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あの日の春風は今も  作者: リンダ


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仲間の列へ

 第44章 仲間の列へ

 1 名前の戻った練習着


 朝、自宅を出る前に、柚月は練習着を何度も見直した。


 胸には、ベガルタ仙台レディースのエンブレム。


 背中には、自分の名前。


 これまでの個別リハビリでも同じ練習着を着ていた。それでも、この日の一着は違って見えた。


 今日から、全体練習へ部分的に合流する。


 ウォーミングアップの一部。


 短いパス交換。


 守備役を置かない非接触メニュー。


 ダッシュも、対人接触も、紅白戦もない。


 途中で仲間たちの列を離れ、個別練習へ戻らなければならない。


 完全復帰には、まだ遠い。


 それでも、仲間と同じメニューを行うのは、ワールドカップ決勝以来だった。


 柚月は鏡の前に立ち、右脚へゆっくり体重を乗せた。


 痛みはない。


 張りもない。


 足首を動かし、軽く膝を曲げる。


 背後から徹が声をかけた。


「朝から何回確認してるんだ」


「今日だけは、ちょっと落ち着かねぇっちゃ」


「緊張してるのか」


「してるべ。仲間と一緒に練習するんだぞ」


「途中までだろ」


「分かってる」


 柚月は鏡越しに徹を見る。


「今日は絶対、勝手に増やさねぇからな」


「誰もまだ疑ってない」


「顔が疑ってるべ」


「過去の実績を踏まえて慎重に見ているだけだ」


「代表監督みたいな言い方すんなぁ」


 徹は笑いながら、柚月のスポーツバッグを玄関へ運んだ。


 柚月は書斎へ立ち寄る。


 名取百合子の遺影の隣には、ワールドカップの金メダルが置かれていた。


「ユリ。今日、仲間の列に戻るよ」


 胸の中で、明るい声が返ってくる。


「やっとだな」


「やっとだっちゃ」


「浮かれて全部やろうとすんなよ」


「徹と同じこと言うなぁ」


「みんなが同じこと言う理由、そろそろ考えろっちゃ」


 柚月は苦笑し、遺影へ手を振った。


「行ってきます」


 2 おかえりの拍手


 練習場へ到着すると、すでに何人もの選手がピッチへ出ていた。


 ボールを運ぶ者。


 コーンを並べるスタッフを手伝う者。


 軽く身体を動かしながら話す者。


 柚月がクラブハウスから姿を見せると、一人の後輩が気づいた。


「柚月さん!」


 その声で、仲間たちが一斉に振り返る。


「今日から合流ですよね?」


「おかえりなさい!」


「やっと一緒にアップできますね!」


 自然に拍手が広がった。


 柚月は少し照れながら、片手を上げた。


「まだ途中までだべ。全部はできねぇからな」


「途中まででも、一緒です」


 後輩の言葉に、柚月の胸が熱くなる。


 ずっと窓越しに見ていた場所。


 一人で走り、トレーナーとボールを転がしてきた芝。


 今日は、仲間たちの輪の中へ入ることができる。


 山田羽美監督が選手たちを集めた。


「今日から柚月が一部メニューへ戻ります。ただし、接触は禁止。決められた時間が来たら個別メニューへ移ります」


 柚月へ視線を向ける。


「本人がもっとやりたいと言っても、誰も誘わないように」


 選手たちが声をそろえた。


「はい!」


 柚月は思わず抗議する。


「そこ、そんなに元気よく返事するところ?」


 一人の後輩が笑いながら答えた。


「柚月さんを守るためです」


「うち、信用なさすぎだべ」


 山田が肩をすくめる。


「信用は積み上げるものだからね」


 選手たちが笑う。


 その笑いの中へ自分もいることが、柚月には嬉しかった。


 3 同じ列に並ぶ


