
近づく。
しかし、身体はぶつけない。
足元へ強く入らない。
柚月の進路へ無理に身体を差し込まない。
その制限が、この日から少しだけ外される。
ベガルタ仙台レディースの練習場。
芝の上には、縦八メートル、横六メートルほどの小さなエリアが作られていた。
トレーナーが柚月へ説明する。
「今日から、限定的な接触を入れます」
柚月の表情が引き締まった。
「どれくらい?」
「肩同士が触れる程度です。腕を使って強く押すことは禁止。足元へのタックルもありません」
「ボールは奪いに来る?」
「来ます。ただし、最大でも通常練習の三割程度です」
守備役を務めるのは、この日も黒川真緒だった。
黒川が冗談めかして言う。
「私、悪役みたいになってません?」
柚月が笑う。
「うちを壊さなきゃ悪役じゃねぇべ」
「それは絶対やりません」
山田羽美監督がすぐに口を挟む。
「その会話で変な競争心を出さないこと」
「出してねぇっちゃ」
「柚月には念押しが必要だから」
「最近、監督もうちの扱い覚えすぎだべ」
笑いが起こる。
それでも、柚月がボールの前へ立つと、空気は変わった。
黒川が目の前にいる。
今までも同じだった。
違うのは、今日はその身体が自分に触れるということ。
ワールドカップ決勝。
疲労した脚。
相手との競り合い。
身体を入れ替えるために踏み込んだ右足。
そこから始まった違和感。
筋肉が伸び切るような感覚。
走れなくなった右脚。
記憶が、思った以上にはっきり残っていた。
トレーナーが尋ねる。
「いけますか」
柚月は一度、深く息を吸った。
「やってみるっちゃ」
2 肩が触れた瞬間
最初の一本。
柚月がボールを足元へ置く。
黒川は一メートルほど離れた位置からスタートする。
「始めます」
笛が鳴った。
柚月は右足でボールを前へ出す。
黒川が横へつく。
速度は遅い。
本気の守備ではない。
それでも、黒川の肩が柚月の左肩へ軽く触れた。
その瞬間だった。
柚月の身体が固まった。
右足で芝を踏む。
だが、その次の一歩が出ない。
ボールが身体から離れる。
黒川はすぐに動きを止めた。
トレーナーも笛を鳴らす。
「止めましょう」
柚月は、その場に立ったままだった。
痛みはない。
右ふくらはぎにも異常はない。
それなのに、心臓だけが速く打っている。
黒川が心配そうに尋ねた。
「柚月さん、大丈夫ですか」
「脚は大丈夫」
「怖かった?」
柚月は答えるまでに少し時間がかかった。
周囲には後輩たちもいる。
世界一になった先輩。
ワールドカップの中盤を支えた選手。
いつでも冷静な選手。
そんな姿を見せたい気持ちは、もちろんあった。
しかし柚月は、無理に笑わなかった。
「怖かった」
はっきり言った。
後輩たちが静かになる。
柚月は右ふくらはぎへ手を添えた。
「肩が当たった瞬間、決勝のとき思い出したっちゃ」
トレーナーがうなずく。
「今日はここで終えても構いません」
柚月は首を振った。
ただし、すぐに再開もしなかった。
「怖いから、もう一回準備させてけろ」
その言葉に、山田監督が小さくうなずいた。
「もちろん」
柚月は数歩歩いた。
呼吸を整える。
右脚へゆっくり体重を乗せる。
痛みはない。
屈伸する。
足首を動かす。
身体へ伝える。
今は決勝ではない。
ここはリハビリだ。
黒川は全力で来ない。
危険なタックルもない。
そして何より、自分は無理をしなくていい。
後輩たちは、その姿を黙って見ていた。
柚月は恐怖を隠さなかった。
それでも、恐怖に支配されて逃げもしなかった。
3 二度目は、自分から近づく
五分ほど休んだあと、柚月は再びエリアへ入った。
黒川が確認する。
「本当にいいですか」
「うん。今度はうちから当たりに行く」
「それは聞いてないです」
トレーナーがすぐ止める。
「当たりに行くのではなく、接触を受け入れる、です」
柚月は笑った。
「そういう意味だっちゃ」
二本目。
笛が鳴る。
柚月はボールを運ぶ。
黒川が横へ入る。
今度は、柚月も黒川の位置を見る。
肩が近づく。
逃げない。
ただし、強く踏ん張らない。
身体の中心を低くし、左右両方の脚へ体重を分散させる。
肩が触れる。
一瞬、怖さがよみがえる。
