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あの日の春風は今も  作者: リンダ


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接触のない攻防

第45章 接触のない攻防


1 守備役が立つだけで


部分合流を始めてから、柚月の右ふくらはぎには大きな異常が出ていなかった。


ウォーミングアップ。


短いパス交換。


守備役のいない非接触メニュー。


練習後の張りも軽く、翌朝には消えている。


走る距離も少しずつ伸び、方向転換の動きにも安定感が戻っていた。


その日の朝、トレーナーから次の段階が伝えられた。


「今日から、守備役を置いたパス回しへ進みます」


柚月の表情が明るくなる。


「やっと相手が入るんだべ」


「ただし、身体接触は禁止です」


「分かってるっちゃ」


「守備役はボールを強く奪いに行きません。パスコースを限定し、受ける位置を変えさせるだけです」


「それでも、守備がいるのといないのでは全然違うべ」


「はい。だからこそ、慎重に始めます」


芝の上には、十メートル四方のグリッドが作られていた。


外側に四人のパス役。


中央には守備役が一人。


柚月はグリッドの右側へ入った。


向かいには小野寺葵。


左右には二人のチームメート。


中央の守備役を務めるのは、ベテランDFの黒川真緒だった。


黒川は柚月へ確認する。


「本当に寄せるだけでいいんですよね」


トレーナーが答えた。


「距離は一メートル以上空けてください。足を出しても構いませんが、ボールへ触れないようにしてください。柚月さんの進路へ身体を入れるのも禁止です」


黒川はうなずいた。


「分かりました」


柚月は足元のボールを見る。


守備役が立っている。


それだけで、これまでのパス練習とは空気が違った。


相手の身体の向き。


一歩目。


どちらのコースを切ろうとしているのか。


それを見て、自分の立ち位置を変えなければならない。


トレーナーが笛を鳴らした。


ボールが動き始める。


左から柚月へパスが来る。


受ける前に中央を見る。


黒川が内側のコースを切っている。


柚月は身体を半分外へ向け、右足でボールを止めた。


次の瞬間、黒川が一歩近づく。


接触はない。


強く奪いにも来ていない。


それでも柚月の身体が一瞬固まった。


急な方向転換。


伸ばした右脚。


ワールドカップ決勝で感じた鋭い張り。


あの記憶が、守備役の動きに重なった。


ボールは柚月の足元にある。


左側へのパスコースも見えている。


しかし、右脚が次の動きをためらった。


「柚月さん」


トレーナーの声が飛ぶ。


「無理に続けなくていいです」


柚月は大きく息を吐いた。


「大丈夫。もう一回やるっちゃ」


2 身体より先に止まった心


パス回しが再開される。


今度は右側からボールが入った。


柚月は受ける前に、二度周囲を確認した。


中央の黒川。


左側の味方。


背後の空間。


黒川は柚月の正面を切るように立っている。


外側のコースが空いていた。


柚月は右足の内側で、左足の前へボールを置こうとした。


しかし、ボールを動かした瞬間、身体が無意識に右脚をかばった。


上半身が左へ傾く。


歩幅が小さくなる。


パスは出せたが、動きは滑らかではなかった。


トレーナーが笛を鳴らした。


「一度止めましょう」


柚月は悔しそうに唇を噛んだ。


「痛くはねぇべ」


「分かっています」


「だったら続けられるっちゃ」