 ウォーミングアップが始まる。


 選手たちは二列に並び、ピッチの端から端へゆっくり進んでいく。


 柚月は後方の列へ入った。


 前には若手選手。


 後ろには中堅の仲間。


 左右にも味方がいる。


 一人ではない。


 歩きながら足首を動かす。


 膝を上げる。


 股関節を開く。


 軽いスキップは行わず、柚月だけ負荷の低い動作へ置き換える。


 周囲の選手が柚月の速度に合わせることはなかった。


 柚月も、周囲へ合わせようとはしなかった。


 それぞれが必要な速度で進む。


「柚月さん、脚はどうですか」


 前を歩く若手が振り返った。


「大丈夫だっちゃ。今朝も問題なし」


「無理してません?」


「お前まで聞くのか」


「みんな心配してるんです」


「分かってる。今日は監督とトレーナーの言うこと、ちゃんと聞くべ」


 後ろから別の選手が言う。


「録音しておきたいですね」


「最近、何でも録音しようとするなぁ」


 笑いながらも、柚月は右脚の感覚を確かめ続けた。


 芝を押す力。


 次の一歩へ移る滑らかさ。


 左右の接地時間。


 仲間と話しながらも、自分の身体への観察を止めない。


 以前の柚月なら、輪へ戻れた喜びだけで動いていたかもしれない。


 今は、嬉しさと慎重さを同時に持つことができた。


 列が折り返す。


 柚月は大きく弧を描いて進路を変える。


 右ふくらはぎに異常はない。


 仲間たちと同じ列に並び、同じ方向へ進んでいる。


 ただそれだけで、止まっていた時間がもう一度流れ始めたように感じた。


 4 声の戻ったパス交換


 次は二人一組のパス交換だった。


 距離は五メートル。


 相手からのプレッシャーはない。


 動きながら受け、二タッチ以内で返す。


 柚月の相手を務めたのは、若手MFの小野寺葵だった。


 葵は緊張した様子でボールを足元へ置く。


「柚月さんと組むの、初めてです」


「そんなに固くならなくていいべ。普通に返してけろ」


「はい」


 葵の最初のパスは少し弱かった。


 柚月は一歩前へ出て受ける。


 右足の内側で止め、次に左足で返した。


「もう少し強くていいっちゃ」


「脚、大丈夫ですか」


「うちに合わせて弱くしなくていい。今許されてる範囲なら、普通にやってけろ」


 二本目。


 今度は適度な速さで届く。


 柚月は身体を半分開いて受け、右足で返す。


「そう。今のでいいべ」


 数本続けるうちに、葵の緊張がほぐれていく。


 柚月は、ただボールを返すだけではなかった。


 受ける前に周囲を見る。


 身体の向きを整える。


 次に動きやすい場所へボールを置く。


「葵、止める位置が身体に近すぎる」


「近すぎますか」


「次に前へ出たいなら、半歩先へ置いた方がいい。止めることが目的じゃなくて、次へつなぐためのトラップだべ」


 葵はうなずき、次のボールを少し前へ置いた。


 そのまま一歩進み、パスを返す。


「今のいいっちゃ」


「ありがとうございます」


 柚月は、無理に大声を出していたわけではない。


 特別な指導を始めたつもりもない。


 目の前で気づいたことを伝え、自分は正確なプレーを繰り返す。


 その姿を、ほかの若手選手たちも見ていた。


 パスの強さ。


 身体の向き。


 受ける前の確認。


 リハビリ中でも、一つのプレーを雑にしない姿勢。


 言葉より先に、柚月の背中が伝えていた。


 5 背中で引っ張った人


 短い休憩時間。


 若手選手の一人が柚月へ尋ねた。


「柚月さんは、若い頃に誰を見て学んだんですか」


 柚月は少し考えた。


 脳裏に浮かんだのは、かつて日本女子代表の主将を務めた一人の選手だった。


 二〇一一年、なでしこジャパンが初めて世界一に輝いた大会。