それでも今回は、右脚が止まらなかった。
一歩。
もう一歩。
柚月はボールを左足へ持ち替える。
黒川との接触を利用するように、身体を半分だけ前へ入れる。
そして、五メートル先にいる味方へパスを送った。
笛が鳴る。
「そこまで!」
柚月は立ち止まり、すぐに右脚の状態を確認した。
痛くない。
張っていない。
動けた。
「できた……」
思わず声が漏れる。
黒川が笑う。
「今のは普通に身体入れられましたね」
「怖かったけどな」
「でも、一本目と全然違いました」
後輩たちから拍手が起こる。
柚月は少し照れながら手を上げた。
「まだ三割だべ!」
葵が答える。
「でも、一回目は止まったのに、二回目はできました!」
柚月はその言葉を聞き、笑った。
そうだった。
一回目にできなかったことを、二回目にできた。
それが今は何より大切だった。
4 怖いと言える先輩
休憩時間。
後輩たちは自然と柚月の周囲へ集まってきた。
最初に質問したのは小野寺葵だった。
「柚月さん」
「ん?」
「世界大会に出るような選手でも、あんなに怖くなるんですか」
柚月はスポーツドリンクを一口飲んでから答えた。
「なるっちゃ」
迷いはなかった。
「怖くなくなると思ってた?」
「ちょっとだけ」
「世界一になったら、人間じゃなくなるわけじゃねぇべ」
周囲から笑いが起こる。
柚月も笑う。
「大きい大会ほど怖いこと、いっぱいあるよ。ミスしたらどうしよう。相手が強かったらどうしよう。自分のところから失点したらどうしよう。けがしたらどうしよう」
別の若手が尋ねる。
「じゃあ、どうやって怖さをなくすんですか」
柚月は首を振った。
「なくさなくていい」
後輩たちの表情が変わる。
「怖いのは、それだけ本気だからだっちゃ」
「本気だから?」
「失いたくないものがあるから怖くなる。勝ちたいから負けるのが怖い。仲間を大事にしてるから、自分のミスで迷惑かけるのが怖い」
柚月は芝の上に置かれたボールを見る。
「大事なのは、怖くないふりをすることじゃない。怖いときでも、次に何をするか考えられることだべ」
一本目の自分。
身体が固まった。
そこですぐ二本目へ行かなかった。
呼吸を整えた。
右脚を確認した。
接触したとき、どこへ体重を置けばいいか考えた。
そして、もう一度挑戦した。
「それが勇気ってことですか」
葵が尋ねる。
柚月は少し考えて答える。
「うちは、そう思ってるっちゃ」
5 世界と戦うために、一番必要なもの
その話をきっかけに、後輩たちから次々と質問が出始めた。
「柚月さん、世界と戦うために一番必要なのって何ですか」
「技術ですか?」
「フィジカル?」
「判断力?」
「メンタルですか?」
柚月は腕を組んだ。
「全部必要」
「全部ですか」
「そりゃそうだべ。世界トップと戦って、技術なくていいです、走れなくていいです、なんて無理だからな」
また笑いが起きる。
しかし柚月は、そこで表情を少し真剣にした。
「でも、うちが一番大事だと思うのは、仲間を信頼できることだっちゃ」
後輩たちが静かになる。
「自分だけで全部やろうとしないこと」
代表レベルになれば、誰もが技術を持っている。
走れる。
戦える。
それでも、一人では世界に勝てない。
柚月はワールドカップ決勝を思い出しながら話した。
「絶対にミスは起きる」
パスミス。
判断ミス。
マークの受け渡し。
シュートミス。
セーブできなかったボール。
どんなに準備しても、九十分間すべてを完璧にすることはできない。
「そこで『誰のせいだ』ってなったら終わるっちゃ」
「じゃあ、どうするんですか」
「次、どうやってみんなで助けるか考える」
柚月は言う。
「自分がミスしたら、誰かが助けてくれる。誰かがミスしたら、自分が助ける。それを本当に信じられるかどうか」
言葉で「仲間を信じる」と言うだけでは足りない。
普段の練習。
コミュニケーション。
互いの特徴を知ること。
調子の悪い選手に気づくこと。
誰がどこまで走れるのか。
誰がどういう声をかけられると立ち直れるのか。
そうした積み重ねが、最後の一歩を変える。
「世界の試合ってな、苦しくなったときに、ほぼ絶対予定どおりじゃなくなるっちゃ」