「身体が接触を予測して、動きを止めています」


トレーナーは柚月の右脚だけではなく、全身の動きを見ていた。


「今は黒川選手が距離を空けています。それでも柚月さんは、ぶつかられることを想定して身体を固めました」


「決勝のことを思い出しただけだべ」


「それが今の課題です」


黒川が中央から出てきた。


「ごめんなさい。寄せが速かったですか」


柚月は首を振る。


「真緒は悪くねぇっちゃ。ちゃんと距離も空けてた。うちが勝手に怖くなっただけだべ」


山田羽美監督が近づいてくる。


「怖くなることは悪くないよ」


「でも、これくらいで固まってたら、試合なんか無理だべ」


「だから、今ここで練習しているんでしょう」


山田はグリッドの中央へ立った。


「けがをした脚が戻っても、心がすぐに同じ速度で戻るとは限らない」


柚月は黙って聞く。


「怖さをなくそうとしなくていい。まずは、何が怖いのかを具体的にしよう」


「相手が寄せてきたとき、急に切り返して、また右脚が伸びるのが怖い」


「なら、最初から急な切り返しを選ばなくていい」


山田はグリッドの外側を指した。


「受ける前に位置を変える。相手が近づく前に離す。怖くなってから逃げるのではなく、怖くならない状況を自分で作る」


柚月は中央の黒川を見る。


相手が寄せてから対応しようとしていた。


それでは、一歩の判断が遅れれば急な動きが必要になる。


けがをする前なら、それでも身体が追いついた。


今は違う。


相手が来てから変えるのではなく、来る前に準備する。


「もう一回、やらせてけろ」


3 受ける前の一歩


練習が再開された。


今度はボールが反対側にある間に、柚月が一歩後ろへ下がった。


黒川との距離を広げる。


身体を斜めに向ける。


右にも左にもパスを出せる姿勢を作る。


ボールが柚月へ来る。


黒川が内側を切りながら寄せる。


柚月は、ボールを止めてから考えなかった。


右足で触れた瞬間、そのまま外側の味方へ返す。


ワンタッチ。


黒川が近づく前に、ボールは柚月の足元から離れていた。


「今のです」


トレーナーが声をかける。


「受ける前に逃げ道を作れました」


次のパス。


今度は黒川が外側を切る。


柚月は中央へ入り直す。


左足で受け、右足を大きく伸ばさずに返す。


動きはまだ慎重だった。


しかし、前の二本よりも身体の力みは少ない。


三本。


五本。


十本。


黒川が位置を変えるたび、柚月も受ける場所を少しずつ変える。


相手が近づいてから急に逃げるのではない。


相手の立ち位置を見て、先に次の場所を選ぶ。


柚月が長年磨いてきた観察力が、今度は自分の身体を守るために使われていた。


黒川が中央を閉じる。


柚月は一度、後方へ下がる。


味方へパスを返し、すぐに別の角度へ動く。


再びボールを受ける。


今度は前方が空いている。


柚月は二歩だけ運び、左側へパスを出した。


「よし!」


思わず声が出る。


山田監督が笑った。


「得点したみたいな喜び方だね」


「今のは大事な一本だべ」


守備役を前にしても、身体が止まらなかった。


接触はない。


速度も遅い。


それでも、恐怖を抱えたまま自分で判断し、プレーを続けられた。


柚月にとっては、大きな一歩だった。


4 後輩たちが見るもの


練習を終えた柚月は、右ふくらはぎを冷却しながら仲間たちの全体練習を見ていた。


若手の選手たちが、狭いエリアでのボール回しを続けている。


小野寺葵が相手の寄せを受け、パスコースを失った。


以前なら、無理に縦へ出していた場面だった。