 その中心にいた、架空の名選手。


 高梨美緒。


 技術だけではない。


 試合が苦しくなるほど、走る。


 味方が疲れていれば、自分がもう一歩戻る。


 得点を決めた選手より先に、ゴールへつながった守備やパスを褒める。


 勝利のあとも、自分の功績を語るより、支えてくれた人々への感謝を口にした。


「高梨美緒さんだな」


「二〇一一年のキャプテンですよね」


「うん。うちがまだ若い頃、映像を何度も見たっちゃ」


 柚月は水を一口飲む。


「美緒さんは、後輩に『ついてこい』って何度も言うタイプじゃなかった。練習で誰より早く準備して、試合では一番苦しいところへ走ってた」


「背中で引っ張る人だったんですね」


「そう。言葉で説明する前に、自分がやる。若手がミスしても、怒鳴るんじゃなくて、次にどこへ動けばいいかを示す。その姿を見てると、自分も止まれねぇって思ったっちゃ」


 別の選手が尋ねる。


「柚月さんも、今そうなろうとしてるんですか」


 柚月は少し照れた。


「自分で言ったら格好悪いべ」


 周囲に笑いが起こる。


「でも、後輩には背中を見せたいと思ってる」


 柚月は真剣な表情へ戻った。


「うちは今、全部の練習ができない。走る速度も、蹴る強さも制限されてる。それでも、一つひとつをちゃんとやる姿は見せられるべ」


「はい」


「代表に行ったら、誰も毎回正しい答えを教えてくれねぇっちゃ。苦しいときに、近くにいる先輩がどう振る舞うかを見て、自分で判断しなきゃいけないこともある」


 若手たちは静かに聞いていた。


「だから、うちも言葉だけじゃなくて、行動で見せたい。高梨美緒さんが、うちらの世代に見せてくれたみたいにな」


 練習再開を告げる笛が鳴った。


 柚月は立ち上がる。


 右脚の状態を確認し、仲間たちの列へ戻った。


 その背中を、若手選手たちが追いかけた。


 6 列を離れる時間


 部分合流開始から二十分が経過した。


 次のメニューは、狭いエリアでのボール回しだった。


 守備役が入り、速い判断と細かな方向転換が求められる。


 柚月には、まだ許可されていない。


 トレーナーが近づく。


「柚月さん、ここまでです。個別メニューへ移ります」


 分かっていた。


 練習前から、何度も説明されていた。


 それでも、胸が少し沈んだ。


 仲間たちはビブスを着る。


 エリアの中へ入り、声を掛け合う。


 柚月だけが、その輪から外れなければならない。


 葵が声をかけた。


「柚月さん、お疲れさまでした」


「まだ練習は続くべ」


「部分合流、お疲れさまです。次はもっと一緒にできますよ」


 柚月は小さく笑う。


「ありがとな」


 ボール回しが始まる。


 短いパス。


 素早い移動。


 守備役の寄せ。


 笑い声と悔しがる声。


 柚月はピッチの外側へ移動し、トレーナーとの個別メニューを始めた。


 十メートルの直線走。


 緩やかな方向転換。


 ボールを運び、五メートル先へパス。


 目の前では仲間が激しい練習を続けている。


 悔しくないわけではない。


 入りたい。


 自分なら、もっと速くボールを回せる。


 若手へ声をかけ、流れを作れる。


 その気持ちは強かった。


 それでも、柚月は列へ戻ろうとはしなかった。


 決められたメニューを、正確に続ける。


 右足でボールを押す。


 顔を上げる。


 コーンを回る。


 トレーナーへ返す。


 一つひとつの動きを雑にしない。


 若手選手の一人が、ボール回しの合間に柚月の方を見た。


 柚月は誰も見ていないと思っていた。


 それでも全力で集中していた。


 制限された練習を、退屈そうに流してはいない。


 今できることへ、本気で向き合っている。