後輩たちが聞き入る。
「そのとき最後に頼れるのは、戦術ボードじゃない。隣にいる仲間だべ」
6 ワールドカップ決勝で起きたこと
一人の後輩が尋ねた。
「ワールドカップ決勝でも、そういう場面ありました?」
「いっぱいあった」
柚月は即答した。
アメリカに先制された時間。
ボールを支配される時間。
思いどおりに前進できない時間。
自分たちのパスがずれ始めた時間。
「決勝だからって、急にみんな完璧になるわけじゃねぇべ」
「そうなんですか」
「むしろ、いつもより緊張するし、いつもなら普通にできることができなくなることもある」
大切なのは、そのときに誰かを責めないことだった。
ミスが出れば、近くの選手が声をかける。
「大丈夫」
「次あるよ」
「こっち見て」
「一回落ち着こう」
その声が、チームをつないでいく。
「うちらが世界一になれたのは、ミスしなかったからじゃねぇっちゃ」
柚月は続けた。
「ミスしても壊れなかったからだべ」
その言葉を、後輩たちは静かに受け止めた。
「一人が崩れそうになったら、二人で支える。二人が苦しかったら、後ろから三人目が声を出す。それを九十分続ける」
「それが精神力なんですね」
「うん。でも精神力って、『気合いだ』って叫ぶことだけじゃない」
冷静さ。
修正する力。
仲間を許す力。
自分のミスを引きずらない力。
苦しいときにも周囲を見る力。
「みんなで苦しい時間を乗り越えられる力。それが本当の精神力だと、うちは思うっちゃ」
7 いつか、自分はいなくなる
少し間が空いた。
柚月は後輩たちを見回した。
十代。
二十代前半。
これから日本女子サッカーを背負っていく世代。
柚月は笑いながら、自分を指さした。
「うちも、みんなより少し年を重ねてきてるからな」
葵がすぐに言う。
「二十八歳で何言ってるんですか」
「そこ、ユリにも怒られたっちゃ」
笑いが起こる。
しかし柚月は、すぐに真剣な口調へ戻った。
「まだまだやるよ。オリンピックも行くつもりだし、簡単に席譲る気もない」
「はい」
「でも、永遠に選手でいられるわけじゃないべ」
後輩たちが黙る。
「いつかは、うちも引退する日が来る」
その事実は避けられない。
高梨美緒も引退した。
その前の世代も、さらにその前の世代も、いつかピッチを去った。
「だからな、誰か一人だけ強い選手がいればいいってチームにしちゃ駄目なんだっちゃ」
一人の天才。
一人のスター。
一人のエース。
その選手がいる間だけ勝てるチームでは、未来は続かない。
「うちがいなくなったら弱くなりました、じゃ意味ねぇべ」
柚月は自分の胸を指す。
「うちが持ってるものは、全部渡していきたい」
技術。
試合の読み方。
相手との駆け引き。
身体の使い方。
大会の経験。
敗戦の悔しさ。
勝利の喜び。
けがから戻る苦しさ。
そして、仲間を信じること。
「それを受け取ったみんなが、また次の世代へ渡してほしい」
葵が尋ねる。
「それが、女子サッカーを強くし続けるってことですか」
「そうだっちゃ」
8 没落させないために
柚月は、高梨美緒が代表を引っ張っていた時代を思い出した。
二〇一一年。
初めて世界の頂点へ立った日本女子代表。
その優勝は、多くの少女たちに夢を与えた。
しかし、一度世界一になったからといって、その強さが自動的に続くわけではない。
世代は変わる。
戦術も変わる。
世界も進歩する。
他国の女子サッカー環境も急速に整っていく。
立ち止まれば、あっという間に追い抜かれる。
「昔強かったから、これからも強いなんて保証はどこにもねぇべ」
柚月は言った。
「技術も考え方も経験も、次の世代へ渡さなかったら、いつかまた落ちる」
誰か一人が代表を背負い続けることはできない。
だからこそ、文化として残さなければならない。
苦しいときに支え合うこと。
若い選手へ教えること。
先輩に遠慮しすぎず競争すること。
後輩の成長を恐れないこと。
「うちは、莉奈にも教えられることは教えてる」
「代表でポジション争ってる選手ですよね」
「そう」
「怖くないんですか」
「怖いっちゃ」
柚月は笑う。
「莉奈が強くなれば、うちが代表に戻れなくなるかもしれねぇもん」
「それでも教えるんですか」