しかし葵は、一度後ろへ戻した。


すぐに立ち位置を変え、別の角度から受け直す。


相手の守備が少しずれる。


葵は今度こそ、中央へパスを通した。


柚月が声を上げる。


「葵、今のいいっちゃ!」


葵は振り返り、笑顔で手を上げた。


別の若手がボールを失った。


悔しさから一瞬足が止まりかける。


すると葵が声をかける。


「まだ終わってない! 切り替えて!」


二人で相手を追う。


すぐに奪い返すことはできなかった。


それでも、最後までプレーを諦めなかった。


練習が一区切りつくと、若手選手たちが柚月の周囲へ集まった。


「柚月さん、さっき守備役が入った練習、怖くなかったんですか」


一人が尋ねた。


柚月は隠さなかった。


「怖かったよ」


「やっぱり、怖いんですね」


「めちゃくちゃ怖かったっちゃ。最初は身体が動かなかったべ」


若手たちは少し驚いた表情を見せる。


彼女たちにとって柚月は、ワールドカップ優勝を経験した世界王者だった。


どんな状況でも冷静で、恐怖など感じない選手だと思っていた。


「でも、怖いからやめたら、次には進めねぇべ」


柚月は冷却中の右脚へ目を落とす。


「だからって、怖さを無視して突っ込むのも違う。何が怖いかを見て、どうすれば無理な動きをしなくて済むか考えたっちゃ」


「逃げたんじゃなくて、方法を変えたんですね」


「そう。諦めないって、同じやり方を続けることじゃねぇべ」


柚月は後輩たちを見回した。


「目標を実現させるために必要なのは、気持ちだけじゃない」


努力。


観察。


準備。


修正。


休む判断。


助けを求めること。


自分の弱さを認めること。


「絶対に諦めないって言うだけなら簡単だっちゃ。でも、本当に諦めない選手は、うまくいかなかったときにやり方を変えられる」


葵が静かに聞いていた。


「柚月さんは、オリンピックをまだ諦めていないんですよね」


「当たり前だべ」


柚月は即答した。


「でも、行きたいって言うだけじゃ駄目だ。代表に必要だと思わせるプレーを戻す。クラブで結果を出す。身体を壊さない。その全部をやって、初めて目標に近づけるっちゃ」


後輩たちは、言葉だけを聞いていたのではない。


三十センチのボールタッチから始めた姿。


走りたいのに走らず、決められた時間で練習を終えた姿。


一度芝へ戻ったあと、張りが出て屋内練習へ戻った姿。


部分合流を始めても、途中で列を離れた姿。


守備役を前に身体が止まり、それでも方法を変えてもう一度挑んだ姿。


柚月が語る「諦めない」は、きれいな言葉ではなかった。


日々のプレーと行動によって裏づけられたものだった。


5 十六枚しかない切符


その日の午後、ベガルタ仙台レディースでは、オリンピック予選に関する映像ミーティングが開かれた。


柚月だけではなく、若手選手たちにも国際大会の厳しさを理解してもらうためだった。


山田羽美監督が前方の画面に資料を映す。


「オリンピックの女子サッカー本大会に出場できるのは、十六の国と地域だけです」


ワールドカップよりも少ない。


一度の敗戦。


一度の引き分け。


一つの得失点差。


そのすべてが、出場権を左右する。


「予選では、強い相手に勝つだけでは足りない。日程、移動、気候、芝の状態、連戦の疲労。あらゆる条件を受け止めながら結果を残さなければいけません」


若手選手たちが資料を見つめる。


柚月は、その厳しさを知っていた。


オリンピックは、出場すること自体が難しい。


さらに本大会へ出れば、短い期間に試合が続く。


選手登録の枠も限られる。


一人のけがが、チーム全体の戦い方を変える。