 その姿を見た若手は、次のパスへ入る前に姿勢を正した。


 柚月の背中が、離れた場所からもチームを動かし始めていた。


 7 若手が変えた練習の空気


 ボール回しで、葵がパスを失った。


 守備役にコースを読まれ、縦へのボールを奪われる。


 葵は悔しそうに顔をしかめた。


 以前なら、すぐに次のボールを欲しがり、自分のミスを取り返そうとしていた。


 しかし、この日は一度周囲を見た。


 柚月が休憩時間に話していた言葉を思い出す。


 止めることが目的ではない。


 次へつなぐために置く。


 自分が触れなくても、味方が進める場所を作る。


 次のプレーで、葵は中央から少し離れた。


 味方が前へ運べる空間を作る。


 相手がボールへ寄った瞬間、斜めに入り直す。


 パスを受け、ワンタッチで横へ流す。


 攻撃の速度が上がった。


 山田監督が声をかける。


「今の動き、よかったよ!」


 葵は柚月の方を見る。


 個別練習中の柚月は気づいていない。


 それでも、葵は小さくうなずいた。


 別の若手も変わっていた。


 ミスをした味方へ責める声を出さず、次の守備位置を伝える。


 ボールが来ない時間にも足を止めない。


 練習用具の片づけでは、誰かの指示を待たずに動く。


 山田監督は、チーム全体の空気が少し変化していることに気づいていた。


 柚月が長い演説をしたわけではない。


 復帰した自分を特別扱いさせたわけでもない。


 できる範囲の練習を、誰より丁寧に行う。


 若手へ気づいたことを伝える。


 自分の制限を言い訳にしない。


 その振る舞いが、少しずつチームへ浸透していた。


 8 山田羽美が見たキャプテンシー


 練習後、山田監督は柚月を呼び止めた。


「今日はどうだった?」


「嬉しかったです。途中で離れるのは、やっぱり悔しかったけど」


「戻ろうとはしなかったね」


「約束したからな」


「前なら戻ってた?」


 柚月は苦笑する。


「たぶん、ボールが一回外に出た隙に、しれっと入ってたかもしれねぇっちゃ」


「自覚があるならよろしい」


 山田は少し笑ったあと、練習場へ目を向けた。


 若手選手たちが用具を片づけている。


「柚月が戻って、若い選手たちの動きが変わった」


「うち、そんなに何かしました?」


「自分では分からない?」


「パスの置き場所とか、少し話したくらいだべ」


「それだけじゃないよ」


 山田は、個別練習中の柚月を見ていた若手の姿を思い出す。


「みんな、柚月がどう練習しているかを見てる。制限があっても手を抜かない。途中で離れても腐らない。自分ができないメニューをやっている仲間へ、嫌な顔をしない」


「悔しかったけどな」


「悔しいのに、態度へ出さなかった。それもキャプテンシーだよ」


 柚月は少し戸惑う。


「うち、クラブのキャプテンじゃねぇべ」


「腕章を巻くことだけがキャプテンシーではないでしょう」


 山田は穏やかに続けた。


「背中で基準を示す人が一人いると、チーム全体の当たり前が変わる」


 柚月は、高梨美緒の姿を思い浮かべた。


 二〇一一年の世界一。


 苦しいときほど味方を励まし、誰よりも走った主将。


 結果だけではなく、振る舞いそのものが次の世代へ残った。


「美緒さんみたいになれてますかね」


「同じになる必要はないよ」


 山田は答えた。


「高梨美緒には、高梨美緒の引っ張り方があった。柚月には柚月のやり方がある」


「うちのやり方?」


「よくしゃべる。よく突っ込む。ときどき先走る」


「最後いらねぇべ」


 山田が笑う。


「でも、弱さも失敗も隠さない。それでも前へ進む姿を見せる。若手にとっては、完成された英雄より近く感じられるかもしれない」


 柚月は少し照れながら、練習場にいる後輩たちを見る。