「だって、日本が強くなるべ」
後輩たちは黙った。
「そのうえで、うちが莉奈より必要だと思わせればいい」
その考え方こそ、柚月が高梨美緒から受け取ったものの一つだった。
自分の場所を守るために、次の世代を抑えるのではない。
次の世代を育て、その中でも自分が競争する。
それが、強い代表を作る。
9 女子だって、世界と戦える
柚月の声が少し明るくなった。
「それにさ」
後輩たちを見る。
「うちらだけの話じゃねぇんだよ」
「どういうことですか」
「日本中に、まだ小さい女の子がいっぱいいるべ」
公園で初めてボールを蹴った子。
兄や友達についてサッカーを始めた子。
テレビで日本代表を見て憧れた子。
学校で男子に交じってプレーしている子。
まだクラブへ入る勇気がない子。
「その子たちに、女子だってサッカーできるって見せたいじゃん」
柚月の声に熱がこもる。
「日本代表になれる。世界と戦える。ワールドカップで優勝できる。オリンピックで金メダルを目指せる」
後輩たちの表情が変わっていく。
「女の子だから無理って言わせたくねぇっちゃ」
柚月自身も、少女だった。
ボールを追いかけた。
代表に憧れた。
名取百合子と、一緒に世界へ行こうと約束した。
その百合子は、夢をかなえる前に亡くなった。
だからこそ、自分が走り続けることには意味がある。
「みんなが活躍したら、それを見てサッカー好きになる女の子が出てくる」
一人。
十人。
百人。
千人。
その中から、未来の日本代表が生まれるかもしれない。
「うちらが今やってるサッカーって、今の代表だけのものじゃねぇっちゃ」
柚月は続けた。
「十年後、二十年後の女子サッカーにつながってる」
葵が静かに言った。
「だから、受け継がないといけないんですね」
「うん」
柚月は笑った。
「そして、もっと強くして渡す」
10 オリンピックという場所
後輩の一人が、さらに質問した。
「柚月さん。オリンピックって、本当にそんなに特別なんですか」
柚月は少しだけ考えた。
「特別だよ」
短い答えだった。
しかし、その声は深かった。
女子サッカーで本大会へ立てるのは、十六の国と地域。
世界中でサッカーをする国々の中から、それだけしか参加できない。
ワールドカップとはまた違う狭き門。
「まず、出るところから難しい」
予選で一つ負ける。
一つ引き分ける。
一得点足りない。
そのわずかな差で、何年間も目指してきた舞台へ行けなくなることがある。
「しかも、本大会へ行って終わりじゃない」
短期間の連戦。
限られた登録枠。
異なる環境。
世界最高峰の相手。
そして、国全体から注目される舞台。
「出た人にしか分からない空気って、本当にあるっちゃ」
葵が聞く。
「パリのときも?」
柚月はうなずいた。
11 パリで取れなかったもの
二〇二四年、パリ。
柚月たちはメダルを目指して大会へ入った。
しかし、その夢はかなわなかった。
敗退が決まった瞬間。
芝の上へ座り込む選手。
顔を覆う仲間。
何も言えず、ただ立っている選手。
柚月自身も、試合終了の笛を聞いた直後は、身体から力が抜けた。
「あのとき、悔しいって言葉じゃ足りなかったっちゃ」
後輩たちは、黙って聞いていた。
「何年も準備して、予選を突破して、やっとオリンピックに行って。それでもメダルが取れない」
選手村へ帰れば、ほかの競技の日本代表選手たちがいる。
メダルを持って帰ってきた選手。
惜しくも届かなかった選手。
それぞれの人生が交差する。
「メダル取った選手見て、本当におめでとうって思ったよ」
でも、胸の奥には別の感情もあった。
自分たちも欲しかった。
自分たちも表彰台へ立ちたかった。
「だから、今度こそって思ってる」
ロサンゼルス。
柚月が目指す次の舞台。
「ワールドカップで世界一になったから、パリの悔しさが消えたわけじゃねぇべ」
勝利と敗北は、帳消しにはならない。
それぞれが選手の中に残る。
「あの悔しさを知ってるから、今度のオリンピックでやるべきことも分かる」
焦ったときに落ち着く。
味方を信じる。
自分一人で試合を変えようとしない。
ミスを引きずらない。
最後までチームで戦う。
「経験って、こういうことだと思うっちゃ」