ワールドカップとは違う緊張がある。


「柚月」


山田監督が声をかけた。


「実際に経験した選手として、みんなへ伝えたいことはある?」


柚月は少し考え、前へ出た。


「オリンピックは、ほかの大会と全然違うっちゃ」


後輩たちが顔を上げる。


「国を背負うって意味ではワールドカップも同じだべ。でも、オリンピックはサッカーだけの大会じゃない」


選手村。


異なる競技の選手たち。


世界中から集まった代表団。


一つの国の中でも、それぞれ違う競技に人生を懸けてきた選手たちが同じ場所にいる。


「自分たちの試合だけじゃなくて、ほかの競技の結果も入ってくる。メダルを取った選手の喜びも、届かなかった選手の悔しさも近くにあるっちゃ」


テレビで見るのとは違う。


スタジアムの歓声だけでもない。


出場した者にしか分からない空気がある。


自分が選ばれたことへの誇り。


選ばれなかった仲間への責任。


国を代表する重さ。


短い期間で結果を出さなければならない焦り。


「オリンピックは、出てみないと分からないことが本当に多い」


柚月の声が少し低くなる。


「そして、メダルを取れなかったときの悔しさも、出た選手にしか分からねぇっちゃ」


6 パリで残った悔しさ


柚月の脳裏に、二〇二四年のパリオリンピックがよみがえった。


日本はメダルを目指して大会へ入った。


長い予選を勝ち抜き、限られた十六の出場枠をつかんだ。


選手たちは、自分たちなら表彰台へ届くと信じていた。


しかし、結果は届かなかった。


試合終了の笛。


電光掲示板に残る得点。


立ち尽くす選手。


泣きながら芝へ座り込む仲間。


スタンドへ挨拶に向かう足の重さ。


柚月は、あの日の感覚を今でも覚えていた。


「パリでは、メダルを取れなかった」


練習場が静かになる。


「胸を張って帰ろうって言われた。でも、すぐには無理だったっちゃ」


選ばれた責任。


応援してくれた人々への申し訳なさ。


もっとできたのではないかという後悔。


あのパスを別の方向へ出していれば。


あのとき、もう一歩早く戻れていれば。


一本決めていれば。


一つ止めていれば。


考えても結果は変わらない。


それでも、何度も頭の中で試合をやり直した。


「選手村へ戻ると、メダルを取ったほかの競技の選手がいた。みんな笑顔で迎えてくれたべ。『お疲れさま』って言ってくれた」


柚月は少し笑う。


「嬉しかった。でも、同時に悔しかったっちゃ。うちらも、あそこにメダルを持って帰りたかった」


後輩の一人が尋ねる。


「その悔しさは、ワールドカップ優勝で消えましたか」


柚月は首を振った。


「消えねぇべ」


世界一になった。


大きな夢をかなえた。


それでも、パリで取り逃したメダルへの思いは残っている。


喜びが悔しさを消すのではない。


二つは別の記憶として胸にある。


「だから、次のオリンピックへ行きたい」


柚月ははっきりと言った。


「ワールドカップで優勝したから、もう十分だとは思わねぇっちゃ。パリで届かなかった場所へ、もう一回挑みたい」


「金メダルですか」


「金メダルだべ」


迷いはなかった。


「でも、金メダルが欲しいって言うだけじゃ取れねぇ。出場権を取るところから、厳しい戦いが始まる」


十六の国と地域しか出られない。


予選で一度つまずけば、本大会の舞台にすら立てない。


柚月は後輩たちへ伝えた。


「オリンピックを目指すっていうのは、遠くのきれいな夢を見ることじゃない。今日のパス一本、守備の一歩、食事、睡眠、休養。そういう小さいことを、世界基準で積み重ねることだっちゃ」