「だったら、格好悪いところも無駄じゃなかったんだな」


「格好悪いまま終わらず、そこから何をしたかが大事なんだよ」


 9 早川莉奈と先輩MFの競争


 代表候補合宿では、早川莉奈が先輩MFとのポジション争いへ挑んでいた。


 この日の紅白戦で、早川と同じ中盤へ入ったのは、二十七歳の宮野沙季だった。


 代表経験が豊富で、守備の危険察知に優れる。


 早川が攻撃で前へ出れば、宮野はその背後を埋める。


 早川が中央で受けようとすれば、宮野は別の場所へ動き、パスコースを増やす。


 原町監督は、二人を単純な競争相手として配置したわけではなかった。


 同じチームで組ませ、互いの違いを理解させようとしていた。


 前半、早川は積極的に前へ運んだ。


 一人を引きつけ、右へ展開する。


 その背後で、宮野が相手のカウンターを防ぐ位置へ入っている。


 攻撃が終わると、宮野が早川へ言った。


「前へ行ったあとの戻り、もう一歩だけ中央を見て」


「はい」


「私が全部埋められるとは限らないから」


 次の場面。


 早川は前へ出たあと、ボールを失う可能性を感じて少し早く中央へ戻った。


 相手の縦パスを引っかける。


 そこから再び攻撃につなげた。


 宮野が声を上げる。


「今のいいよ!」


 早川も、先輩へ尋ねるだけではなかった。


「沙季さん、次は私が低い位置に残ります。前へ出てもらえますか」


「分かった」


 二人の役割が入れ替わる。


 宮野が前へ進み、早川が後方で試合を整える。


 ボールを失えば、早川が最初の守備に入る。


 一方的に教わる関係ではない。


 早川も、自分の観察から提案を始めていた。


 練習後、原町監督が二人を呼んだ。


「競争はどうだ」


 早川と宮野は顔を見合わせる。


 宮野が先に答えた。


「負けたくありません。でも、莉奈と一緒に出る形もあると思います」


 早川もうなずく。


「私もです。沙季さんの守備の位置を見て、前へ出る判断がしやすくなりました」


 原町監督は二人を見る。


「代表では、同じポジションの選手を敵だと思うな」


「はい」


「ただし、仲がいいから席を分け合えるとも思うな。互いから学び、そのうえで自分の価値を示せ」


 早川は、柚月との会話を思い出した。


 学ぶことと、越えようとすることは両立する。


 その言葉の意味を、代表合宿の中で少しずつ理解し始めていた。


 10 原町監督へ届いた部分合流の報告


 練習終了後、原町監督のもとへ、ベガルタ仙台レディースから柚月の経過報告が届いた。


 全体ウォーミングアップへ部分合流。


 非接触でのパス交換。


 二十分間のチームメニュー。


 その後は個別トレーニング。


 実施中の痛みなし。


 終了後の強い張りなし。


 翌朝まで経過観察を継続。


 原町監督は資料を読み、岩出コーチへ渡した。


「復帰が見えてきましたね」


 岩出の言葉に、原町はうなずく。


「見えてはきた。だが、代表へ呼ぶ基準は変えない」


 所属クラブで全体練習へ完全合流すること。


 対人接触へ耐えること。


 試合へ出場すること。


 実戦の速度で判断し、走り切ること。


 試合後にけがの箇所が悪化しないこと。


 そして、現在の代表候補よりも必要な選手であると証明すること。


 ワールドカップ優勝の功績だけでは選ばない。


 早川莉奈の成長を止めて、柚月の席を空けることもしない。


 岩出コーチが尋ねる。


「予選前の候補合宿までに、クラブで短時間出場できれば可能性はありますか」


「ある」


 原町は答えた。


「だが、出場したという事実だけでは足りない」


「どこを見るつもりですか」


「身体の反応。判断の速度。守備への切り替え。それと、チームへ何を与えられるかだ」


 原町は、部分合流中の柚月を撮影した映像を再生した。