柚月は言った。
「経験しただけじゃ意味ない。その経験を次の人へ渡して、初めてチームの財産になる」
12 早川莉奈と宮野沙季
代表候補合宿では、オリンピック予選を見据えた候補選手の絞り込みが進んでいた。
早川莉奈と宮野沙季は、この日も同じ中盤で起用されていた。
早川が前へ出る。
宮野が後ろを支える。
宮野が前へ出れば、早川が低い位置へ下がる。
競争相手。
それでも、同じピッチへ立てば仲間。
紅白戦の終盤。
早川が中央でボールを失った。
相手が一気にカウンターへ入る。
一瞬、早川の顔に焦りが出た。
しかし、後ろから宮野の声が飛ぶ。
「莉奈、右切って!」
早川はすぐに動く。
自分で奪い返そうとしない。
相手の右側を消す。
中央へ誘導する。
そこへ宮野が入った。
二人で挟む。
ボールを奪い返す。
早川はすぐに宮野へ言った。
「ありがとうございます!」
「次、行くよ!」
二人はそのまま攻撃へ移る。
原町監督は、その一連の動きを見ていた。
ミスはした。
しかし、その直後にチームは崩れなかった。
誰かが責めることもなかった。
互いに補い、次へ進んだ。
それこそ、柚月が後輩たちへ語っている「精神力」だった。
13 予選登録の時計
練習終了後。
原町監督はスタッフミーティングへ入った。
テーブルには、オリンピック予選候補選手の一覧が並ぶ。
GK。
DF。
MF。
FW。
選べる人数には限りがある。
その中には、柚月の名前もまだ残されていた。
ただし、横には注記がある。
負傷離脱中。所属クラブで部分合流。実戦復帰未定。
代表スタッフの一人が言う。
「ベガルタでは接触を伴うリハビリへ入りました」
原町監督が資料を見る。
「反応は」
「最初の一本は恐怖から身体が固まったそうです。ただ、その後は問題なく限定的な接触をこなしています」
岩出コーチが言う。
「身体はかなり戻っていますね」
原町はうなずいた。
「だが、予選登録の期限は待ってくれない」
部屋が静かになる。
柚月には経験がある。
ワールドカップ優勝。
パリオリンピック。
国際大会での数多くの試合。
そして、若手へ影響を与える力。
だが、代表は教育の場だけではない。
勝つためのチームだ。
「所属クラブで試合へ出なければ、判断できない」
原町ははっきり言った。
「十五分でもいい。二十分でもいい。実際の相手がいる試合で、判断速度と身体の反応を確認する必要がある」
「時間はかなりぎりぎりです」
「分かっている」
原町は柚月の名前を見つめた。
「だからこそ、急がせない」
矛盾しているように聞こえる。
しかし、本当は逆だった。
期限が近いから無理をすれば、すべてを失う。
間に合わせたいからこそ、壊してはいけない。
14 三本目の接触
仙台。
この日の接触練習も終盤へ入っていた。
最初に身体が固まった柚月は、その後、一本ずつ接触の強度を上げていた。
肩。
腰。
相手の腕。
身体を寄せられながらボールを守る。
まだ全力ではない。
それでも、少しずつ実戦の感覚へ近づいている。
黒川が右側から寄せる。
柚月は身体を入れる。
右脚で芝を押す。
怖さはある。
しかし、右足だけで踏ん張らない。
左脚も使う。
上半身で相手との距離を作る。
ボールを左足へ移す。
黒川がさらに横へつく。
柚月は無理に突破しない。
一度後ろへパスを戻した。
すぐに位置を変える。
もう一度受ける。
今度は前を向けた。
「ナイス!」
後輩から声が飛ぶ。
柚月は笑った。
派手な突破ではない。
しかし、自分の身体と相手の位置を見ながら、一つのプレーを最後まで続けた。
トレーナーが笛を鳴らす。
「今日はここまでです」
以前の柚月なら、
「あと一本」
と言っていたかもしれない。
この日は違った。
「はい」
すぐにボールを置いた。
葵が笑う。
「柚月さん、本当に変わりましたね」
「何が?」
「ちゃんと終われるようになりました」
「そこ褒められる二十八歳って、どうなんだべ」
チーム全体に笑いが広がる。
その笑いの中で、柚月は右ふくらはぎへ手を添えた。
痛くない。
強い張りもない。
そして何より、接触から逃げずに終えることができた。
15 受け継いでいくということ