7 背中と言葉の両方で


ミーティングを終えたあと、若手選手たちはいつもより長く練習場へ残っていた。


葵はパス練習を続ける。


受ける前に見る。


次の動きへつながる場所へボールを置く。


別の若手は、守備の一歩目を確認している。


相手へただ近づくのではなく、どちらのコースへ追い込むのかを考える。


柚月は個別メニューを終えていたが、その様子を見守った。


「葵、もう一本だけやったら終わりにしろよ」


「まだできます」


「できることと、やっていいことは違うべ」


葵が笑う。


「柚月さんが言うと、説得力ありますね」


「うちが何回言われたと思ってるんだっちゃ」


周囲から笑いが起こる。


柚月は続けた。


「追い込むことだけが努力じゃねぇべ。明日いい練習をするために、今日終わるのも努力だっちゃ」


葵はボールを止めた。


「分かりました。これで終わります」


柚月が自分の失敗から学んだことが、後輩へ伝わっていく。


後輩たちは、柚月の言葉をそのまま繰り返すだけではなかった。


自分の練習へ置き換える。


自分の身体に必要な判断をする。


自分の後輩へ伝える。


柚月の姿勢が、チームの基準へ変わり始めていた。


8 高梨美緒が残した言葉


代表候補合宿では、原町監督が選手たちをミーティングルームへ集めていた。


画面には、二〇一一年に日本女子代表を世界一へ導いた主将、高梨美緒の姿が映っている。


延長戦の終盤。


疲労で足が動かなくなりながらも、味方へ声をかけ続ける。


自分の得点より、チームの勝利を優先する。


ミスをした若手の肩を抱き、次のプレーへ送り出す。


映像が止まる。


原町監督が選手たちを見回した。


「高梨美緒は、腕章を巻いていたから主将だったわけではない」


早川莉奈と宮野沙季も、前方を見つめている。


「苦しいときに、何を優先したか。自分が目立つことより、チームが前へ進むことを選び続けた。その姿を周囲が信じたから、主将になった」


原町は、映像の中の高梨を指した。


「腕章は一人しか巻けない。だが、チームを支える責任は全員が持てる」


練習場で声を出すこと。


出場していない選手が、ベンチから情報を伝えること。


先発選手が、途中出場の選手へ試合の変化を伝えること。


自分が苦しいときでも、近くの仲間を助けること。


「代表では、自分の役割を誰かに決めてもらうな」


原町監督の声が強くなる。


「先発でなければ役割がないのか。得点を決めなければ貢献していないのか。そんなことはない」


早川は、柚月の言葉を思い出した。


触らない時間も攻撃の一部。


自分が消れることで、味方を生かす。


原町監督は続ける。


「ロサンゼルスオリンピックへ出場できるのは、十六の国と地域だけだ。予選はワールドカップ以上に、一つの結果が重い」


選手たちの表情が引き締まる。


「その戦いを、監督や主将だけで乗り越えられると思うな。全員が試合を読み、全員が責任を持ち、全員がチームを支えなければ出場権は取れない」


9 早川と宮野の同時起用


翌日の紅白戦。


早川莉奈と宮野沙季は、同じ中盤で先発した。


宮野が低い位置。


早川が少し前。


しかし、役割は固定されていない。


宮野が前へ運べるなら、早川が後ろを埋める。


早川が相手の背後へ入れば、宮野が中央を締める。


競争相手でありながら、互いの強みを生かす。


前半十数分。


早川が右寄りでボールを受けた。


相手MFが縦のコースを切る。


早川は無理に突破しない。


一度宮野へ戻す。


相手が前へ出る。


宮野はワンタッチで左へ展開した。


早川は中央を横切るように動く。


ボールは左サイドへ渡る。


守備が横へ寄ったところで、早川が空いた中央へ入り直す。


左からのパス。


早川は前を向かず、背後にいる宮野へ落とした。


宮野がすぐに縦へ通す。


FWが抜け出す。


シュートはGKに止められたが、攻撃は相手の守備を完全に崩していた。


原町監督はプレーを止めなかった。


次の場面でも、二人は互いを観察していた。


早川が前へ出れば、宮野が残る。


宮野が相手を引きつければ、早川が逆側へ動く。


「莉奈、今度はうちが前へ行く!」


「分かりました。後ろ見ます!」


宮野が前へ走る。


早川は中央へ残り、相手のカウンターに備える。


攻撃が失敗すると、早川が素早く相手の進路を限定した。


宮野が戻る時間を作る。


二人で挟み込み、ボールを奪い返す。


練習終了後、原町監督が二人へ声をかけた。


「競争しているか」


宮野が答える。


「しています」