 短いパス交換。


 若手への声かけ。


 個別メニューへ移る際、悔しさを見せながらも約束を守る姿。


 その後も集中を切らさず、ボールを扱う様子。


「柚月は、ピッチへ立つ前からチームへ影響を与え始めている」


 岩出も映像を見つめる。


「キャプテンシーですか」


「それも一つだ」


 原町は画面を止めた。


「代表では、若手を連れて大会を戦う力も必要になる。高梨美緒が二〇一一年に示したようにな」


「ただし、柚月は高梨さんとは違う」


「ああ。違っていい」


 原町は静かに言った。


「受け継ぐべきなのは、同じ振る舞いではない。自分よりチームを前へ置く姿勢だ」


 11 高梨美緒から受け取ったもの


 その夜、柚月は自宅で、二〇一一年のワールドカップを振り返る映像を見ていた。


 画面に映るのは、当時の主将、高梨美緒。


 延長戦でも足を止めない。


 味方が倒れれば、真っ先に手を差し出す。


 得点を決めたあとも、自分を指さすのではなく、パスを送った仲間へ駆け寄る。


 優勝後のインタビューでは、自分の名前より先にチームと応援してくれた人々への感謝を語っていた。


 徹が隣へ座る。


「高梨さんか」


「今日、後輩に誰を見て学んだかって聞かれたんだ」


「それで見直してるのか」


「うん」


 柚月は画面を止めた。


 高梨美緒が、若い選手の肩を抱いている。


「美緒さんって、すごいこと言って引っ張るというより、やることで示してたっちゃ」


「柚月とは少し違うな」


「うちがしゃべりすぎって言いたい?」


「そこまでは言ってない」


「顔に書いてあるべ」


 徹は少し笑った。


 柚月も笑ったあと、真剣な表情へ戻る。


「でも、同じことをしなくていいって羽美監督に言われた」


「そのとおりだと思う」


「美緒さんのまねをするんじゃなくて、美緒さんが何を大事にしてたかを受け取ればいいんだべな」


「チームを一番に考えることか」


「うん。苦しいときに背中を向けないこと。若手が迷ったら、答えを押しつけるんじゃなくて、自分の姿で基準を見せること」


 柚月は、自分の右ふくらはぎへ触れた。


「けがをしたからこそ、見せられる背中もあるのかもしれねぇな」


「どんな背中だ」


「焦って失敗したこともある。でも、そこで終わらずにやり直した。できないことを嘆くだけじゃなくて、今できることを積み上げた」


 徹はうなずく。


「後輩に完璧なところだけ見せる必要はない」


「うん。失敗したあと、どう立て直すかも見せたいっちゃ」


 書斎に置かれた名取百合子の遺影へ目を向ける。


「ユリ。うち、少しは先輩らしくなったべか」


 胸の中で、ユリが笑う。


「昔よりはな」


「昔、そんなにひどかった?」


「自分が点取ったら、世界全部自分のおかげみたいな顔してたべ」


「そこまでじゃねぇっちゃ」


「でも今は、後輩のことも見てる。少しは立派になったべ」


「少しかぁ」


「調子に乗るから、そのくらいでちょうどいい」


 12 背中から広がるもの


 部分合流の二日目。


 柚月は再び、仲間たちと同じ列へ並んだ。


 前日より緊張は少ない。


 それでも、一つひとつの動きを丁寧に行う。


 ウォーミングアップでは、若手の動きをよく見る。


 パス交換では、自分の技術を見せるのではなく、相手が次へ進みやすいボールを返す。


 受け手が右へ動きたければ、右足の前へ。


 前を向きたければ、少し身体から離れた場所へ。


 落ち着かせたければ、足元へ。


 柚月のパスには、相手への意思が込められていた。


 葵がパスを受け、前へ運ぶ。


「今の置き場所、よかったよ」


 柚月が声をかける。


「昨日、柚月さんに言われたことを意識しました」


「うん。それを今度は、自分の言葉で後輩に伝えてけろ」