練習後。
後輩たちは用具を片づけ始めた。
葵がボールを集めながら、近くにいた若手へ声をかける。
「ミスしても、自分一人で取り返そうとしなくていいからね。周り使おう」
別の選手が答える。
「うん。今日、柚月さんが言ってたやつだよね」
「そう。でも、自分たちなりにできるようにしよう」
柚月は少し離れた場所から、その会話を聞いていた。
自分の言葉が、そのままコピーされているわけではない。
若い選手たちが、自分で考えて、自分の言葉へ変え始めている。
それでいい。
むしろ、それがいい。
高梨美緒が残したものを、柚月がそのまままねしなかったように。
柚月が残すものも、後輩たちが自分の形へ変えていけばいい。
山田羽美監督が隣へ立った。
「伝わってるね」
「うん」
「嬉しい?」
「ちょっとな」
柚月は照れながら答えた。
「でも、まだ引退しねぇぞ」
「誰も引退セレモニーの準備はしてないよ」
「うち、まだオリンピック行くからな」
「分かってる」
山田は笑った。
柚月は若手たちを見つめた。
いつか、自分はいなくなる。
でも、サッカーは続く。
日本代表も続く。
女子サッカーも続く。
だから今、自分が渡せるものを渡す。
そして、自分もまだその中で戦う。
教えるから退くのではない。
受け継がせながら、自分も競争する。
それが今の柚月だった。
16 名取百合子へ話す未来
夜。
自宅の書斎。
柚月は名取百合子の遺影の前へ座った。
「ユリ。今日、初めて身体ぶつけたよ」
胸の中で、いつもの声が返ってくる。
「怖かった?」
「最初、めちゃくちゃ怖かったっちゃ」
「逃げた?」
「一回止まった」
「それから?」
「準備し直して、もう一回やった」
「できた?」
「できた」
写真の中のユリが、笑っているように見えた。
「それから、後輩たちといっぱい話したよ」
「何話したんだべ」
「世界で戦うには、仲間を信じることが一番大事だって」
「柚月らしくなってきたっちゃ」
「昔のうちだったら、自分で全部やろうとしてたもんな」
「知ってる」
「即答すんなぁ」
柚月は笑う。
そして、少し静かな声になった。
「うちも、いつか引退するんだよな」
ユリは少し間を置いてから答える。
「いつかはな」
「でも、そのときに日本が弱くなってほしくねぇっちゃ」
「なら、今渡せるもの渡せばいいべ」
「うん」
「でもその前に、ロサンゼルス行くんだろ?」
柚月は笑った。
「行く」
「金メダル取るんだろ?」
「取る」
「なら、まだ先輩風吹かせて終わってる場合じゃねぇっちゃ」
柚月は声を出して笑った。
「ほんと容赦ねぇなぁ」
それでも、その言葉が嬉しかった。
まだ終わりではない。
次世代へ渡す者でありながら、自分も挑戦者でいられる。
柚月は遺影の隣に置かれたワールドカップの金メダルへ触れた。
「次は、オリンピックの金色をここに並べるべ」
天国から、懐かしい声が返ってくる。
「楽しみにしてるっちゃ」
次回予告
第47章「五分間の実戦」
限定的な接触練習を乗り越えた柚月。
次に示されたのは、四対四のミニゲームへの参加だった。
時間は、わずか五分。
接触あり。
方向転換あり。
守備の切り替えあり。
そして何より、相手は柚月のために待ってはくれない。
リハビリメニューでは予測できた動きが、試合形式では一瞬ごとに変化する。
ボールを奪われる。
味方のミスをカバーする。
逆に、自分のミスを仲間に助けてもらう。
柚月は、自ら後輩へ語った言葉を今度は実戦の中で試される。
「ミスしても、みんなで乗り越える」
その言葉どおり、柚月がパスを失った直後、後輩たちが一斉に守備へ戻る。
そして奪い返したボールが、再び柚月の足元へ戻ってくる。
一方、代表候補合宿では、予選登録メンバーの第一次絞り込みが行われる。
早川莉奈と宮野沙季は、ともに候補へ残る。
しかし原町監督は、まだ柚月の名前を外さない。
「クラブで実戦へ戻った時点で、もう一度見る」
時間は少ない。
それでも、可能性はまだ消えていない。
次回、
第47章「五分間の実戦」
信頼とは、ミスをしないと信じることではない。
ミスをしても、隣の仲間が一緒に立て直してくれると信じることなのだ