早川も続ける。


「でも、同時に出たときに勝つ方法も考えています」


「それでいい」


原町監督はうなずいた。


「自分が選ばれるために、相手の失敗を待つな。相手の強みを使ったうえで、自分の価値を示せ」


宮野と早川は、互いに顔を見合わせた。


「負けませんよ」


宮野が言う。


「私もです」


早川も笑った。


10 柚月から早川へ伝えるもの


その夜、早川から柚月へ連絡が入った。


「今日、原町監督からオリンピックの話を聞きました」


「十六枠の話か」


「はい。ワールドカップ以上に、予選の一試合が重いと」


柚月はうなずいた。


「本当に重いっちゃ。一つのミスで終わることもある」


「柚月さんは、パリオリンピックのとき、どんな気持ちでしたか」


柚月は少し黙った。


パリでメダルを逃したこと。


試合後の沈黙。


選手村へ戻った夜。


「終わった直後は、何も考えられなかった」


「悔しかったですか」


「悔しいって言葉だけじゃ足りなかったっちゃ」


自分たちの何年もの準備が、短い大会で終わった。


もっとできたはずだという思い。


応援してくれた人々へ結果を届けられなかった痛み。


「でも、その悔しさがあったから、ワールドカップでもう一回立てた」


柚月は早川へ伝える。


「負けた経験は、持ってるだけじゃ力にならねぇべ」


「どういうことですか」


「何が足りなかったか見て、次の行動に変えたとき、初めて力になる」


早川は静かに聞く。


「うちらはパリで、苦しい時間に試合を落ち着かせられなかった。自分たちが前へ行きたい気持ちばかり強くなって、相手の狙いに乗ってしまったっちゃ」


「それが、今の柚月さんのプレースタイルにつながっているんですね」


「うん。急ぐだけじゃなく、外すこと。持たせること。味方の呼吸を整えること。その必要性を、パリで痛いほど知った」


早川はメモを取りながら尋ねる。


「オリンピックへ初めて行く選手は、何を準備すればいいですか」


「技術や体力はもちろんだべ。でも、自分が思い描いた役割にならなくても、チームへ何を渡せるか考えておくことだっちゃ」


先発ではないかもしれない。


途中出場かもしれない。


短い時間しか与えられないかもしれない。


ベンチから試合を見ることになるかもしれない。


「オリンピックは、思いどおりにいかないことばっかりだべ。その中で、自分の役割が小さいって勝手に決めた選手から、チームから離れていく」


「腕章がなくても、全員に責任がある」


「原町監督から聞いた?」


「はい」


「本当にそのとおりだっちゃ」


柚月は少し笑った。


「高梨美緒さんも、そういう背中を見せてた」


「柚月さんも、今は後輩に見せています」


「うちが?」


「ベガルタの練習映像を見ました。途中で全体練習から離れても、個別練習を最後まで丁寧に続けていました」


柚月は照れたように視線を外す。


「見られてたのか」


「はい」


「格好いいところだけ編集してくれたんだべ」


早川は笑った。


「それでも、私もああいう選手になりたいと思いました」


柚月は画面の向こうの早川を見る。


「莉奈は、うちになる必要はねぇべ」


「分かっています」


「高梨美緒さんにも、うちにもなる必要はない。二人が何を大事にしてたかを受け取って、莉奈のやり方で示せばいいっちゃ」


「私のやり方」


「そう。それが受け継ぐってことだべ」


11 プレースタイルで伝える


翌日のクラブ練習。


柚月は再び、守備役を置いたパス回しへ入った。


前日よりも守備役の動きが少し速くなる。


接触は禁止されたままだが、パスコースを限定する圧力は強まっていた。


柚月は受ける前に動く。


相手が中央を閉めれば、外へ。


外を切れば、内側へ。


ボールを受けるだけでなく、味方が使う空間を作る。


一度、パスが乱れた。


ボールが柚月の右側へ流れる。


以前なら、右脚を伸ばして無理に止めていたかもしれない。


柚月は追わなかった。


そのまま外へ出す。


守備役へボールが渡る。


練習が止まる。


若手の一人が謝った。


「すみません。パスがずれました」


「大丈夫だべ」


柚月は責めなかった。


「今のは無理に追う場面じゃねぇっちゃ。次は出しやすい位置へ、うちがもう半歩近づく」


自分のけがを理由に、相手のミスだけを指摘しない。


自分にできた準備も考える。


次の一本。


柚月は早めに位置を変えた。


今度は足元へ正確に届く。


ワンタッチで返す。


守備役が逆へ動く。


空いた中央へ味方が入る。


ボールが通る。