「私がですか」


「教えると、自分でも分かるようになるっちゃ」


 葵は少し戸惑いながらも、近くにいたさらに若い選手へ声をかけた。


「今のトラップ、もう少し前へ置くと次が楽かも」


 柚月から葵へ。


 葵から、次の選手へ。


 一つの気づきが、チームの中を流れていく。


 練習の終盤、柚月は再び個別メニューへ移った。


 この日は、昨日ほど強い悔しさを感じなかった。


 仲間の輪から離れても、自分の役割がなくなるわけではないと分かったからだ。


 若手がいいプレーをすれば声をかける。


 自分の個別練習を丁寧に行う。


 終わったあとには、用具を片づける仲間を手伝える範囲で支える。


 背中で引っ張るとは、先頭を走り続けることだけではない。


 列を離れた場所からでも、基準を示すことはできる。


 高梨美緒が残したキャプテンシーは、柚月の中で新しい形へ変わり始めていた。


 そして、その姿勢は柚月だけにとどまらない。


 葵が後輩へ声をかける。


 ベテラン選手が若手の意見へ耳を傾ける。


 若手が誰より先に練習用具を準備する。


 ミスを責める声より、次の位置を伝える声が増える。


 チーム全体に、自分の役割を待つのではなく、自分から見つけようとする空気が広がっていった。


 山田監督は、その様子をピッチの外から見つめていた。


 腕章を巻く者だけが、チームを引っ張るのではない。


 一人の選手が示した姿勢を、周囲が受け取り、自分なりの行動へ変えていく。


 それこそが、チームに根づくキャプテンシーだった。


 柚月は個別メニューの最後に、十メートル先へパスを送った。


 正確にトレーナーの足元へ届く。


「今日も問題ありません」


 トレーナーが告げる。


 柚月は仲間たちの方を見る。


 まだ完全には戻っていない。


 紅白戦にも入れない。


 試合復帰の日も決まっていない。


 それでも、自分の場所は少しずつ作られていた。


 元の場所へ戻るのではない。


 けがで離れた時間。


 焦って失敗した経験。


 一から歩き直した日々。


 若い競争相手との出会い。


 そのすべてを持って、新しい自分の場所を作る。


 柚月は仲間たちへ向かって声を上げた。


「明日も、いい練習しような!」


「はい!」


 若手たちの声が、芝の上へ響いた。


 その返事は、柚月一人へ向けられたものではない。


 チーム全体が、同じ基準を共有し始めた音だった。


 次回予告

 第45章「接触のない攻防」


 部分合流を問題なく続けた柚月に、次の段階が提示される。


 守備役を置いたパス回し。


 ただし、身体接触は禁止。


 守備側はコースを限定するだけで、強く奪いには行かない。


 柚月は相手の動きを見ながら、受ける位置と身体の向きを変えていく。


 しかし、守備役が目の前に立つだけで、ワールドカップ決勝の記憶がよみがえる。


 急な方向転換。


 伸ばした右脚。


 再び筋肉が傷つくかもしれない恐怖。


 一方、早川莉奈は代表候補合宿で先輩MFの宮野沙季と連係を深め、競争しながら同時起用の可能性を示し始める。


 そして、原町監督は候補選手たちへ、二〇一一年の主将・高梨美緒が残した言葉を伝える。


「腕章は一人しか巻けない。だが、チームを支える責任は全員が持てる」


 柚月からベガルタ仙台レディースへ。


 高梨美緒から柚月たちの世代へ。


 受け継がれたキャプテンシーが、若い選手たちの中で新たな形になっていく。


 次回、

 第45章「接触のない攻防」


 誰かの背中を追うだけでは、受け継いだことにはならない。


 そこから自分の一歩を選んだとき、意志は次の世代へ渡っていく

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