「よし!」


柚月が声を上げる。


後輩たちも応える。


「ナイスです!」


「もう一本!」


練習の速度が上がっていく。


柚月は、派手な突破をしたわけではない。


強烈なシュートを打ったわけでもない。


受ける前に動く。


味方が困らないボールを返す。


ミスが起きても、次の改善点を伝える。


苦しくても、プレーから離れない。


その姿勢とプレースタイルが、後輩たちへ一つの基準を示していた。


絶対に諦めないとは、無理に前へ進み続けることではない。


状況を見る。


方法を変える。


仲間を信じる。


もう一度、正しい場所から始める。


柚月は言葉とプレーの両方で、それを伝えていた。


12 次の世代の一歩


練習後、葵が若い選手たちを集めた。


「今日のパス回し、最初の受ける位置をもう一回確認しよう」


柚月は少し離れた場所から見ていた。


葵がボールを置き、説明する。


「守備が来てから逃げると、急な動きになる。来る前に角度を作る」


それは、柚月がこの日の練習で示したものだった。


しかし、葵は柚月の言葉をそのまま繰り返してはいない。


自分のプレーで感じたことを加え、自分の言葉で伝えている。


別の若手が質問する。


「相手が動かなかったら?」


「無理に動かそうとしなくていいと思う。簡単に戻して、次の位置を作ればいい」


柚月は小さくうなずいた。


誰かの背中を追うだけでは、受け継いだことにはならない。


見たものを、自分で考える。


自分のプレーへ変える。


さらに次の選手へ渡す。


高梨美緒から柚月たちの世代へ。


パリでの悔しさから、ワールドカップ優勝へ。


柚月から早川、葵、若手選手たちへ。


意志は、同じ形のままではなく、それぞれの中で新しい形へ変わっていく。


山田羽美監督が柚月の隣へ立った。


「チームが変わってきたね」


「うちが変えたって言ったら、調子に乗ってるべか」


「少しはね」


「少しかぁ」


二人は笑った。


山田は葵たちを見る。


「でも、きっかけの一つになったのは間違いない」


柚月は右ふくらはぎへ手を添えた。


けがをしたことで、多くのものを失ったと思っていた。


走る時間。


代表での立場。


試合へ出る機会。


それでも、離れたからこそ見えたこともある。


若手が何に迷っているか。


先輩の背中が、どれほど大きな意味を持つか。


勝利だけでなく、悔しさも次の世代へ伝えられること。


「うち、オリンピックへ戻りたいです」


柚月は静かに言った。


「自分のためだけじゃなくて、この子たちに、その舞台で学んだものをもっと伝えたい」


山田はうなずく。


「なら、まずは次の段階だね」


「次は何ですか」


「接触を伴う対人練習」


柚月の表情が少し引き締まる。


守備役が触れない練習は乗り越えた。


次は、本当に身体がぶつかる。


肩。


腰。


足元。


予測できない接触。


試合へ戻るために、避けては通れない段階だった。


柚月は、練習場に残る後輩たちを見る。


「やります」


声に迷いはなかった。


名取百合子の遺影へ、夜に報告する言葉も決まっていた。


怖い。


それでも進む。


無理はしない。


しかし、諦めない。


それが今の柚月のプレースタイルであり、生き方になっていた。


次回予告


第46章「最初の接触」


守備役を置いた非接触メニューを乗り越えた柚月。


次の段階は、強度を抑えた一対一。


肩が触れる。


相手の腕が身体へ当たる。


ボールを守るため、右脚で芝を踏ん張る。


ワールドカップ決勝以来、初めて受ける実戦に近い接触。


最初の一本で、柚月の身体は再び固まる。


それでも、後輩たちが見守る前で、恐怖を隠して無理に続けることはしない。


「怖いから、もう一回準備させてけろ」


弱さを認めることも、先輩が見せるべき背中の一つだった。


一方、代表候補合宿では、オリンピック予選へ向けた候補選手の絞り込みが始まる。


十六の国と地域しか立てない本大会。


早川莉奈と宮野沙季は、競争しながら同時起用の可能性を高めていく。


そして原町監督は、柚月の復帰状況を見ながらも告げる。


「予選登録の期限は待ってくれない」


限られた時間。


戻り始めた身体。


近づく選考。


次回、

第46章「最初の接触」


勇気とは、怖くないことではない。


怖さを認め、それでも必要な準備を重ね、もう一度相手の前へ立つことなのだ。

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